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3年 野中涼風 春休み課題 1〜10 RES
1.『地面師たち』(ドラマ)(2024)監督:大根仁

【あらすじ】
2017年、再び土地価格が高騰し始めた東京。伝説の大物地面師・ハリソン山中に誘われ地面師詐欺の道に踏み込んだ辻本拓海。それぞれにプロフェッショナルな犯罪者数名で構成された地面師グループの彼らは、緻密かつ周到な計画で大手デベロッパーに詐欺を仕掛け、巨額を巻き上げていた。そんな彼らが次なるターゲットに選んだのは、時価100億円とも言われる土地。前代未聞の詐欺に挑む一方で、かつてハリソンを逮捕寸前まで追い込みながら、結局逮捕することができなかった定年間近の刑事・辰は、新人刑事と共に独自の捜査を開始していた。騙す側と騙される側、そして刑事の三つ巴の争いは、次第に拓海の「過去」とハリソンの「因縁」を浮き彫りにしていく。

【考察】
私たちが外国人を見てもどこの国の人かわからないように、外国の人からしても中国人も日本人も一緒で見分けがつかないということがわかった。現実世界でもそうであるように、なりすまし役は殺されたり捕まったりするが、指示しているハリソン山中には足がつかないようになっていた。聴き馴染みのある地名が出てくるため、ドラマの世界に没入しやすかった。被害者が詐欺だとわかったシーンで雨や雷の演出があり、被害者の絶望感を助長している。結局みんなハリソンの手のひらの上で踊らされていたことがわかった。

2.『ツイスター』(映画)(1996)監督:ヤン・デ・ボン

【あらすじ】
幼い頃、巨大竜巻の直撃を受けて父親を亡くした科学者・ジョーは、竜巻発生のメカニズムを解明する仕事に明け暮れていた。竜巻到来のシーズンを迎えたオクラホマに到着した彼女は、別居中の夫・ビルと合流し、衝突を繰り返しながらも巨大竜巻に挑んでいく。

【考察】
ジョーのお父さんが竜巻に飛ばされたのが衝撃的だった。別居中の夫であるビルは新しい女性ではなく、ジョーといるときの方が楽しそうだったので再び絆を深めることができてよかった。

3.『ストレンジャー・シングス 未知の世界 シーズン1』(ドラマ)(2016)監督:ショーン・レヴィ

【あらすじ】
少年の失踪事件や超常パワーを持つ謎の少女の出現など、次々に起こる不可解な事件が、インディアナ州の小さな町ホーキンスに潜む驚愕の秘密を暴いていく。

【考察】
ウィルが1人だけ暗い森の中を帰っていたことで死亡フラグが立っていた。ウィルが消えたことを電球の光だけで暗示していた演出が衝撃的だった。ウィルは生きていることが予想できるが、バーバラは助からないことが予想できるため、救われた人と救われなかった人の違いが気になった。

4.『ストレンジャー・シングス 未知の世界 シーズン4』(ドラマ)(2020)監督:マット・ダファー

【あらすじ】
ホーキンスに恐怖と破壊をもたらしたスターコート・バトルから6ヵ月。高校生活をうまく立ち回るなんてただでさえ難しいのに、闘いが残した爪あとが癒えないまま、初めて離れ離れになってしまった仲間たち。これまでにない不安をそれぞれが抱える中、新たに恐ろしい超常現象が姿を現します。身の毛もよだつ謎。でも、もしその謎を解くことができれば、ついに裏側の世界の恐怖に終止符を打てるかもしれません……。

【考察】
今までのシーズンでは怪物の恐ろしさが描かれていたが、シーズン4では人間の恐ろしさも描かれている。車に生きている人と死んでいる人が乗っていて、不思議に思った。

5.『大豆田とわ子と三人の元夫』(ドラマ)(2021)脚本:坂元裕二

【あらすじ】
大豆田とわ子はこれまでに三度結婚し、三度離婚している。「あの人、バツ3なんだって」「きっと人間的に問題があるんでしょうね」そりゃ確かに、人間的に問題がないとは言わない。だけど離婚はひとりで出来るものではなく、二人でするもの。協力者があってバツ3なのだ。
大豆田とわ子が三人の元夫たちに振り回されながらも、日々奮闘するたまらなく愛おしいロマンティックコメディー。

【考察】
1週間で大豆田とわ子に起こったことが1話になっており、自分が体験できない珍しい体験を大豆田とわ子が体験していて面白い。伊藤沙莉のナレーションがとわ子の心情を語っており、大豆田とわ子に感情移入することができる。大豆田とわ子の親友である綿来かごめが亡くなったのが衝撃的だった。

6.『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(映画)(1985)監督:ロバート・ゼメキス

【あらすじ】
変わり者のドク・ブラウン(クリストファー・ロイド)が造り上げたデロリアンのタイムマシンで1955年にタイムトラベルしてしまったティーンエイジャーのマーティ・マクフライ(マイケル・J・フォックス)。そこでマーティが直面するハプニングにより彼自身の未来が消えてしまう危険にさらされ、そうなると彼は未来に帰れなくなってしまう。革新的な特殊効果とドラマチックな音楽、そしてアクションが満載のこの作品は、永遠の青春アクション傑作だ。

【考察】
最初のピタゴラ装置が一発録りで撮影されていた。時計台、市長が時代を跨いだことの伏線になっていた。

7.『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(映画)(1989)監督:ロバート・ゼメキス

【あらすじ】
第一作目に引続き繰り広げられるタイムトラベルアドベンチャーの第二弾は、前作のラストから始まる。マーティとドクが今度は未来の微調整のために2015年にタイムトリップ。しかしその結果、現在が大きく変化することになってしまう。それを救うためには、はたまた1955年にタイムトリップ。アカデミー賞受賞製作者のスティーヴン・スピルバーグとロバート・ゼメキスが再度お届けする「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」は、前作同様、時代を超越したアドベンチャー映画。

【考察】
前作と同じ展開だった。制作された当時思い描かれていた2015年は私が生きた2015年よりもかなり未来的に描かれていた。

8.『俺だけレベルアップな件』(アニメ)(2025)監督:中重俊祐

【あらすじ】
十数年前、異次元と現世界を結ぶ通路”ゲート”というものが現れてからハンターと呼ばれる覚醒者たちが出現した。 ハンターはゲート内のダンジョンに潜むモンスターを倒し対価を得る人たちだ。しかし全てのハンターが強者とは限らない。 人類最弱兵器と呼ばれるE級ハンター「水篠 旬」 母親の病院代を稼ぐため嫌々ながらハンターを続けている。 ある日、D級ダンジョンに隠された高難易度の二重ダンジョンに遭遇した「旬」は死の直前に特別な能力を授かる。 「旬」にだけ見えるデイリークエストウィンドウ…!? 「旬」ひとりだけが知ってるレベルアップの秘密… 毎日届くクエストをクリアし、モンスターを倒せばレベルアップする…!? 果たして「旬」ひとりのレベルアップはどこまで続くのかーー!!

【考察】
架南島レイドで水篠旬が後から参戦したのを世間が口出しする描写があり、現代社会と似ていた。迫力のある戦闘シーンだったが、水篠旬が結局勝利するのが予想でき、水篠旬ではなく影が戦っているのが物足りなく感じた。

9.『ジョーカー』(映画)(2019)監督:トッド・フィリップス

【あらすじ】
「バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。第79回ベネチア国際映画祭で、DCコミックスの映画作品としては史上初めて最高賞の金獅子賞を受賞して大きな注目を集め、第92回アカデミー賞でも作品賞ほか11部門でノミネートされ、主演男優賞と作曲賞を受賞した。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。

【考察】
最初は病気を患っていても社会に溶け込もうと努力していたアーサーだったが、電車で男性を殺してから人を殺すことに躊躇しなくなっていた。最後カウンセリング室から出てきたアーサーに血の足跡ができていたが、カウンセラーが殺されて、脱出を図ったのか気になった。

10.『パラサイト 半地下の家族』(映画)(2019)監督:ポン・ジュノ

【あらすじ】
全員失業中で、その日暮らしの生活を送る貧しいキム一家。長男ギウは、ひょんなことからIT企業のCEOである超裕福なパク氏の家へ、家庭教師の面接を受けに行くことになる。そして、兄に続き、妹のギジョンも豪邸に足を踏み入れるが...この相反する2つの家族の出会いは、誰も観たことのない想像を超える悲喜劇へと猛烈に加速していく――。

【考察】
キム一家がパク氏の家で元々働いていた人たちを巧妙に追い出し自分たちがパク氏の家で働けるようにする一連の流れが鮮やかだった。元々いた家政婦が夫を地下に監禁していたことが衝撃的だった。最後、妹のギジョンが地下から出てきた家政婦の夫に殺され、今度はキム一家の父が地下に住み続けることになるという大どんでん返しが面白かった。
2025/04/15(火) 15:39 No.2082 EDIT DEL
4年 北郷未結 春休み課題 11~20 RES
⑪「歪んだ幸せを求める人たち ケーキの切れない非行少年3」宮口幸治 新潮社 2024年

(あらすじ)
「おばあちゃんを悲しませたくないので殺そうと思いました」 非行少年の中にはとてつもない歪んだ考え方を基に行動する者がいる。幸せを求めて不幸を招く人の戦慄のロジックと、歪みから脱却する方法を臨床例と共に詳述する。

(考察)
本書を読んで印象的だったのは、「幸せ」を追い求める中で人間が陥りやすい“認知の歪み”に関する筆者の指摘である。筆者は、私たちが何かを「幸せ」と感じるまでのプロセスにおいて、認知の歪みが生じると、その「幸せ」は時に他人を傷つけるものになりうると主張する。つまり、それは本来望ましいはずの幸せが、歪んだ形で実現されてしまう「歪んだ幸せ」となり、結果的には事件や犯罪にまでつながってしまう危険性がある、ということだ。

筆者は、人の行動を左右するのは「情動」と「理性」のバランスであるとし、特に情動の中でも歪みが生じやすい5つの要素として「怒り」「嫉妬」「自己愛」「所有欲」「判断」の歪みを挙げている。これらの歪みはどれも、私たちが日常生活で抱きがちな感情であるため、一歩間違えると誰でも「歪んだ幸せ」の落とし穴に陥る可能性があることを示している。

本書の中で紹介されていた事例のひとつに、ある少年が同年代の女性に好意を抱き、ほとんど会話もないにもかかわらず「彼女も自分を好いている」と思い込んでいたという話がある。少年は、彼女が他の男子と笑顔で話している様子を見たことで、裏切られたような感情を抱き、やがて嫉妬の感情が高まっていった。そして、深夜に刃物を持って彼女の家を訪れたのである。この行動は未遂に終わったが、まさに「嫉妬の歪み」によって判断力を失い、重大な問題を引き起こす寸前だった。こうした事例は、感情の歪みがいかに人間の行動に影響を及ぼすかを象徴的に表している。

では、このような「歪んだ幸せ」からどうすれば抜け出すことができるのか。筆者はその鍵として、「ストーリーを知ること」の重要性を強調している。ここでいうストーリーとは、人がこれまでの生活や人間関係の中で積み重ねてきた経験、反応のパターン、思考の傾向などを含んだ、いわば“対人関係の筋書き”のようなものである。歪んだ幸せを求める他者に対しては、その人のストーリーを理解することで、偏った認知や行動の背景を知ることができる。また、自分自身がそのような状態にある場合は、自分のストーリーを見直し、なぜ自分がその感情に囚われているのかを冷静に考えることが、歪みからの脱却につながると筆者は主張する。

私は、この「ストーリーを知る」という考え方は非常に重要だと感じた。実際の事件や報道を題材にした映画や小説は、その背景にある人々のストーリーを知るための有効なメディアだと考える。たとえ演出や脚色が加えられていたとしても、登場人物の内面や過去を丁寧に描くことによって、視聴者が持つ固定観念に問いを投げ、「なぜそのような行動を取ったのか」を考える手がかりとなる。こうした視点は、私たち自身の感情や判断を見直すきっかけになると考える。

本書は、誰もが一度は感じたことのある感情に焦点を当てながら、人間の心理や行動の危うさ、そしてその修正方法について考えさせられる本だった。人間関係や自己理解に悩む今の時代だからこそ、多くの人に読まれるべき本だと感じた。

⑫「月」(映画) 監督:石井裕也 2023年

(あらすじ)
太陽が見えないほど、深い森の奥にある重度障害者施設「三日月園」。ここで新しく働くことになった堂島洋子は元有名作家であった。東日本大震災を題材にしたデビュー作の小説は世間にも評価された。だがそれ以来、新しい作品を書いていない。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平は人形アニメーション作家だが、その仕事で収入があるわけではない。経済的にはきつい状況だが、それでも互いへの愛と信頼にあふれた二人は慎ましく暮らしを営んでいる。施設の仕事にはだんだん慣れてきたものの、しかしこの職場は決して楽園ではない。洋子は他の職員による入所者への心無い扱いや暴力、虐待を目の当たりにする。だが施設の園長は「そんな職員がここにいるわけない」と惚けるばかり。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだ。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて
怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく。

(考察)
障害者施設とその従業員、家族が抱える問題と、小説の意義について考察する。

まず、障害者施設が抱える虐待問題について考察する。
本作品の冒頭で、黒い背景に以下のテロップが表示される。

「言葉を使えない一部の障害者は〈声〉を上げることができない。ゆえに障害者施設では、深刻な〈問題〉が隠蔽されるケースがある。」

本作品の施設入所者は、言葉を発することができない人や会話することが出来ない人が大半を占める。
そのため、施設では暴れる入所者に対して暴力や虐待が横行している。
例えば、“きいちゃん”と呼ばれる42歳の女性は、手足動かせない、耳も聞こえない、口も動かせない、ずっと寝たきりの障がい者である。しかし、実際はこの施設にて虐待を受け、暴れるから縛りつけて10年間たって、動けなくなったのである。目も見えてたのに、暗い方が安心するから、といって勝手に決めつけて窓を塞がれたのである。
他にも、暴れる男性入所者に対して、職員が、夜、布団に横になっている入所者に懐中電灯の光をチカチカと当て、てんかんの症状を誘発しようとしていたり、“タカシロ”さんという男性を自室に長期間閉じ込め、放置していた現状が映し出される。タカシロさんは、自室にて全裸でふん尿を体や壁に塗りたくって、股間を掻きむしっていた。

