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3年 有田真優美
RES
16〜30
16.ウォンカとチョコレート工場の始まり(2023)
監督:ポール・キング
あらすじ
美味しいチョコレートの店を作ろうと夢見るウィリー・ウォンカ。邪魔をされながらも母からの言葉を胸に、夢を叶えようと奮闘する。
「チャーリーとチョコレート工場」のウォンカのひねくれ方が尋常じゃないと思うくらいキャラが違うなと思った。チャーリーとチョコレート工場では父が出てきたが、今作では母の存在が描かれている。どちらも片方しか出ておらず、夫婦の関係には言及されていない。だが、父に強く当たられていた可哀想なウィリーではなく、優しい母との約束を守るために夢を追いかける若いまだキラキラしたウィリーが今作では見ることができる。
また今作では毒と言っていたものが、チャーリーとチョコレート工場では普通使用されている辺りがウィリーの中でどんな心境があったのかが気になる。
また、ラストシーンのチョコを分かち合う仲間といって分け合うシーンが、チャーリーがプレゼントのチョコを家族に割って分け与えるシーンと重なったり、前作を感じる部分が多々ある。連続で見たからこそすぐに気づける部分があり、シリーズものならではの楽しさを感じることができた。
宿の下の生活は本来なら苦しいものだが、ミュージカルになることで辛い中にもユーモアがあり、短い中で距離が縮まっていくミュージカルのテンポ感の良さもあった。
他にもチャーリーとチョコレート工場と同じ、クリスマスプレゼントを開けた時のような夢の世界が出てきていて、ワクワクした。
お店のシーンやカバンを初めて開けた時など
チョコを食べた瞬間誰もが虜になるウォンカのチョコレートはこちら側も食べたくなるような魔力がある。
そこを強調しているのも、魔法の正体を詳しく明かさないのも、子どもたちの夢や魔法を守って、完全に誰もが子どもになれる世界だと思う。「ハリー・ポッター」などとはまた違った、非現実の世界。だけど何よりも憧れる世界。お菓子という身近なものだからこそ、具体的な仕掛けを明かさないからこそ、大人も子どもも夢を見ることができるのだと思う。
17.バサラオ(2024) 演出:いのうえひでのり
あらすじ
幕府と帝が相争う、混乱そして裏切りの時代。
島国「ヒノモト」に生きる男が二人。
幕府の密偵を足抜けし、逃亡していたカイリは、狂い桜の下、麗しき顔で女たちを従えたヒュウガが催すバサラの宴に出くわす。
そこにやってくる幕府の役人たち。ヒュウガに惹かれ家を出た女たちを連れ戻そうとするが、女たちは嬉々として役人に斬りかかり、散っていく。それを平然と眺めるヒュウガ。
「俺のために死ぬのは最高の至福。それを邪魔する幕府はつぶせばいい」。
その言葉に驚き、惹きつけられたカイリはヒュウガの軍師になることを決意。二人は咲き乱れる狂い桜の下で手を結ぶ。
「バサラの宴は続く。この俺の光がある限り」眩しい光に飲み込まれ、美の輪廻に堕ちた者の群れ。たどり着くのは地獄か、それとも極楽か?バサラの宴が今、幕を開ける。
新感線特有のパンクロックな音楽に豪華絢爛な衣装に舞台装飾、それに負けない演者の存在感、ツケ打ちや見得など歌舞伎の要素はふんだんに入れつつも、これぞ劇団新感線といった作品だった。客席も乗らせるライブのような空気感も新感線ならではだた思う。
一転二転する物語のスピード感もさることながら、歌や踊り、キレのある殺陣、コントのような笑いなど含めて、至極のエンターテインメントという感じだった。
ストーリーとしてはヒュウガの美しさやそれに隠れた賢く 強さで国を牛耳ろうと
自分自身も惚れるほどのヒュウガという存在、カイリの執拗なまでのヒュウガへの怨みが迫力のある演技とマッチして圧倒された。
また、カイリ自身もヒュウガに狂わされた一人でもあり、一目見たものの心を惑わすヒュウガの美貌に観客側も惹かれた。そしてその役に説得力を持たせる役者の演技も見事だった。
誰が敵か味方か分からない、戦乱の世で信じられるのは己だけという言葉通りのどんでん返しの連続だった。
だがヒュウガのバサラを語れるのは自分だけという自分の美貌への圧倒的な自信やカイリの執念、散っていった者たちの最期も皆一本芯が通っていてこの人のためなら死ねるという考えは戦の世の中ならではの考え方だなと思う。
自分の邪魔をする者は皆排除するというヒュウガの手段を選ばない姿は、いやらしくも、美しく、ダークファンタジーとしても煌びやかな作品だった。
18.スオミの話をしよう(2024) 監督:三谷幸喜
あらすじ
ある日、大富豪の妻・スオミが突然姿を消す。彼女の失踪を知り、スオミを愛した年齢も職業も異なる個性的な5人の男性たちが、夫の住む大豪邸に集まる。彼らはそれぞれスオミについて語っていくが、浮かび上がる彼女のイメージは見た目も性格も異なっていた。
三谷幸喜らしい不思議な設定と、癖のある登場人物たちの掛け合いや、今の時代には珍しいアイリスアウトの暗転方法などどこか安心する定番の笑いが面白い。定番の中にも意味のわからない設定や笑いを入れてくる独特さは現代でも癖になるものがある。
また、スオミという人間の特殊性、環境によりそうならざるを得なかった哀愁も感じた。様々な姿を演じているがそれは彼女なりの処世術であり彼女の本当の姿は、どこにでもいる女性だと思う。ただ少し人を誑かす才能があっただけだと思う。
魚山を使ってつまんねぇこと聞いてんじゃねぇよと本心を叫ぶシーンは、最後まで演じているようで、彼女らしさが見えるシーンだなと思った。
ラストのミュージカルシーンはあまりに突然で、度肝を抜かれるがひたすらにヘルシンキのことを歌ったそれは耳にも残る上に、ずっと素顔が見えなかった彼女にとって本当にしたかったことはこれなんだとこれでもかと見せつけられている感じがした。
19.記憶にございません!(2019)監督:三谷幸喜
あらすじ
史上最悪のダメ総理と国民から嫌われる内閣総理大臣の男は、演説中に石を投げられて病院に運ばれる。やがて目を覚ました彼は、一切の記憶を失っていた。国政の混乱を懸念した3人の秘書官は、その事実を伏せて世間や身内からも隠し通そうとする。一方、何も思い出せない総理は次々とトラブルに見舞われるうちに、なんとか現状を変えようと奮起する。
急に人が変わってはみんながびっくりしてしまうだろうという言葉は誰もが感じたことがあるのでは無いかと思う。人は皆どこか演じていて、環境によっても態度は変わる。そして一度それで定着してしまうとたとえそれが本当の自分でなくても貫かなくては演技だとバレてしまう。共感できる悩みで、実は変わりたいと思っている人は沢山いて、そういう人たちの頭に石が当たって記憶喪失になればいいのにという現実ではありえない淡い希望を物語に起こした作品だなと思う。
そうそうこんなにうまくは行かないけれど、少し踏み出してみたらもしかしたらこの物語みたいな未来が待っているかもしれないと期待させてくれる、勇気をくれる作品。
この作品の登場人物は前のめりで、止まることがない。みんながトラブルを乗り越えようと必死になる。このようながむしゃらな大人もかっこいいと思わせてくれる。
20.赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。(2023)
監督:福田雄一
あらすじ
シンデレラと共に出席したお城の舞踏会で、思わぬ事件に巻き込まれた赤ずきん。彼女は12時の鐘が鳴る前に、謎を解き明かすべく奮闘する。
人を殺しているから、仕方ないけどシンデレラが少し可哀想だった。
美しさが全てというルッキズムの国で、迫害されていたシンデレラが自分の身を守るために取った行動だと考えると悲しいなと思う。
また、赤ずきんという外部の人間によって、この国の異様さが明らかになり、少しずつ変わっていく様子も面白い。
何より、福田監督ならではのコメディシーンがキャッチーで、童話というファンタジーな世界でもそれが成立していたのがすごい。だが、現実世界で使えるメタ的な発言や、現代的なユーモアが使えない分、完璧なファンタジー世界では少しそのユーモアが浮きそうな場面もあった。「勇者ヨシヒコ」ではそんなことは無かったが、「シンデレラ」や「赤ずきん」の原作が日本では無いことも違和感の要因としてあるのかなと思った。有名な作品を使うということは難しいことなんだなと思った。
21.西園寺さんは家事をしない(2024) 演出:竹村謙太郎、井村太一、山本剛義、渡部篤史
あらすじ
仕事はバリバリやるが家事は一切しない、そんな38歳独身女性の主人公・西園寺さんはマイホームと念願の“家事ゼロ生活”を手に入れたばかりそんな中、どういうわけか年下の訳ありシングルファーザーと「偽家族」として暮らすことになる。風変わりな同居生活を通して「幸せって何? 家族って何?」を考えるハートフルラブコメディ。
多様な現代の家族ノカタチを表しているなと思った。
最後に海外に行くのも、型にハマらない、とらわれないという意味では正解だなと思った。楠見くんの経験値も伏線となり自然だった。
ラストのルカちゃんのカメラに向けた言葉も、いないけどいると言っていたり、霊感があったりするるかちゃんが最後の最後に視聴者も見えていた感じもして、ドキッとしたし、seeyou Soon I hopeも粋なラストだなと思った。霊感という設定があることで最後にルカちゃんがルイさんの笑顔を見ることができて良かった。原作とは違うけど、新たに笑いや感動が生まれて、良い改変だったと思う。
ルカちゃん目線の回もあり、ルカちゃんのむわぁという気持ちも大事にしていて、ただのラブコメディではなく三人がみんな幸せになる家族とは違う新しい形の答えを偽家族という生活を通して見つけたのかなと思った。
様々な形の人間関係が増えて答えがないからこそ、それでも幸せになれるかたちをひとつ提示した作品だなと思う。
はっきりと明言しないのもまた今らしいなと思う。それでもみんなが心から笑顔になる、愛があることが大事というのは今も昔も変わらないことだとは思う。
偽家族という内容は人によってはどうだろうと思うような新しい形だけど、それが気にならないくらいルカちゃんのかわいさが伝わってきて、二人の一生懸命理想を実現させようとする様が応援したくなる。
22.ONEPIECE FILM RED(2022) 監督:谷口悟朗
あらすじ
世界中の人々を歌声で魅了する人気歌手・ウタ。素性を隠してきた彼女が、初めて世間に姿を見せるライブが開かれることになる。そして、迎えたライブ当日、ルフィたちを含めた海賊や海軍たちが集結。しかしそこで、ウタに関する衝撃な事実が発覚する。
ワンピースという海賊世界であまり描かれない芸術の部分を知ることができた
海賊時代でも音楽はあり、世界中の人々がそれによって幸せになっている。
現実と変わらない海賊時代の人々の日常の側面が見れた。エンディングのこれまで登場したキャラクターの音楽を楽しむ姿を見ることでより、この世界を多面的に知ることになり、よりワンピースという作品の解像度や理解が深いものとなった。長年やっている作品だからこそできる挑戦的な作品でもあったと思う。
バトル漫画だが、そこに生きる人々は現実世界と変わらず毎日を生きているということを実感した。複雑で多面的でどんなに知っている気がしても、まだ成長して新しい面が見れるのは人のようだなと思った。
ワンピースは悪魔の実など現実にはありえない設定や体の動きをする非現実的なデフォルメされた世界だが、その中にも心理描写の繊細さがあり、その繊細な心理描写と漫画やアニメーションでしか描けない熱いバトルが組み合わさり大人も子どもも楽しめるコンテンツになっているのだと思う。
シャンクスという重要キャラクターの娘ということもあり、父と娘の物語も濃密なもので、観客をたかぶらせるものだと思う。
この作品が世界的にも大ヒットしたことで、ウタの歌声で世界中の人々を幸せにする、多くの人に聞いてもらうということができているということが現実と作品がリンクしている感じもあり、今見ることで別の感動もあった。挿入歌がどれも再生回数が爆発的な勢いであるというのもウタの存在感が現実でも強くあることが、よりウタというキャラクターの深みを増していると思う。
また、ウタが感情を乗せて歌うという音楽劇のようなアニメーションは日本のアニメでは少ないと思うため、アニメーションの歴史自体にも残る作品であると思う。
また、前半のウタの歌唱シーンは実際にミュージカルを見ているような高揚感と同じで、言葉だけでは無い、メロディを伴った音楽の人の心を動かす力を改めて体感した。
Adoもそうだが、ワンピースという世界中で愛される作品を通して、様々なアーティストが楽曲定価した日本の音楽も世界に届けることができたという意味では世界規模で強い影響力のある作品であったのだなと思う。
挿入歌の歌詞もウタの心情に沿ったもので、最近減ってきているキャラソン文化がまた開いた感じがする。
少し前までキャラソンは作品の世界観関係なく作られていたイメージだが、やはり音楽を題材にした作品であれば現代でも強い文化だと思う。
23.侵入者たちの晩餐(2023) 演出:水野格
あらすじ
ある年の瀬の夜、豪邸に亜希子、恵、香奈恵という3人の女性が侵入する。
時はさかのぼり1か月前、家事代行サービス会社で働く亜希子は、同僚の恵から社長の奈津美が脱税した金を自宅に溜め込んでいるという噂を聞く。
亜希子はそのタンス預金を盗む計画を立てる。
テンポが良く、展開が読めない目新しさのある作品だった。まったく犯罪からは程遠そうな三人が身近にある不満から犯罪に手を染める。そこからのテンポのいい侵入劇や、予想だにできない綺麗な伏線回収が気持ち良い。
重松の最後まで意地悪く金銭を手に入れようとする人間らしさも面白かった。
バカリズム独特の子気味良い会話劇も光っていて飽きずに見ることができる。
普段犯罪なんてしなさそうな大人しい人でも、不満やストレスは隠し持っていて、何がスイッチとなり行動に移されるかは分からないなと思う。また、誰かの何気ない行動一つ一つがバタフライエフェクトとなっている。また、毛利の登場によって、すべて見えている気になっている視聴者の度肝を抜き、一気に伏線回収される気持ちの良い構造になっていると思う。
24.ミッシング(2024) 監督:吉田恵輔
あらすじ
失踪した娘を必死に捜し続ける母親。情報提供を求めてメディアに登場する彼女だったが、マスコミ報道やSNSの好奇の対象として消費されていく。
飽きる瞬間は少しもなかったが、息付く暇もなく、一旦見るのを休みたくなるくらい誹謗中傷や何気ない軽い言葉一つ一つの棘や偏見がすごく粒だって見えて、親の気持ちになるとより苦しい気持ちになる作品だった。
また、弟などを見ているとその人の表面的な部分がどれだけその人の一部分でしかないか、そこだけでその人の人格を決めつけることの恐ろしさを感じた。
人は嘘をつくし、勘違いもするし、分かっていても言えない、間違えてしまう瞬間は多くある。これが正しいとわかっていても勇気が出ないこともある。誰も悪気は無いが、悪気がないからこそ何気ない一言の攻撃性がより高いなと思う。この作品ではSNSの誹謗中傷やマスコミの報道について、訴えかけているがこうした今もSNSを開けば誰かが誰かを批判していて、訴えかけても変わらないんだろうなという無常さも少し感じてしまった。
SNSという世界を取り巻く大きな渦を動かすことは容易ではない。それでも取り上げておかしいと叫ぶことができるのもまた、映画の力かなと思った。何かを変えることはできなくても、おかしな世の中を可視化して問題提起することができるのはエンタメの力で、それと同時にそれを広く広めるためにはSNSが必要でジレンマだなと思った。
