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4年 北郷未結 春休み課題 11~20 RES
⑪「歪んだ幸せを求める人たち ケーキの切れない非行少年3」宮口幸治 新潮社 2024年

(あらすじ)
「おばあちゃんを悲しませたくないので殺そうと思いました」 非行少年の中にはとてつもない歪んだ考え方を基に行動する者がいる。幸せを求めて不幸を招く人の戦慄のロジックと、歪みから脱却する方法を臨床例と共に詳述する。

(考察)
本書を読んで印象的だったのは、「幸せ」を追い求める中で人間が陥りやすい“認知の歪み”に関する筆者の指摘である。筆者は、私たちが何かを「幸せ」と感じるまでのプロセスにおいて、認知の歪みが生じると、その「幸せ」は時に他人を傷つけるものになりうると主張する。つまり、それは本来望ましいはずの幸せが、歪んだ形で実現されてしまう「歪んだ幸せ」となり、結果的には事件や犯罪にまでつながってしまう危険性がある、ということだ。

筆者は、人の行動を左右するのは「情動」と「理性」のバランスであるとし、特に情動の中でも歪みが生じやすい5つの要素として「怒り」「嫉妬」「自己愛」「所有欲」「判断」の歪みを挙げている。これらの歪みはどれも、私たちが日常生活で抱きがちな感情であるため、一歩間違えると誰でも「歪んだ幸せ」の落とし穴に陥る可能性があることを示している。

本書の中で紹介されていた事例のひとつに、ある少年が同年代の女性に好意を抱き、ほとんど会話もないにもかかわらず「彼女も自分を好いている」と思い込んでいたという話がある。少年は、彼女が他の男子と笑顔で話している様子を見たことで、裏切られたような感情を抱き、やがて嫉妬の感情が高まっていった。そして、深夜に刃物を持って彼女の家を訪れたのである。この行動は未遂に終わったが、まさに「嫉妬の歪み」によって判断力を失い、重大な問題を引き起こす寸前だった。こうした事例は、感情の歪みがいかに人間の行動に影響を及ぼすかを象徴的に表している。

では、このような「歪んだ幸せ」からどうすれば抜け出すことができるのか。筆者はその鍵として、「ストーリーを知ること」の重要性を強調している。ここでいうストーリーとは、人がこれまでの生活や人間関係の中で積み重ねてきた経験、反応のパターン、思考の傾向などを含んだ、いわば“対人関係の筋書き”のようなものである。歪んだ幸せを求める他者に対しては、その人のストーリーを理解することで、偏った認知や行動の背景を知ることができる。また、自分自身がそのような状態にある場合は、自分のストーリーを見直し、なぜ自分がその感情に囚われているのかを冷静に考えることが、歪みからの脱却につながると筆者は主張する。

私は、この「ストーリーを知る」という考え方は非常に重要だと感じた。実際の事件や報道を題材にした映画や小説は、その背景にある人々のストーリーを知るための有効なメディアだと考える。たとえ演出や脚色が加えられていたとしても、登場人物の内面や過去を丁寧に描くことによって、視聴者が持つ固定観念に問いを投げ、「なぜそのような行動を取ったのか」を考える手がかりとなる。こうした視点は、私たち自身の感情や判断を見直すきっかけになると考える。

本書は、誰もが一度は感じたことのある感情に焦点を当てながら、人間の心理や行動の危うさ、そしてその修正方法について考えさせられる本だった。人間関係や自己理解に悩む今の時代だからこそ、多くの人に読まれるべき本だと感じた。

⑫「月」(映画) 監督:石井裕也 2023年

(あらすじ)
太陽が見えないほど、深い森の奥にある重度障害者施設「三日月園」。ここで新しく働くことになった堂島洋子は元有名作家であった。東日本大震災を題材にしたデビュー作の小説は世間にも評価された。だがそれ以来、新しい作品を書いていない。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平は人形アニメーション作家だが、その仕事で収入があるわけではない。経済的にはきつい状況だが、それでも互いへの愛と信頼にあふれた二人は慎ましく暮らしを営んでいる。施設の仕事にはだんだん慣れてきたものの、しかしこの職場は決して楽園ではない。洋子は他の職員による入所者への心無い扱いや暴力、虐待を目の当たりにする。だが施設の園長は「そんな職員がここにいるわけない」と惚けるばかり。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだ。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて
怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく。

