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4年 北郷未結 春休み課題 1~10 RES
①「キミとアイドルプリキュア♪」(アニメ)2025年 シリーズディレクター:今千秋
(あらすじ)
主人公の咲良さくらうたは、歌うのが大好きな中学2年生。ある日、伝説の救世主アイドルプリキュアを探しにきた妖精プリルンと出会う。
プリルンは、ふるさとのキラキランドが、チョッキリ団のボスダークイーネによって、真っ暗闇にされてしまった。
そんな中、街の人のキラキラがチョッキリ団によって奪われて大ピンチに。うたは「キラッキランランにしたい!私の歌で!」と決意したところ、変身道具が現れ、伝説の救世主《キュアアイドル》に変身。歌って踊ってファンサして、アイドルとして盛り上げながら敵を倒していく。

(考察)
今年度の『プリキュア』シリーズは、「アイドル」をメインコンセプトに据えた演出が特徴的である。本作は、近年のK-POPを中心とする“推し活”ブームやアイドル文化の高まりを背景に制作されていると考えられる。特に注目すべきは、プリキュアたちの戦闘スタイルの変化である。

従来のプリキュアシリーズでは、魔法のステッキや変身アイテムを用いてエネルギーを集め、敵に向けて放つことで浄化するという流れが一般的であった。しかし、本作ではその“浄化”の場面がライブステージとして描かれている。プリキュアたちは歌い、踊りながら技を放ち、その演出の中には敵である怪物たちが観客としてペンライトを振る描写さえ含まれている。この演出は、彼女たちのアイドルとしての魅力やカリスマ性こそが、敵を打ち負かす=魅了・浄化するエネルギーとして機能していることを示しているといえる。

また、視聴者の立場から見ても、このようなアイドル的演出は強い印象を残しやすく、繰り返し視聴することで楽曲が記憶に残り、キャラクターへの愛着が深まる。結果として、応援グッズの購入やライブイベントへの参加など、商業的な展開とも結びつきの強い構成になっている。

以上のように、本作は単なる「戦う少女たち」の物語にとどまらず、現代のポップカルチャーと深く結びついた構造を持っている。プリキュアシリーズの新たな方向性を示すと同時に、コンテンツとしての戦略的な進化も感じさせる作品である。


②「誰も知らない」(映画)2004年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
都内2DKのアパートで大好きな母親と暮らす4人の兄妹。しかし彼らの父親は皆別々で、学校にも通ったことがなく、3人の弟妹の存在は大家にも知られていなかった。ある日、母親はわずかな現金と短いメモを残し、兄に弟妹の世話を託して家を出る。この日から、誰にも知られることのない4人の子どもたちの『漂流生活』が始まる。

(考察)
本作を音楽と映像表現の点から考察する。
是枝裕和監督の作品には、現代社会の家族や人間関係に潜む矛盾や歪みを、繊細かつ静謐な演出によって描き出す特徴がある。その中でも特に印象的なのが、劇中に用いられるBGMの使い方である。是枝作品では、人物が移動するシーンや生活風景を映す静かな場面において、ピアノによる伴奏が用いられることが多い。一見すると美しい旋律であるが、その中には意図的に不協和音が混ざっており、穏やかな日常の中にわずかな違和感や不穏さを忍び込ませている。このような音楽演出によって、「普通」や「平穏」に見える家庭や日常が、実は社会的な枠組みから逸脱しているという含意が巧みに表現されていると考えられる。

本作は、1988年に実際に起きた「子ども置き去り事件」をもとに制作された作品であり、普通や平穏との逸脱を描く。物語では、母親が家を出ていった後、長男の明が家事や家賃の振込といった家庭の役割を代わりに担う姿が描かれる。彼はまだ幼いながらも弟妹の面倒を見て家庭を維持しようと奮闘しており、その姿は「アダルトチルドレン」としての側面を感じさせる。

母親からの現金が底をつくにつれて生活は徐々に困窮し、水道が止められて公園で髪を洗う、服の臭いを確かめながら着る、さらには弟の茂が空腹のあまり紙を食べようとする場面も登場する。こうした描写は、見過ごされがちな社会の片隅にある貧困や家庭内放棄の現実を突きつける。加えて、思春期に差し掛かる明が兄妹に対して反抗的な態度を見せたり、声変わりの兆候が現れるなど、彼自身が子どもから大人への移行期にいることも強調されており、彼の葛藤と孤独がさらに深みを持って描かれている。