全体を通して、苦しいことばかりで美羽ちゃんが見つかることも無くエンディングを迎えたため、すごく締め付けられる最後だった。この締め付けられる程の感情移入はSNSという現実に存在する最も身近にある残酷な世界を描くことで、観客がリアルなえぐみや気持ち悪さをフィクションではなく体感できる、もしくはしているからだと思う。
姉弟の関係が少し変わったことはほっとしたが、本当に些細なでも大切な変化でそこに安堵する気持ちと大きくは変わらない現状を俯瞰してハッピーエンドとは言えない複雑なラストだった。
グラグラなメンタルの妻と冷静にあまり気持ちを表に出さない夫の対比やすれ違いがあり、夫のあまり表に出さない感情を考えると表情にもより目がいく。
「事実が面白いんだよ」というマスコミに対する批判や、「追い詰められると自分がついた嘘にも縋りたくなるのかもしれない」といった人間の本質に触れる台詞など、印象的な台詞も多くあった。
25.新宿野戦病院(2024) 監督:宮藤官九郎
あらすじ
新宿歌舞伎町の片隅に建つ「聖まごころ病院」は、かつてホームレスや犯罪者などワケありな背景を持つ患者も分け隔て無く治療する「新宿の赤ひげ先生」高峰啓介院長の下で人々の尊敬を集めていたが、時代と共に施設の老朽化やドクターの質の低下が顕在化し、現在はワケあり患者からも忌み嫌われるその荒廃ぶりから「新宿野戦病院」と揶揄されていた。そんな中、岡山弁混じりの英語を喋る謎の女ヨウコ・ニシ・フリーマンが、軍医として本物の野戦病院を経験した凄腕の外科医であることが判明し、平等に雑に目の前の命を救っていく。
ヨウコ先生の最初のインパクトがかなり強いが、それに負けない社会的なメッセージやコメディ要素の面白さがある。新宿というひとつの場所を舞台にここまで話を広げることができるのもすごいし、それだけ様々な思いが犇めく場所なのだと思った。
医療ドラマとしても、野戦病院にフォーカスを当てた作品は少なく、新しい視点だなと思う。差別や身寄りのない若者など、綺麗事だけではなく、リアルを描いているなと思う。
26.月まで三キロ(2018) 著者:伊予原新
あらすじ
死に場所を探して彷徨う男がタクシーで山奥まで誘われるという物語。
著者が地球惑星科学を専攻していたことから、宇宙や月の知識が詳細で、男の人生と運転手の息子の話に月が光を当てている感じがする。日常の悩みや辛いこともどれもこれも宇宙規模で考えると些細なことで、遠い存在になってしまったと思っていた父も物理的に考えれば会うことは叶う。人間関係のいざこざで会いづらくなっている相手でも、生きている限りは会ってやり直すこともできる。月という壮大ではるか彼方の存在を引き合いに出すことで、重く考えすぎていた心を少し軽くしてくれる作品だと思った。
また、月の裏側という見ることのできない部分への探求と、息子の見えない一面を重ね合わせており、見えないけれどいつかは見てみたい、見なければならないという気持ちの表現が良いなと思った。
27.トイ・ストーリー3(2010) 監督:リー・アンクリッチ
あらすじ
持ち主の男の子が成長して大学の寮に引っ越す際に、手違いから捨てられそうになったお気に入りのおもちゃたち。逃げ出した彼らは保育園への寄付品に混ざりこみ、また小さい子どもに遊んでもらえると張り切る。一方、カウボーイ人形だけは男の子のもとに帰ろうと脱出するが、仲間に危険が迫っていることを知って引き返す。
トイ・ストーリーの中でも今作は特に人気の強い作品だが、それは子どもだけでなく大人にも刺さる内容だからだと思う。むしろアンディとの別れは大人になってしまった人たちにこそ分かる感情でもあり、子どもも楽しめるロッツォという悪役との戦いに加えておもちゃの存在意義や子どもの時間の短さを痛感する作品だなと思う。
アンディがボニーにおもちゃを渡すシーンでは、ウッディに手を伸ばしたアンディに気づき、アンディが一瞬手を引っこめる。体が勝手に動くくらいいくつになっても大切な宝物であることがそのシーンですぐに分かる。おもちゃが主人公で人間たちの内面の感情がはっきりと描写されることはほとんどないが、だからこそそういった些細な動きにも視聴者は意識を向ける。そして制作側もアンディのおもちゃたちへの愛を丁寧に描写している。
本来意志を持たないおもちゃだが、おもちゃにも心があるかもしれないとこういった作品を生み出すのは、日本で言うところの付喪神を思い出した。人形に関わらずチャターフォンなど、ものにも愛情を向けるのは本当に素敵なことだなと思う。
28.ボッコちゃん(1971) 著者:星新一
あらすじ
近未来を舞台に、バーで働く女性型アンドロイド"ボッコちゃん"に対する男性客の絶望的な恋を描いた作品。
自分が言ったこととまったく同じレスポンスをするアンドロイドという発想は現代のAIなどが発達した今日では逆に思いつくのが難しいような、当時のまだ、夢見ていた頃の突飛な発想という感じがして面白い。また、自分が言ったことがオウム返しで返ってくるだけで実際は会話もできていないにも関わらず、彼女にのめり込んで行く男は自分が欲しい言葉をそのままくれるアンドロイドを前に気が大きくなり絶望的な結果を生み出してしまったように思う。人間の業のような、誰もが持ち合わせている人間味のある思考や感情、苦悩などを描くのが上手いなと思う。
29.最後の地球人(「ボッコちゃん」(1971)) 著者:星新一
あらすじ
限りなく人口が増加し続けた地球はある瞬間から減少の一途を辿る。
この作品は旧約聖書の創世記の逆回しになっている。私はそれを知らなかったため、調べるまでこの作品の真意が分からなかったが、分かってみると星新一らしいというか、少し不思議で面白い作品だなと思う。
人類の終わりというこの文庫の最後にふさわしい内容で、ただ短編を楽しむだけでなくこの本をすべて読み切ったからこその良い読後感を味わえた。
人類の終わりという壮大なテーマを短編に落とし込むのは難しいと思うがそれを見事に形にしており、滅亡直前の静かで物寂しい雰囲気が文章だけでも伝わってきた。
最後の地球人である人間が何かをしなくてはいけないのだなという何もかも分かっているような姿は神なのだなと思う。
30.処刑 星新一の不思議な短編ドラマ(2022) 演出:柿本ケンサク
あらすじ
主人公の男性は殺人罪で有罪判決を受け、処刑のために遠い惑星へと送られる。
主人公は、喉の渇きと死の恐怖の間で苦悩することになる。何故ならば彼は水を得るために必要な球のボタンを押すたびに、爆発の可能性と向き合わなければならないからだ。この極限状態の中で、主人公は重要な気づきを得る。
何かに男が気づいてから、男はお風呂に入り、球を愛でながら叫ぶ。それを私は何かを諦観したような状態なのかと思ったがそれでは何かに気づいたとは言えない。
男は極限下で選択をしていくうちにこれが日常生活と何ら変わりないことに気づく。私たちは日常生活において様々な選択を常にしている。その選択の自由は自己や他者の生死にも関わる可能性がある。
球がいつ爆発するか分からない状態というのも、日常生活において事故や病気で予期せず死ぬということと何ら変わりない。死は常に普遍的で、生は不確実なものである。
それを普段の私たちはあまり意識できていないだけで、男はそれに気づき、目の前の死の可能性に対して極度に恐れる必要はないと悟ったのだと思う。それを噴火などの日常生活における死の可能性を映し出し、極限状態でのお風呂という一見イカれた行動をすることで視聴者に伝えている。
男が最後によっしゃあと叫んでいる場面は、気づきを得たことでこれはもはや処刑では無いという勝ち誇った叫びなのかなと感じた。
あえて多くは語らず、映像だけでこの新たな視点を伝えているのはすごいなと思うし、言葉のある原作ではまた違った描かれ方をしているだろうと思う。
16.ウォンカとチョコレート工場の始まり(2023)
監督:ポール・キング
あらすじ
美味しいチョコレートの店を作ろうと夢見るウィリー・ウォンカ。邪魔をされながらも母からの言葉を胸に、夢を叶えようと奮闘する。
「チャーリーとチョコレート工場」のウォンカのひねくれ方が尋常じゃないと思うくらいキャラが違うなと思った。チャーリーとチョコレート工場では父が出てきたが、今作では母の存在が描かれている。どちらも片方しか出ておらず、夫婦の関係には言及されていない。だが、父に強く当たられていた可哀想なウィリーではなく、優しい母との約束を守るために夢を追いかける若いまだキラキラしたウィリーが今作では見ることができる。
また今作では毒と言っていたものが、チャーリーとチョコレート工場では普通使用されている辺りがウィリーの中でどんな心境があったのかが気になる。
また、ラストシーンのチョコを分かち合う仲間といって分け合うシーンが、チャーリーがプレゼントのチョコを家族に割って分け与えるシーンと重なったり、前作を感じる部分が多々ある。連続で見たからこそすぐに気づける部分があり、シリーズものならではの楽しさを感じることができた。
宿の下の生活は本来なら苦しいものだが、ミュージカルになることで辛い中にもユーモアがあり、短い中で距離が縮まっていくミュージカルのテンポ感の良さもあった。
他にもチャーリーとチョコレート工場と同じ、クリスマスプレゼントを開けた時のような夢の世界が出てきていて、ワクワクした。
お店のシーンやカバンを初めて開けた時など
チョコを食べた瞬間誰もが虜になるウォンカのチョコレートはこちら側も食べたくなるような魔力がある。
そこを強調しているのも、魔法の正体を詳しく明かさないのも、子どもたちの夢や魔法を守って、完全に誰もが子どもになれる世界だと思う。「ハリー・ポッター」などとはまた違った、非現実の世界。だけど何よりも憧れる世界。お菓子という身近なものだからこそ、具体的な仕掛けを明かさないからこそ、大人も子どもも夢を見ることができるのだと思う。
17.バサラオ(2024) 演出:いのうえひでのり
あらすじ
幕府と帝が相争う、混乱そして裏切りの時代。
島国「ヒノモト」に生きる男が二人。
幕府の密偵を足抜けし、逃亡していたカイリは、狂い桜の下、麗しき顔で女たちを従えたヒュウガが催すバサラの宴に出くわす。
そこにやってくる幕府の役人たち。ヒュウガに惹かれ家を出た女たちを連れ戻そうとするが、女たちは嬉々として役人に斬りかかり、散っていく。それを平然と眺めるヒュウガ。
「俺のために死ぬのは最高の至福。それを邪魔する幕府はつぶせばいい」。
その言葉に驚き、惹きつけられたカイリはヒュウガの軍師になることを決意。二人は咲き乱れる狂い桜の下で手を結ぶ。
「バサラの宴は続く。この俺の光がある限り」眩しい光に飲み込まれ、美の輪廻に堕ちた者の群れ。たどり着くのは地獄か、それとも極楽か?バサラの宴が今、幕を開ける。
新感線特有のパンクロックな音楽に豪華絢爛な衣装に舞台装飾、それに負けない演者の存在感、ツケ打ちや見得など歌舞伎の要素はふんだんに入れつつも、これぞ劇団新感線といった作品だった。客席も乗らせるライブのような空気感も新感線ならではだた思う。
一転二転する物語のスピード感もさることながら、歌や踊り、キレのある殺陣、コントのような笑いなど含めて、至極のエンターテインメントという感じだった。
ストーリーとしてはヒュウガの美しさやそれに隠れた賢く 強さで国を牛耳ろうと
自分自身も惚れるほどのヒュウガという存在、カイリの執拗なまでのヒュウガへの怨みが迫力のある演技とマッチして圧倒された。
また、カイリ自身もヒュウガに狂わされた一人でもあり、一目見たものの心を惑わすヒュウガの美貌に観客側も惹かれた。そしてその役に説得力を持たせる役者の演技も見事だった。
誰が敵か味方か分からない、戦乱の世で信じられるのは己だけという言葉通りのどんでん返しの連続だった。
だがヒュウガのバサラを語れるのは自分だけという自分の美貌への圧倒的な自信やカイリの執念、散っていった者たちの最期も皆一本芯が通っていてこの人のためなら死ねるという考えは戦の世の中ならではの考え方だなと思う。
自分の邪魔をする者は皆排除するというヒュウガの手段を選ばない姿は、いやらしくも、美しく、ダークファンタジーとしても煌びやかな作品だった。
18.スオミの話をしよう(2024) 監督:三谷幸喜
あらすじ
ある日、大富豪の妻・スオミが突然姿を消す。彼女の失踪を知り、スオミを愛した年齢も職業も異なる個性的な5人の男性たちが、夫の住む大豪邸に集まる。彼らはそれぞれスオミについて語っていくが、浮かび上がる彼女のイメージは見た目も性格も異なっていた。
三谷幸喜らしい不思議な設定と、癖のある登場人物たちの掛け合いや、今の時代には珍しいアイリスアウトの暗転方法などどこか安心する定番の笑いが面白い。定番の中にも意味のわからない設定や笑いを入れてくる独特さは現代でも癖になるものがある。
また、スオミという人間の特殊性、環境によりそうならざるを得なかった哀愁も感じた。様々な姿を演じているがそれは彼女なりの処世術であり彼女の本当の姿は、どこにでもいる女性だと思う。ただ少し人を誑かす才能があっただけだと思う。
魚山を使ってつまんねぇこと聞いてんじゃねぇよと本心を叫ぶシーンは、最後まで演じているようで、彼女らしさが見えるシーンだなと思った。
ラストのミュージカルシーンはあまりに突然で、度肝を抜かれるがひたすらにヘルシンキのことを歌ったそれは耳にも残る上に、ずっと素顔が見えなかった彼女にとって本当にしたかったことはこれなんだとこれでもかと見せつけられている感じがした。
19.記憶にございません!(2019)監督:三谷幸喜
あらすじ
史上最悪のダメ総理と国民から嫌われる内閣総理大臣の男は、演説中に石を投げられて病院に運ばれる。やがて目を覚ました彼は、一切の記憶を失っていた。国政の混乱を懸念した3人の秘書官は、その事実を伏せて世間や身内からも隠し通そうとする。一方、何も思い出せない総理は次々とトラブルに見舞われるうちに、なんとか現状を変えようと奮起する。
急に人が変わってはみんながびっくりしてしまうだろうという言葉は誰もが感じたことがあるのでは無いかと思う。人は皆どこか演じていて、環境によっても態度は変わる。そして一度それで定着してしまうとたとえそれが本当の自分でなくても貫かなくては演技だとバレてしまう。共感できる悩みで、実は変わりたいと思っている人は沢山いて、そういう人たちの頭に石が当たって記憶喪失になればいいのにという現実ではありえない淡い希望を物語に起こした作品だなと思う。
そうそうこんなにうまくは行かないけれど、少し踏み出してみたらもしかしたらこの物語みたいな未来が待っているかもしれないと期待させてくれる、勇気をくれる作品。
この作品の登場人物は前のめりで、止まることがない。みんながトラブルを乗り越えようと必死になる。このようながむしゃらな大人もかっこいいと思わせてくれる。
20.赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。(2023)
監督:福田雄一
あらすじ
シンデレラと共に出席したお城の舞踏会で、思わぬ事件に巻き込まれた赤ずきん。彼女は12時の鐘が鳴る前に、謎を解き明かすべく奮闘する。
人を殺しているから、仕方ないけどシンデレラが少し可哀想だった。
美しさが全てというルッキズムの国で、迫害されていたシンデレラが自分の身を守るために取った行動だと考えると悲しいなと思う。
また、赤ずきんという外部の人間によって、この国の異様さが明らかになり、少しずつ変わっていく様子も面白い。