障害者施設における虐待問題は、従業員の心身の余裕がないことで引き起こされると考える。
自分たちよりも年齢が上で、奇声を上げたり、暴れたりする人を抑えながら介助をしなければならないといった心身ともに重労働を強いられる環境。夜勤は数多くの入所者を1人で見なければならないといった深刻な人手不足。
給料も安く、心身の余裕が無くなって、人に優しくする余裕がない従業員の姿が描かれる。
特に、障害者となると会話ができないので、意思疎通ができないことによるストレスもあるのだろう。何を言いたいのか、何を思っているのかが分からず、大きな声を出されたり、噛みつかれたりしたのならば、従業員の精神がおかしくなってしまうのも頷ける。
おそらく、従業員は自分がしたこと以上に入所者から暴力を受けたりしたのだ。
この作品を通して、障害者施設における虐待は施設内の問題(施設の制度、従業員の質)ではなく、国が施設に対して適切な人数の人員配置や、待遇改善を行う必要があると考えられる。

なんでこのような問題が隠蔽されてしまうのか。それは、「障害者が社会にとって邪魔である」といった社会の本音、つまり人の目に触れないところで生活をしていた方が社会がうまく回る事実があるからだ。例えば、普通の住宅地にこの施設があれば、入所者の奇声や暴れる音に不信感や嫌悪感を抱く人もいるのだろう。人目につかない森の中にある施設は、こうした無意識の差別が根底にあると考える。

施設の従業員の1人である、“さとくん”は施設の現状を変えるといい、入所者の殺害を企む。
それを知った洋子は、さとくんの「やっぱりあいつら障害者はいらないんだ」という隠された社会の本音の指摘に対して、否定の立場をとる。

しかし、その掛け合いの中で、ふともう1人の洋子がカットインする。これはおそらく洋子の本音の部分だ。以下がもう1人の洋子の台詞の抜粋である。

「ねえねえ、じゃあきいちゃんが家族でもいい?頬を擦り寄せてハグできる?可愛いねってキスできる?ねえ、自分がきいちゃんだったら嬉しい?幸せ?なりたい?友達にきいちゃんみたいな障害者の赤ちゃんが産まれたらおめでとうって言う?ねえ、本当に自分と関係のあることとして考えてる?それでなに?きいちゃんの心の声を小説にするんだっけ。へぇ、それでまた評価されたらいいね。ラッキー、お金貰えたらいいね。でもさ、それってただ想像で書いてるだけで、なんの根拠も無いものだよね?」

心の底では、さとくんと同じことを思っているが、それに罪悪感を感じ言葉には出さず、綺麗事しか言えない。
しかし、この考えは障害者と1番近くにいて、現状を知っていて、問題に対して正面から向き合っているからこそ出てきてしまう本音である。
このような本音(人間の事実)から目を逸らし、綺麗事ばかりに耳を傾けていては、問題の根本的な課題解決には至らないことを示していると考える。


次に、小説の意義について考える。
主人公の洋子は、元有名な小説家であり、東日本大震災をテーマにした小説で人気を博した。
しかし、同じ施設で働き、小説家を目指す陽子から鋭い指摘を受ける。

震災を描いてるのに、震災を見ていない
→震災地臭いが酷かったけれど、それを書いていない。死者から指輪を抜き取ろうとする人、瓦礫の中に混じったピンクローター。人間の事実が全く書かれなかった。

陽子「でも、都合の悪い部分を全部排除して希望に塗り固めた小説書くって、それ実は善意じゃなくて善意の形をした悪意なんじゃないんですか?」

洋子は小説家として活動していたとき、出版社の人から読者を励まして元気づけるのが小説の力だと言われ、それ以降小説が書けなくなってしまう。
私が考える小説の力とは、小説の語り手の視点を通して物事を多角的に捉えることで、現代社会の課題や人間関係の悩みについて、その問題の背景を汲み取れるほどの視野の広さを得られることだと考える。

様々な社会問題について、ニュースでは毎日のように報道されているが、事実を淡々と述べる報道は、どうしても事件を他人事として捉えがちになってしまうと考える。このような社会問題や事件は、当事者の心理状態によって引き起こされるものであることを踏まえると、小説や映画など登場人物の心理描写を得意とする媒体でこのような事件を扱うことによって、事実の1部を切り取る報道ではなく、事件を物語として理解することで、事件の背景を汲み取ることができる。また、登場人物に感情移入することで、社会問題について自分事として捉える機会になり、問題を根本から解決するための鍵になると考える。



⑬「ワンダフルライフ」(映画)1999年 監督:是枝裕和

(あらすじ)
月曜日、霧に包まれた古い建物に吸い込まれていく22人の死者たち。彼らはこの施設で天国へ行くまでの7日間を過ごすことになっているのだ。そこで待ち受けていた職員からは「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んでください。いつを選びますか?」と言われる。選ばれた思い出は職員たちの手で撮影され、最終日には上映会が開かれる。職員の望月、川嶋、杉江、しおりたちは分担して死者たちから思い出を聞き出し、撮影のための準備を進めていく。それが彼らの仕事だ。死者たちはそれぞれに大切な思い出を選択していく。だが望月の担当する渡辺だけは、なかなか思い出を選べずにいた。悩む渡辺は、自分の70年の人生が録画されたビデオテープを見る。そこに映し出された新婚時代の渡辺の妻、その映像におもわず目を奪われる望月。この夜を境に、望月、しおり、渡辺、それぞれの感情は大きく揺れ動きはじめる。

(考察)
本作品の特徴は2つある。

まず1つ目が、死者の思い出を聞き出し、それを撮影する過程を辿る、ドキュメンタリー要素を含んでいる点である。
本作品では、死者役として一般の人が多数登場する。この映画制作の際、実際にスタッフがビデオカメラを持ち、老人ホームやとげぬき地蔵、オフィス街の公園、大学のキャンパスを訪れ、「ひとつだけ思い出を選ぶとしたら…?」というインタビューを行った。集めた“思い出”は500にものぼり、その中から選ばれた10人が本人役として映画に登場し、実際の思い出を語る。
作中では施設の職員と死者が1体1で面接をし、思い出を聞き出す場面があるが、カメラは定点で真正面から死者たちを捉え、画面の外側から職員が質問する声が入ってくる。まるで、本物のインタビューのような演出であり、死者たちが思い出を語る際の自然な表情や感情の細部まで捉えていると考える。
ドキュメンタリー要素を含むからこそ、映画の中におけるフィクションとノンフィクションの境目が曖昧になり、独特な世界観を生み出していると考える。

2つ目は、自分にとって1番大切な思い出は何気ない日常で感じた安心感であったり、愛情だということである。
例えば、作中に登場する中学生の少女は最初、ディズニーランドに行ったことを思い出として選ぼうとするが、職員との面接を通じて最終的に選んだ思い出は、幼い頃、母の膝の上で横になったときの思い出だ。
他にも愛する妻と公園のベンチでたわいもない話をしたときの思い出を選ぶなど、日常の場面を切り取ったような思い出を選ぶ人が多い印象であった。
「選んだ記憶しか天国に持っていけない」という設定があるため、死者たちは慎重に思い出を探していく。初めは華やかな経験や面白いエピソードに目が向きがちであるが、最終的には、恋人や親、友人たちとの何気ないやり取りこそが、生きる上でかけがえのない価値を持っていたのではないかと気づかされる。その気づきは観客にとっても、人生を見つめ直すきっかけとなるだろう。

このように、本作品はドキュメンタリー的手法と、記憶というテーマを通じて、観る者に深い問いを投げかけている点で、非常に意義深い映画であるといえる。

⑭「蜜柑」(小説)芥川龍之介 1919年

(あらすじ)
主人公の私は横須賀発の2等客車で座っていると、発車する直前になって列車に飛び乗った田舎娘が私の目の前の席に腰掛ける。その日の私は疲労と倦怠から大変機嫌が悪かったことから、その小娘のみすぼらしい風貌や3等の切符にも関わらず2等の車両に間違えて乗車していることがたいそう気に入らず、私はその娘を快く思わなかった。その後、その小娘は列車の窓を開け、開くと同時に汽車の黒い煙が車両に立ち込め、私は咳き込み、機嫌を悪くするが、小娘は私のことなど気にすることなく、窓の外へ首を伸ばし列車の進行方向をに視線を送っていた。トンネルを抜けると、踏切で3人の男の子が手を振っており、その男の子に向けて小娘が蜜柑を5、6個落とす光景を目にする。兄弟へ感謝を伝える美しい光景に触れたことで、私は疲労と倦怠を忘れ、晴れやかな気持ちになることができた。

(考察)
芥川龍之介のこの作品は、一見すると何の変哲もない、ただの汽車内での出来事を描いているだけに思える。しかし、読んでいくうちに、日常の中に潜む感情の揺れや、人間の複雑さがじわじわと浮かび上がってくる。

語り手は、新聞に並ぶ変わり映えのないニュースや、車内で出会った田舎の少女に対して、どこか冷めた、あるいは苛立ちを覚えるような目線を向けている。少女の見た目をわざわざ悪く描写しているところからも、語り手の内面には人生への疲れや無気力さがにじみ出ているように感じられる。

そんな語り手の心に変化が生まれるのが、少女が汽車の窓から蜜柑を投げて、見送りに来た弟たちに手渡す場面だ。特別なセリフがあるわけでもないが、その行動を通して語り手は「或得体の知れない朗かな心もち」を感じる。読んでいるこちらも、その瞬間だけは語り手と一緒に気持ちがほぐれていくような気がした。

平凡で退屈な日常の中にも、人の優しさや温かさを感じられる瞬間がある。この作品は、それを繊細な描写で伝えている。芥川の情景描写の巧みさや、人の感情を丁寧にすくい取る筆致は、まさに純文学ならではの魅力だと感じた。

⑮「52ヘルツのくじらたち」(小説)著者:町田その子 中央公論新社 2020年

(あらすじ)
52ヘルツのクジラとは、他のクジラが聞き取れない高い周波数で鳴く世界で1頭だけのクジラ。何も届かない、何も届けられない。そのためこの世で1番孤独だと言われている。自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され「ムシ」と呼ばれる少年。孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、魂の物語が生まれる。

(考察)
本作における「52ヘルツの声」という表現は、登場人物たちの抱える孤独や、社会との断絶、そして理解されない痛みを象徴している。52ヘルツの声を持つクジラは、他のクジラと異なる周波数で鳴くために、その声が誰にも届かず、「世界で最も孤独なクジラ」として知られている。本作では、この孤独な声に重ねる形で、登場人物たちの語られざる思いや叫びが描かれている。

まず主人公は、東京から大分へ移り住んだ若い女性であり、地域に馴染めず孤立した生活を送っている。彼女の孤独は、地域社会における閉鎖性や、家族の中での疎外感から来るものである。主人公は母の連れ子であり、実の父母からは十分な愛情を受けられずに育った。義父の病気をきっかけに介護を押し付けられ、自身の進路や人生を犠牲にされてきた過去を持つ。そんな彼女が発した「わたし、お母さんが大好きだった。大好きで大好きで、だからいつも……いつも愛して欲しかった」という言葉(P.118)は、まさに誰にも届かない52ヘルツの声そのものである。愛しているのに愛されない、その苦しさが彼女の中に深く残っている。

次に登場するのは、主人公が出会う中学生の少年である。外見や言動から誤解されていた彼は、実は家庭内で虐待を受けていた。母親からの暴力、とくに煙草の火を舌に押し付けられたという経験は、彼の「声」を奪った。少年の「たすけて」という言葉は、誰にも届かずに心の中に沈み続けていた叫びである。母親はその虐待を罪とも思わず、むしろ自分こそが被害者であるという認識を持っていた。このような家庭環境の中で、少年は言葉を発しても理解されないと学び、その結果、声を失っていったのだと考えられる。

最後に、主人公と関わるアンさんという人物がいる。トランスジェンダーであるアンさんもまた、「52ヘルツの声」の持ち主である。アンさんは、ありのままの自分で生きようとしたが、それを家族に理解されることはなかった。特に母親は、アンさんの性自認を「心の病気」と受け止め、最後まで“女性の杏子”として扱おうとした。遺体に化粧を施し、白百合で棺を埋めた行為には、母親なりの愛情が込められていたのかもしれないが、それはアンさんの本当の姿を否定する行為でもあった。アンさんは、その生きづらさを誰にも打ち明けることができず、最後は自ら命を絶つという選択をしてしまった。

本作に登場するこれら三人の登場人物に共通するのは、彼らが「伝える努力をしなかった」のではなく、「伝えても届かなかった」という点である。52ヘルツの声とは、孤独の中で必死に声を上げているにもかかわらず、それが他者には理解されないという痛みの象徴である。しかしその一方で、同じような孤独を抱えた者同士であれば、その声に共鳴することができるのだという希望も描かれている。主人公と少年、そしてアンさんとの出会いが示すように、孤独な声が誰かの心に届く瞬間がある。たとえ52ヘルツの声であっても、それを受け止めてくれる誰かがいれば、人は救われるのかもしれない。

⑯「おいしいごはんが食べられますように」(小説)作者:高瀬準子 講談社 2022年

(あらすじ)
第167回芥川賞受賞。「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作。

(考察)
本作において、主人公・二谷の「食」に対する無関心さは、作品全体の空気感や人間関係の描写と密接に結びついている。二谷は、三食カップ麺でも構わないと考えるほど食に執着がなく、極端な例では「一日一粒の錠剤で栄養とカロリーが摂取できればそれでよい」とまで述べる。このような姿勢は、彼の無気力さや感情の希薄さを象徴的に表している。

そのため、二谷の視点で描かれる食べ物の描写には、美味しさや楽しさといったポジティブな感情がほとんど感じられない。例えば、職場の同僚・芦川が手作りしたショートケーキを食べる場面では、「生クリームを歯にこすりつけるように」「ニチャニチャ」「甘ったるい」といった不快感を強調する言葉が用いられており、読者にもその味が重苦しく、胃もたれするように伝わってくる。食を通じた人間関係のあたたかさが強調されがちな描写とは対照的に、ここでは食がむしろ拒絶や嫌悪の感情と結びついて描かれている。