(考察)
障害者施設とその従業員、家族が抱える問題と、小説の意義について考察する。

まず、障害者施設が抱える虐待問題について考察する。
本作品の冒頭で、黒い背景に以下のテロップが表示される。

「言葉を使えない一部の障害者は〈声〉を上げることができない。ゆえに障害者施設では、深刻な〈問題〉が隠蔽されるケースがある。」

本作品の施設入所者は、言葉を発することができない人や会話することが出来ない人が大半を占める。
そのため、施設では暴れる入所者に対して暴力や虐待が横行している。
例えば、“きいちゃん”と呼ばれる42歳の女性は、手足動かせない、耳も聞こえない、口も動かせない、ずっと寝たきりの障がい者である。しかし、実際はこの施設にて虐待を受け、暴れるから縛りつけて10年間たって、動けなくなったのである。目も見えてたのに、暗い方が安心するから、といって勝手に決めつけて窓を塞がれたのである。
他にも、暴れる男性入所者に対して、職員が、夜、布団に横になっている入所者に懐中電灯の光をチカチカと当て、てんかんの症状を誘発しようとしていたり、“タカシロ”さんという男性を自室に長期間閉じ込め、放置していた現状が映し出される。タカシロさんは、自室にて全裸でふん尿を体や壁に塗りたくって、股間を掻きむしっていた。

障害者施設における虐待問題は、従業員の心身の余裕がないことで引き起こされると考える。
自分たちよりも年齢が上で、奇声を上げたり、暴れたりする人を抑えながら介助をしなければならないといった心身ともに重労働を強いられる環境。夜勤は数多くの入所者を1人で見なければならないといった深刻な人手不足。
給料も安く、心身の余裕が無くなって、人に優しくする余裕がない従業員の姿が描かれる。
特に、障害者となると会話ができないので、意思疎通ができないことによるストレスもあるのだろう。何を言いたいのか、何を思っているのかが分からず、大きな声を出されたり、噛みつかれたりしたのならば、従業員の精神がおかしくなってしまうのも頷ける。
おそらく、従業員は自分がしたこと以上に入所者から暴力を受けたりしたのだ。
この作品を通して、障害者施設における虐待は施設内の問題(施設の制度、従業員の質)ではなく、国が施設に対して適切な人数の人員配置や、待遇改善を行う必要があると考えられる。

なんでこのような問題が隠蔽されてしまうのか。それは、「障害者が社会にとって邪魔である」といった社会の本音、つまり人の目に触れないところで生活をしていた方が社会がうまく回る事実があるからだ。例えば、普通の住宅地にこの施設があれば、入所者の奇声や暴れる音に不信感や嫌悪感を抱く人もいるのだろう。人目につかない森の中にある施設は、こうした無意識の差別が根底にあると考える。

施設の従業員の1人である、“さとくん”は施設の現状を変えるといい、入所者の殺害を企む。
それを知った洋子は、さとくんの「やっぱりあいつら障害者はいらないんだ」という隠された社会の本音の指摘に対して、否定の立場をとる。

しかし、その掛け合いの中で、ふともう1人の洋子がカットインする。これはおそらく洋子の本音の部分だ。以下がもう1人の洋子の台詞の抜粋である。

「ねえねえ、じゃあきいちゃんが家族でもいい?頬を擦り寄せてハグできる?可愛いねってキスできる?ねえ、自分がきいちゃんだったら嬉しい?幸せ?なりたい?友達にきいちゃんみたいな障害者の赤ちゃんが産まれたらおめでとうって言う?ねえ、本当に自分と関係のあることとして考えてる?それでなに?きいちゃんの心の声を小説にするんだっけ。へぇ、それでまた評価されたらいいね。ラッキー、お金貰えたらいいね。でもさ、それってただ想像で書いてるだけで、なんの根拠も無いものだよね?」

心の底では、さとくんと同じことを思っているが、それに罪悪感を感じ言葉には出さず、綺麗事しか言えない。
しかし、この考えは障害者と1番近くにいて、現状を知っていて、問題に対して正面から向き合っているからこそ出てきてしまう本音である。
このような本音(人間の事実)から目を逸らし、綺麗事ばかりに耳を傾けていては、問題の根本的な課題解決には至らないことを示していると考える。