何より、福田監督ならではのコメディシーンがキャッチーで、童話というファンタジーな世界でもそれが成立していたのがすごい。だが、現実世界で使えるメタ的な発言や、現代的なユーモアが使えない分、完璧なファンタジー世界では少しそのユーモアが浮きそうな場面もあった。「勇者ヨシヒコ」ではそんなことは無かったが、「シンデレラ」や「赤ずきん」の原作が日本では無いことも違和感の要因としてあるのかなと思った。有名な作品を使うということは難しいことなんだなと思った。
21.西園寺さんは家事をしない(2024) 演出:竹村謙太郎、井村太一、山本剛義、渡部篤史
あらすじ
仕事はバリバリやるが家事は一切しない、そんな38歳独身女性の主人公・西園寺さんはマイホームと念願の“家事ゼロ生活”を手に入れたばかりそんな中、どういうわけか年下の訳ありシングルファーザーと「偽家族」として暮らすことになる。風変わりな同居生活を通して「幸せって何? 家族って何?」を考えるハートフルラブコメディ。
多様な現代の家族ノカタチを表しているなと思った。
最後に海外に行くのも、型にハマらない、とらわれないという意味では正解だなと思った。楠見くんの経験値も伏線となり自然だった。
ラストのルカちゃんのカメラに向けた言葉も、いないけどいると言っていたり、霊感があったりするるかちゃんが最後の最後に視聴者も見えていた感じもして、ドキッとしたし、seeyou Soon I hopeも粋なラストだなと思った。霊感という設定があることで最後にルカちゃんがルイさんの笑顔を見ることができて良かった。原作とは違うけど、新たに笑いや感動が生まれて、良い改変だったと思う。
ルカちゃん目線の回もあり、ルカちゃんのむわぁという気持ちも大事にしていて、ただのラブコメディではなく三人がみんな幸せになる家族とは違う新しい形の答えを偽家族という生活を通して見つけたのかなと思った。
様々な形の人間関係が増えて答えがないからこそ、それでも幸せになれるかたちをひとつ提示した作品だなと思う。
はっきりと明言しないのもまた今らしいなと思う。それでもみんなが心から笑顔になる、愛があることが大事というのは今も昔も変わらないことだとは思う。
偽家族という内容は人によってはどうだろうと思うような新しい形だけど、それが気にならないくらいルカちゃんのかわいさが伝わってきて、二人の一生懸命理想を実現させようとする様が応援したくなる。
22.ONEPIECE FILM RED(2022) 監督:谷口悟朗
あらすじ
世界中の人々を歌声で魅了する人気歌手・ウタ。素性を隠してきた彼女が、初めて世間に姿を見せるライブが開かれることになる。そして、迎えたライブ当日、ルフィたちを含めた海賊や海軍たちが集結。しかしそこで、ウタに関する衝撃な事実が発覚する。
ワンピースという海賊世界であまり描かれない芸術の部分を知ることができた
海賊時代でも音楽はあり、世界中の人々がそれによって幸せになっている。
現実と変わらない海賊時代の人々の日常の側面が見れた。エンディングのこれまで登場したキャラクターの音楽を楽しむ姿を見ることでより、この世界を多面的に知ることになり、よりワンピースという作品の解像度や理解が深いものとなった。長年やっている作品だからこそできる挑戦的な作品でもあったと思う。
バトル漫画だが、そこに生きる人々は現実世界と変わらず毎日を生きているということを実感した。複雑で多面的でどんなに知っている気がしても、まだ成長して新しい面が見れるのは人のようだなと思った。
ワンピースは悪魔の実など現実にはありえない設定や体の動きをする非現実的なデフォルメされた世界だが、その中にも心理描写の繊細さがあり、その繊細な心理描写と漫画やアニメーションでしか描けない熱いバトルが組み合わさり大人も子どもも楽しめるコンテンツになっているのだと思う。
シャンクスという重要キャラクターの娘ということもあり、父と娘の物語も濃密なもので、観客をたかぶらせるものだと思う。
この作品が世界的にも大ヒットしたことで、ウタの歌声で世界中の人々を幸せにする、多くの人に聞いてもらうということができているということが現実と作品がリンクしている感じもあり、今見ることで別の感動もあった。挿入歌がどれも再生回数が爆発的な勢いであるというのもウタの存在感が現実でも強くあることが、よりウタというキャラクターの深みを増していると思う。
また、ウタが感情を乗せて歌うという音楽劇のようなアニメーションは日本のアニメでは少ないと思うため、アニメーションの歴史自体にも残る作品であると思う。
また、前半のウタの歌唱シーンは実際にミュージカルを見ているような高揚感と同じで、言葉だけでは無い、メロディを伴った音楽の人の心を動かす力を改めて体感した。
Adoもそうだが、ワンピースという世界中で愛される作品を通して、様々なアーティストが楽曲定価した日本の音楽も世界に届けることができたという意味では世界規模で強い影響力のある作品であったのだなと思う。
挿入歌の歌詞もウタの心情に沿ったもので、最近減ってきているキャラソン文化がまた開いた感じがする。
少し前までキャラソンは作品の世界観関係なく作られていたイメージだが、やはり音楽を題材にした作品であれば現代でも強い文化だと思う。
23.侵入者たちの晩餐(2023) 演出:水野格
あらすじ
ある年の瀬の夜、豪邸に亜希子、恵、香奈恵という3人の女性が侵入する。
時はさかのぼり1か月前、家事代行サービス会社で働く亜希子は、同僚の恵から社長の奈津美が脱税した金を自宅に溜め込んでいるという噂を聞く。
亜希子はそのタンス預金を盗む計画を立てる。
テンポが良く、展開が読めない目新しさのある作品だった。まったく犯罪からは程遠そうな三人が身近にある不満から犯罪に手を染める。そこからのテンポのいい侵入劇や、予想だにできない綺麗な伏線回収が気持ち良い。
重松の最後まで意地悪く金銭を手に入れようとする人間らしさも面白かった。
バカリズム独特の子気味良い会話劇も光っていて飽きずに見ることができる。
普段犯罪なんてしなさそうな大人しい人でも、不満やストレスは隠し持っていて、何がスイッチとなり行動に移されるかは分からないなと思う。また、誰かの何気ない行動一つ一つがバタフライエフェクトとなっている。また、毛利の登場によって、すべて見えている気になっている視聴者の度肝を抜き、一気に伏線回収される気持ちの良い構造になっていると思う。
24.ミッシング(2024) 監督:吉田恵輔
あらすじ
失踪した娘を必死に捜し続ける母親。情報提供を求めてメディアに登場する彼女だったが、マスコミ報道やSNSの好奇の対象として消費されていく。
飽きる瞬間は少しもなかったが、息付く暇もなく、一旦見るのを休みたくなるくらい誹謗中傷や何気ない軽い言葉一つ一つの棘や偏見がすごく粒だって見えて、親の気持ちになるとより苦しい気持ちになる作品だった。
また、弟などを見ているとその人の表面的な部分がどれだけその人の一部分でしかないか、そこだけでその人の人格を決めつけることの恐ろしさを感じた。
人は嘘をつくし、勘違いもするし、分かっていても言えない、間違えてしまう瞬間は多くある。これが正しいとわかっていても勇気が出ないこともある。誰も悪気は無いが、悪気がないからこそ何気ない一言の攻撃性がより高いなと思う。この作品ではSNSの誹謗中傷やマスコミの報道について、訴えかけているがこうした今もSNSを開けば誰かが誰かを批判していて、訴えかけても変わらないんだろうなという無常さも少し感じてしまった。
SNSという世界を取り巻く大きな渦を動かすことは容易ではない。それでも取り上げておかしいと叫ぶことができるのもまた、映画の力かなと思った。何かを変えることはできなくても、おかしな世の中を可視化して問題提起することができるのはエンタメの力で、それと同時にそれを広く広めるためにはSNSが必要でジレンマだなと思った。
全体を通して、苦しいことばかりで美羽ちゃんが見つかることも無くエンディングを迎えたため、すごく締め付けられる最後だった。この締め付けられる程の感情移入はSNSという現実に存在する最も身近にある残酷な世界を描くことで、観客がリアルなえぐみや気持ち悪さをフィクションではなく体感できる、もしくはしているからだと思う。
姉弟の関係が少し変わったことはほっとしたが、本当に些細なでも大切な変化でそこに安堵する気持ちと大きくは変わらない現状を俯瞰してハッピーエンドとは言えない複雑なラストだった。
グラグラなメンタルの妻と冷静にあまり気持ちを表に出さない夫の対比やすれ違いがあり、夫のあまり表に出さない感情を考えると表情にもより目がいく。
「事実が面白いんだよ」というマスコミに対する批判や、「追い詰められると自分がついた嘘にも縋りたくなるのかもしれない」といった人間の本質に触れる台詞など、印象的な台詞も多くあった。
25.新宿野戦病院(2024) 監督:宮藤官九郎
あらすじ
新宿歌舞伎町の片隅に建つ「聖まごころ病院」は、かつてホームレスや犯罪者などワケありな背景を持つ患者も分け隔て無く治療する「新宿の赤ひげ先生」高峰啓介院長の下で人々の尊敬を集めていたが、時代と共に施設の老朽化やドクターの質の低下が顕在化し、現在はワケあり患者からも忌み嫌われるその荒廃ぶりから「新宿野戦病院」と揶揄されていた。そんな中、岡山弁混じりの英語を喋る謎の女ヨウコ・ニシ・フリーマンが、軍医として本物の野戦病院を経験した凄腕の外科医であることが判明し、平等に雑に目の前の命を救っていく。
ヨウコ先生の最初のインパクトがかなり強いが、それに負けない社会的なメッセージやコメディ要素の面白さがある。新宿というひとつの場所を舞台にここまで話を広げることができるのもすごいし、それだけ様々な思いが犇めく場所なのだと思った。
医療ドラマとしても、野戦病院にフォーカスを当てた作品は少なく、新しい視点だなと思う。差別や身寄りのない若者など、綺麗事だけではなく、リアルを描いているなと思う。
26.月まで三キロ(2018) 著者:伊予原新
あらすじ
死に場所を探して彷徨う男がタクシーで山奥まで誘われるという物語。
著者が地球惑星科学を専攻していたことから、宇宙や月の知識が詳細で、男の人生と運転手の息子の話に月が光を当てている感じがする。日常の悩みや辛いこともどれもこれも宇宙規模で考えると些細なことで、遠い存在になってしまったと思っていた父も物理的に考えれば会うことは叶う。人間関係のいざこざで会いづらくなっている相手でも、生きている限りは会ってやり直すこともできる。月という壮大ではるか彼方の存在を引き合いに出すことで、重く考えすぎていた心を少し軽くしてくれる作品だと思った。
また、月の裏側という見ることのできない部分への探求と、息子の見えない一面を重ね合わせており、見えないけれどいつかは見てみたい、見なければならないという気持ちの表現が良いなと思った。
27.トイ・ストーリー3(2010) 監督:リー・アンクリッチ
あらすじ
持ち主の男の子が成長して大学の寮に引っ越す際に、手違いから捨てられそうになったお気に入りのおもちゃたち。逃げ出した彼らは保育園への寄付品に混ざりこみ、また小さい子どもに遊んでもらえると張り切る。一方、カウボーイ人形だけは男の子のもとに帰ろうと脱出するが、仲間に危険が迫っていることを知って引き返す。
トイ・ストーリーの中でも今作は特に人気の強い作品だが、それは子どもだけでなく大人にも刺さる内容だからだと思う。むしろアンディとの別れは大人になってしまった人たちにこそ分かる感情でもあり、子どもも楽しめるロッツォという悪役との戦いに加えておもちゃの存在意義や子どもの時間の短さを痛感する作品だなと思う。
アンディがボニーにおもちゃを渡すシーンでは、ウッディに手を伸ばしたアンディに気づき、アンディが一瞬手を引っこめる。体が勝手に動くくらいいくつになっても大切な宝物であることがそのシーンですぐに分かる。おもちゃが主人公で人間たちの内面の感情がはっきりと描写されることはほとんどないが、だからこそそういった些細な動きにも視聴者は意識を向ける。そして制作側もアンディのおもちゃたちへの愛を丁寧に描写している。
本来意志を持たないおもちゃだが、おもちゃにも心があるかもしれないとこういった作品を生み出すのは、日本で言うところの付喪神を思い出した。人形に関わらずチャターフォンなど、ものにも愛情を向けるのは本当に素敵なことだなと思う。
28.ボッコちゃん(1971) 著者:星新一
あらすじ
近未来を舞台に、バーで働く女性型アンドロイド"ボッコちゃん"に対する男性客の絶望的な恋を描いた作品。
自分が言ったこととまったく同じレスポンスをするアンドロイドという発想は現代のAIなどが発達した今日では逆に思いつくのが難しいような、当時のまだ、夢見ていた頃の突飛な発想という感じがして面白い。また、自分が言ったことがオウム返しで返ってくるだけで実際は会話もできていないにも関わらず、彼女にのめり込んで行く男は自分が欲しい言葉をそのままくれるアンドロイドを前に気が大きくなり絶望的な結果を生み出してしまったように思う。人間の業のような、誰もが持ち合わせている人間味のある思考や感情、苦悩などを描くのが上手いなと思う。
29.最後の地球人(「ボッコちゃん」(1971)) 著者:星新一
あらすじ
限りなく人口が増加し続けた地球はある瞬間から減少の一途を辿る。
この作品は旧約聖書の創世記の逆回しになっている。私はそれを知らなかったため、調べるまでこの作品の真意が分からなかったが、分かってみると星新一らしいというか、少し不思議で面白い作品だなと思う。
人類の終わりというこの文庫の最後にふさわしい内容で、ただ短編を楽しむだけでなくこの本をすべて読み切ったからこその良い読後感を味わえた。
人類の終わりという壮大なテーマを短編に落とし込むのは難しいと思うがそれを見事に形にしており、滅亡直前の静かで物寂しい雰囲気が文章だけでも伝わってきた。
最後の地球人である人間が何かをしなくてはいけないのだなという何もかも分かっているような姿は神なのだなと思う。
30.処刑 星新一の不思議な短編ドラマ(2022) 演出:柿本ケンサク
あらすじ
主人公の男性は殺人罪で有罪判決を受け、処刑のために遠い惑星へと送られる。
主人公は、喉の渇きと死の恐怖の間で苦悩することになる。何故ならば彼は水を得るために必要な球のボタンを押すたびに、爆発の可能性と向き合わなければならないからだ。この極限状態の中で、主人公は重要な気づきを得る。
何かに男が気づいてから、男はお風呂に入り、球を愛でながら叫ぶ。それを私は何かを諦観したような状態なのかと思ったがそれでは何かに気づいたとは言えない。
男は極限下で選択をしていくうちにこれが日常生活と何ら変わりないことに気づく。私たちは日常生活において様々な選択を常にしている。その選択の自由は自己や他者の生死にも関わる可能性がある。
球がいつ爆発するか分からない状態というのも、日常生活において事故や病気で予期せず死ぬということと何ら変わりない。死は常に普遍的で、生は不確実なものである。
それを普段の私たちはあまり意識できていないだけで、男はそれに気づき、目の前の死の可能性に対して極度に恐れる必要はないと悟ったのだと思う。それを噴火などの日常生活における死の可能性を映し出し、極限状態でのお風呂という一見イカれた行動をすることで視聴者に伝えている。
男が最後によっしゃあと叫んでいる場面は、気づきを得たことでこれはもはや処刑では無いという勝ち誇った叫びなのかなと感じた。
あえて多くは語らず、映像だけでこの新たな視点を伝えているのはすごいなと思うし、言葉のある原作ではまた違った描かれ方をしているだろうと思う。
3年 有田真優美
RES
1〜15
1.演劇入門(1998) 著者:平田オリザ