また、作中では職場の人間関係の閉塞感も顕著である。芦川はメンタルの不調により度々仕事を休むが、その分の負担は二谷や押尾にのしかかっている。芦川はその罪悪感を埋め合わせるかのように、手作りのお菓子を職場に持ってくる。焼きバナナ、マフィン、パンプキンパイ、わらびもち、プリンなど、バリエーション豊かなスイーツからは、彼女の料理の腕前と気遣いが感じられる一方で、「お菓子を作る時間があるなら仕事をしてほしい」という苛立ちも湧き上がってくる。特に、芦川の欠勤が続く中でこのような差し入れが繰り返されることで、職場の空気はより複雑で微妙なものになっていく。

その象徴的なシーンとして、二谷が芦川の手作りお菓子を「残業中に食べる」と言って持ち帰りながらも、実際には人気のない時間を見計らって握りつぶし、ゴミ箱に捨てる場面がある。さらにその行動を押尾が無言で拾い上げ、芦川のデスクに戻すという描写が続く。この一連の流れは、誰も直接は言わないものの、職場の中に渦巻く不満やストレス、そして表面上の和を乱すことへの恐れを象徴しているように思える。

このように本作は、直接的な対立や言葉による衝突を避けながらも、細やかな心理描写や状況描写を通じて、現代の職場における人間関係のもどかしさや本音と建前の乖離を浮かび上がらせている。食という日常的なモチーフを通じて、登場人物の内面や関係性を巧みに描き出している点が、本作の大きな魅力であるといえる。

⑰「20世紀少年ー第1章ー終わりの始まり」(映画)堤幸彦監督 2008年

(あらすじ)
高度成長期、地球滅亡を企む悪の組織に立ち向かうヒーローを夢見て、少年ケンヂと仲間たちが作った“よげんの書”。それから30年後、大人になったケンヂの周りで次々に不可解な事件が起こる。そして世界各国では、謎の伝染病による大量死が相次ぐ。実は、これらの事件はすべて、30年前の“よげんの書”のシナリオ通りに実行されていた。ケンヂは滅亡の一途を辿る地球を救えるのか。そして数々の出来事に必ず絡んでくる謎の男、“ともだち”の正体とは。

(監督情報)
元テレビディレクターの監督。
映画の演出においては、スピード感を大切にし、俳優に対して1mm単位での指示を行うなど、非常に気を使っている。入念にリハーサルや打ち合わせを行い、キャラクターやストーリーを役者とともに深めていく。撮影時は別室で無線指示を、現場の演出スタッフが俳優に指示を行うなど、作品ごとに適切な方法を採用している。
これはテレビマンだった頃に『カメラが何台もある大きなスタジオに、役者もスタッフも全部詰め込んで、全員が台本のスケジュール通りに動く』という従来のテレビドラマの作り方に対しての疑問を感じたことが原点となっている。『基本的に1台のカメラで撮りたい』という方法にこだわりたいが、それだと時間がかかりすぎてしまうので、よりスピーディーに作品を完成させるために現在のスタイルを採用しているという。

参考…「堤幸彦|日本人映画監督-株式会社ボーダーレス」https://www.borderless-tokyo.co.jp/video-trivia/directorlist/japanese/tutumi-yukihiko.html(最終アクセス日 2025年4月13日)

(考察)
本作では、SFの要素が物語全体に巧みに組み込まれており、特に過去と現在を行き来する構成や、終盤に登場する巨大ロボットによる東京破壊シーンは、映像表現の迫力とともに観客に強い印象を与える。ビルや道路が次々と崩壊するクライマックスの場面は、まさに映画ならではの臨場感とスケール感を活かした演出であり、原作漫画にはない新たな魅力を生み出している。

脚本を担当した長崎尚志は、漫画と映画の表現の違いについて言及しており、漫画は読者の想像力に依存する「止まった画」であるのに対し、映画は「動く画」によって観客を引き込むメディアであると述べている。この発言からも分かるように、映画化にあたっては、原作には描かれていなかったロボットの動きや都市破壊の描写をあえて丁寧に取り入れることで、視覚的な魅力を最大限に引き出す工夫がなされていることがわかる。

また、本作に登場する“ともだち”というカリスマ的な教祖が率いる新興宗教団体は、細菌兵器を使って世界征服を企むという非現実的な設定ながらも、どこか現実の歴史とリンクする要素を含んでいる。この描写からは、1990年代のオウム真理教事件を連想せざるを得ないが、長崎氏自身はそれを意図したわけではなく、むしろ自身の若い頃に流行した新興宗教ブームの影響が大きいと語っている。加えて、“ともだち”というキャラクターがあまり喋らず、それゆえに神秘性と権威を保つという描き方には、実際の宗教指導者像を忠実に反映しようとする姿勢が見て取れる。

以上を踏まえると、漫画を原作とした映画作品においては、媒体ごとの特性を活かした演出や構成が観客の評価に直結する重要な要素となる。また、脚本家や監督の個人的な経験や潜在意識が物語に自然と反映されることで、原作とは異なる意味や深みを持つ作品に仕上がる可能性がある。したがって、映画化された作品は、原作の枠を超えた新たな解釈や価値を提示するものであると考える。

(参考)
「20世紀少年 インタビュー:企画・脚本の長崎氏が語る」https://eiga.com/movie/53304/interview/4/(最終アクセス日 2025/4/13)

⑱「信仰」(小説)村田沙耶香 文藝春秋 2022年

(あらすじ)
「なあ、俺と、新しくカルト始めない?」好きな言葉は「原価いくら?」で、現実こそが正しいのだと、強く信じている永岡は、同級生から、カルト商法を始めようと誘われる。その他、信じることの危うさと切実さを描く8つの物語から構成される。

(考察)
この作品では、「信じて疑わないことの怖さ」がテーマとして描かれている章がいくつかある。その中でも特に印象に残ったのは、「信仰」と「生存」の章だ。どちらの章も、ある考え方を疑いもなく信じてしまった結果、主人公や周りの人たちが苦しむ様子が描かれている。

まず、「信仰」の章では、主人公が「現実こそが一番大事」と信じている。彼は、ブランド物や高級なレストラン、ディズニーランドなどにお金を使うことが理解できず、「ぼったくりだ」「詐欺だ」と感じている。彼にとっては、値段に見合わないものはすべて偽物であり、無駄なものだ。だから、周りの人たちにも同じように「現実的に生きることが一番幸せだ」と説得しようとする。しかし、次第に周囲の人たちは、楽しみや価値観を否定されることに嫌気がさし、主人公から距離を置くようになる。たとえ本人が本気で人のためを思ってやっていたとしても、自分の信じる「正しさ」を他人に押しつけてしまうと、それはかえって人を苦しめることになることを描いている。

次に、「生存」の章では、「生存率」という数値が人の価値を決める社会が描かれている。生存率が高いほどエリート、低いと野人と呼ばれるようになっていて、皆その数値を上げるために必死に努力している。主人公ももともとCマイナスという低いランクだったが、努力してBまで上げた。しかし、ある時ふと、「この生き方で本当にいいのか?」と疑問を持つようになる。生存率にとらわれて生きることが、自分らしい人生なのかどうか、悩み始めるのだ。周囲の人たちは、その数値を当たり前のものとして信じているが、それもまた一種の「信仰」と言える。

この2つの章に共通しているのは、「これが正しい」と強く信じてしまうことで、かえって人を不自由にしてしまうという点だ。自分の考えを持つことは大切だが、それを絶対だと思い込んでしまうと、他人の価値観を否定したり、自分自身の生き方を見失ってしまうことがある。だからこそ、何かを信じるときには、それを疑う目も同時に持つことが必要なのではないかと考える。

⑲「どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2」著者:宮口幸治 新潮社 2021年

(概要)
「頑張る人を応援します」。世間ではそんなメッセージがよく流されるが、実は「どうしても頑張れない人たち」が一定数存在していることは、あまり知られていない。彼らはサボっているわけではない。頑張り方がわからず、苦しんでいるのだ。大ベストセラー「ケーキの切れない非行少年たち」に続き、困っている人たちを適切な支援につなげるための知識とメソッドを、児童精神科医が説く。

(考察)
1. 本書を選んだ理由

今回の春の課題では、介護、児童虐待、震災といった社会課題を扱った作品を通じて、物語に描かれる人間関係や社会問題について考察してきた。その過程で、自分自身の中に多くの固定観念があることに気づかされた。たとえば、「家族は血のつながりがあるから特別な存在である」といった思い込みや、「虐待を行う人は暴力的で感情のコントロールができない人だ」という観点で物事を捉えていた。しかし、登場人物の背景や彼らを取り巻く環境を知ることで、加害者個人の問題だけでなく、加害に至るまでの社会的・心理的背景にも目を向ける必要があると実感した。

そうした気づきを踏まえ、支援する人とされる人の関係を心理的側面から深く捉え直したいと考えたことが、本書『頑張ろうとしても頑張れない人たち』を手に取った理由である。支援が必要な人々の内面やその環境を理解することは、今後の作品考察においても重要な視点になると考えた。

2. 本書の内容と印象的だった点

本書で扱われている「頑張ろうとしても頑張れない人たち」とは、単に意欲がないのではなく、限界まで努力しても成果が出ず、結果として頑張ること自体が困難になっている人々のことである。また、周囲の何気ない励ましの言葉が、かえって本人の自主性や主体性を奪ってしまうという指摘が印象に残っている。

たとえば、育児に真剣に取り組んできたにもかかわらず、子どもが非行に走ってしまったケースや、少年院に入った少年が再犯してしまうような事例では、外側からは「努力が足りない」と見えるかもしれない。しかし、その背景には、本人がコントロールできない環境や心の問題が潜んでいることが多い。

また、本当に支援が必要な人ほど、自ら支援の場に来ることができないという現実も印象的だった。「困っているように見えないから」「本人が望んでいないから」という理由で支援が届かない一方で、「本人が来られないから支援しなければならない」という矛盾を支援者たちは抱えている。支援の現場は、そうした葛藤と向き合いながら日々判断をしているということがよく分かった。

本書では、少年院に入った子どもたちを対象に、「頑張れるようになる」ために必要な3つの基本が挙げられている。

①安心の土台
家族の存在や苦しみへの理解、自分を見捨てない誰かがいるという実感。
②伴走者の存在
信頼できる人との出会いや、重要な役割を任されることによる自己肯定感の回復。
③チャレンジできる環境
自分の姿に気づいたとき、人とのコミュニケーションに自信が持てたとき、学ぶ楽しさを知ったとき、将来の目標が見つかったときなど。
(P.125-126)

こうした支えが整ったとき、初めて「頑張ること」が可能になるのだと知った。

さらに、支援者同士の間でも、支援の温度差や方針の違い、連携不足によるトラブルが起きているという点も見逃せない。支援は一方向的なものではなく、多様な立場と視点の中で成り立っているということを、著者は指摘している。

3. 本書を通して得た学びと今後への活かし方

本書を読んで、「頑張ろうとしても頑張れない人たち」が置かれている環境や心理状態を理解することの重要性を強く感じた。彼らは決して怠けているわけではなく、支援が適切に届かないことや、本人の心の余白のなさが原因となっていることを学んだ。

今後、社会課題を扱った作品を考察していく際には、登場人物の言動だけで評価するのではなく、その行動の背景にある環境や思考のプロセスに目を向けたい。そして、支援の在り方や人間関係の構造を読み解くことで、作品が伝えようとしている本質的なメッセージにより深く迫ることができるのではないかと考える。

⑳「風立ちぬ」(小説)著者:堀辰雄 角川文庫 1968年

(あらすじ)
美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて来る愛する者の死を覚悟し、それを見つめながら2人の限られた日々を「生」を強く意識して共に生きる物語。

(考察)
八ヶ岳山麓のサナトリウムを舞台とした本作品では、自然の色彩描写と病床の風景が巧みに対比されることで、「生」と「死」のテーマが浮かび上がってくる。

作品冒頭に描かれる代赭色の裾野や赭ちゃけた耕作地、藍青色に澄み切った空、真っ白な鶏冠のような山巓など、豊かな色彩に満ちた自然の情景は、まさに「生」を象徴している。特に初夏の夕暮れ時、夕陽を受けて茜色から鼠色へと移り変わる木々の描写は、時間の流れとともに変化する自然の美しさを強調している。

一方で、節子の病状が悪化し血痰が出るようになると、彼女の病室には黄色い日覆いが下ろされ、室内は薄暗い空間へと変わっていく。この色彩の変化は、自然が持つ鮮やかな「生」の気配と、病室に漂う「死」の気配との明確な対比を生み出している。季節ごとに変わる自然の色彩と、節子の容態の変化によって変質していく病床の風景は、「生と死」のあわいに揺れる登場人物たちの心情を象徴的に表していると言える。

また、「風変わりの愛の生活」として描かれる日常には、特別な出来事は少ないものの、微温い肌の感触や好ましい匂い、節子の微笑、そして何気ない会話など、主人公が感じ取るささやかな幸福が丁寧に描かれている。日々の繰り返しの中にあるこうした穏やかな幸福は、常に死と隣り合わせの状況に置かれているからこそ、より鮮明に浮かび上がる。

節子が時折熱を出すようになると、「死の味のする生の幸福」という表現が使われるようになる。この言葉には、主人公が病と闘いながらも必死に生きようとする節子の姿に、ある種の美しさや生の力強さを見出している様子がうかがえる。また、病院内で最も重篤だった患者の死によって、主人公の不安は一層深まる。しかし、その不安の中にあっても、節子の何気ない仕草や表情に「生」の気配を感じ取り、ただ隣にいるだけで幸福を感じるという感情が描かれることで、「生」と「死」が入り混じった人間の感情の複雑さが表現されている。

このように本作品では、色彩の変化を通じて「生」と「死」の対比が視覚的に表現されるとともに、愛のかたちや日常の幸福が、死の影を背景にしてより際立つように描かれている。その繊細な描写から、生きることの儚さと尊さを強く訴えかけていると考える。
2025/04/15(火) 12:27 No.2081 EDIT DEL
4年 北郷未結 春休み課題 1~10 RES
①「キミとアイドルプリキュア♪」(アニメ)2025年 シリーズディレクター:今千秋
(あらすじ)
主人公の咲良さくらうたは、歌うのが大好きな中学2年生。ある日、伝説の救世主アイドルプリキュアを探しにきた妖精プリルンと出会う。
プリルンは、ふるさとのキラキランドが、チョッキリ団のボスダークイーネによって、真っ暗闇にされてしまった。
そんな中、街の人のキラキラがチョッキリ団によって奪われて大ピンチに。うたは「キラッキランランにしたい!私の歌で!」と決意したところ、変身道具が現れ、伝説の救世主《キュアアイドル》に変身。歌って踊ってファンサして、アイドルとして盛り上げながら敵を倒していく。