次に、小説の意義について考える。
主人公の洋子は、元有名な小説家であり、東日本大震災をテーマにした小説で人気を博した。
しかし、同じ施設で働き、小説家を目指す陽子から鋭い指摘を受ける。

震災を描いてるのに、震災を見ていない
→震災地臭いが酷かったけれど、それを書いていない。死者から指輪を抜き取ろうとする人、瓦礫の中に混じったピンクローター。人間の事実が全く書かれなかった。

陽子「でも、都合の悪い部分を全部排除して希望に塗り固めた小説書くって、それ実は善意じゃなくて善意の形をした悪意なんじゃないんですか?」

洋子は小説家として活動していたとき、出版社の人から読者を励まして元気づけるのが小説の力だと言われ、それ以降小説が書けなくなってしまう。
私が考える小説の力とは、小説の語り手の視点を通して物事を多角的に捉えることで、現代社会の課題や人間関係の悩みについて、その問題の背景を汲み取れるほどの視野の広さを得られることだと考える。

様々な社会問題について、ニュースでは毎日のように報道されているが、事実を淡々と述べる報道は、どうしても事件を他人事として捉えがちになってしまうと考える。このような社会問題や事件は、当事者の心理状態によって引き起こされるものであることを踏まえると、小説や映画など登場人物の心理描写を得意とする媒体でこのような事件を扱うことによって、事実の1部を切り取る報道ではなく、事件を物語として理解することで、事件の背景を汲み取ることができる。また、登場人物に感情移入することで、社会問題について自分事として捉える機会になり、問題を根本から解決するための鍵になると考える。



⑬「ワンダフルライフ」(映画)1999年 監督:是枝裕和

(あらすじ)
月曜日、霧に包まれた古い建物に吸い込まれていく22人の死者たち。彼らはこの施設で天国へ行くまでの7日間を過ごすことになっているのだ。そこで待ち受けていた職員からは「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んでください。いつを選びますか?」と言われる。選ばれた思い出は職員たちの手で撮影され、最終日には上映会が開かれる。職員の望月、川嶋、杉江、しおりたちは分担して死者たちから思い出を聞き出し、撮影のための準備を進めていく。それが彼らの仕事だ。死者たちはそれぞれに大切な思い出を選択していく。だが望月の担当する渡辺だけは、なかなか思い出を選べずにいた。悩む渡辺は、自分の70年の人生が録画されたビデオテープを見る。そこに映し出された新婚時代の渡辺の妻、その映像におもわず目を奪われる望月。この夜を境に、望月、しおり、渡辺、それぞれの感情は大きく揺れ動きはじめる。

(考察)
本作品の特徴は2つある。

まず1つ目が、死者の思い出を聞き出し、それを撮影する過程を辿る、ドキュメンタリー要素を含んでいる点である。
本作品では、死者役として一般の人が多数登場する。この映画制作の際、実際にスタッフがビデオカメラを持ち、老人ホームやとげぬき地蔵、オフィス街の公園、大学のキャンパスを訪れ、「ひとつだけ思い出を選ぶとしたら…?」というインタビューを行った。集めた“思い出”は500にものぼり、その中から選ばれた10人が本人役として映画に登場し、実際の思い出を語る。
作中では施設の職員と死者が1体1で面接をし、思い出を聞き出す場面があるが、カメラは定点で真正面から死者たちを捉え、画面の外側から職員が質問する声が入ってくる。まるで、本物のインタビューのような演出であり、死者たちが思い出を語る際の自然な表情や感情の細部まで捉えていると考える。
ドキュメンタリー要素を含むからこそ、映画の中におけるフィクションとノンフィクションの境目が曖昧になり、独特な世界観を生み出していると考える。

2つ目は、自分にとって1番大切な思い出は何気ない日常で感じた安心感であったり、愛情だということである。
例えば、作中に登場する中学生の少女は最初、ディズニーランドに行ったことを思い出として選ぼうとするが、職員との面接を通じて最終的に選んだ思い出は、幼い頃、母の膝の上で横になったときの思い出だ。
他にも愛する妻と公園のベンチでたわいもない話をしたときの思い出を選ぶなど、日常の場面を切り取ったような思い出を選ぶ人が多い印象であった。
「選んだ記憶しか天国に持っていけない」という設定があるため、死者たちは慎重に思い出を探していく。初めは華やかな経験や面白いエピソードに目が向きがちであるが、最終的には、恋人や親、友人たちとの何気ないやり取りこそが、生きる上でかけがえのない価値を持っていたのではないかと気づかされる。その気づきは観客にとっても、人生を見つめ直すきっかけとなるだろう。