あらすじ
若き天才が全て明かす「芝居作りの技術」。シェイクスピアはなぜ四世紀にわたって人気なのか? 日本で対話劇が成立しづらいのはなぜか? 戯曲の構造、演技・演出の方法を平易に解説する画期的演劇入門書。
演劇に関わる人間として、学べることが多くあった。脚本の書き方というものがそもそもまるで分からない自分でも、どこから考え始めればいいのかが何となく分かるくらいには初心者に丁寧であると思う。また、役者や演出家に関しても、どんな心構えで挑むべきなのか、どんな問題点があり、どうクリアして行くべきなのかということが論じられていた。コンテクストがその人の状況や、場面、考え方によっても全く違う捉え方ができるということはすごく勉強になった。演技で言えば、長旅の電車で向かいあわせの席があったとして、向かいに人がいたら話しかけるか?、話しかけるとしたらどんな風に?というのも人によって全く異なる。それは人種や年齢などによって様々だ。それでも演劇は自分の中にないコンテクストでも理解して演じなければならない。役者は自分のコンテクストと演出家のコンテクストの擦り合わせが大事だということがその通りだなと思った。役者は演出家の意図をどれだけ形にできるかが重要だと私は思っているため、他人同士なら必ず生じるコンテクストのズレをどれだけ埋められるかという部分は大切だと思った。
2.ミステリと言う勿れ 劇場版(2023) 監督:松山博昭
あらすじ
大学生の久能整は、たまたま訪れていた広島でとある一族の遺産相続争いに巻き込まれてしまう。やがて彼は、一族の闇の歴史に秘められた謎を解き明かしていくことになる。
ドラマシリーズが映画化していることもあり、テンポよく見ることができて謎が謎を呼ぶ展開が面白い。遺産相続争いや、古い一族の掟を守り続ける者たちなど時代錯誤な一族に、久能くんが数々の名言を投げかける。
個人的には、汐路に話した「自分には絵の才能がない、下手だと思うということは目が肥えてきたということ。下手な人はそれすらも分からない。だから下手だと思う時こそ伸び時だ。」という言葉だ。自分に通じる部分もあり、ハッとしたし久能くんはいつも他の人とは違う視点でものを見ていてハッとする言葉を言ってくれて、そこがこの作品のもっとも魅力的な部分であることは間違いない。
3.地面師たち(2024) 監督:大根仁
あらすじ
2017年、再び土地価格が高騰し始めた東京。伝説の大物地面師・ハリソン山中に誘われ地面師詐欺の道に踏み込んだ辻本拓海。それぞれにプロフェッショナルな犯罪者数名で構成された地面師グループの彼らは、緻密かつ周到な計画で大手デベロッパーに詐欺を仕掛け、巨額を巻き上げていた。そんな彼らが次なるターゲットに選んだのは、時価100億円とも言われる土地。前代未聞の詐欺に挑む一方で、かつてハリソンを逮捕寸前まで追い込みながら、結局逮捕することができなかった定年間近の刑事・辰は、新人刑事と共に独自の捜査を開始していた。騙す側と騙される側、そして刑事の三つ巴の争いは、次第に拓海の「過去」とハリソンの「因縁」を浮き彫りにしていく。
あまり聞き馴染みのない犯罪集団だったが、
「地の面」という舞台や「マルス」というドラマでも扱われるほど、ドラマ内でも言っていたように、東京オリンピック以降地面師という犯罪者達が改めて増えているんだなと今回のドラマで知った。
死体や残虐なシーンの描写をあえて映したり、性的なシーンもあり、ハリソンを見ていても分かるように人間の欲望や快感、残酷非道な部分などを絵的な部分でもはっきりと映像として映していてリアルだなと思う。犯罪の手口についてもしっかりと描かれていて、巧妙で最悪だが、ギリギリの瀬戸際でバレずに成功するというシーンは緊張感もありつつ、観客にまでそのエクスタシーが伝わってくる。それがまた胸糞悪い感情を観客に与えてくる。最終話でハリソンが拓海に復讐を念頭に置きながらもどこか地面師という犯罪にエクスタシーを感じていたんじゃないかと問いかける。それは同時に観客にも問いかけていると思う。人が死ぬドラマや映画は一定の人気がある。それは決してやってはいけないことで、辛く苦しいものだが、死という誰もが興味のあることを描いているからだと思う。だからどんなに重くても目が離せない。
また、観客自身も地面師詐欺という何ヶ月もかけて行う巧妙なトリックにどこかのめり込んでいくのだと思う。そこに最後終止符を打つように倉持が「仕事じゃないですよ、犯罪です。」とはっきりと言葉にする。その言葉で拓海も観客自身も目が覚める。
ヴィラン側を主役に置くとどうしてもそちらに感情移入しがちで、地面師という賢い鮮やかな手口に目を惹かれるが、その代償の大きさや、その結果生み出された被害者達を見てこの犯罪の恐ろしさがよく分かるドラマになっていると思う。捜査一課ばかりがドラマになりがちだが、二課の知能犯との戦いに目を向けた新しい作品だと思う。
4.カラオケ行こ!(2024) 監督:山下敦弘
あらすじ
中学校の合唱部で部長を務める岡聡実は、ある日突然ヤクザの成田狂児にカラオケに誘われる。狂児は組で行われるカラオケ大会で最下位を避けるため、聡実に歌の指導を頼む。X JAPANの“紅”を勝負曲にした狂児に、聡実は嫌々ながら指導を始めるのだが……
真面目で大人しい中学生とヤクザという本来なら絶対に交わらない二人のひと時の青春だと思う。年齢も立場も違う二人だが歌というひとつの目標に向かって仲良くなれるという人間の面白い部分がよく出ているなと思う。クラスにいたら絶対に仲良くならないようなタイプの人間同士でもたったひとつ共通項があるだけで共感できて、仲良くなれる。人間は共感したい生き物なのかなと思った。
また、聡実は声変わりからソプラノが出せなくなる。それでも三年間必死に続けてきた合唱よりも数か月前に出会ったヤクザを選んだ。それだけ運命の出会いだったのだと思う。紅という楽曲は全体を通して使うことで純粋な音痴の面白さやシーンと合った歌詞など、二人の関係性を象徴する楽曲に仕立て上げている。
素人の歌というものは本来作品の中ではこんなにフューチャーされることは少ないが、カラオケという身近な場所で、下手な歌を聞いているというリアルな場面が異色な登場人物の中でもどこか親近感を覚える事ができて面白い。カラオケだけで繋がっている二人の関係性も異様だが、そこに確かに絆を感じられるところが良い。
映画を見ているシーンはその映画によってその時々のキャラの心情や状況を俯瞰して見ることができると思う。
5.マチルダ(1996) 監督:ダニー・デヴィート
あらすじ
インチキを絵に描いたような中古車ディーラー夫婦は、けたはずれの天才少女を授かる。しかし、利口であることが災いして、少女は大きくなっても学校に行かせてもらえず。やっと通えるようになった小学校では、不条理きわまる学校生活が待っていた。そんな中、彼女は妙なパワーを持ち始める。
可愛らしい女の子が超能力で悪い大人を懲らしめるという分かりやすく勧善懲悪のストーリーで、とにかくマチルダが可愛らしい。また、マチルダはとても勇敢で親に悪いヤツはお仕置が必要と言われても、悪い子ではなく悪いヤツにお仕置が必要なら大人も含まれるのではという思考になれるポジティブさや正義感のようなものに感動した。
校長がとにかく悪者で、やっていることが今作品で行ったらコンプライアンスに引っかかりそうなことばかりだ。でも逆にそれが新鮮でスリリングで、子供向けなだけあってポップでキャッチーに描かれているため楽しく観る事ができる。校長を家で翻弄したり、懲らしめるシーンはホームアローンを思い出し、純粋な子どもだからこその発想の数々に微笑ましい気持ちになるし、子どもの頃の気持ちを取り戻させてくれる作品だと思う。
実はかなり辛い境遇のマチルダだが、それを感じさせない好奇心旺盛で勉強熱心なところは大人も見習いたくなるほどだなと思った。
6.鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎(2023) 監督:古賀豪
あらすじ
昭和31年。哭倉村へやってきた鬼太郎の父であるかつての目玉おやじ。目的は行方不明の妻を捜すことだった。やがて怪事件に巻き込まれていく。
跡継ぎ問題でどんどん人が死んでいくが、その様がどれも残虐だ。ゲゲゲの鬼太郎と言えば可愛らしい妖怪達が出てくる子ども向けのちょっぴり怖い物語というイメージだが、これは妖怪の本来の恐ろしい部分をグロテスクな表現も交えることではっきりと主張している。だが、妖怪たちはやはりこれまでの妖怪達の作画のため、ゲゲゲの鬼太郎らしいどこか可愛らしい雰囲気もある。だからこそ目玉おやじの過去や村の人々の悲惨な最後がより虚しく際立つなと思う。水木しげるが描いた作品では無いが、墓場の鬼太郎というタイトルとも繋がり、目玉おやじのあの異形が生み出された話を知ることができて感動した。また、あくまでも子ども向けの作品だからなのかバディもので敵と戦うという盛り上がりやすい熱い展開も含まれており、ゲゲゲの鬼太郎の物語としても、現代のアニメとしても良い作品だと思う。だから100年経ってもこの作品は新たな姿で今の若者にもウケているのだと思う。古いものを新しくするのは抵抗があることだが、うまいこと原作を汚すことなくアップデートされている。わかりやすいところで言うと猫娘のビジュアルなどもそうだが、時代に合わせて良い部分は残しつつ、生まれ変わることで何年も愛される作品になるのだなと思った。
7.ラストマイル(2024) 監督:塚原あゆ子
あらすじ
物流業界最大イベント、ブラックフライデーの前夜、大手ショッピングサイトの配送段ボールが爆発する。日本を震撼させる連続爆破事件に発展する中、巨大物流倉庫のセンター長に就いた舟渡エレナは、チームマネージャーの梨本孔と事態を収束させようと試みる。
現代社会の生命線である物流がテーマで、社会を形成しているとんでもない規模の巨大な流れの中にある社会問題に切り込んだ作品。
常識のある、職業倫理を持った大人達の葛藤と、様々な立場の人々の心情
まともだから簡単に辞めることもできない
巨大なシステムだからこそ止めてはならないという重圧
どの仕事でもしていると責任感からプレッシャーを感じてしまう人は多くいると思うがその最大級の仕事であると思う。ラストシーンのロッカーの前での梨本のため息は自分が引き継いだ仕事の大きさと、止めてはいけない、二度と中村倫也の演じた男のような人間を出してはいけないという相反した問題へのため息だと思った。
結局はエンディング後のメッセージがこの映画の伝えたかったことである気もする。
すべてはお客様のためではなく、お客様の欲望のためという部分は一回では難しかったが、綺麗事だけでビジネスは務まらないとは感じた。
爆弾という誰もが危機に晒される中でも人間は成長性バイアスがあり、自分は大丈夫だとどこか他人事になれる。それはあまり良くない反面、気にしすぎて壊れてしまうのを防ぐ自己防衛とも思える。
ラストマイルという言葉にも物流の最後の要の機関としてのドライバー達にも目を向け、働く人々の矜恃や闘いを見ることができた。
シェアードユニバースムービーという新しい世界観の構成も綺麗で、ドラマを見ていた人々が楽しめる仕掛けも施されていて、二時間という短い中でぎっしりと情報が詰め込まれていた。
映像表現も飛び降りるシーンなどはかなり攻めていて、ラストのwhat do you want?など立体音響の迫力も凄かった。
洗濯機の伏線回収などとにかく情報量が多いにもかかわらず構成が綺麗で盛り上がる演出が多くあった。キャストの豪華さなどに負けていない脚本、演出だと思う。
また、日常の些細なすれ違いや日々の仕事のプレッシャー責任感など身近な感情の機微をうまくリアルに描いている。
でも喪失感や残酷さは痛いほどリアルで、それらを抱えながら、正しくあろうとする人々と、それらによって成り立っているこの現代社会を鮮明に描いている。
8.パッチ・アダムス(1998) 監督:トム・シャドヤック
あらすじ
自殺未遂の果て、自らの意志で精神科に入院したアダムス。彼はそこで目覚め、医学の道を志す。2年後、ヴァージニア大学の医学部に入学したアダムスは、規則に背いては患者をユーモアで楽しませていた。冷ややかな視線を向ける学部長や同僚を後目に、やがて彼は恋人カリンと共に、夢に見ていた無料治療院を開設する。
精神病院でリスが怖い患者と共に戦うシーンがとても印象的だった。普通ならあそこまで付き合ってあげる気力はなかなか湧かないが、あそこまでユーモアたっぷりに動けるのはパッチの秀でた部分なのだと思う。そしてそこが彼の最大の魅力であり、ひいてはこの作品の魅力となっている。
病院に侵入するのはいいこととは言えないが、それが黙認される程の人々に魔法をかけるような明るさ、ユーモラスと確かな頭脳があってこそ革命的な医療の在り方を示すことができたのかなと思う。
精神病院の老人の人が「見ようとしないものを見るんだ」という言葉も心に残っている。裁判のようなシーンでパッチが死の何が恐ろしいのか、誇りを持って精一杯生きた結果だと語っているシーンが目からウロコで、人が見ない部分を、新しい視点を持つことで新しい真実が見えてくるんだなと思い映画の全体を通して、老人の言っていたこともわかっていくのだと思う。
9.ドラえもん のび太の新恐竜(2020) 監督:今井一暁
あらすじ
恐竜博の化石発掘体験で、恐竜のたまごと思しき化石を見つけるのび太。ドラえもんの「タイムふろしき」でその化石を元の状態に復元すると、新種の双子の恐竜が生まれる。キュー、ミューと名づけて愛情深く育てるのび太だが、やがて彼らが生息していた6600万年前の時代に帰すことを決意。そしてドラえもんや仲間たちと共に、双子恐竜の仲間を探す旅に出発する。
恐竜という子どもが皆夢見る古代の存在がテーマだが、命ということには変わりなくその命の重さを子どもたちに伝えるのに恐竜はうってつけなのだと思う。ドラえもんはタイムマシンという独自のアイテムがあり、それを生かすこともできて、こんなに強い恐竜が絶滅したという過去の大きな歴史を伝えていくこともできて良いと思う。のび太のキューを飛ばせてあげたいという真っ直ぐで純粋な思いは大人にも素直な気持ちを思い出させてくれる。
10.チャーリーとチョコレート工場(2005) 監督:ティム・バートン
あらすじ
失業中の父、母、そして2組の寝たきり祖父母に囲まれ貧しいながらも幸せに暮らしている少年チャーリー。彼の家のそばには、ここ15年間誰一人出入りしたことがないという、謎に包まれた不思議なチョコレート工場があった。ある日、工場の経営者ウィリー・ウォンカ氏は、全商品のうち5枚だけに入っているゴールデン・チケットを引き当てた者にだけ、特別に工場の見学を許可する、と驚くべき声明を発表した。そして一年に一枚しかチョコを買えないチャーリーも、奇跡的に幸運のチケットを手にし、晴れて工場へと招かれるのだが...。
チョコのレシピを盗まれたことへのショックによる人間不信の根の深さはかなりあるが、チョコへの愛は確かで変なチョコも含め、チョコに人生をかけている姿は美しいなと思う。
チャーリーはとても良い子で誰に言われるでもなく自分のものを家族に分け与えることのできる優しい子だなと思う。そのチャーリー
ほかの子どもたちの生意気さとの対比が分かりやすくて面白い。ウィリーがやっていることも相当ひどいが、彼らの生意気さを見るとそれもクスッと笑えるものになっている。ウィリーは不器用で極端だが、真っ当な感性を持ってはっきりと物事をはっきりと言うことができる。