(考察)
今年度の『プリキュア』シリーズは、「アイドル」をメインコンセプトに据えた演出が特徴的である。本作は、近年のK-POPを中心とする“推し活”ブームやアイドル文化の高まりを背景に制作されていると考えられる。特に注目すべきは、プリキュアたちの戦闘スタイルの変化である。

従来のプリキュアシリーズでは、魔法のステッキや変身アイテムを用いてエネルギーを集め、敵に向けて放つことで浄化するという流れが一般的であった。しかし、本作ではその“浄化”の場面がライブステージとして描かれている。プリキュアたちは歌い、踊りながら技を放ち、その演出の中には敵である怪物たちが観客としてペンライトを振る描写さえ含まれている。この演出は、彼女たちのアイドルとしての魅力やカリスマ性こそが、敵を打ち負かす=魅了・浄化するエネルギーとして機能していることを示しているといえる。

また、視聴者の立場から見ても、このようなアイドル的演出は強い印象を残しやすく、繰り返し視聴することで楽曲が記憶に残り、キャラクターへの愛着が深まる。結果として、応援グッズの購入やライブイベントへの参加など、商業的な展開とも結びつきの強い構成になっている。

以上のように、本作は単なる「戦う少女たち」の物語にとどまらず、現代のポップカルチャーと深く結びついた構造を持っている。プリキュアシリーズの新たな方向性を示すと同時に、コンテンツとしての戦略的な進化も感じさせる作品である。


②「誰も知らない」(映画)2004年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
都内2DKのアパートで大好きな母親と暮らす4人の兄妹。しかし彼らの父親は皆別々で、学校にも通ったことがなく、3人の弟妹の存在は大家にも知られていなかった。ある日、母親はわずかな現金と短いメモを残し、兄に弟妹の世話を託して家を出る。この日から、誰にも知られることのない4人の子どもたちの『漂流生活』が始まる。

(考察)
本作を音楽と映像表現の点から考察する。
是枝裕和監督の作品には、現代社会の家族や人間関係に潜む矛盾や歪みを、繊細かつ静謐な演出によって描き出す特徴がある。その中でも特に印象的なのが、劇中に用いられるBGMの使い方である。是枝作品では、人物が移動するシーンや生活風景を映す静かな場面において、ピアノによる伴奏が用いられることが多い。一見すると美しい旋律であるが、その中には意図的に不協和音が混ざっており、穏やかな日常の中にわずかな違和感や不穏さを忍び込ませている。このような音楽演出によって、「普通」や「平穏」に見える家庭や日常が、実は社会的な枠組みから逸脱しているという含意が巧みに表現されていると考えられる。

本作は、1988年に実際に起きた「子ども置き去り事件」をもとに制作された作品であり、普通や平穏との逸脱を描く。物語では、母親が家を出ていった後、長男の明が家事や家賃の振込といった家庭の役割を代わりに担う姿が描かれる。彼はまだ幼いながらも弟妹の面倒を見て家庭を維持しようと奮闘しており、その姿は「アダルトチルドレン」としての側面を感じさせる。

母親からの現金が底をつくにつれて生活は徐々に困窮し、水道が止められて公園で髪を洗う、服の臭いを確かめながら着る、さらには弟の茂が空腹のあまり紙を食べようとする場面も登場する。こうした描写は、見過ごされがちな社会の片隅にある貧困や家庭内放棄の現実を突きつける。加えて、思春期に差し掛かる明が兄妹に対して反抗的な態度を見せたり、声変わりの兆候が現れるなど、彼自身が子どもから大人への移行期にいることも強調されており、彼の葛藤と孤独がさらに深みを持って描かれている。

また、母親から明宛に送られた「みんなをヨロシクね!頼りにしてるわよ♡」という軽薄な手紙と、わずかな現金は、母親が子どもたちの問題を他人事として処理しようとしている姿勢を象徴している。さらに、それは母親だけでなく、周囲の大人たちにも共通する態度である。例えば家賃未納で大家が部屋を訪ねる場面では、洗濯物が床を埋め尽くし、シンクには洗い物が山積みになり、子どもたちは明らかに困窮した様子を見せているにもかかわらず、大家は家賃のことだけを伝えると特に介入することなく立ち去ってしまう。このような場面には、現代社会における「他人の家庭事情には関与しない」という一種の距離感、あるいは無関心さが浮き彫りになっている。

このように、本作は一見静かな日常を丁寧に描きながら、その裏に潜む社会的な無責任、家庭の崩壊、そして子どもたちのサバイバルを鋭く描き出している。是枝監督の演出と音楽による“違和感”の演出は、この作品の核心となり、観る者に静かな衝撃を与える手法となっていると考える。

③「ルックバック」(アニメ映画)2024年 監督:押山清高
(あらすじ)
学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートからは絶賛を受けていたが、ある日、不登校の同級生・京本の4コマを載せたいと先生から告げられる。2人の少女をつないだのは、漫画へのひたむきな思い。しかしある日、すべてを打ち砕く出来事が起こる。胸を突き刺す、圧巻の青春物語。

(考察)
この作品では、キャラクターの心理描写や才能の対比を視覚的かつ感情的に表現し、アニメならではの表現技法によって観客を引き込む力を持っていると考える。特に注目したのは以下の2つの観点である。
1つ目は、繊細な絵と簡略化した絵を使いこなし、場面に応じて動きに抑揚をつけている点である。
本作は、机に向かって漫画を描く場面が多いが、その際には人物の姿勢やまつ毛や髪の毛の1本1本まで丁寧に描かれており、線の繊細さを感じる描写がされている。一方で、躍動感を感じる場面では絵は簡略化されのびのびとした動きを魅せる。例えば、京本からファンだと告げられた藤野が大きくスキップしながら帰り道を駆け抜けていく場面では、顔や髪の線が大胆に省略され、体の構造もバランスを崩して走る姿が描かれる。このことによって、身体の伸び縮みが強調され、藤野の喜びが生き生きと表現されている。このように、抑揚のある描写が本作品の特徴であると考える。

2つ目は、登場人物らの目の表現である。この作品は、絵の才能を巡った対比が描かれており、京本は「無自覚の才能」、藤野は「才能の自覚によるプライド」が表現されていると考える。そのなかで、才能への尊敬や嫉妬といった複雑な心情が目で語られている。例えば、京本が藤野にファンだと伝えるとき、藤野の絵の魅力を饒舌に語る場面があるが、そのとき藤野の目からはハイライトが消え、無表情で京本を見つめる。おそらく「あなたの方が才能あるのに。でもそれを認めたくない。」といったプライド故の複雑な感情が現れていると考える。京本は絵を描くことが好き、といった気持ちが強い一方で、藤野は自分の能力が周りに評価されるのが好きで絵を描いているように見え、絵の向き合い方に対比が生まれていると考える。

④「言の葉の庭」(アニメ映画)監督:新海誠 2013年

(あらすじ)
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。ある日、タカオは、ひとり缶ビールを飲む謎めいた年上の女性・ユキノと出会う。ふたりは約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願うタカオ。6月の空のように物憂げに揺れ動く、互いの思いをよそに梅雨は明けようとしていた。

(考察)
本作において特に印象的なのは、「カメラの存在を感じさせる」ようなアニメーションならではの映像表現である。

例えば、主人公のタカオが自室で靴を作っている場面では、画面に点々と虹色の光、いわゆるレンズフレアが差し込んでいる。この演出は、本来であれば実写映画におけるカメラレンズの反射現象であるが、アニメーションにおいてあえて描かれることで、画面の向こうに“撮っている視点”=カメラの存在が意識されるようになっている。結果として、どこか幻想的で、非現実的な印象を与えると同時に、映像を通して物語に“見られている”感覚をもたらしているようにも思える。

さらに、ラストシーンにおいてユキノがタカオを追いかけて階段を駆け下りる場面では、彼女が転んだ瞬間、画面全体が大きく揺れる。このようなカメラの“手ブレ”を模した演出も、実写的な臨場感を演出すると同時に、感情の激しさを視覚的に伝える役割を果たしている。アニメーションという媒体でありながら、あえてカメラ的視点を取り入れることで、写実性と作為性の両立が図られており、観客に強い叙情的印象を残す要素となっている。

本作のキャッチコピー「愛よりも昔、孤悲の物語」にも表れているように、タカオとユキノの関係性は、典型的な恋愛関係とは異なる。ここで使われている「孤悲(こい)」とは、「独りで思い詰めて、心が張り裂けそうな状態」を指す言葉であり、彼らの関係が一方通行の感情や、言葉にできない思いによって成り立っていることを示唆している。

物語終盤、タカオがユキノに感情を爆発させるシーンでは、その内面が明確に描かれる。彼の台詞には、自分の夢や気持ちが最初から否定されていたのではないかという悔しさや不安、そして相手の本心を知りたかったという切実な願いが込められている。彼は自分の夢を語ったことが軽んじられたのではないかと感じ、ユキノが教師であるという事実を最後まで黙っていたことへの怒りと悲しみをぶつける。これは単なる恋愛の告白ではなく、自分自身の存在や夢が他者からどう受け止められるのかという、思春期特有の自己確認の叫びにも聞こえる。

一方で、ユキノ自身も、社会の中で傷つき、居場所を失った大人として描かれており、タカオとの出会いによってようやく自分の弱さと向き合うことができるようになる。彼女は「何かになりたい」と願うタカオに対し、「もう何にもなれない」と感じている自分を重ねていたのかもしれない。

『言の葉の庭』は、夢と現実、子どもと大人、孤独とつながりといったテーマを、緻密な映像と抑制された台詞で丁寧に描いている。そして何より、アニメーションという形式でありながら、カメラの“存在感”を積極的に演出に取り入れることで、見る者に強く情感を残す効果があると考える。

⑤「関心領域」(映画) 監督:ジョナサン・グレイザー 2023年

(あらすじ)
1945年。幼い子どもたちは美しい花が咲き誇る庭やプールではしゃいで遊び、休日になると皆で近くの川に泳ぎや釣りに出かける。そんな幸せいっぱいのドイツ人一家は、アウシュビッツ強制収容所のすぐ隣に住んでいた。
マーティン・エイミスの同名小説を、ジョナサン・グレイザー監督が映画化。
第76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、英国アカデミー賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞など世界の映画祭を席巻。そして第96回アカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した作品。


(考察)

本作の特徴は、アウシュヴィッツ強制収容所の隣に住む家族らが収容所に対して専ら関心を抱いていないことである。
それを象徴するのが庭の場面である。
作中では家族の生活に対して意図的にアウシュヴィッツ強制収容所の存在を感じさせるよう、画角や音声が調整されており、庭(外)の場面になるとそれが顕著に現れる。
例えば、主人公のルドルフ・ヘス(ドイツ人一家の父。収容所の所長)が自宅の庭で、タバコを吹かす場面がある。その背景には収容所の煙突から煙が上がっている光景が広がる。
また、ルドルフ・ヘスの妻であるヘートヴィヒが母を家に招き、豪華な庭を紹介する場面がある。滑り台つきのプールや温室、庭で育てているハーブや向日葵、ローズマリーを紹介しているその背景には、やはり収容所の存在が映し出されら。銃声や人が揉めているような声が聞こえる中、ヘートヴィヒは淡々と母に庭の豪華さを語り、音には無反応である。
この他にも子どもたちが庭で遊ぶ場面等にて同じような演出がされている。
このように、本作において収容所の光景や音は“背景”や“BGM”にすぎず、家族にとって関心の対象ではないことが描かれている。隣で大量虐殺が行われているにも関わらず、普段通り生活をする様子を定点カメラで淡々と写し出すことで、無関心の恐ろしさを表現していると考える。

⑥「えんとつ町のプペル」(アニメ映画)2022年 監督:廣田祐介

(あらすじ)
信じて、信じて、世界を変えろ。厚い煙に覆われた“えんとつ町”。煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった。1年前、この町でただ1人、紙芝居に託して“星”を語っていたブルーノが突然消えてしまい、人々は海の怪物に食べられてしまったと噂した。ブルーノの息子・ルビッチは、学校を辞めてえんとつ掃除屋として家計を助ける。しかしその後も父の教えを守り“星”を信じ続けていたルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、彼の前に奇跡が起きた。ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、2人は友達となる。そんなある日、巨大なゴミの怪物が海から浮かび上がる。それは父の紙芝居に出てきた、閉ざされたこの世界には存在しないはずの“船”だった。

(考察)
この作品に描かれる「煙突の町」は、一見ファンタジーな世界でありながら、間接的に現実社会の問題を描写している。この町では、過去に王様が経済活性化のため「エル」という腐敗する貨幣を導入したことを契機に、中央銀行との対立が生まれ、その結果、王は町を煙で覆って外界から隔絶するという極端な手段を取る。ここに描かれるのは、理想を掲げた改革がやがて独裁へと変わり、住人の心と体にさまざまな弊害をもたらす構造である。

まず1つ目に注目する点は、町の住人たちが異端に対して極端な拒否反応を示す点である。。作中では、星の存在を語るブルーノやゴミ人間のプペルが、人々に暴力をもって否定される場面が印象的に描かれている。
この町の空には煙突から上がった黒い煙が充満しているため、人々は青い空、光り輝く星の存在を知らない。
その中で、ブルーノは星を1度だけ見たことがあり、その存在を町の人々に知らせようと人通りの多い路地にて紙芝居を使って語っていく。しかし、通行人は星なんてあるわけない、といってブルーノに殴りかかる。普通、大人であれば、信じ難い迷信を語る人がいたら、聞き流すか相手にしないようにも思えるが、暴力をしてしまうのは異常なのではないかと考える。
さらに、ブルーノだけでなく、ゴミ人間のプペルが星の存在を語ったとき、それを聞いたアントニオ(町のガキ大将)は、
「星なんてあるわけねぇだろ!作り話をいつまでも真に受けてんじゃねぇよ!デマを広めて俺たちを混乱させるつもりか!星なんてねぇんだよ!」と怒鳴りつけながら殴りかかる。
このように、星の存在に対して過度な反応をみせる住人が印象的に描かれる。
理由として、「異端審問官」から排除の対象になることを恐れているからではないかと考える。この物語には、外の世界を知ろうとする者を排除する組織「異端審問官」が登場するが、住人に紛れて活動する者もいるため、人々はそれを恐れて過度に拒否反応を示しているのかもしれない。
「星」という無害なものに住人がこれ程の恐怖や嫌悪を抱いていることに、この国の閉鎖的な政治による思想の偏りが伺える。