また、母親から明宛に送られた「みんなをヨロシクね!頼りにしてるわよ♡」という軽薄な手紙と、わずかな現金は、母親が子どもたちの問題を他人事として処理しようとしている姿勢を象徴している。さらに、それは母親だけでなく、周囲の大人たちにも共通する態度である。例えば家賃未納で大家が部屋を訪ねる場面では、洗濯物が床を埋め尽くし、シンクには洗い物が山積みになり、子どもたちは明らかに困窮した様子を見せているにもかかわらず、大家は家賃のことだけを伝えると特に介入することなく立ち去ってしまう。このような場面には、現代社会における「他人の家庭事情には関与しない」という一種の距離感、あるいは無関心さが浮き彫りになっている。

このように、本作は一見静かな日常を丁寧に描きながら、その裏に潜む社会的な無責任、家庭の崩壊、そして子どもたちのサバイバルを鋭く描き出している。是枝監督の演出と音楽による“違和感”の演出は、この作品の核心となり、観る者に静かな衝撃を与える手法となっていると考える。

③「ルックバック」(アニメ映画)2024年 監督:押山清高
(あらすじ)
学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートからは絶賛を受けていたが、ある日、不登校の同級生・京本の4コマを載せたいと先生から告げられる。2人の少女をつないだのは、漫画へのひたむきな思い。しかしある日、すべてを打ち砕く出来事が起こる。胸を突き刺す、圧巻の青春物語。

(考察)
この作品では、キャラクターの心理描写や才能の対比を視覚的かつ感情的に表現し、アニメならではの表現技法によって観客を引き込む力を持っていると考える。特に注目したのは以下の2つの観点である。
1つ目は、繊細な絵と簡略化した絵を使いこなし、場面に応じて動きに抑揚をつけている点である。
本作は、机に向かって漫画を描く場面が多いが、その際には人物の姿勢やまつ毛や髪の毛の1本1本まで丁寧に描かれており、線の繊細さを感じる描写がされている。一方で、躍動感を感じる場面では絵は簡略化されのびのびとした動きを魅せる。例えば、京本からファンだと告げられた藤野が大きくスキップしながら帰り道を駆け抜けていく場面では、顔や髪の線が大胆に省略され、体の構造もバランスを崩して走る姿が描かれる。このことによって、身体の伸び縮みが強調され、藤野の喜びが生き生きと表現されている。このように、抑揚のある描写が本作品の特徴であると考える。

2つ目は、登場人物らの目の表現である。この作品は、絵の才能を巡った対比が描かれており、京本は「無自覚の才能」、藤野は「才能の自覚によるプライド」が表現されていると考える。そのなかで、才能への尊敬や嫉妬といった複雑な心情が目で語られている。例えば、京本が藤野にファンだと伝えるとき、藤野の絵の魅力を饒舌に語る場面があるが、そのとき藤野の目からはハイライトが消え、無表情で京本を見つめる。おそらく「あなたの方が才能あるのに。でもそれを認めたくない。」といったプライド故の複雑な感情が現れていると考える。京本は絵を描くことが好き、といった気持ちが強い一方で、藤野は自分の能力が周りに評価されるのが好きで絵を描いているように見え、絵の向き合い方に対比が生まれていると考える。

④「言の葉の庭」(アニメ映画)監督:新海誠 2013年

(あらすじ)
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は決まって学校をさぼり、公園の日本庭園で靴のスケッチを描いていた。ある日、タカオは、ひとり缶ビールを飲む謎めいた年上の女性・ユキノと出会う。ふたりは約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、次第に心を通わせていく。居場所を見失ってしまったというユキノに、彼女がもっと歩きたくなるような靴を作りたいと願うタカオ。6月の空のように物憂げに揺れ動く、互いの思いをよそに梅雨は明けようとしていた。

(考察)
本作において特に印象的なのは、「カメラの存在を感じさせる」ようなアニメーションならではの映像表現である。

例えば、主人公のタカオが自室で靴を作っている場面では、画面に点々と虹色の光、いわゆるレンズフレアが差し込んでいる。この演出は、本来であれば実写映画におけるカメラレンズの反射現象であるが、アニメーションにおいてあえて描かれることで、画面の向こうに“撮っている視点”=カメラの存在が意識されるようになっている。結果として、どこか幻想的で、非現実的な印象を与えると同時に、映像を通して物語に“見られている”感覚をもたらしているようにも思える。