また、昔見た時はただの変人だと思っていたが、今見るとウィリーはアダルトチルドレンだったのかなと思い、ウィリーの心理描写にも繊細に演じている部分が多くあると分かるとただの子ども向けの映画という訳ではなく、大人も楽しめる作品だと思う。
この作品で印象的なのがウンパルンパである。絶対に忘れない顔のインパクト、歌がエンターテインメントとして迫力のあるものになっている。
ウンパルンパやチョコレート工場、魔法のチョコレート、チャーリーの可愛いお家など子どもの夢が詰まったキラキラした世界で、子どもも、かつて子どもだった大人にとってもまさに夢に溢れた楽しい作品だなと思う。
11.ベイビーワルキューレ(2021) 監督:阪元裕吾
あらすじ
プロの殺し屋である女子高生コンビが、卒業を機に表の顔として普通の社会人を演じることになる。しかし、人殺ししかしてこなかった彼女たちは、社会に馴染もうと悪戦苦闘する。
バディものは不動の人気コンテンツだと思うが、殺し屋×女子高生という新しい形がそれだけで新鮮で面白い。また、二人の殺し屋とは思えないゆるい雰囲気が拍子抜けすると同時に、どこか世界観とズレがある感じがおかしくて面白い。
また、そのゆるい日常シーンと殺し屋の同居しているのが良いギャップだなと思う。アクションシーンなどはプロのスタントマンによるもののためリアリティが担保されており、低予算映画とは思えないクオリティになっている。そもそも殺し屋やガールズアクションを扱った作品は少なく、ヒットしているところから見ても革命的な作品ではないかと言える。
12.星新一 の不思議な不思議な短編ドラマ 地球から来た男(2022) 演出・脚本 永岩祐介
あらすじ
おれは産業スパイとして研究所にもぐりこんだものの、捕らえられる。相手は秘密を守るために独断で処罰するという。それはテレポーテーション装置を使った地球外への追放だった。
最初から妄想だったのか、明言はしていないが、周りの人間の反応からじわじわと察する部分が多く、最後に分かるところが面白い。星新一の話は短いが、ラストに必ずどんでん返しや驚く展開が待ち受けており、短くても満足度、密度の高いの内容になっていると思う。セリフが少なく、余白が多くあるがその分映像や音で雰囲気や空気作りがされていて、短い中でも吸い込まれるようなものがあった。
13.ルックバック(2024) 監督:押山清高
あらすじ
『チェンソーマン』などの話題作を手がけた漫画家・藤本タツキの青春漫画を劇場アニメ化。学生新聞に4コマ漫画を描いている少女と、不登校の少女が漫画を通じて繋がる。
自信家な藤野の溢れ出る自己中心的な態度が清々しく、そこからプライドが折られて行く様が人間味があり、わかりやすい挫折で面白いなと思う。京本に褒められてスキップをするシーンは、カメラワークや動きが独特で、臨場感が凄かった。他にも実写のようなカメラワークになる瞬間もあり、作画の綺麗さも相まって実写と見間違うようなリアルさがあった。また、京アニ事件を想起させるシーンがあり、そこには現代のアニメ業界に波紋を呼ぶシーンでもあり、鎮魂とも取れるなと思った。そして、たとえ何があってもひるまず作品を作り続けるという強い思いも感じた。ちょうど昨日京アニの新作発表を見てより感じた。
14.ハイキュー ゴミ捨て場の決戦(2024) 監督:満仲勧
あらすじ
かつてはライバル関係にあった烏野高校と音駒高校が、合宿で共に汗を流す仲間となり、良きライバルチームへと成長していく。
攻撃的なプレースタイルの烏野高校に対し、超守備的なプレースタイルの音駒高校が対戦する。カラスと猫のゴミ捨て場因縁の対決。
大人気漫画の劇場版で、これまでの烏野と音駒の積み重ねを見ているとより楽しめる要素が多くあった。また、因縁の対決というどちらにもファンが多い対決のため絶対に面白いと思える戦いだと思う。それによって期待値も高いものだと思うが、原作を見事に映像化している。試合シーンは常に作画が激しくダイナミックな動きで手に汗握るシーンになっている。
また、音駒の重要人物である黒尾と研磨はどちらも飄々としており、昔から登場していたこともあり試合での本気で戦う姿は視聴者にとって新たな一面でありそこでさらに心震えるものになっていると思う。
もう一回のない高校生活という短い中で命を燃やす彼らの青春が描かれている。
青春ものは人気ジャンルだが、青春ものが人気な理由のひとつにはタイムリミットがはっきりと描かれていることにあると思う。タイムリミットの中でできる限りの事を尽くす、大きい枠組みで言えば人生を懸ける人の姿は、自分の人生にも投影しやすく人々の懐かしい気持ちを呼び起こし、憧れの気持ちを芽生えさせるのだと思う。
15.ベイビーワルキューレ2ベイビー(2023) 監督:阪元裕吾
あらすじ
プロの殺し屋である、ちさととまひろ。一方、お金に困っていた殺し屋協会アルバイトのゆうりとまことは、ちさととまひろのポストを奪うため、2人を殺すことを決意する。
殺し屋という職業であり、悪意や恨みがあり殺しをしている訳では無いという殺し屋たちの矜恃を感じられた。二人の強さや軽いテンポ感から勘違いしがちだが、人を殺すということ、人が死ぬということはどういうことかを視聴者にゆうりとまことにも感情移入させることで伝えている。そこは勧善懲悪なアクション映画だった前作とは変わる部分だと思う。それによってより作品に深みが増したと感じる。それと同時に、この作品の魅力である二人の和やかでテンポのいい掛け合いが前作同様面白い。
1.演劇入門(1998) 著者:平田オリザ
あらすじ
若き天才が全て明かす「芝居作りの技術」。シェイクスピアはなぜ四世紀にわたって人気なのか? 日本で対話劇が成立しづらいのはなぜか? 戯曲の構造、演技・演出の方法を平易に解説する画期的演劇入門書。
演劇に関わる人間として、学べることが多くあった。脚本の書き方というものがそもそもまるで分からない自分でも、どこから考え始めればいいのかが何となく分かるくらいには初心者に丁寧であると思う。また、役者や演出家に関しても、どんな心構えで挑むべきなのか、どんな問題点があり、どうクリアして行くべきなのかということが論じられていた。コンテクストがその人の状況や、場面、考え方によっても全く違う捉え方ができるということはすごく勉強になった。演技で言えば、長旅の電車で向かいあわせの席があったとして、向かいに人がいたら話しかけるか?、話しかけるとしたらどんな風に?というのも人によって全く異なる。それは人種や年齢などによって様々だ。それでも演劇は自分の中にないコンテクストでも理解して演じなければならない。役者は自分のコンテクストと演出家のコンテクストの擦り合わせが大事だということがその通りだなと思った。役者は演出家の意図をどれだけ形にできるかが重要だと私は思っているため、他人同士なら必ず生じるコンテクストのズレをどれだけ埋められるかという部分は大切だと思った。
2.ミステリと言う勿れ 劇場版(2023) 監督:松山博昭
あらすじ
大学生の久能整は、たまたま訪れていた広島でとある一族の遺産相続争いに巻き込まれてしまう。やがて彼は、一族の闇の歴史に秘められた謎を解き明かしていくことになる。
ドラマシリーズが映画化していることもあり、テンポよく見ることができて謎が謎を呼ぶ展開が面白い。遺産相続争いや、古い一族の掟を守り続ける者たちなど時代錯誤な一族に、久能くんが数々の名言を投げかける。
個人的には、汐路に話した「自分には絵の才能がない、下手だと思うということは目が肥えてきたということ。下手な人はそれすらも分からない。だから下手だと思う時こそ伸び時だ。」という言葉だ。自分に通じる部分もあり、ハッとしたし久能くんはいつも他の人とは違う視点でものを見ていてハッとする言葉を言ってくれて、そこがこの作品のもっとも魅力的な部分であることは間違いない。
3.地面師たち(2024) 監督:大根仁
あらすじ
2017年、再び土地価格が高騰し始めた東京。伝説の大物地面師・ハリソン山中に誘われ地面師詐欺の道に踏み込んだ辻本拓海。それぞれにプロフェッショナルな犯罪者数名で構成された地面師グループの彼らは、緻密かつ周到な計画で大手デベロッパーに詐欺を仕掛け、巨額を巻き上げていた。そんな彼らが次なるターゲットに選んだのは、時価100億円とも言われる土地。前代未聞の詐欺に挑む一方で、かつてハリソンを逮捕寸前まで追い込みながら、結局逮捕することができなかった定年間近の刑事・辰は、新人刑事と共に独自の捜査を開始していた。騙す側と騙される側、そして刑事の三つ巴の争いは、次第に拓海の「過去」とハリソンの「因縁」を浮き彫りにしていく。
あまり聞き馴染みのない犯罪集団だったが、
「地の面」という舞台や「マルス」というドラマでも扱われるほど、ドラマ内でも言っていたように、東京オリンピック以降地面師という犯罪者達が改めて増えているんだなと今回のドラマで知った。
死体や残虐なシーンの描写をあえて映したり、性的なシーンもあり、ハリソンを見ていても分かるように人間の欲望や快感、残酷非道な部分などを絵的な部分でもはっきりと映像として映していてリアルだなと思う。犯罪の手口についてもしっかりと描かれていて、巧妙で最悪だが、ギリギリの瀬戸際でバレずに成功するというシーンは緊張感もありつつ、観客にまでそのエクスタシーが伝わってくる。それがまた胸糞悪い感情を観客に与えてくる。最終話でハリソンが拓海に復讐を念頭に置きながらもどこか地面師という犯罪にエクスタシーを感じていたんじゃないかと問いかける。それは同時に観客にも問いかけていると思う。人が死ぬドラマや映画は一定の人気がある。それは決してやってはいけないことで、辛く苦しいものだが、死という誰もが興味のあることを描いているからだと思う。だからどんなに重くても目が離せない。
また、観客自身も地面師詐欺という何ヶ月もかけて行う巧妙なトリックにどこかのめり込んでいくのだと思う。そこに最後終止符を打つように倉持が「仕事じゃないですよ、犯罪です。」とはっきりと言葉にする。その言葉で拓海も観客自身も目が覚める。
ヴィラン側を主役に置くとどうしてもそちらに感情移入しがちで、地面師という賢い鮮やかな手口に目を惹かれるが、その代償の大きさや、その結果生み出された被害者達を見てこの犯罪の恐ろしさがよく分かるドラマになっていると思う。捜査一課ばかりがドラマになりがちだが、二課の知能犯との戦いに目を向けた新しい作品だと思う。
4.カラオケ行こ!(2024) 監督:山下敦弘
あらすじ
中学校の合唱部で部長を務める岡聡実は、ある日突然ヤクザの成田狂児にカラオケに誘われる。狂児は組で行われるカラオケ大会で最下位を避けるため、聡実に歌の指導を頼む。X JAPANの“紅”を勝負曲にした狂児に、聡実は嫌々ながら指導を始めるのだが……
真面目で大人しい中学生とヤクザという本来なら絶対に交わらない二人のひと時の青春だと思う。年齢も立場も違う二人だが歌というひとつの目標に向かって仲良くなれるという人間の面白い部分がよく出ているなと思う。クラスにいたら絶対に仲良くならないようなタイプの人間同士でもたったひとつ共通項があるだけで共感できて、仲良くなれる。人間は共感したい生き物なのかなと思った。
また、聡実は声変わりからソプラノが出せなくなる。それでも三年間必死に続けてきた合唱よりも数か月前に出会ったヤクザを選んだ。それだけ運命の出会いだったのだと思う。紅という楽曲は全体を通して使うことで純粋な音痴の面白さやシーンと合った歌詞など、二人の関係性を象徴する楽曲に仕立て上げている。
素人の歌というものは本来作品の中ではこんなにフューチャーされることは少ないが、カラオケという身近な場所で、下手な歌を聞いているというリアルな場面が異色な登場人物の中でもどこか親近感を覚える事ができて面白い。カラオケだけで繋がっている二人の関係性も異様だが、そこに確かに絆を感じられるところが良い。
映画を見ているシーンはその映画によってその時々のキャラの心情や状況を俯瞰して見ることができると思う。
5.マチルダ(1996) 監督:ダニー・デヴィート
あらすじ
インチキを絵に描いたような中古車ディーラー夫婦は、けたはずれの天才少女を授かる。しかし、利口であることが災いして、少女は大きくなっても学校に行かせてもらえず。やっと通えるようになった小学校では、不条理きわまる学校生活が待っていた。そんな中、彼女は妙なパワーを持ち始める。
可愛らしい女の子が超能力で悪い大人を懲らしめるという分かりやすく勧善懲悪のストーリーで、とにかくマチルダが可愛らしい。また、マチルダはとても勇敢で親に悪いヤツはお仕置が必要と言われても、悪い子ではなく悪いヤツにお仕置が必要なら大人も含まれるのではという思考になれるポジティブさや正義感のようなものに感動した。
校長がとにかく悪者で、やっていることが今作品で行ったらコンプライアンスに引っかかりそうなことばかりだ。でも逆にそれが新鮮でスリリングで、子供向けなだけあってポップでキャッチーに描かれているため楽しく観る事ができる。校長を家で翻弄したり、懲らしめるシーンはホームアローンを思い出し、純粋な子どもだからこその発想の数々に微笑ましい気持ちになるし、子どもの頃の気持ちを取り戻させてくれる作品だと思う。
実はかなり辛い境遇のマチルダだが、それを感じさせない好奇心旺盛で勉強熱心なところは大人も見習いたくなるほどだなと思った。
6.鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎(2023) 監督:古賀豪
あらすじ
昭和31年。哭倉村へやってきた鬼太郎の父であるかつての目玉おやじ。目的は行方不明の妻を捜すことだった。やがて怪事件に巻き込まれていく。
跡継ぎ問題でどんどん人が死んでいくが、その様がどれも残虐だ。ゲゲゲの鬼太郎と言えば可愛らしい妖怪達が出てくる子ども向けのちょっぴり怖い物語というイメージだが、これは妖怪の本来の恐ろしい部分をグロテスクな表現も交えることではっきりと主張している。だが、妖怪たちはやはりこれまでの妖怪達の作画のため、ゲゲゲの鬼太郎らしいどこか可愛らしい雰囲気もある。だからこそ目玉おやじの過去や村の人々の悲惨な最後がより虚しく際立つなと思う。水木しげるが描いた作品では無いが、墓場の鬼太郎というタイトルとも繋がり、目玉おやじのあの異形が生み出された話を知ることができて感動した。また、あくまでも子ども向けの作品だからなのかバディもので敵と戦うという盛り上がりやすい熱い展開も含まれており、ゲゲゲの鬼太郎の物語としても、現代のアニメとしても良い作品だと思う。だから100年経ってもこの作品は新たな姿で今の若者にもウケているのだと思う。古いものを新しくするのは抵抗があることだが、うまいこと原作を汚すことなくアップデートされている。わかりやすいところで言うと猫娘のビジュアルなどもそうだが、時代に合わせて良い部分は残しつつ、生まれ変わることで何年も愛される作品になるのだなと思った。
7.ラストマイル(2024) 監督:塚原あゆ子
あらすじ
物流業界最大イベント、ブラックフライデーの前夜、大手ショッピングサイトの配送段ボールが爆発する。日本を震撼させる連続爆破事件に発展する中、巨大物流倉庫のセンター長に就いた舟渡エレナは、チームマネージャーの梨本孔と事態を収束させようと試みる。
現代社会の生命線である物流がテーマで、社会を形成しているとんでもない規模の巨大な流れの中にある社会問題に切り込んだ作品。
常識のある、職業倫理を持った大人達の葛藤と、様々な立場の人々の心情
まともだから簡単に辞めることもできない
巨大なシステムだからこそ止めてはならないという重圧