次に着目する点として、煙突の煙によるぜんそくの症状が挙げられる。
ルビッチの母・ローラは煙突の煙によって喘息を患い、作中では常に車椅子に乗って、度々咳き込む様子が描写される。町の煙突からは常に黒い煙が出ているが、黒煙は一酸化炭素や有毒ガスを含み、大量に吸い込むと体に深刻な影響を与える。

このように、煙突の煙がもたらす弊害が大きく、大胆な革命はときに国を破滅へと導いてしまうことを考えさせられる。

⑦「浅田家!」(映画)2020年 監督:中野量太
(あらすじ)
父、母、兄、自分の4人家族を被写体に、“家族がなりたかったもの、やってみたいこと”をテーマに多くのシチュエーションで撮影、ユニークな《家族写真》を世に送り出した写真家・浅田政志。普通の家族が、様々な姿になりきった写真を収めた写真集「浅田家」は、好評を博し、写真界の芥川賞ともいわれる第34回木村伊兵衛写真賞を受賞。本作は、この「浅田家」と、東日本大震災で泥だらけになった写真を洗浄し持ち主に返すボランティアに参加した浅田政志が、作業に励む人々を約2年間撮影した「アルバムのチカラ」の2冊を原案に、実話に基づき独自の目線で紡いだオリジナルストーリー作品。

(考察)
本作品における家族写真の意義や浅田政志が家族写真を取り続ける意図について、本人インタビューの映像をもとに考察していく。

まず、家族写真の意義について、浅田政志はインタビューにて「見る人の記憶や経験によって写真の見え方が違う」と語る。
つまり、家族写真をその本人たちが見れば、“記念写真”となるが、赤の他人から見れば、ただの“家族写真”にすぎない、ということである。
これは、映画の中でも描かれている。
政志が、写真集の出版を目指し、テーマ性豊かな家族の写真をアルバムにして、東京の編集長に見せに行く場面がある。そのとき編集長は、
「オリジナリティーがあっていいと思うよ。でもこれ君の家族写真じゃん。売れないよ。」
と政志に言い放ち、アルバムを机の上にほおり投げる。
その衝撃でアルバムの表紙に書かれた「浅田家」の「家」の部分の文字盤が外れ、床に落ちる。
この描写から、写真に写る家族の背景を知らない人にとって“家族写真”は雑に扱える程、興味のないものということが印象づけられる。
一方で、被災した岩手県にて津波に流されたアルバムや写真を、持ち主の元へ届けるボランティア活動をした際、写真を取り戻した人々が感謝や喜びをみせる場面がある。
このことから、写真に写る人の背景を知る人にとって、写真はその人と共に過ごした時間を証明するものとなり、活力や希望を与える力を持つと考えられる。
したがって、家族写真とは、その人と過ごした時間を証明し、思い出や共有した感情を思い出すことで、繋がりや絆を再認識するためのものではないかと考える。

次に、家族写真を取り続ける意図について、浅田政志はインタビューにて以下のように答えている。

「写真集のあとがきにも書いてあるんですけど、“記念日を作る記念写真”って書いてあるんですね。記念写真ってある記念日に撮るから記念写真なんですね。入学式だったりとか、成人式だったりとか人生の節目に皆で撮るのが記念写真なんですけど、自分たちの写真はなんでもない土日に撮るんですけども、やっていく中で、家族といろんな思い出が生まれたな、とか時間も共有できたし、一緒に恥ずかしがったりとか、達成感があったりとか、暑かったり寒かったりていうのを経験すると、家族の関係性まで活性化されたような感じがして、そうやって家族で精一杯やったら、その日自体が家族の思い出深い記念日になっていくような気がして。なので思い出を残す写真ではなくて、思い出を作る写真ですね。」

この言葉から、写真を撮る過程を経て思い出をつくることで、家族との繋がりや絆をより深めて欲しいという想いが、浅田政志が家族写真を取り続ける意図であると考える。

インタビュー映像参考元
“『浅田撮影局』第1回トークセッション 浅田政志×「浅田家!」監督 中野量太”
https://youtu.be/UYtF6KIZES4?feature=shared(2025年3月29日)

⑧「流浪の月」(映画)2022年 監督:李相日

(あらすじ)
10歳の少女・更紗は、引き取られた伯母の家に帰ることをためらい、雨の公園で孤独に時間を持て余していた。そこに現れた孤独な大学生の文は、少女の事情を察して彼女を自宅に招き入れる。文の家でようやく心安らかな時を過ごし、初めて自分の居場所を手にした喜びを実感する更紗。しかし2ヵ月後、文が誘拐犯として逮捕され、2人の束の間の幸せは終わりを告げる。15年後、恋人と同棲生活を送っていた更紗は、カフェを営む文と偶然の再会を果たす。

(考察)
本作では、幼い頃にネグレクトを受けた大人の話で、皆“子どもの時期”に関する何かしらのコンプレックスやトラウマを抱いており、その人自身の人格形成や周りとの関係構築の様子が描かれている。
ネグレクトを受けた大人はパッと見問題なくても、内面に色々と抱え込みながら生きていることを踏まえ、以下では2つの観点から登場人物が内側に抱える生きづらさについて考察する。
1つ目は、“性”の観点である。
本作では物語を通して、性の問題がその人自身のアイデンティティ形成に強く影響していることを描写する。

映画の最後に文が更紗の前で体(性行為をする部分)が発達しない病気だということを明かす。以下はその場面における文の台詞である。

「いつまでも俺だけ大人になれない。更紗はちゃんと大人になったのに。俺はハズレだから。こんな病気のせいで…誰にもつながれない…」

文はこの病気によって、女性と性的関係を結ぶことが難しく、大人になって恋人ができてからも、相手が求めるコミュニケーションに応えることができず、葛藤する様子が描写される。
体の一部、特に性行為をする部分は、自尊心や自己肯定感と強く結びついており、性のコンプレックスはその人自身のアイディンティティ形成に深く関わるものだと考えられる。

では、文が自身の病気を受け入れ、人との関係性を前向きに構築するためには何が必要なのか。
それは、親が認めてくれること・受け止めてくれることが条件に入ってくると考えられる。
文の回想シーンにて、自宅で母と会話する場面がある。


文「子どもの頃、お母さんが庭に植えた木、貧弱で育ちが悪くて、とうとうお母さん、ハズレだといって引き抜いてしまいましたね。」
母「成長が止まるって何…?あなたが異常なのは産んだ私のせいなの?」
文「やっぱり…ぼくはハズレですか」

このとき、文は「僕の目を見て話して」と言うにも関わらず、母親が一向に目を合わせないことに、文は失望する。
文の病気について、母が真正面から向き合い、子どもの個性として受け止めてくれる存在であったならば、文が大人になるにつれて病気のことで壁にぶつかったとしても、前向きに生きることができたのかもしれない。

2つ目は、人間関係を外と内で見た際のギャップである。
文と更紗は、「幼女誘拐事件」がテレビニュースやネットで拡散され、ロリコンと被害者というレッテルを貼られている。しかし、実際に2人の関係は和やかなものであり、更紗は文の自宅で自由に過ごしている。夜ご飯でアイスを食べたり、映画を見て寝ながらピザを食べたり、風呂場に水をはって水遊びをしたり。「ここにいたい」と呟く場面もあり、文と引き離されるときには「文くん!」と叫び、別れを惜しむ描写もある。
2人の関係を内側からみると、文は複雑な家庭環境で育った少女を保護する救済者として捉えることもできると考える。
一方で、亮と更紗の関係について、2人は現在恋人関係にあり、亮は上場企業に務めるサラリーマンで実家が太いことから、周りは2人の関係を羨む。
しかし、実際、亮は更紗に対して自分に反抗する態度があれば暴力をふるったり、帰りが遅いとバイト先に電話をかけてシフトを確認するなど、束縛が強く、更紗が怯える描写もある。
このように、内と外から見た関係性には大きな乖離があり、周りからのバイアスが当事者たちの関係性を縛りつけていると考える。
作中にて、周りは更紗を擁護するように振る舞うが、それは「幼女誘拐事件」の報道にて被害者のレッテルが貼られた幼い頃の更紗に同情しているだけであり、大人になった更紗にとっては生きづらさの原因となっていると考える。

⑨「にんじん」(小説)著者:ルナール 訳:中条省平 光文社 2017年

(あらすじ)
赤茶けた髪とそばかすだらけの肌で「にんじん」と呼ばれる少年は、母親や兄姉から心ない仕打ちを受けている。それにもめげず、自分と向き合ったりユーモアを発揮したりしながら日々をやり過ごすうち、少年は成長していく。著者が自身の少年時代を冷徹に見つめて綴った自伝的小説。

(考察)
本作は、細かく区切られた章立てと淡々とした情景描写によって構成されている点が特徴的である。1つのエピソードが1〜2ページ程度で語られ、物語は第三者の視点から展開される。そのため、読者はまるで映像を観るかのように、にんじんの日常を客観的に追うことができる。このような表現手法は、作者が小説家のみならず、劇作家や詩人としても活動していることに由来すると考えられる。

作中では、にんじんが母から受ける暴力や罵声が冷徹に描かれる。特に、母の言葉には冷たさや嘲笑のイントネーションが感じられ、読者に強い印象を与える。例えば、真夜中に鶏小屋の戸を閉めるよう命じられたにんじんは、恐怖に耐えながらそれを遂行し、期待を抱いて帰宅する。しかし、母から返ってきたのは「にんじん、これから毎晩、鶏小屋を閉めに行くのよ」(P.14)という冷淡な言葉だけだった。この一言で章が終わることで、母の無慈悲さが際立つ。

また、にんじんは布団におもらしをした翌朝、尿入りのスープを飲まされるという虐待を受ける。
以下の文はその場面の抜粋である。

「あらまあ!汚い子だねえ、飲んじゃったわ、ほんとに。それも自分のを。昨日の夜のを」
「そんなことだろうと思ったよ」とにんじんは期待された顔も見せずに、あっさりといった。
にんじんは慣れている。一度慣れてしまえば、あとは面白くもなんともないのだ。(P.26)

この場面では、彼が母の期待通りの反応を示さないことが、ささやかな抵抗とも解釈できる。「期待された顔も見せずに、あっさりと言った」という描写から、にんじんには母親の仕打ちに足掻いても改善されない、といった諦めの感情が芽生えていると考える。

一方で、物語の後半では、家族という存在についてにんじんが達観した視点を持つようになる。「僕にとって、家族なんて言葉はなんの意味もないな」(P.223)という台詞に象徴されるように、彼は家族という関係を偶然の産物として冷静に捉え、それに感謝することも、特別な絆を見出すこともない。
このような考え方は、彼が長年にわたって家庭内で行われた非人道的な扱いを通じて培ったものであり、読者にとっては悲しさと同時に、にんじんの精神的な強さを感じさせる。

さらに、父との口論の場面では、にんじんが母から受けた仕打ちを全て吐き出そうとするが、父はそれを認めようとしない。その末に、父が「じゃあ、私があの女を愛しているとでも思うのか?」(P.244)と発言する場面は、家族の歪んだ関係性を象徴するものとなっている。父自身も母に対して複雑な感情を抱えており、その影響がにんじんにも及んでいると考える。

本作は、にんじんという少年の視点を通して、家族という存在の在り方を問い直す作品であると考える。彼の孤独や絶望、それでもなお求めてしまう愛情の葛藤は、読者に深い余韻を残す。にんじんが最終的にどのような成長を遂げるのか、また彼の未来に希望があるのかは明確に描かれていない。しかし、彼の言葉や行動の中にみえる自己認識の変化こそが、この物語の重要なテーマの一つであると言える。

⑩「さよなら家族」(漫画)石坂啓 イースト・プレス 1994年

(あらすじ)
1994年の「国際家族年」にちなみ、家族をテーマとした短編集であり、作者は「家族像」にさよならを告げるという意図を持って執筆している。作者自身が「家族」に対して幻想を抱いていないと述べているように、本作に収められた物語の多くは、伝統的な家族観を揺るがすような内容となっている。

(考察)
今回は、中でも特に印象に残った二つの作品、『遠い煙突』と『その後のE.T.』を取り上げ、家族の関係性について考察する。

『遠い煙突』では、単身赴任によって家族と長く離れて暮らしていた父親が、長年の時を経てクリスマスの日に帰宅する。しかし、彼はすでに家族の一員として認識されておらず、実の子どもたちにも気づかれないまま、母と再婚相手がいる家庭に迎えられる。ここでは、「家族」という関係が血縁だけで成り立つものではなく、共に過ごす時間や関係の積み重ねによって形成されることが強調されている。衣食住を共にしないことで、家族としての認識が薄れ、父親の存在そのものが希薄になってしまう。この作品は、家族関係が時間の経過とともに変化し、物理的な距離が心理的な距離にも影響を及ぼすことを示唆している。

『その後のE.T.』では、認知症を患った祖父を介護する家族の姿が描かれている。幼い孫のツネオは、祖父の不可解な行動を「E.T.」と呼び、人間とは別の存在として認識している。介護が困難を極める中、家族は施設に祖父を預けることを決意するが、その施設の環境はまるで収容所のようであり、「どこも悪くなくても連れてくる家族がいるのさ」という知人の言葉が、家族関係の貧しさを浮き彫りにする。ここでは、家族の絆が必ずしも「支え合い」だけで成り立つものではなく、介護負担の現実や社会のあり方が、家族の在り方を変えざるを得ない状況を生んでいることが描かれている。

この二つの作品に共通するのは、「家族」という枠組みの脆さである。『遠い煙突』では、血縁があっても一緒に暮らさなければ家族の絆は希薄になることが示され、『その後のE.T.』では、介護という現実の中で家族関係が変容していく姿が描かれている。作者の考えにもあるように、血縁や同じ屋根の下にいることに囚われるのではなく、互いの距離感を意識しながら関係を築いていくことこそが、豊かな人間関係につながるのかもしれない。
2025/04/15(火) 12:25 No.2080 EDIT DEL
宇都穂南 RES
4年 宇都 夏休み課題 23〜27