さらに、ラストシーンにおいてユキノがタカオを追いかけて階段を駆け下りる場面では、彼女が転んだ瞬間、画面全体が大きく揺れる。このようなカメラの“手ブレ”を模した演出も、実写的な臨場感を演出すると同時に、感情の激しさを視覚的に伝える役割を果たしている。アニメーションという媒体でありながら、あえてカメラ的視点を取り入れることで、写実性と作為性の両立が図られており、観客に強い叙情的印象を残す要素となっている。

本作のキャッチコピー「愛よりも昔、孤悲の物語」にも表れているように、タカオとユキノの関係性は、典型的な恋愛関係とは異なる。ここで使われている「孤悲(こい)」とは、「独りで思い詰めて、心が張り裂けそうな状態」を指す言葉であり、彼らの関係が一方通行の感情や、言葉にできない思いによって成り立っていることを示唆している。

物語終盤、タカオがユキノに感情を爆発させるシーンでは、その内面が明確に描かれる。彼の台詞には、自分の夢や気持ちが最初から否定されていたのではないかという悔しさや不安、そして相手の本心を知りたかったという切実な願いが込められている。彼は自分の夢を語ったことが軽んじられたのではないかと感じ、ユキノが教師であるという事実を最後まで黙っていたことへの怒りと悲しみをぶつける。これは単なる恋愛の告白ではなく、自分自身の存在や夢が他者からどう受け止められるのかという、思春期特有の自己確認の叫びにも聞こえる。

一方で、ユキノ自身も、社会の中で傷つき、居場所を失った大人として描かれており、タカオとの出会いによってようやく自分の弱さと向き合うことができるようになる。彼女は「何かになりたい」と願うタカオに対し、「もう何にもなれない」と感じている自分を重ねていたのかもしれない。

『言の葉の庭』は、夢と現実、子どもと大人、孤独とつながりといったテーマを、緻密な映像と抑制された台詞で丁寧に描いている。そして何より、アニメーションという形式でありながら、カメラの“存在感”を積極的に演出に取り入れることで、見る者に強く情感を残す効果があると考える。

⑤「関心領域」(映画) 監督:ジョナサン・グレイザー 2023年

(あらすじ)
1945年。幼い子どもたちは美しい花が咲き誇る庭やプールではしゃいで遊び、休日になると皆で近くの川に泳ぎや釣りに出かける。そんな幸せいっぱいのドイツ人一家は、アウシュビッツ強制収容所のすぐ隣に住んでいた。
マーティン・エイミスの同名小説を、ジョナサン・グレイザー監督が映画化。
第76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、英国アカデミー賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞など世界の映画祭を席巻。そして第96回アカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した作品。


(考察)

本作の特徴は、アウシュヴィッツ強制収容所の隣に住む家族らが収容所に対して専ら関心を抱いていないことである。
それを象徴するのが庭の場面である。
作中では家族の生活に対して意図的にアウシュヴィッツ強制収容所の存在を感じさせるよう、画角や音声が調整されており、庭(外)の場面になるとそれが顕著に現れる。
例えば、主人公のルドルフ・ヘス(ドイツ人一家の父。収容所の所長)が自宅の庭で、タバコを吹かす場面がある。その背景には収容所の煙突から煙が上がっている光景が広がる。
また、ルドルフ・ヘスの妻であるヘートヴィヒが母を家に招き、豪華な庭を紹介する場面がある。滑り台つきのプールや温室、庭で育てているハーブや向日葵、ローズマリーを紹介しているその背景には、やはり収容所の存在が映し出されら。銃声や人が揉めているような声が聞こえる中、ヘートヴィヒは淡々と母に庭の豪華さを語り、音には無反応である。
この他にも子どもたちが庭で遊ぶ場面等にて同じような演出がされている。
このように、本作において収容所の光景や音は“背景”や“BGM”にすぎず、家族にとって関心の対象ではないことが描かれている。隣で大量虐殺が行われているにも関わらず、普段通り生活をする様子を定点カメラで淡々と写し出すことで、無関心の恐ろしさを表現していると考える。