このように、本作品はドキュメンタリー的手法と、記憶というテーマを通じて、観る者に深い問いを投げかけている点で、非常に意義深い映画であるといえる。

⑭「蜜柑」(小説)芥川龍之介 1919年

(あらすじ)
主人公の私は横須賀発の2等客車で座っていると、発車する直前になって列車に飛び乗った田舎娘が私の目の前の席に腰掛ける。その日の私は疲労と倦怠から大変機嫌が悪かったことから、その小娘のみすぼらしい風貌や3等の切符にも関わらず2等の車両に間違えて乗車していることがたいそう気に入らず、私はその娘を快く思わなかった。その後、その小娘は列車の窓を開け、開くと同時に汽車の黒い煙が車両に立ち込め、私は咳き込み、機嫌を悪くするが、小娘は私のことなど気にすることなく、窓の外へ首を伸ばし列車の進行方向をに視線を送っていた。トンネルを抜けると、踏切で3人の男の子が手を振っており、その男の子に向けて小娘が蜜柑を5、6個落とす光景を目にする。兄弟へ感謝を伝える美しい光景に触れたことで、私は疲労と倦怠を忘れ、晴れやかな気持ちになることができた。

(考察)
芥川龍之介のこの作品は、一見すると何の変哲もない、ただの汽車内での出来事を描いているだけに思える。しかし、読んでいくうちに、日常の中に潜む感情の揺れや、人間の複雑さがじわじわと浮かび上がってくる。

語り手は、新聞に並ぶ変わり映えのないニュースや、車内で出会った田舎の少女に対して、どこか冷めた、あるいは苛立ちを覚えるような目線を向けている。少女の見た目をわざわざ悪く描写しているところからも、語り手の内面には人生への疲れや無気力さがにじみ出ているように感じられる。

そんな語り手の心に変化が生まれるのが、少女が汽車の窓から蜜柑を投げて、見送りに来た弟たちに手渡す場面だ。特別なセリフがあるわけでもないが、その行動を通して語り手は「或得体の知れない朗かな心もち」を感じる。読んでいるこちらも、その瞬間だけは語り手と一緒に気持ちがほぐれていくような気がした。

平凡で退屈な日常の中にも、人の優しさや温かさを感じられる瞬間がある。この作品は、それを繊細な描写で伝えている。芥川の情景描写の巧みさや、人の感情を丁寧にすくい取る筆致は、まさに純文学ならではの魅力だと感じた。

⑮「52ヘルツのくじらたち」(小説)著者:町田その子 中央公論新社 2020年

(あらすじ)
52ヘルツのクジラとは、他のクジラが聞き取れない高い周波数で鳴く世界で1頭だけのクジラ。何も届かない、何も届けられない。そのためこの世で1番孤独だと言われている。自分の人生を家族に搾取されてきた女性・貴瑚と、母に虐待され「ムシ」と呼ばれる少年。孤独ゆえ愛を欲し、裏切られてきた彼らが出会い、魂の物語が生まれる。

(考察)
本作における「52ヘルツの声」という表現は、登場人物たちの抱える孤独や、社会との断絶、そして理解されない痛みを象徴している。52ヘルツの声を持つクジラは、他のクジラと異なる周波数で鳴くために、その声が誰にも届かず、「世界で最も孤独なクジラ」として知られている。本作では、この孤独な声に重ねる形で、登場人物たちの語られざる思いや叫びが描かれている。

まず主人公は、東京から大分へ移り住んだ若い女性であり、地域に馴染めず孤立した生活を送っている。彼女の孤独は、地域社会における閉鎖性や、家族の中での疎外感から来るものである。主人公は母の連れ子であり、実の父母からは十分な愛情を受けられずに育った。義父の病気をきっかけに介護を押し付けられ、自身の進路や人生を犠牲にされてきた過去を持つ。そんな彼女が発した「わたし、お母さんが大好きだった。大好きで大好きで、だからいつも……いつも愛して欲しかった」という言葉(P.118)は、まさに誰にも届かない52ヘルツの声そのものである。愛しているのに愛されない、その苦しさが彼女の中に深く残っている。