23.幽霊の日記/製作:NOTHING NEW、監督:針谷大吾・小林洋介
茨城県稲敷郡。上空にいくつも浮かぶ、街のように巨大な「異次元構造物」が当たり前にある世界。日本最大の異次元構造物のすぐ近くに、そのレストランはある。
そこでは十数年間、心霊現象が起こり続けていた——。

YouTubeで見られる短編SF映画。製作のNOTHING NEWは、2022年に設立された新しい映画レーベルだそう。
作中で印象的なのが食べるシーンである。約30分という短い作品だが、主人公の成長を描くのに食べるシーンが多用されており、カップヌードル(おそらく)が顕著だが、どれも美味しく見えるように撮られている。過去・現在・未来が混ざり合い、並行世界まで登場するストーリーになっており、学生時代の主人公が幽霊に「(カップラーメン)食べる?」と訊いたことが、未来の主人公を孤独と絶望感から救う。そして、未来の主人公は並行世界の主人公に「(味噌汁)食べる?」と訊く。「過去の落ち込んでいた自分にかけてあげたい言葉」がある人も多いと思うが、それを視覚化し、食べることのあたたかさや力を表現した作品だと解釈した。

24.viewers:1 / 製作:NOTHING NEW、監督:針谷大吾・小林洋介
人類の文明が崩壊した、少し先の未来。一人の男がたった一人の視聴者に向け、孤独に配信を続けながら廃墟をさすらう。「ぐっちゃん」と名乗り、表面的には明るく振舞う彼だが、徐々に精神的に追い詰められていく。

わずか2分20秒という短さの作品。
味方らしき「基地局ドローン」が徐々に減っていくこと、ひとまず目標としていた海に着いたら敵らしき巨大ロボットが大量に闊歩していたことなどから主人公の配信者が絶望感を抱いていく様が効果的に表現されている。配信画面の「viewers:1」の表示を見ながら孤独に耐えていたが、配信に必要な基地局ドローンが飛ばなくなってしまい、昼は飲まないと決めていた酒を飲み始めてしまう様からは彼の諦めを感じる。が、最後はたった1人の視聴者と出会うことができ希望の残る作品となっている。
映像の質感が、普通のスマホで撮ったような加工感の少ないものであり、そこに巨大ロボットがゆったりと歩いていて不気味さが強い。ロボットの脚が3本で奇数になっており自然界では見られないような構造で、その点も不自然さ、気味の悪さを効果的に表現していると思った。

25.秒速5センチメートル/ 監督:新海誠
互いに特別な想いを抱きながらも、小学校の卒業と共に離ればなれになった遠野貴樹と篠原明里。2人は中学生になっても連絡を取り合い続けていた。そんなある日、貴樹は、遠くで暮らす明里に1人で会いに行くことを決める。

おそらく主人公の最寄り駅が豪徳寺駅なのだが、驚くほど豪徳寺駅そのままの背景だった。有名なラストのすれ違いシーンも、小田急線の踏切だと思われる。新海誠による2007年の映画だが、キャラクターがまだ平面っぽいアニメ絵なのに対して不自然なほど背景が美しい。ガラケー、メール、分厚いデスクトップパソコンなどが懐かしさを感じさせる。
全体的に画面の動きが少ない映画で、人物の語り、モノローグがとても多い。そのモノローグが中学生とは思えない高すぎる語彙力で面白いのだが、貴樹も明里も読書家なのでそれを表現しているのかもしれない。画面全体の動きが少ないと書いたが、それによって第二話「コスモナウト」の見せ場と思われるサーフィンのシーンが映えている。

26.雲のむこう、約束の場所/ 監督:新海誠
戦後、日本は津軽海峡を挟んで南北に分断された。米軍統治下の青森に暮らす2人の少年、ヒロキとタクヤ。彼らは2人とも同級生のサユリに憧れを抱いていた。津軽海峡の向こう側、ユニオン占領下の北海道に建設された謎の塔まで自力で飛ぼうと約束した2人は、小型飛行機を組み立て始める。

新海誠の絵柄の変遷が面白いと思った。この作品の時点では少年漫画のようなタッチだが、徐々に絵柄が大人向けになっていって、最終的にはややファミリー向けに寄っているが萌え的な要素も取り入れた絵柄になっていると思う。
世界観も最近の作品とは違ってもっとSFに寄っており、日本やアメリカは登場するが歴史ごと大きく変えられている。私は最近の作品から観ていったので、この頃の作風は意外でかなり驚いた。

27.ぼくらの / 鬼頭莫宏
夏休みに自然学校に参加した少年少女15人は、海岸沿いの洞窟でココペリと名乗る謎の男に出会う。子供たちは「自分の作ったゲームをしないか」とココペリに誘われる。ゲームの内容は、「子供たちが無敵の巨大ロボットを操縦し、地球を襲う巨大な敵を倒して地球を守る」というもの。兄のウシロに止められたカナを除く14人は、ただのコンピュータゲームだと思い、ココペリと契約を結ぶ。その後、黒い巨大なロボットと敵が出現し、コエムシと名乗る口の悪いマスコットも現れる。ロボットの中のコックピットに転送された子供たち15人の前には、ココペリとコエムシが待っていた。これが黒いロボット・ジアースの最初の戦いであった。戦闘を重ねるにつれ、子供たちはゲームの真の意味を目の当たりにすることになる。

子供が15人もいるので、これほど少ない話数(全65話)で覚えられるのか、全員活躍させられるのかと思ったが、ストーリー内で一時的にメインとなった子供はそのあと死ぬことになる設定になっており、印象づけが工夫されていると感じた。
内容の核は家族愛や、命の重さといった問題だろう。またヤングケアラー、職業差別、グルーミング、兄弟間暴力などのさまざまな社会問題を扱っている。
SF作品だが、軍部や報道の動き、アメリカとの関係など現実の要素も多く盛り込まれ、また作品独自の素粒子に関する論などもあり、SFと現実らしい設定が入り混じっている点が面白かった。
2025/04/14(月) 02:33 No.2079 EDIT DEL
3年 渡辺 RES
3年 渡辺 
春休み課題 1~20
1.『地面師たち』(ドラマ)
監督:大根仁 原作:新庄耕
【あらすじ】
2017年、再び土地価格が高騰し始めた東京。伝説の大物地面師・ハリソン山中に誘われ地面師詐欺の道に踏み込んだ辻本拓海。それぞれにプロフェッショナルな犯罪者数名で構成された地面師グループの彼らは、緻密かつ周到な計画で大手デベロッパーに詐欺を仕掛け、巨額を巻き上げていた。そんな彼らが次なるターゲットに選んだのは、時価100億円とも言われる土地であった。
【考察】
 一見、他人事のように感じてしまうが、実際の事件をもとにしたドラマということでかなり驚いた。フィクションの部分と現実味のある詐欺の部分がいいバランスであって、見ていてとても引き込まれた。この作品独特の言い回し、ネトフリ配信のみの作品だからこそできたきわどいシーンの映像などがあったからこそ人気が出たのだろうと感じた。

2.『Winny』(映画)
監督:松本優作
【あらすじ】
2002年、データのやりとりが簡単にできるファイル共有ソフト「Winny」を開発した金子勇は、その試用版をインターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」に公開する。公開後、瞬く間にシェアを伸ばすが、その裏では大量の映画やゲーム、音楽などが違法アップロードされ、次第に社会問題へ発展していく。違法コピーした者たちが逮捕される中、開発者の金子も著作権法違反ほう助の容疑で2004年に逮捕されてしまう。
【考察】
好きな話をしていると止まらなくなり、周りが見えなくなってしまう演技がとても上手で見入ってしまった。物語は淡々と進んでいく感じで、映画というよりは裁判までのドキュメンタリーという感じがした。登場人物の誰かの主観で進んでいくというよりかは俯瞰の視点で進んでいき、とても見やすかった。

3.『トゥルーマン・ショー』(映画)
監督:ピーター・ウィアー
【あらすじ】
人生のすべてをテレビのリアリティショーで生中継されていた男を描いたコメディドラマ。離島の町シーヘブンで生まれ育った男トゥルーマン。保険会社で働きながら、しっかり者の妻メリルと平穏な毎日を送る彼には、本人だけが知らない驚きの事実があった。実はトゥルーマンは生まれた時から毎日24時間すべてをテレビ番組「トゥルーマン・ショー」で生中継されており、彼が暮らす町は巨大なセット、住人も妻や親友に至るまで全員が俳優なのだ。自分が生きる世界に違和感を抱き始めた彼は、真実を突き止めようと奔走する。
【考察】
 自分以外の住人が全員俳優であるという設定であるため、見終わった後に細かく映像を見直してみると、主人公が作中で気づいたところ以外にも違和感のある動きをしている人物がおり、間違い探しのような形で見直すのも楽しかった。近年だと「恋愛リアリティショー」もこの映画に似通った部分があるのかなと思った。あれは台本として決まっているのかもしれないが、視聴者たちという視点で考えると、「他人の生活・プライベートを娯楽としてメディアを通して消費している」という部分で同じともいえるのかなと思った。

4.『波紋』(映画)
監督:萩上直子
【あらすじ】
須藤依子は「緑命会」という新興宗教を信仰し、祈りと勉強会に励みながら心穏やかな日々を過ごしていた。そんなある日、十数年前に失踪した夫・修が突然帰ってくる。自分の父の介護を依子に押しつけたままいなくなった修は、がんになったので治療費を援助してほしいという。さらに息子・拓哉は障害のある恋人を結婚相手として連れ帰り、パート先では理不尽な客に罵倒されるなど、自分ではどうしようもない苦難が次々と依子に降りかかる。湧きあがってくる黒い感情を、宗教にすがることで必死に押さえつけようとする依子だったが…。
【考察】
本作では水が1つの物語のモチーフとなっており、印象付けるように繰り返し出てきた。また、女性監督の作品ということもあり、社会における女性の役割の認識に対する疑問を抱かせられるシーンがいくつもあった。失踪からいきなり帰ってきた旦那が晩御飯を食べる際に当たり前のように「水をくれ」と依子に持ってこさせるシーンと、息子が連れてきた彼女が同じように依子に水をくれと頼む場面の対比構造で視聴者にも息子の彼女への不快感を抱かせるような演出など、ただ宗教に狂っているやばい人として依子を終わらせず、我々が感情移入できるきっかけをいくつもつくってくれているという印象を受けた。

5.「PERFECT BLUE」(映画)
監督:今敏 原作:竹内義和(『パーフェクト・ブルー 完全変態』)
【あらすじ】
人気絶頂のアイドルグループを突如脱退し女優への転身をはかった霧越未麻。ところが、彼女の思惑とは裏腹に過激なグラビアやTVドラマへの仕事が舞い込んでくる。周囲の急激な変化に困惑する未麻。そんな折り、彼女の仕事の関係者が犠牲者となった殺人事件が多発する。そして、ファンからは「裏切り者」のメッセージ。追い詰められた彼女の前に今度は“もうひとりの未麻”が現れる。自分は狂ってしまったのか?これは夢なのだろうか?連続殺人犯は自分なのか?次第に現実と虚構の区別がつかなくなっていく未麻。果たして彼女の見た“もう一人の自分”の正体とは一体…。
【考察】
 美麻自身が何者なのかわからなくなって、精神的に追い込まれ、現実と虚構の境がわからなくなっていく際に、映像でも劇中劇と本作の物語をずっと交互に流れていたので、私自身もどうなっているのかわからなくなっていった。また、自己アイデンティティの不安定さをもう一人の自分という形で映像に登場させる部分に今敏らしさを感じた。さらに鏡に映ったルミと美麻の目を通してみたルミの違いなど低予算でつくられたとは思えないほど細かな映像の作り込みがあり、目が離せない作品だった。

6.『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ!』(ドラマ)
監督:阪元祐吾
【あらすじ】
2人のすご腕殺し屋の正体は、社会になじめない不器用な女の子。殺し屋女子のちさととまひろの、シェアハウスでののんびりまったりオフビートな日常と、海外でも評価される本格派アクション。
【考察】
 女の子二人の日常系のストーリーの中にかなりしっかりとしたアクションシーンが組み込まれており、見ていてとても見応えのある映像だった。『殺し屋』という仕事が登場人物たちの間でかなりポップなものとして扱われており、我々の想像する殺し屋という職業とのギャップが大きいためそこもギャグシーンとしてうまく機能していて面白かった。

7.『ドラゴンボールDAIMA』(アニメ)
監督:八島善孝 原作:鳥山明
【あらすじ】
平和な日常を送っていた悟空たちは、突如、ある陰謀によって小さな姿に。その理由が「大魔界」と呼ばれる世界にあるらしきことを突き止めた一行のもとに、ミステリアスな少年魔人、グロリオがあらわれる。
【考察】
過去に雑誌などで書かれていたという細かい設定が本作では使われていて、新作でありながらもこれまでの物語に追加情報を与えており、今までのドラゴンボールの物語の伏線回収が一気に行われているような感覚で目が離せない。鳥山明も本作の制作発表にあたり、「ドラゴンボールの世界観の謎に迫る展開」とコメントを寄せていたため、今後の物語もとても気になる。

8.『ベイビーわるきゅーれ』(映画)
監督:阪元祐吾
【あらすじ】
女子高生殺し屋2人組のちさととまひろは高校卒業を前に途方に暮れていた。突然オモテの顔として社会に適合しなければならなくなり、社会の公的業務や人間関係に理不尽に揉まれていく。
【考察】
ドラマ版のものよりもアクションシーンが多く、殺し屋としての描写が多かった。1作目だからということもあるのだろうが、ちひろとまひろ、2人のキャラを深く掘り下げている感じはなくて、殺し屋の少女2人組の日常という感じだった。ドラマを最初に観てしまっていたので物足りなく感じてしまった。

9.『チャイルド・プレイ』(映画)
監督:ラース・クレヴバーグ
【あらすじ】
母親と暮らす少年アンディは、6歳の誕生日プレゼントに「グッドガイ人形」をもらう。欲しかったおもちゃを手に入れて、喜ぶアンディだが、その正体は殺人鬼だった。ある日、アンディの面倒を見てくれていたおばさんが死んでしまう。おばさんを殺したのはチャッキーだと主張しても、大人たちは信じてくれず、やがて、チャッキーの行為はエスカレートしていく。
【考察】
チャイルド・プレイをオマージュした「FINLEY」というショートムービーしか観たことがなかったため、人がちゃんとたくさん死んでびっくりした。呪いの人形が人を襲う設定だと思っていたのだが、実際には違っていい意味で予想を裏切ってくれた。