⑥「えんとつ町のプペル」(アニメ映画)2022年 監督:廣田祐介

(あらすじ)
信じて、信じて、世界を変えろ。厚い煙に覆われた“えんとつ町”。煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった。1年前、この町でただ1人、紙芝居に託して“星”を語っていたブルーノが突然消えてしまい、人々は海の怪物に食べられてしまったと噂した。ブルーノの息子・ルビッチは、学校を辞めてえんとつ掃除屋として家計を助ける。しかしその後も父の教えを守り“星”を信じ続けていたルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、彼の前に奇跡が起きた。ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、2人は友達となる。そんなある日、巨大なゴミの怪物が海から浮かび上がる。それは父の紙芝居に出てきた、閉ざされたこの世界には存在しないはずの“船”だった。

(考察)
この作品に描かれる「煙突の町」は、一見ファンタジーな世界でありながら、間接的に現実社会の問題を描写している。この町では、過去に王様が経済活性化のため「エル」という腐敗する貨幣を導入したことを契機に、中央銀行との対立が生まれ、その結果、王は町を煙で覆って外界から隔絶するという極端な手段を取る。ここに描かれるのは、理想を掲げた改革がやがて独裁へと変わり、住人の心と体にさまざまな弊害をもたらす構造である。

まず1つ目に注目する点は、町の住人たちが異端に対して極端な拒否反応を示す点である。。作中では、星の存在を語るブルーノやゴミ人間のプペルが、人々に暴力をもって否定される場面が印象的に描かれている。
この町の空には煙突から上がった黒い煙が充満しているため、人々は青い空、光り輝く星の存在を知らない。
その中で、ブルーノは星を1度だけ見たことがあり、その存在を町の人々に知らせようと人通りの多い路地にて紙芝居を使って語っていく。しかし、通行人は星なんてあるわけない、といってブルーノに殴りかかる。普通、大人であれば、信じ難い迷信を語る人がいたら、聞き流すか相手にしないようにも思えるが、暴力をしてしまうのは異常なのではないかと考える。
さらに、ブルーノだけでなく、ゴミ人間のプペルが星の存在を語ったとき、それを聞いたアントニオ(町のガキ大将)は、
「星なんてあるわけねぇだろ!作り話をいつまでも真に受けてんじゃねぇよ!デマを広めて俺たちを混乱させるつもりか!星なんてねぇんだよ!」と怒鳴りつけながら殴りかかる。
このように、星の存在に対して過度な反応をみせる住人が印象的に描かれる。
理由として、「異端審問官」から排除の対象になることを恐れているからではないかと考える。この物語には、外の世界を知ろうとする者を排除する組織「異端審問官」が登場するが、住人に紛れて活動する者もいるため、人々はそれを恐れて過度に拒否反応を示しているのかもしれない。
「星」という無害なものに住人がこれ程の恐怖や嫌悪を抱いていることに、この国の閉鎖的な政治による思想の偏りが伺える。

次に着目する点として、煙突の煙によるぜんそくの症状が挙げられる。
ルビッチの母・ローラは煙突の煙によって喘息を患い、作中では常に車椅子に乗って、度々咳き込む様子が描写される。町の煙突からは常に黒い煙が出ているが、黒煙は一酸化炭素や有毒ガスを含み、大量に吸い込むと体に深刻な影響を与える。

このように、煙突の煙がもたらす弊害が大きく、大胆な革命はときに国を破滅へと導いてしまうことを考えさせられる。

⑦「浅田家!」(映画)2020年 監督:中野量太
(あらすじ)
父、母、兄、自分の4人家族を被写体に、“家族がなりたかったもの、やってみたいこと”をテーマに多くのシチュエーションで撮影、ユニークな《家族写真》を世に送り出した写真家・浅田政志。普通の家族が、様々な姿になりきった写真を収めた写真集「浅田家」は、好評を博し、写真界の芥川賞ともいわれる第34回木村伊兵衛写真賞を受賞。本作は、この「浅田家」と、東日本大震災で泥だらけになった写真を洗浄し持ち主に返すボランティアに参加した浅田政志が、作業に励む人々を約2年間撮影した「アルバムのチカラ」の2冊を原案に、実話に基づき独自の目線で紡いだオリジナルストーリー作品。