次に登場するのは、主人公が出会う中学生の少年である。外見や言動から誤解されていた彼は、実は家庭内で虐待を受けていた。母親からの暴力、とくに煙草の火を舌に押し付けられたという経験は、彼の「声」を奪った。少年の「たすけて」という言葉は、誰にも届かずに心の中に沈み続けていた叫びである。母親はその虐待を罪とも思わず、むしろ自分こそが被害者であるという認識を持っていた。このような家庭環境の中で、少年は言葉を発しても理解されないと学び、その結果、声を失っていったのだと考えられる。

最後に、主人公と関わるアンさんという人物がいる。トランスジェンダーであるアンさんもまた、「52ヘルツの声」の持ち主である。アンさんは、ありのままの自分で生きようとしたが、それを家族に理解されることはなかった。特に母親は、アンさんの性自認を「心の病気」と受け止め、最後まで“女性の杏子”として扱おうとした。遺体に化粧を施し、白百合で棺を埋めた行為には、母親なりの愛情が込められていたのかもしれないが、それはアンさんの本当の姿を否定する行為でもあった。アンさんは、その生きづらさを誰にも打ち明けることができず、最後は自ら命を絶つという選択をしてしまった。

本作に登場するこれら三人の登場人物に共通するのは、彼らが「伝える努力をしなかった」のではなく、「伝えても届かなかった」という点である。52ヘルツの声とは、孤独の中で必死に声を上げているにもかかわらず、それが他者には理解されないという痛みの象徴である。しかしその一方で、同じような孤独を抱えた者同士であれば、その声に共鳴することができるのだという希望も描かれている。主人公と少年、そしてアンさんとの出会いが示すように、孤独な声が誰かの心に届く瞬間がある。たとえ52ヘルツの声であっても、それを受け止めてくれる誰かがいれば、人は救われるのかもしれない。

⑯「おいしいごはんが食べられますように」(小説)作者:高瀬準子 講談社 2022年

(あらすじ)
第167回芥川賞受賞。「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作。

(考察)
本作において、主人公・二谷の「食」に対する無関心さは、作品全体の空気感や人間関係の描写と密接に結びついている。二谷は、三食カップ麺でも構わないと考えるほど食に執着がなく、極端な例では「一日一粒の錠剤で栄養とカロリーが摂取できればそれでよい」とまで述べる。このような姿勢は、彼の無気力さや感情の希薄さを象徴的に表している。

そのため、二谷の視点で描かれる食べ物の描写には、美味しさや楽しさといったポジティブな感情がほとんど感じられない。例えば、職場の同僚・芦川が手作りしたショートケーキを食べる場面では、「生クリームを歯にこすりつけるように」「ニチャニチャ」「甘ったるい」といった不快感を強調する言葉が用いられており、読者にもその味が重苦しく、胃もたれするように伝わってくる。食を通じた人間関係のあたたかさが強調されがちな描写とは対照的に、ここでは食がむしろ拒絶や嫌悪の感情と結びついて描かれている。

また、作中では職場の人間関係の閉塞感も顕著である。芦川はメンタルの不調により度々仕事を休むが、その分の負担は二谷や押尾にのしかかっている。芦川はその罪悪感を埋め合わせるかのように、手作りのお菓子を職場に持ってくる。焼きバナナ、マフィン、パンプキンパイ、わらびもち、プリンなど、バリエーション豊かなスイーツからは、彼女の料理の腕前と気遣いが感じられる一方で、「お菓子を作る時間があるなら仕事をしてほしい」という苛立ちも湧き上がってくる。特に、芦川の欠勤が続く中でこのような差し入れが繰り返されることで、職場の空気はより複雑で微妙なものになっていく。

その象徴的なシーンとして、二谷が芦川の手作りお菓子を「残業中に食べる」と言って持ち帰りながらも、実際には人気のない時間を見計らって握りつぶし、ゴミ箱に捨てる場面がある。さらにその行動を押尾が無言で拾い上げ、芦川のデスクに戻すという描写が続く。この一連の流れは、誰も直接は言わないものの、職場の中に渦巻く不満やストレス、そして表面上の和を乱すことへの恐れを象徴しているように思える。

このように本作は、直接的な対立や言葉による衝突を避けながらも、細やかな心理描写や状況描写を通じて、現代の職場における人間関係のもどかしさや本音と建前の乖離を浮かび上がらせている。食という日常的なモチーフを通じて、登場人物の内面や関係性を巧みに描き出している点が、本作の大きな魅力であるといえる。