10.『CURE』(映画)
監督:黒沢清
【あらすじ】
ひとりの娼婦が惨殺された。現場に駆けつけその死体を見た刑事の高部は、被害者の胸をX字型に切り裂くという殺人事件が、秘かに連続していることを訝しがる。犯人もその殺意も明確な個々の事件で、まったく無関係な複数の犯人が、なぜ特異な手口を共通して使い、なぜ犯人たちはそれを認識していないのか。高部の友人である心理学者・佐久間が犯人の精神分析を施しても、この謎を解く手掛かりは何も見つからない。そのころ、東京近郊の海岸をひとりの若い男がさまよっていた。
【考察】
主人公の高部がファミレスで食事をするシーンが2度出てきた。1度目の食事では料理のほとんどを残し、ウェイトレスに食事を下げられていたのに対し、妻の死後には料理を全て平らげ満足そうにしているのが印象的だった。妻の死亡が告げられた電話に対する高部の反応がとても軽かったところにもゾッとさせられたが、病気を患い、自分の助けありきで生きていた妻は重荷でもあり、そんな妻の死は高部にとって癒しであり、救いであったのだろうと考えた。

11.『地獄の警備員』(映画)
監督:黒沢清
【あらすじ】
バブル景気で急成長を遂げた総合商社に、絵画取引担当の秋子と警備員の富士丸という2人の新人が入社した。元力士の富士丸は兄弟子とその愛人を殺害したが、精神鑑定の結果無罪となった要注意人物だ。秋子が慣れない仕事に追われる一方で、警備室では目を覆うほどの惨劇が幕を開けていた。
【考察】
男性社会に揉まれて生きづらそうにしている秋子を映像で視覚的に魅せるのが上手いなと思った。ストーリーはあらすじの内容そのままで、それ以上に深くいくことはないが若かりし頃の松重豊の演技が新鮮で良かった。

12.『静かなる叫び』(映画)
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
【あらすじ】
1989年12月6日、モントリオール理工科大学に通う女子学生バレリーと友人の男子学生ジャン=フランソワは、いつも通りの1日を送っていた。しかし突然、1人の男子学生がライフル銃を携えて構内に乱入し、女子学生だけを狙って次々と発砲を開始。犯人は14人もの女子学生を殺害し、自らも命を断つ。バレリーは重傷を負ったものの何とか生還し、ジャン=フランソワは負傷した女子学生を救う。それぞれ心に深い傷を負った2人は、その後も続く非日常の中で苦悩にさいなまれる。
【考察】
 1989年のモントリオール理科工科大学で起きた銃乱射事件をもとにした作品。全編モノクロで1時間程度の時間。セリフも少ないがそれが逆にこの事件の残酷さを感じさせられた。淡々と流れていく映像が時の流れの非情さを感じさせてきた。

13.『ロゼッタ』(映画)
監督:リュック・ダルデンヌ,ジャン=ピエール・ダルデンヌ
【あらすじ】
トレーラーハウスでアル中の母親と暮らすロゼッタは、酒に溺れ、家に男を連れ込む母親と喧嘩が絶えない毎日。そんなある日、勤め先の工場を突然解雇されてしまった彼女は、ワッフルスタンドで新入りの店員・リケと知り合い、そのスタンドで働き始める。
【考察】
ハンディの長回しで撮っているからか、映画というよりもドキュメンタリーのような雰囲気を感じた。どうしようもない母への捨てきれない愛とリケへの気持ち、それら全てが生々しく、その生々しさがロゼッタの生を感じさせてくれた。思春期のもどかしさをエミリー・ドゥケンヌが好演していた。

14.『禁じられた歌声』(映画)
監督:アブデラマン・シサコ
【あらすじ】
ティンブクトゥ近郊の街で暮らす音楽好きの男性キダーンは、妻サティマや娘トーヤ、12歳の羊飼いイッサンと共に幸せな毎日を送っていた。ところがある日、イスラム過激派が街を占拠し、住人たちは音楽もタバコもサッカーも禁じられてしまう。住人の中にはささやかな抵抗をする者もいたが、キダーン一家は混乱を避けてティンブクトゥに避難する。しかし、ある漁師がキダーンの牛を殺したのをきっかけに、彼らの運命は思いがけない方向へと転がっていく。
【考察】
 前半がのんびりとした雰囲気だったため拍子抜けしたが、後半から段々と理不尽さが見えるようになってきた。しかし、物語は淡々と進んでいき、この世界のどこかでも同じようなことが行われているのかと考えさせられた。

15.『永遠の門 ゴッホの見た未来』(映画)
監督:ジュリアン・シュナーベル
【あらすじ】
画家としてパリで全く評価されないゴッホは、出会ったばかりの画家ゴーギャンの助言に従い南仏のアルルにやってくるが、地元の人々との間にはトラブルが生じるなど孤独な日々が続く。やがて弟テオの手引きもあり、ゴッホはゴーギャンと共同生活をしながら創作活動にのめりこんでいく。しかし、その日々も長くは続かず…。
【考察】
 同性愛を思わせるほどの弟・テオへとゴーギャンへの愛情深さをみて、彼は人間関係にも自然のようなありのままの美しさを求めていたのではと思った。だからこそ自分の弱さもすべて見せており、そんな自分も認めてもらいたかったのだろうと感じた。

16.『ザ・ボーイ 人形少年の館』(映画)
監督:ウィリアム・ブレント・ベル
【あらすじ】
過去と決別するためアメリカからイギリスにやって来たグレタは、老夫婦と暮らす8歳の少年のベビーシッターを引き受けることになる。しかし、その少年ブラームスは、人間サイズの人形だった。ブラームスを溺愛する老夫婦は、世話する際の「10のルール」を徹底して守るようグレタに言いつけ、旅行へと出かける。やがてグレタがルールを破ったことをきっかけに、人形に奇妙な現象が起こりはじめる。
【考察】
設定が面白くて、冒頭の人形を本物の息子のように世話をする老夫婦の奇妙な姿に見入ってしまった。全体的に脅かし系のホラーで1周回って怖くないので、ホラーが苦手な人でも観られそうだなと思った。

17.『ローゼンメイデン』(アニメ)
監督:松尾衝
【あらすじ】
ひきこもりの中学生・桜田ジュンは、ネット通販でクーリングするスリルを楽しんでいた。ある日、心当たりのない荷物から出て来たのは、精巧なアンティークドール。動き出したその人形の家来となったことでジュンは人形たちの戦いに巻き込まれていく。
【考察】
 キャラがかわいかった。それぞれのドールのキャラも立っていて見ていて面白かった。

18.『メン・イン・ブラック』(映画)
監督:バリー・ソネンフェルド
【あらすじ】
ニューヨーク市警の若き警官ジェームズは、追跡していた犯人を目の前で逃してしまう。しかし、そこへ黒服の男「K」が現れ、逃がした犯人が宇宙人であったことを知らされる。Kはジェームズの素質を見込んでMIBにスカウトし、ジェームズはMIBの新たなエージェント「J」としてコンビを組んで活動を始める。一方その頃、地球壊滅を企む昆虫型エイリアンが地球に侵入し、不穏な動きを見せはじめていた。
【考察】
 SF映画はあまり見ないのだが、テンポよく物語が進んでいくのでとても見やすかった。程よく緊張感もあり、アクションもあり、SFらしさもあり1作品だけでも満足感が高かった。
19.『ラブやん』1巻−7巻(漫画)
作者:田丸浩史
【あらすじ】
愛の天使ラブやんが、ニートの青年、大森カズフサの恋を成就させるため奮闘する。しかし、カズフサには数々の欠点があり、ラブやんの使命はなかなか達成されない。大森家に住み着いたラブやんは、カズフサや彼の友人たち、さらには同僚たちも巻き込んで自堕落な生活を送るようになる。
【考察】
 ちょうど何も考えずに読めて良い。オタクの気持ち悪いところがたくさんあって面白い。主人公がかっこいいわけでもなく、本当に救いようがないのがいい。

20.『注文の多い料理店』(アニメ)
監督:岡本忠成 原作:宮沢賢治
【あらすじ】
 山に猟に出た2人のハンターは、道に迷いたどり着いたある西洋料理店で不思議な体験をする。
【考察】
 絵本や教科書でしか読んでこなかったため、挿絵とは違う不気味な雰囲気の映像を見て、頭の中のイメージの幅がかなり広がった。音声がないというのも新鮮だったし、綺麗な女性の踊り子たちがおどろおどろしい猫の姿に変わっていく場面が印象に残った。
2025/04/10(木) 15:49 No.2078 EDIT DEL
特別聴講生_ウ•イェリン RES
春休み課題

ドラマ

トッケビ 1〜16話
<監督> イ・ウンボク
<スタジオ> STUDIO DRAGON CORPORATION
<あらすじ>
高麗時代の英雄だったキム・シンは、若き王の嫉妬から逆賊として命を
落とす。 その後、神の力によって"不滅の命"を生きる"トッケビ"
となってしまったシン。 彼の"不滅の命"を終わらせるができるのは
"トッケビの花嫁"と呼ばれる存在ただ一人、ヒロインのチ・ウンタクと
出会う。彼女に胸に刺さっている剣を抜いてもらい、不滅の人生を
終わらせようとする。

<感想>
最初にちょっとシンデレラ形のヒロインだと思った。でもストーリーが進むほどヒロインがもってる魅力にはまってる自分がいる。おすすめする韓国のドラマの一つだが、かなり伝統的な物語を前提にしたりして、理解ができない可能性もかなり高い。韓国語の単語や表現でする冗談も上手に使う作家で、翻訳の限界があるのは仕方ないが、韓国のドラマといったら一番おすすめしたいくらいにおもしろい。多くの人々に愛される理由がある愛しくて悲しいドラマ。




アニメ

ダンダダン 1~12話
<監督>山代風我
<あらすじ>
霊媒師の家系に生まれた女子高生。モモく綾瀬桃> と、同級生で
オカルトマニアのオカルンく高倉健>。モモがクラスのいじめっ子から
オカルンを助けたことをきっかけに話すようになった2人だったが、
「幽霊は信じているが宇宙人否定派」のモモと、「宇宙人は信じているが
幽霊否定派」のオカルンで口論に。互いに否定する宇宙人と幽霊を
信じさせるため、モモはUFOスポットの病院廃墟へ、オカルンは心霊
スポットのトンネルへ。そこで2人は、理解を超越した圧倒的怪奇に
出会う。窮地の中で秘めた力を覚醒させるモモと、呪いの力を手にした
オカルンが、迫りくる怪奇に挑む。

<感想>
ああ、大混乱、そのもの。銀魂以来、こんなアニメは初めてだ。こんなに性的(?)な要素を入れる必要があるのかとアニメを見る時、ずっと思った。
わざとテンポ(ストーリーが進めるスピードなど)を少し早くして作ったらしいが、内容や表現などが個人的な好みとは距離があったと思う。でも、ストーリーの進むスピードがかなり早かったので、アニメの説明も読んでみました。 その中で共感できた部分は一般的な生活や社会とは距離がある人々の話はよく描いたという点だ。このような部分は少年漫画らしいが、作家が描く性的な(?)演出と表現はまだ受け入れ難いが、作家なりの挑戦かもしれないという気がした。


聲の形
<監督> 山田尚子 <スタジオ> 京都アニメーション
<あらすじ>
"退屈すること"を何よりも嫌う少年、石田将也。ガキ大将だった小学生の
彼は、転校生の少女、西宮硝子に無邪気な好奇心を覚える。彼女が来た
ことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。しかし、
硝子とのある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。やがて
5 年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長した将也と硝子。"ある
出来事"以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子のもとを訪れるが。

<感想>
「手話」という言語にもう一回考えるようになる作品。韓国で上映する時、「君の名は」の影響でしられなかったが、この作品を映画館で感想できてよかったと見るたび思う。自分の心を伝えるのは聲だけでない。それが字でも、手話でも聲の形でもちゃんと伝えられる。ということは考えて見たら当たり前なことだけどもう一度自覚した。そして大事な時、聲でも形だけでも、自分の心はちゃんと伝えましょう。



ルックバック <漫画、アニメ>
<作家> 藤本タツキ
<あらすじ>
小学4年生の藤野は、学生新聞で4コマ漫画を連載し、クラスメイトたちから絶賛されていた。ある日、彼女は教師から、学生新聞に不登校の生徒・京本の漫画も載せたいと告げられる。ふたりの少女は、漫画へのひたむきな思いを注ぎながら成長していく。

<感想>
「チェンソーマン」で有名な藤本タツキの短編集。絵のスタイルから内容まで、当たり前だけと作品の全体に作家の個性が溢れてる。それでエンディングにも納得できたと思う。最初はアニメで感想したが、アニメの方より、原作の漫画の方がもっと作家の個性が感じられてよかった。



アオのハコ
<原作> 三浦糀 <制作者>トムス・エンタテインメント
<あらすじ>
中高一貫のスポーツ強豪校。 栄明高校に入学する、男子バドミントン部の一年生•猪股大喜。 大喜は毎朝、朝練で顔を合わせる一つ上の先輩、鹿野千夏に恋をする。千夏は女子バスケットボール部のエースで、校内外問わず人気の高嶺の花。部活に恋に勉強に、大喜にとって忙しい高校生活がはじまる。

<感想>
とにかくヒナが好き(?)。キャラクターもスポーツのシーンもオープニングも全部きれい。個人的に2Dのアニメに微妙な3Dが混ざってることを好きないが、これはそのバランスはよくできていると思った。しかし、スポーツするシーンの背景に3Dが入ってる部分が見えるたび少し違和感を感じた。



四月は君の嘘
<原作> 新川直司 <製作> A-1Pictures
<あらすじ>
ピアノだけがすべてだった天才ピアニスト、有馬公生。11歳の冬、母親を失ったショックで彼の日常はモノトーンのようになり、自分がひくピアノの音が聞こえなくなる。かわっぽだった彼に中学3年の春、一人の少女を出会う。自分のヴァイオリニストだと紹介する彼女の自由なコンクールを見たある日、公生の世界はカラフルに色づきはじめる。