(考察)
本作品における家族写真の意義や浅田政志が家族写真を取り続ける意図について、本人インタビューの映像をもとに考察していく。

まず、家族写真の意義について、浅田政志はインタビューにて「見る人の記憶や経験によって写真の見え方が違う」と語る。
つまり、家族写真をその本人たちが見れば、“記念写真”となるが、赤の他人から見れば、ただの“家族写真”にすぎない、ということである。
これは、映画の中でも描かれている。
政志が、写真集の出版を目指し、テーマ性豊かな家族の写真をアルバムにして、東京の編集長に見せに行く場面がある。そのとき編集長は、
「オリジナリティーがあっていいと思うよ。でもこれ君の家族写真じゃん。売れないよ。」
と政志に言い放ち、アルバムを机の上にほおり投げる。
その衝撃でアルバムの表紙に書かれた「浅田家」の「家」の部分の文字盤が外れ、床に落ちる。
この描写から、写真に写る家族の背景を知らない人にとって“家族写真”は雑に扱える程、興味のないものということが印象づけられる。
一方で、被災した岩手県にて津波に流されたアルバムや写真を、持ち主の元へ届けるボランティア活動をした際、写真を取り戻した人々が感謝や喜びをみせる場面がある。
このことから、写真に写る人の背景を知る人にとって、写真はその人と共に過ごした時間を証明するものとなり、活力や希望を与える力を持つと考えられる。
したがって、家族写真とは、その人と過ごした時間を証明し、思い出や共有した感情を思い出すことで、繋がりや絆を再認識するためのものではないかと考える。

次に、家族写真を取り続ける意図について、浅田政志はインタビューにて以下のように答えている。

「写真集のあとがきにも書いてあるんですけど、“記念日を作る記念写真”って書いてあるんですね。記念写真ってある記念日に撮るから記念写真なんですね。入学式だったりとか、成人式だったりとか人生の節目に皆で撮るのが記念写真なんですけど、自分たちの写真はなんでもない土日に撮るんですけども、やっていく中で、家族といろんな思い出が生まれたな、とか時間も共有できたし、一緒に恥ずかしがったりとか、達成感があったりとか、暑かったり寒かったりていうのを経験すると、家族の関係性まで活性化されたような感じがして、そうやって家族で精一杯やったら、その日自体が家族の思い出深い記念日になっていくような気がして。なので思い出を残す写真ではなくて、思い出を作る写真ですね。」

この言葉から、写真を撮る過程を経て思い出をつくることで、家族との繋がりや絆をより深めて欲しいという想いが、浅田政志が家族写真を取り続ける意図であると考える。

インタビュー映像参考元
“『浅田撮影局』第1回トークセッション 浅田政志×「浅田家!」監督 中野量太”
https://youtu.be/UYtF6KIZES4?feature=shared(2025年3月29日)

⑧「流浪の月」(映画)2022年 監督:李相日

(あらすじ)
10歳の少女・更紗は、引き取られた伯母の家に帰ることをためらい、雨の公園で孤独に時間を持て余していた。そこに現れた孤独な大学生の文は、少女の事情を察して彼女を自宅に招き入れる。文の家でようやく心安らかな時を過ごし、初めて自分の居場所を手にした喜びを実感する更紗。しかし2ヵ月後、文が誘拐犯として逮捕され、2人の束の間の幸せは終わりを告げる。15年後、恋人と同棲生活を送っていた更紗は、カフェを営む文と偶然の再会を果たす。

(考察)
本作では、幼い頃にネグレクトを受けた大人の話で、皆“子どもの時期”に関する何かしらのコンプレックスやトラウマを抱いており、その人自身の人格形成や周りとの関係構築の様子が描かれている。
ネグレクトを受けた大人はパッと見問題なくても、内面に色々と抱え込みながら生きていることを踏まえ、以下では2つの観点から登場人物が内側に抱える生きづらさについて考察する。
1つ目は、“性”の観点である。
本作では物語を通して、性の問題がその人自身のアイデンティティ形成に強く影響していることを描写する。

映画の最後に文が更紗の前で体(性行為をする部分)が発達しない病気だということを明かす。以下はその場面における文の台詞である。

「いつまでも俺だけ大人になれない。更紗はちゃんと大人になったのに。俺はハズレだから。こんな病気のせいで…誰にもつながれない…」

文はこの病気によって、女性と性的関係を結ぶことが難しく、大人になって恋人ができてからも、相手が求めるコミュニケーションに応えることができず、葛藤する様子が描写される。
体の一部、特に性行為をする部分は、自尊心や自己肯定感と強く結びついており、性のコンプレックスはその人自身のアイディンティティ形成に深く関わるものだと考えられる。