どの仕事でもしていると責任感からプレッシャーを感じてしまう人は多くいると思うがその最大級の仕事であると思う。ラストシーンのロッカーの前での梨本のため息は自分が引き継いだ仕事の大きさと、止めてはいけない、二度と中村倫也の演じた男のような人間を出してはいけないという相反した問題へのため息だと思った。
結局はエンディング後のメッセージがこの映画の伝えたかったことである気もする。
すべてはお客様のためではなく、お客様の欲望のためという部分は一回では難しかったが、綺麗事だけでビジネスは務まらないとは感じた。
爆弾という誰もが危機に晒される中でも人間は成長性バイアスがあり、自分は大丈夫だとどこか他人事になれる。それはあまり良くない反面、気にしすぎて壊れてしまうのを防ぐ自己防衛とも思える。
ラストマイルという言葉にも物流の最後の要の機関としてのドライバー達にも目を向け、働く人々の矜恃や闘いを見ることができた。
シェアードユニバースムービーという新しい世界観の構成も綺麗で、ドラマを見ていた人々が楽しめる仕掛けも施されていて、二時間という短い中でぎっしりと情報が詰め込まれていた。
映像表現も飛び降りるシーンなどはかなり攻めていて、ラストのwhat do you want?など立体音響の迫力も凄かった。
洗濯機の伏線回収などとにかく情報量が多いにもかかわらず構成が綺麗で盛り上がる演出が多くあった。キャストの豪華さなどに負けていない脚本、演出だと思う。
また、日常の些細なすれ違いや日々の仕事のプレッシャー責任感など身近な感情の機微をうまくリアルに描いている。
でも喪失感や残酷さは痛いほどリアルで、それらを抱えながら、正しくあろうとする人々と、それらによって成り立っているこの現代社会を鮮明に描いている。
8.パッチ・アダムス(1998) 監督:トム・シャドヤック
あらすじ
自殺未遂の果て、自らの意志で精神科に入院したアダムス。彼はそこで目覚め、医学の道を志す。2年後、ヴァージニア大学の医学部に入学したアダムスは、規則に背いては患者をユーモアで楽しませていた。冷ややかな視線を向ける学部長や同僚を後目に、やがて彼は恋人カリンと共に、夢に見ていた無料治療院を開設する。
精神病院でリスが怖い患者と共に戦うシーンがとても印象的だった。普通ならあそこまで付き合ってあげる気力はなかなか湧かないが、あそこまでユーモアたっぷりに動けるのはパッチの秀でた部分なのだと思う。そしてそこが彼の最大の魅力であり、ひいてはこの作品の魅力となっている。
病院に侵入するのはいいこととは言えないが、それが黙認される程の人々に魔法をかけるような明るさ、ユーモラスと確かな頭脳があってこそ革命的な医療の在り方を示すことができたのかなと思う。
精神病院の老人の人が「見ようとしないものを見るんだ」という言葉も心に残っている。裁判のようなシーンでパッチが死の何が恐ろしいのか、誇りを持って精一杯生きた結果だと語っているシーンが目からウロコで、人が見ない部分を、新しい視点を持つことで新しい真実が見えてくるんだなと思い映画の全体を通して、老人の言っていたこともわかっていくのだと思う。
9.ドラえもん のび太の新恐竜(2020) 監督:今井一暁
あらすじ
恐竜博の化石発掘体験で、恐竜のたまごと思しき化石を見つけるのび太。ドラえもんの「タイムふろしき」でその化石を元の状態に復元すると、新種の双子の恐竜が生まれる。キュー、ミューと名づけて愛情深く育てるのび太だが、やがて彼らが生息していた6600万年前の時代に帰すことを決意。そしてドラえもんや仲間たちと共に、双子恐竜の仲間を探す旅に出発する。
恐竜という子どもが皆夢見る古代の存在がテーマだが、命ということには変わりなくその命の重さを子どもたちに伝えるのに恐竜はうってつけなのだと思う。ドラえもんはタイムマシンという独自のアイテムがあり、それを生かすこともできて、こんなに強い恐竜が絶滅したという過去の大きな歴史を伝えていくこともできて良いと思う。のび太のキューを飛ばせてあげたいという真っ直ぐで純粋な思いは大人にも素直な気持ちを思い出させてくれる。
10.チャーリーとチョコレート工場(2005) 監督:ティム・バートン
あらすじ
失業中の父、母、そして2組の寝たきり祖父母に囲まれ貧しいながらも幸せに暮らしている少年チャーリー。彼の家のそばには、ここ15年間誰一人出入りしたことがないという、謎に包まれた不思議なチョコレート工場があった。ある日、工場の経営者ウィリー・ウォンカ氏は、全商品のうち5枚だけに入っているゴールデン・チケットを引き当てた者にだけ、特別に工場の見学を許可する、と驚くべき声明を発表した。そして一年に一枚しかチョコを買えないチャーリーも、奇跡的に幸運のチケットを手にし、晴れて工場へと招かれるのだが...。
チョコのレシピを盗まれたことへのショックによる人間不信の根の深さはかなりあるが、チョコへの愛は確かで変なチョコも含め、チョコに人生をかけている姿は美しいなと思う。
チャーリーはとても良い子で誰に言われるでもなく自分のものを家族に分け与えることのできる優しい子だなと思う。そのチャーリー
ほかの子どもたちの生意気さとの対比が分かりやすくて面白い。ウィリーがやっていることも相当ひどいが、彼らの生意気さを見るとそれもクスッと笑えるものになっている。ウィリーは不器用で極端だが、真っ当な感性を持ってはっきりと物事をはっきりと言うことができる。
また、昔見た時はただの変人だと思っていたが、今見るとウィリーはアダルトチルドレンだったのかなと思い、ウィリーの心理描写にも繊細に演じている部分が多くあると分かるとただの子ども向けの映画という訳ではなく、大人も楽しめる作品だと思う。
この作品で印象的なのがウンパルンパである。絶対に忘れない顔のインパクト、歌がエンターテインメントとして迫力のあるものになっている。
ウンパルンパやチョコレート工場、魔法のチョコレート、チャーリーの可愛いお家など子どもの夢が詰まったキラキラした世界で、子どもも、かつて子どもだった大人にとってもまさに夢に溢れた楽しい作品だなと思う。
11.ベイビーワルキューレ(2021) 監督:阪元裕吾
あらすじ
プロの殺し屋である女子高生コンビが、卒業を機に表の顔として普通の社会人を演じることになる。しかし、人殺ししかしてこなかった彼女たちは、社会に馴染もうと悪戦苦闘する。
バディものは不動の人気コンテンツだと思うが、殺し屋×女子高生という新しい形がそれだけで新鮮で面白い。また、二人の殺し屋とは思えないゆるい雰囲気が拍子抜けすると同時に、どこか世界観とズレがある感じがおかしくて面白い。
また、そのゆるい日常シーンと殺し屋の同居しているのが良いギャップだなと思う。アクションシーンなどはプロのスタントマンによるもののためリアリティが担保されており、低予算映画とは思えないクオリティになっている。そもそも殺し屋やガールズアクションを扱った作品は少なく、ヒットしているところから見ても革命的な作品ではないかと言える。
12.星新一 の不思議な不思議な短編ドラマ 地球から来た男(2022) 演出・脚本 永岩祐介
あらすじ
おれは産業スパイとして研究所にもぐりこんだものの、捕らえられる。相手は秘密を守るために独断で処罰するという。それはテレポーテーション装置を使った地球外への追放だった。
最初から妄想だったのか、明言はしていないが、周りの人間の反応からじわじわと察する部分が多く、最後に分かるところが面白い。星新一の話は短いが、ラストに必ずどんでん返しや驚く展開が待ち受けており、短くても満足度、密度の高いの内容になっていると思う。セリフが少なく、余白が多くあるがその分映像や音で雰囲気や空気作りがされていて、短い中でも吸い込まれるようなものがあった。
13.ルックバック(2024) 監督:押山清高
あらすじ
『チェンソーマン』などの話題作を手がけた漫画家・藤本タツキの青春漫画を劇場アニメ化。学生新聞に4コマ漫画を描いている少女と、不登校の少女が漫画を通じて繋がる。
自信家な藤野の溢れ出る自己中心的な態度が清々しく、そこからプライドが折られて行く様が人間味があり、わかりやすい挫折で面白いなと思う。京本に褒められてスキップをするシーンは、カメラワークや動きが独特で、臨場感が凄かった。他にも実写のようなカメラワークになる瞬間もあり、作画の綺麗さも相まって実写と見間違うようなリアルさがあった。また、京アニ事件を想起させるシーンがあり、そこには現代のアニメ業界に波紋を呼ぶシーンでもあり、鎮魂とも取れるなと思った。そして、たとえ何があってもひるまず作品を作り続けるという強い思いも感じた。ちょうど昨日京アニの新作発表を見てより感じた。
14.ハイキュー ゴミ捨て場の決戦(2024) 監督:満仲勧
あらすじ
かつてはライバル関係にあった烏野高校と音駒高校が、合宿で共に汗を流す仲間となり、良きライバルチームへと成長していく。
攻撃的なプレースタイルの烏野高校に対し、超守備的なプレースタイルの音駒高校が対戦する。カラスと猫のゴミ捨て場因縁の対決。
大人気漫画の劇場版で、これまでの烏野と音駒の積み重ねを見ているとより楽しめる要素が多くあった。また、因縁の対決というどちらにもファンが多い対決のため絶対に面白いと思える戦いだと思う。それによって期待値も高いものだと思うが、原作を見事に映像化している。試合シーンは常に作画が激しくダイナミックな動きで手に汗握るシーンになっている。
また、音駒の重要人物である黒尾と研磨はどちらも飄々としており、昔から登場していたこともあり試合での本気で戦う姿は視聴者にとって新たな一面でありそこでさらに心震えるものになっていると思う。
もう一回のない高校生活という短い中で命を燃やす彼らの青春が描かれている。
青春ものは人気ジャンルだが、青春ものが人気な理由のひとつにはタイムリミットがはっきりと描かれていることにあると思う。タイムリミットの中でできる限りの事を尽くす、大きい枠組みで言えば人生を懸ける人の姿は、自分の人生にも投影しやすく人々の懐かしい気持ちを呼び起こし、憧れの気持ちを芽生えさせるのだと思う。
15.ベイビーワルキューレ2ベイビー(2023) 監督:阪元裕吾
あらすじ
プロの殺し屋である、ちさととまひろ。一方、お金に困っていた殺し屋協会アルバイトのゆうりとまことは、ちさととまひろのポストを奪うため、2人を殺すことを決意する。
殺し屋という職業であり、悪意や恨みがあり殺しをしている訳では無いという殺し屋たちの矜恃を感じられた。二人の強さや軽いテンポ感から勘違いしがちだが、人を殺すということ、人が死ぬということはどういうことかを視聴者にゆうりとまことにも感情移入させることで伝えている。そこは勧善懲悪なアクション映画だった前作とは変わる部分だと思う。それによってより作品に深みが増したと感じる。それと同時に、この作品の魅力である二人の和やかでテンポのいい掛け合いが前作同様面白い。
2年 高垣かりん
RES
1 『インサイド・ヘッド2』監督:ケルシー・マン脚本:メグ・レフォーヴ 2024
{概要/あらすじ}
ディズニー/ピクサーの人気作『インサイド・ヘッド』の続編。
前作で感情たちがライリーの心を救い、平穏な日常を送っていた。今作は、成長し思春期を迎えたライリーの心に新たな<大人の感情>が登場する。ライリーの将来のために、選択を間違えないように必死になる感情たち、巻き起こる「感情の嵐」の中でライリーは自分らしさを見失ってしまう。大人になる途中、どんな感情も受け入れ自分を愛せるようになる感動作。
前作は、初めての不安感から心が不安定になる様子が描かれていたが、今作はまさに「思春期の複雑な感情」がそのまま描かれていた。心配事が増えたり、隠したいことがあったり、成長した人なら必ず共感できる。感情が自我をもって動くため、細かい心理描写というよりは、直接的な心理表現であるためわかりやすい。最後は、何かの感情を追いやるのではなくすべての感情を大事にし、いろんな側面を持つ自分を抱きしめるという暖かいメッセージが込められていた。思春期に入る瞬間、心の司令部で警報が鳴り響いてわかりやすく変化が起きておいたが、ライリーに今までなかった顎ニキビができていて、「思春期描写」がとても細かかった。
2 『CURE』監督・脚本:黒沢清 1997
{概要/あらすじ}
猟奇的殺人事件を追及する刑事と謎の男を描いたサイコ・サスペンス。この映画で、主演の役所広司は東京国際映画祭において最優秀主演男優賞を受賞した。
一人の娼婦が殺害された。胸元がX字型に切り裂かれている死体を目にした刑事の高部は、この特徴的な殺しが密かに連続していることに気づく。全く関係のない複数の犯人がなぜ特異な手口を共通して使い、犯人たちはそれを認識していないのか。この猟奇的殺人事件を追っていくうちに1人の男が捜査線上に上がるが、男との会話に翻弄され、精神を病んだ妻の介護による疲れも重なり、高部は次第に苛立ちを募らせていく・・・。
1カットが基本的に長回しで撮られているが、長回しの画の中に突然入り込む違和感や静かな要素の提示、たまに入る一瞬のカットの強烈な印象を増強していると思う。
また、殺害シーンは直接的に描かれているが、高部に関することは直接的に描かれることが少なく、一瞬包丁のクローズアップを写したり、突然死体が映ったりすることで、高部がどのような選択を取り、どのような人物となっていったのか暗示するような演出がされていた。私は、高部は最終的に、間宮よりもより強力な伝道師となったのだと思う。間宮を殺害したのち、病院にいる妻のX字型の傷口死体のカットが一瞬入ったこと、レストランで高部と接客をしたウェイトレスが包丁を手に取ったことから、間宮とは違い、無意識下で人の持つ狂気を引き出してしまっていると考えられる。
3 『Chime』監督・脚本:黒沢清 2024
概要/あらすじ
今年の第74回ベルリン国際映画祭ベルリナーレ・スペシャル部門に出品され話題を呼んだ、黒沢清監督の中編作品。「映画の中の三大怖いものを詰め込んだ」という本作は、もともとメディア配信プラットホーム・Roadsteadオリジナル作品第一弾として「自由に作品を制作してほしい」というオーダーから作られた。45分という短い作品ながら、濃厚な内容となっている。
料理教室の講師をしている松岡は、レッスンの生徒である田代から「チャイムのような音が聞こえて、誰かがメッセージを送ってきているようなんです」と言われる。それでも変わりなく接していたが、田代が今度は「ぼくの脳は半分機械に差し替えられているんです。」と言い出し、それを証明するために衝撃の行動にでる。この出来事をきっかけに、松岡の周辺や松岡自身に異様な変化が起きていく。
黒沢監督の過去作『CURE』と似たような恐怖感を覚えた。狂気が伝播する要素は、完全に『CURE』と同じテーマであると感じた。本作では、田代の自害がトリガーとなって、主人公の松岡の中にある狂気が出てくる。しかし、悪が存在するわけではなく殺人などは淡々と行われていく。誰かが怖いのではなく、すべてが異様で恐ろしく描かれていた。この映画で重要なのは起きる事件ではなく、登場人物たちが他人に無関心に描かれている部分で、日常の様子であるはずなのにずっと違和感を覚え、殺しや自害、明らかにおかしい人の様子が見えても気にも留めないところが1番の「怖さ」であると考えた。タイトルにもなっている「チャイム」の要素は深堀されることはなく、結局何なのかわからず、最後、松岡のPOVショットで包丁を写し、家を飛び出し、冷静な表情で家に戻っていき終わる。松岡は最後どうなったのか、様子のおかしい家族と包丁のショットから殺してしまうのではないかという想像が掻き立てられるが、答え合わせはなく終わるため、映画が終わっても恐怖を引きずることになる。