⑰「20世紀少年ー第1章ー終わりの始まり」(映画)堤幸彦監督 2008年

(あらすじ)
高度成長期、地球滅亡を企む悪の組織に立ち向かうヒーローを夢見て、少年ケンヂと仲間たちが作った“よげんの書”。それから30年後、大人になったケンヂの周りで次々に不可解な事件が起こる。そして世界各国では、謎の伝染病による大量死が相次ぐ。実は、これらの事件はすべて、30年前の“よげんの書”のシナリオ通りに実行されていた。ケンヂは滅亡の一途を辿る地球を救えるのか。そして数々の出来事に必ず絡んでくる謎の男、“ともだち”の正体とは。

(監督情報)
元テレビディレクターの監督。
映画の演出においては、スピード感を大切にし、俳優に対して1mm単位での指示を行うなど、非常に気を使っている。入念にリハーサルや打ち合わせを行い、キャラクターやストーリーを役者とともに深めていく。撮影時は別室で無線指示を、現場の演出スタッフが俳優に指示を行うなど、作品ごとに適切な方法を採用している。
これはテレビマンだった頃に『カメラが何台もある大きなスタジオに、役者もスタッフも全部詰め込んで、全員が台本のスケジュール通りに動く』という従来のテレビドラマの作り方に対しての疑問を感じたことが原点となっている。『基本的に1台のカメラで撮りたい』という方法にこだわりたいが、それだと時間がかかりすぎてしまうので、よりスピーディーに作品を完成させるために現在のスタイルを採用しているという。

参考…「堤幸彦|日本人映画監督-株式会社ボーダーレス」https://www.borderless-tokyo.co.jp/video-trivia/directorlist/japanese/tutumi-yukihiko.html(最終アクセス日 2025年4月13日)

(考察)
本作では、SFの要素が物語全体に巧みに組み込まれており、特に過去と現在を行き来する構成や、終盤に登場する巨大ロボットによる東京破壊シーンは、映像表現の迫力とともに観客に強い印象を与える。ビルや道路が次々と崩壊するクライマックスの場面は、まさに映画ならではの臨場感とスケール感を活かした演出であり、原作漫画にはない新たな魅力を生み出している。

脚本を担当した長崎尚志は、漫画と映画の表現の違いについて言及しており、漫画は読者の想像力に依存する「止まった画」であるのに対し、映画は「動く画」によって観客を引き込むメディアであると述べている。この発言からも分かるように、映画化にあたっては、原作には描かれていなかったロボットの動きや都市破壊の描写をあえて丁寧に取り入れることで、視覚的な魅力を最大限に引き出す工夫がなされていることがわかる。

また、本作に登場する“ともだち”というカリスマ的な教祖が率いる新興宗教団体は、細菌兵器を使って世界征服を企むという非現実的な設定ながらも、どこか現実の歴史とリンクする要素を含んでいる。この描写からは、1990年代のオウム真理教事件を連想せざるを得ないが、長崎氏自身はそれを意図したわけではなく、むしろ自身の若い頃に流行した新興宗教ブームの影響が大きいと語っている。加えて、“ともだち”というキャラクターがあまり喋らず、それゆえに神秘性と権威を保つという描き方には、実際の宗教指導者像を忠実に反映しようとする姿勢が見て取れる。

以上を踏まえると、漫画を原作とした映画作品においては、媒体ごとの特性を活かした演出や構成が観客の評価に直結する重要な要素となる。また、脚本家や監督の個人的な経験や潜在意識が物語に自然と反映されることで、原作とは異なる意味や深みを持つ作品に仕上がる可能性がある。したがって、映画化された作品は、原作の枠を超えた新たな解釈や価値を提示するものであると考える。

(参考)
「20世紀少年 インタビュー:企画・脚本の長崎氏が語る」https://eiga.com/movie/53304/interview/4/(最終アクセス日 2025/4/13)

⑱「信仰」(小説)村田沙耶香 文藝春秋 2022年

(あらすじ)
「なあ、俺と、新しくカルト始めない?」好きな言葉は「原価いくら?」で、現実こそが正しいのだと、強く信じている永岡は、同級生から、カルト商法を始めようと誘われる。その他、信じることの危うさと切実さを描く8つの物語から構成される。