では、文が自身の病気を受け入れ、人との関係性を前向きに構築するためには何が必要なのか。
それは、親が認めてくれること・受け止めてくれることが条件に入ってくると考えられる。
文の回想シーンにて、自宅で母と会話する場面がある。


文「子どもの頃、お母さんが庭に植えた木、貧弱で育ちが悪くて、とうとうお母さん、ハズレだといって引き抜いてしまいましたね。」
母「成長が止まるって何…?あなたが異常なのは産んだ私のせいなの?」
文「やっぱり…ぼくはハズレですか」

このとき、文は「僕の目を見て話して」と言うにも関わらず、母親が一向に目を合わせないことに、文は失望する。
文の病気について、母が真正面から向き合い、子どもの個性として受け止めてくれる存在であったならば、文が大人になるにつれて病気のことで壁にぶつかったとしても、前向きに生きることができたのかもしれない。

2つ目は、人間関係を外と内で見た際のギャップである。
文と更紗は、「幼女誘拐事件」がテレビニュースやネットで拡散され、ロリコンと被害者というレッテルを貼られている。しかし、実際に2人の関係は和やかなものであり、更紗は文の自宅で自由に過ごしている。夜ご飯でアイスを食べたり、映画を見て寝ながらピザを食べたり、風呂場に水をはって水遊びをしたり。「ここにいたい」と呟く場面もあり、文と引き離されるときには「文くん!」と叫び、別れを惜しむ描写もある。
2人の関係を内側からみると、文は複雑な家庭環境で育った少女を保護する救済者として捉えることもできると考える。
一方で、亮と更紗の関係について、2人は現在恋人関係にあり、亮は上場企業に務めるサラリーマンで実家が太いことから、周りは2人の関係を羨む。
しかし、実際、亮は更紗に対して自分に反抗する態度があれば暴力をふるったり、帰りが遅いとバイト先に電話をかけてシフトを確認するなど、束縛が強く、更紗が怯える描写もある。
このように、内と外から見た関係性には大きな乖離があり、周りからのバイアスが当事者たちの関係性を縛りつけていると考える。
作中にて、周りは更紗を擁護するように振る舞うが、それは「幼女誘拐事件」の報道にて被害者のレッテルが貼られた幼い頃の更紗に同情しているだけであり、大人になった更紗にとっては生きづらさの原因となっていると考える。

⑨「にんじん」(小説)著者:ルナール 訳:中条省平 光文社 2017年

(あらすじ)
赤茶けた髪とそばかすだらけの肌で「にんじん」と呼ばれる少年は、母親や兄姉から心ない仕打ちを受けている。それにもめげず、自分と向き合ったりユーモアを発揮したりしながら日々をやり過ごすうち、少年は成長していく。著者が自身の少年時代を冷徹に見つめて綴った自伝的小説。

(考察)
本作は、細かく区切られた章立てと淡々とした情景描写によって構成されている点が特徴的である。1つのエピソードが1〜2ページ程度で語られ、物語は第三者の視点から展開される。そのため、読者はまるで映像を観るかのように、にんじんの日常を客観的に追うことができる。このような表現手法は、作者が小説家のみならず、劇作家や詩人としても活動していることに由来すると考えられる。

作中では、にんじんが母から受ける暴力や罵声が冷徹に描かれる。特に、母の言葉には冷たさや嘲笑のイントネーションが感じられ、読者に強い印象を与える。例えば、真夜中に鶏小屋の戸を閉めるよう命じられたにんじんは、恐怖に耐えながらそれを遂行し、期待を抱いて帰宅する。しかし、母から返ってきたのは「にんじん、これから毎晩、鶏小屋を閉めに行くのよ」(P.14)という冷淡な言葉だけだった。この一言で章が終わることで、母の無慈悲さが際立つ。