また、光と影の使い方・長回し・映像的な空白・説明のない状況が怖さを倍増させている。線路沿いの教室の中で、電車から反射する光を受けてチカチカとしている影や、後ろのモザイク窓の奥でゆらゆら揺れる黒い影など、細かいディテールが不気味さを醸し出していた。黒沢監督と言えば長回しだが、今作も長回しが多用されていた。その中では、重要なものや恐怖の対象をあえて見切れさせていた。とあるシーンで松岡が絶叫するが、絶叫する顔だけをアップで写し、何に対して叫んでいるのかは見せない。このホラー表現はとても実験的であるが、「人物が何に恐怖しているのかわからないけど怖い」という新たな体験を観客に与えていると思った。
4 『アナと雪の女王2』監督:クリス・バック、ジェニファー・リー 脚本:アリソン・シュローダー 、2019
{概要/あらすじ}
『アナと雪の女王』の続編。
平和を取り戻したアレンデールにまた異変が起きる。エルサにだけ聞こえる謎の呼び声の主と自らのルーツを探るべく、もう一度姉妹の大冒険が始まる。
前作は、真実の愛=恋愛的な愛という公式を破る「家族愛」の話であり、今作もその流れを汲んでいた。しかし、自らのルーツを探るという内容は、前作の子供向けの内容からかなりシフトチェンジした大人向けの内容に仕上げていると思った。ディズニー作品が、登場人物の出自・ルーツによりスポットを当てたストーリーに力を入れ始めた転換期の作品であると思う。
5 『missing』 監督・脚本:吉田恵輔
{概要/あらすじ}
娘が失踪し、出口のない暗闇に突き落とされた家族。どうにもできない現実との間でもがき苦しみながらも、その中で光を見つけていく。
前作の空白よりも、視点が多角的であった。とくに、報道の視点が多く取り上げられていた。行方不明事件が解決するわけではないが、その事件が周囲に与える影響や、報道の影響など現代が陥りやすい問題点を特にわかりやすく描いていたと思う。エンタメ的というより、ドキュメンタリーチックで淡々と人々の様子が描かれることで、この国のどこかでこういったことが起きているという感覚が観客に与えられると思う。
6 『ベイビーわるきゅーれ』
概要/あらすじ
女子高生殺し屋2人組のちさととまひろは、高校卒業を前に途方に暮れていた…。 明日から“オモテの顔”としての“社会人”をしなければならない。組織に委託された人殺し以外、何もしてこなかった彼女たち。 突然社会に適合しなければならなくなり、公共料金の支払い、年金、税金、バイトなど社会の公的業務や人間関係や理不尽に日々を揉まれていく。 さらに2人は組織からルームシェアを命じられ、コミュ障のまひろは、バイトもそつなくこなすちさとに嫉妬し、2人の仲も徐々に険悪に。 そんな中でも殺し屋の仕事は忙しく、さらにはヤクザから恨みを買って面倒なことに巻き込まれ・・・。
日本に殺し屋社会があるという設定から、殺し屋が恨みをかって狙われ、返り討ちにするというストーリー展開まで、『ジョンウィック』のオマージュを感じる。日常系アニメのような、二人のゆるい会話と本格アクションとのギャップがこの作品独特の空気感を出していると思う。
7 『最強殺し屋伝説 国岡』
{概要/あらすじ}
『ベイビーわるきゅーれ』を監督が作るために、実在する最強の殺し屋を密着取材するというモキュメンタリー。
ベイビーわるきゅーれの世界観がより現実に落とし込まれ、より具体的なジョンウィックパロディがあった。モキュメンタリーでありながら、所々映画的カメラ演出があり、より挑戦的な映画であった。
8 『マッドマックス 怒りのデスロード』監督・脚本:ジョージ・ミラー、2015
{概要/あらすじ}
石油も、そして水も尽きかけた世界。主人公は、愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官マックス。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたマックスは、反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ、配下の全身白塗りの男ニュークスと共に、ジョーに捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。
世紀末の独特な世界観を深く説明しなくてもわかるほどの美術・衣装の作りこみがあると思った。また、男性主人公で男性が力を持つ社会であるが、フュリオサを筆頭とした女性の登場人物がそれぞれどんな信念を持ち行動しているのかはっきりと描かれているので、女性が力強く生きること、支配されないことをメッセージとしているのだと思った。
9 『ミンナのウタ』監督:清水崇 脚本:清水崇・角田ルミ 2023
概要/あらすじ
『呪怨』シリーズや『犬鳴村』など都市伝説シリーズの清水崇監督作のホラー映画。
ラジオ番組のパーソナリティーを務めるGENERATIONSの小森隼は、収録前に30年前に届いた「ミンナのウタ」と書かれた奇妙なカセットテープを見つける。その後、収録中に「カセットテープ届きましたか?」という声をノイズの中で聞いた小森は、ライブを控えた中失踪してしまう。事態を迅速に解決するべく探偵を雇い調査を始めるが、ほかのGENERATIONSのメンバーにも次々と恐ろしいことが起きはじめる。
近年の怨霊に暗い過去を背負わせ同情するジャパニーズホラーの風潮の真逆を行く作品であると思った。しかし、GENERATIONSの楽曲や楽曲名が話の流れと関係ないところで登場する点はとても気になった。GENERATIONSの宣伝的な意味合いも含めた映画なのではないかと思った。
10 『メタモルフォーゼの縁側』監督:狩山和澄 脚本:岡田恵和 2022
概要/あらすじ
国内最大映画レビューサイトFilmarksで初日満足度ランキング1位を獲得した作品。
17歳の佐山うららは、きらきらしているとは言えない女子高生。本屋でバイトをしながら、BLマンガをこっそり読むことが唯一の楽しみ。ある日、本屋でBLを買っていくおばあさん、75歳の市野井雪と出会い、好きなものを語り合える「友達」となる。
BLという表では取り扱われないジャンルにフォーカスを当て、こういうジャンルだからこそ生まれる友情を大きな年の差という設定を込めてより奇妙で強固な関係性として演出していると思った。
「BL」「マンガ」「同人誌」「コミケ」という現代日本のサブカルチャーの側面を垣間見ることができて、雪さんが75歳という年齢であることから、昔の漫画文化の話も出てくるため、サブカルをラフな視点で見ることができる。
11『デッドプール&ウルヴァリン』監督:ショーン・レヴィ、2024
概要/あらすじ
『デッドプール』『デッドプール2』の続編。前作までは21世紀フォックスのもとで制作されていたが、2019年にディズニーに買収されたため、今作からMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)に合流した。
破天荒で何でもありの無責任ヒーロー、デッドプールに今度は世界の命運が託された。神聖時間軸を管理し、時間の流れを守る「時間変異取締局、通称TVA」から自身の時間軸が消滅しかけていること、理由はこの時間軸の「ウルヴァリン」が死を遂げたからだということ、この時間軸を倍速で消そうとしていることを聞かされたデッドプールは、自分の世界を守るために、別時間軸のウルヴァリンと手を組むことを企てるが・・・。
まず、この映画は「第4の壁」を簡単に破っていくのでかなり特異であると言える。しかし、それが物語のノイズになることはなく、逆に観客にメタ的な語り掛けがあることで「マルチバース」という複雑な設定への入り込みやすさがあると思う。
また、冒頭の戦闘→クレジットシーンの演出は、前作・前々作の流れを汲んで、音楽中心の演出がなされていたため、より冒頭でのボルテージが上がっていたと思う。
しかし、MCUに合流したことで、FOX時代の『X-MEN』シリーズや『ファンタスティック・フォー』のみならず、『アベンジャーズ』シリーズから、『ロキ』ドラマシリーズの知識を要するため、物語内に出てくる要素をすべて理解できる人は少ないように思える。
12『骨』監督・脚本:ホアキン・コシーニャ・クリストーバル・レオン、2021
{概要/あらすじ}
2023、美術館建設に伴う調査で。ある映像が発掘された。それは。少女が人間の死体を使って謎の儀式を行っているものであった。1901年に制作された世界初のストップモーション・アニメーションという設定のアニメーション映画。
人形と実写が混在したタイプのストップモーション・アニメーションで、内容はとても難解であった。ストップモーションもとても見どころであったが、音響がとても特徴的であった。1901年制作という設定に忠実に無声映画でありながら、音楽やフィルムの粗さを逆に利用して不気味かつ不思議な世界観を作り出すのはとても現代的な発想であると思う。
13 『犬神家の一族』 監督:市川崑 1976
概要/あらすじ
金田一耕助シリーズの傑作。
製薬会社で財を成した犬神佐兵衛が、遺言書を遺して死去。遺言書には佐兵衛の恩人の孫娘・珠子に全財産を相続するとあり、佐兵衛の親族は騒然とする。助力を求められた金田一耕介が犬神家に向かうと、第一の殺人が起こり、奇怪な連続殺人事件に発展していく。
様々な映画やドラマ、バラエティーでパロディ、オマージュされている、遺産相続をめぐるミステリーサスペンス。金田一耕助が活躍するシーンが最後のスケキヨの正体と真犯人を指摘するシーンまでない構成は、序盤から核心をついたことを観客に提示せず、予想を何度も裏切る展開と最後の衝撃を強調していると思った。
14 『回路』 監督・脚本:黒沢清、2000
概要/あらすじ
会社に来ない同僚を心配して家を訪れたミチ。憔悴しきった様子の同僚は、目を
離した隙に首をつってしまい、ミチの周りでは恐ろしい異変が次々と起こっている。一方、インターネットを始めた亮介は、深夜、突如とある不気味なサイトにアクセスしてしまい…。
2000年はインターネットが徐々に一般普及してきた時代で、まだまだネットが未知のものであった時期でもある。そんな時期に制作されたということで、インターネットが幽霊の世界とリンクしてしまうという設定はタイムリーでとても恐ろしかったのではないかと思う。
黒沢清の作家性で、黒いシミや奥に揺れる影が観客に不安感を与えていた。
15 『消えない』 制作:kouichitv、埼玉県 、2021
概要/あらすじ
本編時間10分くらいの短編ホラー映画。埼玉県との企画で制作されている。
心霊スポットと言われている廃墟に訪れた二人の男。そのうちの1人が廃墟の中に入り写真を撮っていくが、とある部屋で髪の長い赤い服を着た女を目撃する。その女はカメラには映らず、なぜか行く先々に姿を現すようになり・・・。
Youtubeでのみ見ることのできる映画で、短い時間ながら面白さと怖さを両方味わえる作品。赤い服の女が何か攻撃してくるわけでもむやみに驚かせてくるわけでもないが、ただそこに居るだけなのが不気味。タイトルが呪いなどではなく『消えない』という、理由がわからずただそこに居る様子をうまく表現していると思った。
{概要/あらすじ}
ディズニー/ピクサーの人気作『インサイド・ヘッド』の続編。
前作で感情たちがライリーの心を救い、平穏な日常を送っていた。今作は、成長し思春期を迎えたライリーの心に新たな<大人の感情>が登場する。ライリーの将来のために、選択を間違えないように必死になる感情たち、巻き起こる「感情の嵐」の中でライリーは自分らしさを見失ってしまう。大人になる途中、どんな感情も受け入れ自分を愛せるようになる感動作。
前作は、初めての不安感から心が不安定になる様子が描かれていたが、今作はまさに「思春期の複雑な感情」がそのまま描かれていた。心配事が増えたり、隠したいことがあったり、成長した人なら必ず共感できる。感情が自我をもって動くため、細かい心理描写というよりは、直接的な心理表現であるためわかりやすい。最後は、何かの感情を追いやるのではなくすべての感情を大事にし、いろんな側面を持つ自分を抱きしめるという暖かいメッセージが込められていた。思春期に入る瞬間、心の司令部で警報が鳴り響いてわかりやすく変化が起きておいたが、ライリーに今までなかった顎ニキビができていて、「思春期描写」がとても細かかった。
2 『CURE』監督・脚本:黒沢清 1997
{概要/あらすじ}
猟奇的殺人事件を追及する刑事と謎の男を描いたサイコ・サスペンス。この映画で、主演の役所広司は東京国際映画祭において最優秀主演男優賞を受賞した。
一人の娼婦が殺害された。胸元がX字型に切り裂かれている死体を目にした刑事の高部は、この特徴的な殺しが密かに連続していることに気づく。全く関係のない複数の犯人がなぜ特異な手口を共通して使い、犯人たちはそれを認識していないのか。この猟奇的殺人事件を追っていくうちに1人の男が捜査線上に上がるが、男との会話に翻弄され、精神を病んだ妻の介護による疲れも重なり、高部は次第に苛立ちを募らせていく・・・。
1カットが基本的に長回しで撮られているが、長回しの画の中に突然入り込む違和感や静かな要素の提示、たまに入る一瞬のカットの強烈な印象を増強していると思う。
また、殺害シーンは直接的に描かれているが、高部に関することは直接的に描かれることが少なく、一瞬包丁のクローズアップを写したり、突然死体が映ったりすることで、高部がどのような選択を取り、どのような人物となっていったのか暗示するような演出がされていた。私は、高部は最終的に、間宮よりもより強力な伝道師となったのだと思う。間宮を殺害したのち、病院にいる妻のX字型の傷口死体のカットが一瞬入ったこと、レストランで高部と接客をしたウェイトレスが包丁を手に取ったことから、間宮とは違い、無意識下で人の持つ狂気を引き出してしまっていると考えられる。
3 『Chime』監督・脚本:黒沢清 2024
概要/あらすじ
今年の第74回ベルリン国際映画祭ベルリナーレ・スペシャル部門に出品され話題を呼んだ、黒沢清監督の中編作品。「映画の中の三大怖いものを詰め込んだ」という本作は、もともとメディア配信プラットホーム・Roadsteadオリジナル作品第一弾として「自由に作品を制作してほしい」というオーダーから作られた。45分という短い作品ながら、濃厚な内容となっている。
料理教室の講師をしている松岡は、レッスンの生徒である田代から「チャイムのような音が聞こえて、誰かがメッセージを送ってきているようなんです」と言われる。それでも変わりなく接していたが、田代が今度は「ぼくの脳は半分機械に差し替えられているんです。」と言い出し、それを証明するために衝撃の行動にでる。この出来事をきっかけに、松岡の周辺や松岡自身に異様な変化が起きていく。
黒沢監督の過去作『CURE』と似たような恐怖感を覚えた。狂気が伝播する要素は、完全に『CURE』と同じテーマであると感じた。本作では、田代の自害がトリガーとなって、主人公の松岡の中にある狂気が出てくる。しかし、悪が存在するわけではなく殺人などは淡々と行われていく。誰かが怖いのではなく、すべてが異様で恐ろしく描かれていた。この映画で重要なのは起きる事件ではなく、登場人物たちが他人に無関心に描かれている部分で、日常の様子であるはずなのにずっと違和感を覚え、殺しや自害、明らかにおかしい人の様子が見えても気にも留めないところが1番の「怖さ」であると考えた。タイトルにもなっている「チャイム」の要素は深堀されることはなく、結局何なのかわからず、最後、松岡のPOVショットで包丁を写し、家を飛び出し、冷静な表情で家に戻っていき終わる。松岡は最後どうなったのか、様子のおかしい家族と包丁のショットから殺してしまうのではないかという想像が掻き立てられるが、答え合わせはなく終わるため、映画が終わっても恐怖を引きずることになる。