<感想>
原作もよかったが、個人的にアニメが持ってる色と演出が原作をこえたと言いたい作品。特に背景に挿入される音楽はキャラクターの状況や感情によく合うと思う。思春期と青春の中でキャラクターたちはそれぞれの成長していく過程も一つの楽しさ。クラシックの音楽も美しく描いて、見るたびいろんな感情が生まれる。



薬屋のひとりごと シーズン 1
<アニメ監督> 長沼範裕
<あらすじ>
帝の寵妃。玉葉妃の妊娠判明により、猫猫は翡翠宮の毒見役に復帰。妃、そして帝の御子を狙った事件が再び起きないよう警戒をしながら、日々を送っていた。先帝時代からの重臣を父にもつ新たな淑妃。楼蘭妃の入内、王氏の命が狙われた、前代未聞の未解決事件、そして消えた容疑者。翠爷。不穏な空気が晴れない中、外国からの隊商、さらには無理難題な要求をする特使も来訪。宮中にはさらなる暗雲が立ち込め始めていた。猫猫と王氏を待ち受ける新たな難事件。それらは、やがて国をも巻き込む一大事件へと発展していく一

<感想>
ドクターストーン以来韓国語の字幕なしにみることができなかったアニメ
人物や身分に合った服と装飾を見る楽しさがあった。 賢い主人公が好奇心に勝てず、結局事件に巻き込まれる流れはかなり見える設定だが、すべてがまだ解決されてないという雰囲気を残る部分も良かったと思う。



桜蘭高校ホスト部
<原作> 葉鳥ビスコ <アニメ製作社・監督> BONES・ 五十嵐卓哉
<あらすじ>
超お金持ちのご令息。 ご令嬢が通う名門校 。 桜蘭学院高校に、奨学特待生として入学した庶民の藤岡ハルヒ。母を亡くし男手ひとつで育てられたハルヒはおしゃれに興味がなく、何事にも無頓着で男の子のような格好で学校に
通っていた。ある日、ハルヒは、ホスト部の部室に迷い込み、部室内の800万円の花瓶を割ってしまう。ところで、ホスト部部長の環は「100人の指名客を集められたら800万円はチャラにしてやる」と宣言。こうしてハルヒは
7人目のホスト部員として、女生徒たちを接待することになる。

<感想>
韓国の中でも人気はあるがタイトルで見なかったアニメだったが、もっと早くみる方がよかったと後悔している。最初に電球に光が入る演出は何回をみても新鮮だ。そしてアニメのキャラクターたちが制服ではない服を着るとき、想像をこえるファッションで変な服を着たりすることが多い。でもこの作品ではかなりおしゃれな感じの服がいっぱい出て服を見る楽しさもあった。タイトルに偏見を持たないようにしよう。



あそびあそばせ
<原作> 涼川りん <アニメ監督> 岸誠二
<あらすじ>
日本生まれ日本育ちでまったく英語ができない金髪の美少女。オリヴィア、真面目で知的な雰囲気を漂わせながら英語がまったくできないショートカットの眼鏡っ娘。 香純(かすみ、そして明るいけれど、リア充になれないおさげ髪の少女華子(はなこ)、3人の女子中学生が作ったのは「遊び人研究会」

<感想>
内容と合わないオープニングとエンディングから普通ではないアニメだと気づく。中学校の少女とは信じられない表情の演出もすごく印象的だ。日本の女子中学生はこんな感じなのか、日本の女の子たちに聞きたい。すくなくとも自分が通った女子中学校はアニメとちょっと似ていておどろいた。
アニメみたいに遊んだり、転んだり、怒られたりする。すこしバカみたいけど楽しければ!コメディなのに懐かしさをちょっとだけ感じる人は多分ないんだろう、、「落ち葉が転がるのを見るだけでも楽しい年」、
韓国でたまに女子中高生をこの言葉で表現する。多分この言葉に国籍は関係ないと思う。



極主夫道
<原作>おおのこうすけ <アニメ監督> 今千秋
<あらすじ>
"不死身の龍"と恐れられるも、極道の世界からこつ然と姿を消した伝説の男が家族を守り、忠誠と仁義を尽くす専業主夫の道を極めるためにカタギの世界に現れた。

<感想>
料理と家事がうまい男は魅力的だ。それがたとえ、(元)やくざといっても。完璧に見えても、サングラスかぶったままじゃ掃除がきれいにできないし、料理をする時に料理の色が見えないからタツはまだまだだ。
長くないから負担がなかった。動きがあんまりない独特な演出で、原作の漫画みたいな感じが逆に新鮮だった。それに猫はやっぱり最高だ。



スキップと ローファー
<原作> 高松美咲
<アニメ製作社・監督> P.A. WORKS・出合小都美
<あらすじ>
地方の小さな中学校から、東京の高偏差値高校に首席入学した岩倉美津未。 カンペキな生涯設計を胸に、ひとり上京してきた田舎の神童は、勉強はできるけれど距離感が独特でちょっとズレてる。 だから失敗することもあるけれど、その天然っぷりにクラスメイトたちはやわらかに感化されて、十人十色の個性はいつしか重なっていく。

<感想>
「君に届け」と似ていて韓国でかなり人気がアニメ。恋愛より友情を中心になっている感じをもらった。童話みたいな絵のスタイルと色、なによりそれぞれのキャラクターたちの個性がよかった。そんなキャラクターたちのコミュニケーションも好きだったが、それより主人公であるみつみが自分の目標に向かって新しい環境でも頑張る姿がすごく印象深かった。



葬送のフリーレン
<原作> 山田鐘人 <アニメ監督> 斎藤圭一郎
<あらすじ>
魔王を倒した勇士一行の「その後」。 魔法使いのフリーレンはエルフであり、一緒に旅行した3人とは違う部分がある。彼女が「その後」の世界で生きていくこと、感じること、人間をもっとしりたいーという心でフリーレンはまた旅に出る。残った者たちが醸し出す葬送と祈りとは-。 物語は「冒険の果て」から始まる。

<感想>
魔王を倒れた後の話という設定がすごく新鮮だった。キャラクターも性格がいろいろあってキャラクターたちの交流を見ることも楽しかった。何より印象深かったのは年取った勇者の姿だ。
疑問と(ちょっとのショックを含めた)混乱。美しい人はいつか年を取っても髪の毛がなくなることはない!という自分の偏見をなくしてくれた新しいアニメを見れて嬉しい。
これからはアニメのキャラクターたちの姿がいくら変わっても受け入れる気がする。



映画

グレイテスト・ショーマン
<監督>Michael Gracey
<スタジオ> 20th Century Fox
<あらすじ>
近代的サーカスの創始者であるバーナムの実話をもとにしたミュージカル映画。創意力と想像力にあふれるバーナムは、自分の想像を実現するために頑張る。 会社の倒産によって職を失った絶望的な状況の中でも、彼はこれまでにはなかった特別な事業を始める。


<感想>
サーカスという想像の舞台をミュージカルで描いた映画。ミュージカルというジャンルになれてない方に特におすすめしたい作品だ。「バーナム」はどんな人なのか。いい人と評価できる者か。目と耳が楽しくなる映画だが、主人公について考えてるポイントがあることも一つの魅力だ。「そのままの自分を認め、愛しよう」、「何のため自分は頑張ってるのか」など、人々にいろんなメッセージを伝えることも魅力的に感じれる。



マイ・インターン
<監督> ナンシーマイヤーズ <スタジオ> WarnerBros.
<あらすじ>
舞台はニューヨーク。華やかなファッション業界に身を置き
プライベートも充実しているジュールス。そんな彼女の部下に会社の福社
事業として、シニア、インターンのベンが雇われる。最初は40歳も年上の
ベンに何かとイラつくジュールスだが、やがて彼の心のこもった仕事ぶりと
的確な助言を頼りにするようになる。そんな時、ジュールスは仕事と
プライベートの両方で思わぬ危機を迎え、大きな選択を迫られる。

<感想>
就活に疲れてる方、以外におすすめする映画。(といったら悲しいでしょうか。)ベンが社会人として重なってきた経験と彼が持ってる大人の余裕は映画を見る人の心も気楽にする。仕事と生活の中で起きる若いCEOであるジュールスの悩みや周りとの葛藤と見ながら、自分ならどんな選択をするのか考えることになる。


エクストリーム・ジョブ
<監督>イ・ビョンホン
<あらすじ>
昼夜問わず走り回りながらも実績はどん底で、解散の危機に瀕した麻薬捜査班。そんな中、国際犯罪組織の情報を入手したコ班長は、チャン、マ、ヨンホ、ジェフンらの麻薬捜査班のメンバー4人と共に張り込み捜査を決行。2 4時間の監視を続けるため、犯罪組織のアジトの向かいにあるフライドチキン店を買い取り、偽装営業することに。ところが絶対味覚を持つマ刑事の作るチキンの味がたちまち大評判となり、店が大繁盛してしまう。

<感想>
韓国のコメディジャンルの歴史を新たに作成した映画。 ありふれたクリシェをすべて壊して、観客に新しい楽しみを与えた。 外国人には分かりにくい文化や微妙な言葉の違い、イントネーション、表現などの冗談が多くて日本語字幕では限界があった。それでも楽しいと思われる映画。ちょっとの暴力があるが負担なしに軽く見れることもこの映画の魅力。



リトル・フォレスト <韓国>
<監督>イム・スンレ
<あらすじ>
試験、恋愛、就活、何一つ思うままならない日常の繰り返し。そんな日常からへオンは故郷に戻って友達と会う。それぞれの理由を持って故郷に帰って来た友達と一緒にご飯を作りながら、いくつの季節が過ぎる。故郷で2回目の冬が来た時、へオンは自分が故郷に帰って来た本当の理由を気づいて、新しい春を迎える。

<感想>
日本のリトル・フォレストをリメイクした作品。日本の映画とはまた違う穏やかな雰囲気が魅力的。映画が上映した時、この映画で出た白菜をいれたみそ汁はあの時流行った記憶がある。映画の中で、俳優キム・テリの料理は一つ一つなんだか懐かしい感じがするのは、その料理の味を知っているからだと思う。リメイクについていい印象を持っていなかったけど、この映画をきっかけにリメイクもそれなりの魅力を持ってることわかった。

劇映画 孤独のグルメ
<監督>松重豊
<あらすじ>
千秋の祖父で、小雪の父親。 千秋と共にフランス・パリに住んでいる。 「子供の頃に飲んでいたスープをもう一度飲みたい」と五郎に食材とレシピ探しを依頼する。

<感想>
ご飯を食べる時たまに見てたドラマ、孤独なグルメ。ドラマではなく映画になった孤独のグルメは孤独でもなかったし、グルメでもなかった。無理矢理ストーリーを作ろうとする感じが強かった。 血でも遠いのに、あえて韓国まで?ドラマが持っていたその特有の雰囲気や余裕やなくなって残念だった。
腹がへったごろさんはドラマで十分!


コミック

華山帰還
<原作> ウェップ小説 비가 (ビガ) <コミック> LICO
1〜152 話
<あらすじ>
大華山派・13代門弟として天下最強と謳われた男、梅花剣尊「青明」 世を脅かした悪鬼「天魔」を討ち倒すも相打ちとなり命を落としたー ...はずがなぜか目を覚ますと乞食の姿になった。「天魔」が倒されてから百年後の世界は変わったことばかりで大混乱。転生した「青明」は 今度こそ完全無欠な勝利を目指す。スカッとする天下無双快進撃が始まる。

<感想>
武侠?のようなジャンルは普通、お父さんくらいの年齢の人々に人気があるが、このコミックは少し違う。主人公の性格(なにもかも暴力で解決してはいけないと言われるが、俺の場合ほとんど暴力で解決できた)は今の社会にはいてはいけないが、いわゆるイケメンで天才的な能力を持っている主人公は読むたび魅力的だと思う。ストーリーもかなり珍しい。過去に戻ってもう一回するというのが普通だが、戻ることではなく、100年が過ぎた時点から始まる設定もかなり興味深い。ストーリーの流れがすこし遅いという評価もかなりあるが、自分にはそこまで遅いと感じたことはあんまりない。
コミックだけどアクションもちゃんと表現できている部分も高く評価したい。




ユミの細胞たち
<作家> イ・ドンゴン

<あらすじ>
同じ会社で働く男性社員・勇気に恋する主人公・ユミは激しい感情の変化のせいで毎日大忙し。その原因はまさにユミの頭の中にいる細胞達である。勇気が違う女の人といる写真を見れば「名探偵細胞」が頭の中で状況を深読み・時々「むっつり細胞」が邪魔することも。「ネジを回せ!」という言葉を合図に、ユミの感情はいつもおかしな方向に?!ユミとユミの頭の中にいる細胞達が繰り広げるちょっぴり変わったラブコメディー。

<感想>
アニメ、働く細胞とインサイドヘッドと似ている設定のコミックだが一番現実的だ。作家が男性なのに女性の感情と生活をうまく表現して驚いた。夢をみることを細胞たちが映画をみているなど、作家が持ってる想像力から生まれた独特な設定を探す楽しさもある。ユミの恋愛の中心にストーリーが進むけど全体的にみると、ただのラブコメディだけでない感じがする。この作品の中でユミはヒロインとしてヒーローを探しているが、実はヒロインはいなくて、主人公のユミだけがいる。



私が死を決めたのは
<作家> YUZU 1~101話

あらすじ
高校3年生のジオは、将来有望なテコンドー選手だったが代表選手選抜戦を前に脚を負傷してしまう。そんなある日、バスで偶然出会ったギョル。余裕ぶったギョルの笑顔に振り回されるジオは、危険な香りがするギョルにどうしようもなく惹かれてしまう。初めての恋に浮つくジオだが、ギョルは一筋縄では行かず…。

感想
最初は普通のラブコメディのコミックだと思った。しかしストーリーが進むほど、どんどん作品の雰囲気が暗くなる。ジオ(ヒロイン)はただ助けてもらったりするキャラクターではなく、自分の体くらいは守れるスポーツ選手という設定があってすごくよかった。作品に出る人物が、とくにギョルがすこくカッコよくて、ストーリーはもちろん絵のスタイルが鋭い感じが好きな人も楽しめると思った。
2025/04/09(水) 23:15 No.2077 EDIT DEL