また、にんじんは布団におもらしをした翌朝、尿入りのスープを飲まされるという虐待を受ける。
以下の文はその場面の抜粋である。

「あらまあ!汚い子だねえ、飲んじゃったわ、ほんとに。それも自分のを。昨日の夜のを」
「そんなことだろうと思ったよ」とにんじんは期待された顔も見せずに、あっさりといった。
にんじんは慣れている。一度慣れてしまえば、あとは面白くもなんともないのだ。(P.26)

この場面では、彼が母の期待通りの反応を示さないことが、ささやかな抵抗とも解釈できる。「期待された顔も見せずに、あっさりと言った」という描写から、にんじんには母親の仕打ちに足掻いても改善されない、といった諦めの感情が芽生えていると考える。

一方で、物語の後半では、家族という存在についてにんじんが達観した視点を持つようになる。「僕にとって、家族なんて言葉はなんの意味もないな」(P.223)という台詞に象徴されるように、彼は家族という関係を偶然の産物として冷静に捉え、それに感謝することも、特別な絆を見出すこともない。
このような考え方は、彼が長年にわたって家庭内で行われた非人道的な扱いを通じて培ったものであり、読者にとっては悲しさと同時に、にんじんの精神的な強さを感じさせる。

さらに、父との口論の場面では、にんじんが母から受けた仕打ちを全て吐き出そうとするが、父はそれを認めようとしない。その末に、父が「じゃあ、私があの女を愛しているとでも思うのか?」(P.244)と発言する場面は、家族の歪んだ関係性を象徴するものとなっている。父自身も母に対して複雑な感情を抱えており、その影響がにんじんにも及んでいると考える。

本作は、にんじんという少年の視点を通して、家族という存在の在り方を問い直す作品であると考える。彼の孤独や絶望、それでもなお求めてしまう愛情の葛藤は、読者に深い余韻を残す。にんじんが最終的にどのような成長を遂げるのか、また彼の未来に希望があるのかは明確に描かれていない。しかし、彼の言葉や行動の中にみえる自己認識の変化こそが、この物語の重要なテーマの一つであると言える。

⑩「さよなら家族」(漫画)石坂啓 イースト・プレス 1994年

(あらすじ)
1994年の「国際家族年」にちなみ、家族をテーマとした短編集であり、作者は「家族像」にさよならを告げるという意図を持って執筆している。作者自身が「家族」に対して幻想を抱いていないと述べているように、本作に収められた物語の多くは、伝統的な家族観を揺るがすような内容となっている。

(考察)
今回は、中でも特に印象に残った二つの作品、『遠い煙突』と『その後のE.T.』を取り上げ、家族の関係性について考察する。

『遠い煙突』では、単身赴任によって家族と長く離れて暮らしていた父親が、長年の時を経てクリスマスの日に帰宅する。しかし、彼はすでに家族の一員として認識されておらず、実の子どもたちにも気づかれないまま、母と再婚相手がいる家庭に迎えられる。ここでは、「家族」という関係が血縁だけで成り立つものではなく、共に過ごす時間や関係の積み重ねによって形成されることが強調されている。衣食住を共にしないことで、家族としての認識が薄れ、父親の存在そのものが希薄になってしまう。この作品は、家族関係が時間の経過とともに変化し、物理的な距離が心理的な距離にも影響を及ぼすことを示唆している。

『その後のE.T.』では、認知症を患った祖父を介護する家族の姿が描かれている。幼い孫のツネオは、祖父の不可解な行動を「E.T.」と呼び、人間とは別の存在として認識している。介護が困難を極める中、家族は施設に祖父を預けることを決意するが、その施設の環境はまるで収容所のようであり、「どこも悪くなくても連れてくる家族がいるのさ」という知人の言葉が、家族関係の貧しさを浮き彫りにする。ここでは、家族の絆が必ずしも「支え合い」だけで成り立つものではなく、介護負担の現実や社会のあり方が、家族の在り方を変えざるを得ない状況を生んでいることが描かれている。

この二つの作品に共通するのは、「家族」という枠組みの脆さである。『遠い煙突』では、血縁があっても一緒に暮らさなければ家族の絆は希薄になることが示され、『その後のE.T.』では、介護という現実の中で家族関係が変容していく姿が描かれている。作者の考えにもあるように、血縁や同じ屋根の下にいることに囚われるのではなく、互いの距離感を意識しながら関係を築いていくことこそが、豊かな人間関係につながるのかもしれない。
2025/04/15(火) 12:25 No.2080 EDIT DEL
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