(考察)
この作品では、「信じて疑わないことの怖さ」がテーマとして描かれている章がいくつかある。その中でも特に印象に残ったのは、「信仰」と「生存」の章だ。どちらの章も、ある考え方を疑いもなく信じてしまった結果、主人公や周りの人たちが苦しむ様子が描かれている。

まず、「信仰」の章では、主人公が「現実こそが一番大事」と信じている。彼は、ブランド物や高級なレストラン、ディズニーランドなどにお金を使うことが理解できず、「ぼったくりだ」「詐欺だ」と感じている。彼にとっては、値段に見合わないものはすべて偽物であり、無駄なものだ。だから、周りの人たちにも同じように「現実的に生きることが一番幸せだ」と説得しようとする。しかし、次第に周囲の人たちは、楽しみや価値観を否定されることに嫌気がさし、主人公から距離を置くようになる。たとえ本人が本気で人のためを思ってやっていたとしても、自分の信じる「正しさ」を他人に押しつけてしまうと、それはかえって人を苦しめることになることを描いている。

次に、「生存」の章では、「生存率」という数値が人の価値を決める社会が描かれている。生存率が高いほどエリート、低いと野人と呼ばれるようになっていて、皆その数値を上げるために必死に努力している。主人公ももともとCマイナスという低いランクだったが、努力してBまで上げた。しかし、ある時ふと、「この生き方で本当にいいのか?」と疑問を持つようになる。生存率にとらわれて生きることが、自分らしい人生なのかどうか、悩み始めるのだ。周囲の人たちは、その数値を当たり前のものとして信じているが、それもまた一種の「信仰」と言える。

この2つの章に共通しているのは、「これが正しい」と強く信じてしまうことで、かえって人を不自由にしてしまうという点だ。自分の考えを持つことは大切だが、それを絶対だと思い込んでしまうと、他人の価値観を否定したり、自分自身の生き方を見失ってしまうことがある。だからこそ、何かを信じるときには、それを疑う目も同時に持つことが必要なのではないかと考える。

⑲「どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2」著者:宮口幸治 新潮社 2021年

(概要)
「頑張る人を応援します」。世間ではそんなメッセージがよく流されるが、実は「どうしても頑張れない人たち」が一定数存在していることは、あまり知られていない。彼らはサボっているわけではない。頑張り方がわからず、苦しんでいるのだ。大ベストセラー「ケーキの切れない非行少年たち」に続き、困っている人たちを適切な支援につなげるための知識とメソッドを、児童精神科医が説く。

(考察)
1. 本書を選んだ理由

今回の春の課題では、介護、児童虐待、震災といった社会課題を扱った作品を通じて、物語に描かれる人間関係や社会問題について考察してきた。その過程で、自分自身の中に多くの固定観念があることに気づかされた。たとえば、「家族は血のつながりがあるから特別な存在である」といった思い込みや、「虐待を行う人は暴力的で感情のコントロールができない人だ」という観点で物事を捉えていた。しかし、登場人物の背景や彼らを取り巻く環境を知ることで、加害者個人の問題だけでなく、加害に至るまでの社会的・心理的背景にも目を向ける必要があると実感した。

そうした気づきを踏まえ、支援する人とされる人の関係を心理的側面から深く捉え直したいと考えたことが、本書『頑張ろうとしても頑張れない人たち』を手に取った理由である。支援が必要な人々の内面やその環境を理解することは、今後の作品考察においても重要な視点になると考えた。

2. 本書の内容と印象的だった点

本書で扱われている「頑張ろうとしても頑張れない人たち」とは、単に意欲がないのではなく、限界まで努力しても成果が出ず、結果として頑張ること自体が困難になっている人々のことである。また、周囲の何気ない励ましの言葉が、かえって本人の自主性や主体性を奪ってしまうという指摘が印象に残っている。

たとえば、育児に真剣に取り組んできたにもかかわらず、子どもが非行に走ってしまったケースや、少年院に入った少年が再犯してしまうような事例では、外側からは「努力が足りない」と見えるかもしれない。しかし、その背景には、本人がコントロールできない環境や心の問題が潜んでいることが多い。

また、本当に支援が必要な人ほど、自ら支援の場に来ることができないという現実も印象的だった。「困っているように見えないから」「本人が望んでいないから」という理由で支援が届かない一方で、「本人が来られないから支援しなければならない」という矛盾を支援者たちは抱えている。支援の現場は、そうした葛藤と向き合いながら日々判断をしているということがよく分かった。

本書では、少年院に入った子どもたちを対象に、「頑張れるようになる」ために必要な3つの基本が挙げられている。

①安心の土台
家族の存在や苦しみへの理解、自分を見捨てない誰かがいるという実感。
②伴走者の存在
信頼できる人との出会いや、重要な役割を任されることによる自己肯定感の回復。
③チャレンジできる環境
自分の姿に気づいたとき、人とのコミュニケーションに自信が持てたとき、学ぶ楽しさを知ったとき、将来の目標が見つかったときなど。
(P.125-126)

こうした支えが整ったとき、初めて「頑張ること」が可能になるのだと知った。

さらに、支援者同士の間でも、支援の温度差や方針の違い、連携不足によるトラブルが起きているという点も見逃せない。支援は一方向的なものではなく、多様な立場と視点の中で成り立っているということを、著者は指摘している。

3. 本書を通して得た学びと今後への活かし方

本書を読んで、「頑張ろうとしても頑張れない人たち」が置かれている環境や心理状態を理解することの重要性を強く感じた。彼らは決して怠けているわけではなく、支援が適切に届かないことや、本人の心の余白のなさが原因となっていることを学んだ。

今後、社会課題を扱った作品を考察していく際には、登場人物の言動だけで評価するのではなく、その行動の背景にある環境や思考のプロセスに目を向けたい。そして、支援の在り方や人間関係の構造を読み解くことで、作品が伝えようとしている本質的なメッセージにより深く迫ることができるのではないかと考える。

⑳「風立ちぬ」(小説)著者:堀辰雄 角川文庫 1968年

(あらすじ)
美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて来る愛する者の死を覚悟し、それを見つめながら2人の限られた日々を「生」を強く意識して共に生きる物語。

(考察)
八ヶ岳山麓のサナトリウムを舞台とした本作品では、自然の色彩描写と病床の風景が巧みに対比されることで、「生」と「死」のテーマが浮かび上がってくる。

作品冒頭に描かれる代赭色の裾野や赭ちゃけた耕作地、藍青色に澄み切った空、真っ白な鶏冠のような山巓など、豊かな色彩に満ちた自然の情景は、まさに「生」を象徴している。特に初夏の夕暮れ時、夕陽を受けて茜色から鼠色へと移り変わる木々の描写は、時間の流れとともに変化する自然の美しさを強調している。

一方で、節子の病状が悪化し血痰が出るようになると、彼女の病室には黄色い日覆いが下ろされ、室内は薄暗い空間へと変わっていく。この色彩の変化は、自然が持つ鮮やかな「生」の気配と、病室に漂う「死」の気配との明確な対比を生み出している。季節ごとに変わる自然の色彩と、節子の容態の変化によって変質していく病床の風景は、「生と死」のあわいに揺れる登場人物たちの心情を象徴的に表していると言える。

また、「風変わりの愛の生活」として描かれる日常には、特別な出来事は少ないものの、微温い肌の感触や好ましい匂い、節子の微笑、そして何気ない会話など、主人公が感じ取るささやかな幸福が丁寧に描かれている。日々の繰り返しの中にあるこうした穏やかな幸福は、常に死と隣り合わせの状況に置かれているからこそ、より鮮明に浮かび上がる。

節子が時折熱を出すようになると、「死の味のする生の幸福」という表現が使われるようになる。この言葉には、主人公が病と闘いながらも必死に生きようとする節子の姿に、ある種の美しさや生の力強さを見出している様子がうかがえる。また、病院内で最も重篤だった患者の死によって、主人公の不安は一層深まる。しかし、その不安の中にあっても、節子の何気ない仕草や表情に「生」の気配を感じ取り、ただ隣にいるだけで幸福を感じるという感情が描かれることで、「生」と「死」が入り混じった人間の感情の複雑さが表現されている。

このように本作品では、色彩の変化を通じて「生」と「死」の対比が視覚的に表現されるとともに、愛のかたちや日常の幸福が、死の影を背景にしてより際立つように描かれている。その繊細な描写から、生きることの儚さと尊さを強く訴えかけていると考える。
2025/04/15(火) 12:27 No.2081 EDIT DEL
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