また、光と影の使い方・長回し・映像的な空白・説明のない状況が怖さを倍増させている。線路沿いの教室の中で、電車から反射する光を受けてチカチカとしている影や、後ろのモザイク窓の奥でゆらゆら揺れる黒い影など、細かいディテールが不気味さを醸し出していた。黒沢監督と言えば長回しだが、今作も長回しが多用されていた。その中では、重要なものや恐怖の対象をあえて見切れさせていた。とあるシーンで松岡が絶叫するが、絶叫する顔だけをアップで写し、何に対して叫んでいるのかは見せない。このホラー表現はとても実験的であるが、「人物が何に恐怖しているのかわからないけど怖い」という新たな体験を観客に与えていると思った。
4 『アナと雪の女王2』監督:クリス・バック、ジェニファー・リー 脚本:アリソン・シュローダー 、2019
{概要/あらすじ}
『アナと雪の女王』の続編。
平和を取り戻したアレンデールにまた異変が起きる。エルサにだけ聞こえる謎の呼び声の主と自らのルーツを探るべく、もう一度姉妹の大冒険が始まる。
前作は、真実の愛=恋愛的な愛という公式を破る「家族愛」の話であり、今作もその流れを汲んでいた。しかし、自らのルーツを探るという内容は、前作の子供向けの内容からかなりシフトチェンジした大人向けの内容に仕上げていると思った。ディズニー作品が、登場人物の出自・ルーツによりスポットを当てたストーリーに力を入れ始めた転換期の作品であると思う。
5 『missing』 監督・脚本:吉田恵輔
{概要/あらすじ}
娘が失踪し、出口のない暗闇に突き落とされた家族。どうにもできない現実との間でもがき苦しみながらも、その中で光を見つけていく。
前作の空白よりも、視点が多角的であった。とくに、報道の視点が多く取り上げられていた。行方不明事件が解決するわけではないが、その事件が周囲に与える影響や、報道の影響など現代が陥りやすい問題点を特にわかりやすく描いていたと思う。エンタメ的というより、ドキュメンタリーチックで淡々と人々の様子が描かれることで、この国のどこかでこういったことが起きているという感覚が観客に与えられると思う。
6 『ベイビーわるきゅーれ』
概要/あらすじ
女子高生殺し屋2人組のちさととまひろは、高校卒業を前に途方に暮れていた…。 明日から“オモテの顔”としての“社会人”をしなければならない。組織に委託された人殺し以外、何もしてこなかった彼女たち。 突然社会に適合しなければならなくなり、公共料金の支払い、年金、税金、バイトなど社会の公的業務や人間関係や理不尽に日々を揉まれていく。 さらに2人は組織からルームシェアを命じられ、コミュ障のまひろは、バイトもそつなくこなすちさとに嫉妬し、2人の仲も徐々に険悪に。 そんな中でも殺し屋の仕事は忙しく、さらにはヤクザから恨みを買って面倒なことに巻き込まれ・・・。
日本に殺し屋社会があるという設定から、殺し屋が恨みをかって狙われ、返り討ちにするというストーリー展開まで、『ジョンウィック』のオマージュを感じる。日常系アニメのような、二人のゆるい会話と本格アクションとのギャップがこの作品独特の空気感を出していると思う。
7 『最強殺し屋伝説 国岡』
{概要/あらすじ}
『ベイビーわるきゅーれ』を監督が作るために、実在する最強の殺し屋を密着取材するというモキュメンタリー。
ベイビーわるきゅーれの世界観がより現実に落とし込まれ、より具体的なジョンウィックパロディがあった。モキュメンタリーでありながら、所々映画的カメラ演出があり、より挑戦的な映画であった。
8 『マッドマックス 怒りのデスロード』監督・脚本:ジョージ・ミラー、2015
{概要/あらすじ}
石油も、そして水も尽きかけた世界。主人公は、愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官マックス。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたマックスは、反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ、配下の全身白塗りの男ニュークスと共に、ジョーに捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。
世紀末の独特な世界観を深く説明しなくてもわかるほどの美術・衣装の作りこみがあると思った。また、男性主人公で男性が力を持つ社会であるが、フュリオサを筆頭とした女性の登場人物がそれぞれどんな信念を持ち行動しているのかはっきりと描かれているので、女性が力強く生きること、支配されないことをメッセージとしているのだと思った。
9 『ミンナのウタ』監督:清水崇 脚本:清水崇・角田ルミ 2023
概要/あらすじ
『呪怨』シリーズや『犬鳴村』など都市伝説シリーズの清水崇監督作のホラー映画。
ラジオ番組のパーソナリティーを務めるGENERATIONSの小森隼は、収録前に30年前に届いた「ミンナのウタ」と書かれた奇妙なカセットテープを見つける。その後、収録中に「カセットテープ届きましたか?」という声をノイズの中で聞いた小森は、ライブを控えた中失踪してしまう。事態を迅速に解決するべく探偵を雇い調査を始めるが、ほかのGENERATIONSのメンバーにも次々と恐ろしいことが起きはじめる。
近年の怨霊に暗い過去を背負わせ同情するジャパニーズホラーの風潮の真逆を行く作品であると思った。しかし、GENERATIONSの楽曲や楽曲名が話の流れと関係ないところで登場する点はとても気になった。GENERATIONSの宣伝的な意味合いも含めた映画なのではないかと思った。
10 『メタモルフォーゼの縁側』監督:狩山和澄 脚本:岡田恵和 2022
概要/あらすじ
国内最大映画レビューサイトFilmarksで初日満足度ランキング1位を獲得した作品。
17歳の佐山うららは、きらきらしているとは言えない女子高生。本屋でバイトをしながら、BLマンガをこっそり読むことが唯一の楽しみ。ある日、本屋でBLを買っていくおばあさん、75歳の市野井雪と出会い、好きなものを語り合える「友達」となる。
BLという表では取り扱われないジャンルにフォーカスを当て、こういうジャンルだからこそ生まれる友情を大きな年の差という設定を込めてより奇妙で強固な関係性として演出していると思った。
「BL」「マンガ」「同人誌」「コミケ」という現代日本のサブカルチャーの側面を垣間見ることができて、雪さんが75歳という年齢であることから、昔の漫画文化の話も出てくるため、サブカルをラフな視点で見ることができる。
11『デッドプール&ウルヴァリン』監督:ショーン・レヴィ、2024
概要/あらすじ
『デッドプール』『デッドプール2』の続編。前作までは21世紀フォックスのもとで制作されていたが、2019年にディズニーに買収されたため、今作からMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)に合流した。
破天荒で何でもありの無責任ヒーロー、デッドプールに今度は世界の命運が託された。神聖時間軸を管理し、時間の流れを守る「時間変異取締局、通称TVA」から自身の時間軸が消滅しかけていること、理由はこの時間軸の「ウルヴァリン」が死を遂げたからだということ、この時間軸を倍速で消そうとしていることを聞かされたデッドプールは、自分の世界を守るために、別時間軸のウルヴァリンと手を組むことを企てるが・・・。
まず、この映画は「第4の壁」を簡単に破っていくのでかなり特異であると言える。しかし、それが物語のノイズになることはなく、逆に観客にメタ的な語り掛けがあることで「マルチバース」という複雑な設定への入り込みやすさがあると思う。
また、冒頭の戦闘→クレジットシーンの演出は、前作・前々作の流れを汲んで、音楽中心の演出がなされていたため、より冒頭でのボルテージが上がっていたと思う。
しかし、MCUに合流したことで、FOX時代の『X-MEN』シリーズや『ファンタスティック・フォー』のみならず、『アベンジャーズ』シリーズから、『ロキ』ドラマシリーズの知識を要するため、物語内に出てくる要素をすべて理解できる人は少ないように思える。
12『骨』監督・脚本:ホアキン・コシーニャ・クリストーバル・レオン、2021
{概要/あらすじ}
2023、美術館建設に伴う調査で。ある映像が発掘された。それは。少女が人間の死体を使って謎の儀式を行っているものであった。1901年に制作された世界初のストップモーション・アニメーションという設定のアニメーション映画。
人形と実写が混在したタイプのストップモーション・アニメーションで、内容はとても難解であった。ストップモーションもとても見どころであったが、音響がとても特徴的であった。1901年制作という設定に忠実に無声映画でありながら、音楽やフィルムの粗さを逆に利用して不気味かつ不思議な世界観を作り出すのはとても現代的な発想であると思う。
13 『犬神家の一族』 監督:市川崑 1976
概要/あらすじ
金田一耕助シリーズの傑作。
製薬会社で財を成した犬神佐兵衛が、遺言書を遺して死去。遺言書には佐兵衛の恩人の孫娘・珠子に全財産を相続するとあり、佐兵衛の親族は騒然とする。助力を求められた金田一耕介が犬神家に向かうと、第一の殺人が起こり、奇怪な連続殺人事件に発展していく。
様々な映画やドラマ、バラエティーでパロディ、オマージュされている、遺産相続をめぐるミステリーサスペンス。金田一耕助が活躍するシーンが最後のスケキヨの正体と真犯人を指摘するシーンまでない構成は、序盤から核心をついたことを観客に提示せず、予想を何度も裏切る展開と最後の衝撃を強調していると思った。
14 『回路』 監督・脚本:黒沢清、2000
概要/あらすじ
会社に来ない同僚を心配して家を訪れたミチ。憔悴しきった様子の同僚は、目を
離した隙に首をつってしまい、ミチの周りでは恐ろしい異変が次々と起こっている。一方、インターネットを始めた亮介は、深夜、突如とある不気味なサイトにアクセスしてしまい…。
2000年はインターネットが徐々に一般普及してきた時代で、まだまだネットが未知のものであった時期でもある。そんな時期に制作されたということで、インターネットが幽霊の世界とリンクしてしまうという設定はタイムリーでとても恐ろしかったのではないかと思う。
黒沢清の作家性で、黒いシミや奥に揺れる影が観客に不安感を与えていた。
15 『消えない』 制作:kouichitv、埼玉県 、2021
概要/あらすじ
本編時間10分くらいの短編ホラー映画。埼玉県との企画で制作されている。
心霊スポットと言われている廃墟に訪れた二人の男。そのうちの1人が廃墟の中に入り写真を撮っていくが、とある部屋で髪の長い赤い服を着た女を目撃する。その女はカメラには映らず、なぜか行く先々に姿を現すようになり・・・。
Youtubeでのみ見ることのできる映画で、短い時間ながら面白さと怖さを両方味わえる作品。赤い服の女が何か攻撃してくるわけでもむやみに驚かせてくるわけでもないが、ただそこに居るだけなのが不気味。タイトルが呪いなどではなく『消えない』という、理由がわからずただそこに居る様子をうまく表現していると思った。
3年 北郷未結
RES
⑯『マッシュル-MASHLE-』(アニメ) 2023年
(あらすじ)
魔法が当然のものとして使用される魔法界に、唯一魔法が使えない男、マッシュ・バーンデッドがいた。魔法に匹敵する力を持つため、彼は人目のつかない森の奥で、日々筋トレに取り組んでいた。家族との平穏な暮らしを望む彼だったが、ある日、突然命を狙われ、なぜか魔法学校に入学し、トップである「神覚者」を目指すことに。鍛え抜かれたパワーがすべての魔法を粉砕する、アブノーマル冒険ファンタジー。
(考察)
最近の作品では、能力の「引き算」が物語に新しい面白さを生み出していると考えられる。主人公にあえて欠けた要素を持たせることで、従来の「何でもできる超人」像とは異なる、困難に立ち向かう姿を描いている。
たとえば、本作では魔法が一切使えない主人公が登場する。彼は魔法が使えない代わりに、筋力トレーニングに励み、最終的に魔法使い達との戦いを肉体的な力でねじ伏せていく。この展開において、視聴者たちは「主人公が魔法にどう対処するのか?」という視点から物語を楽しむことになる。魔法が使える者たちに対抗するために、主人公がどのような戦略を立て、戦いを切り抜けていくのかが、物語の重要なテーマとなる。
この手法は他作品にも見られる。たとえば『僕のヒーローアカデミア』では、世界の8割が特殊な能力「個性」を持つ中で、主人公は「無個性」として描かれている。彼は能力がないというハンデに直面しながらも、ヒーローになることを目指し、数々の試練を乗り越えていく。
このように、あえて主人公に「欠けた部分」を設定することで、物語に新たな緊張感と成長がもたらされると考える。
かつてのバトル漫画では、主人公は超人的な力を持ち、レベルアップを繰り返しながら、あらゆる困難を乗り越えていくという形式が多く見られた。
しかし、最近のバトル漫画では、主人公に何らかの欠点やハンデがあり、仲間と協力しながらその困難に立ち向かう物語が目立つようになっている。
これは、主人公の能力をあえて「引き算」して考えることで、物語に新たな視点と魅力をもたらしていると考えられる。
従来の「足し算」の成長物語ではなく、制約の中でどのように工夫し、前に進んでいくかという過程が、視聴者に新鮮な驚きや共感を与えていると考える。
⑰『天気の子』(映画) 監督:新海誠 2019年
(あらすじ)
離島の実家から家出して東京にやって来た高校生・森嶋帆高は、職探しに苦労するも、オカルト雑誌のライターという仕事にありつく。東京では何日も雨が降り続く中、帆高は弟と2人で暮らす明るい少女・天野陽菜と出会う。そして彼は、彼女が不思議な能力を持っていることに気づく。それは祈るだけで、空を晴れにできる力だった。
(考察)
本作では、街に降り注ぐ大量の雨水や、差し込む太陽光の描写は繊細かつ美しく、光と影の使い方によって水や光が立体感を持ち、線を感じさせない画力が発揮されている。これにより、自然の力が見事に表現されている。このことからも、天気が作品の中で重要な要素として扱われていることがわかる。
新海誠監督はインタビューで「天気は地球のどこでも存在し、誰もが共感できるテーマです。気象は遠く空の上で起こる、我々の手の届かない大規模な現象であるにもかかわらず、私たちの日常や気分に直接的な影響を与える個人的な出来事でもあると思います。コントロールできないほど大きな存在でありながら、私たちの心の奥深くでつながっているのです」と述べている。つまり、彼は天気という巨大で不可視な存在が、個人の内面的な感情や経験と密接に結びついている点を強調している。
この「遠く離れた誰かとつながっている」という感覚は、新海監督の作品全体に共通する特徴と言えるだろう。彼の作品では、距離的に離れていても感情や体験を通して人々がつながる瞬間が多く描かれている。そのつながりは、しばしば自然や天気といった普遍的な要素を媒介として表現される。
また、音楽を背景に物語が進行する中で、異なる時系列や場面が次々と切り替わるが、これらのシーンは一見離れているように見えて、実は深い物語の繋がりを持っている。新海誠作品における時間や空間の扱いは、登場人物同士の距離感や心の変化を巧妙に映し出しており、それが観客に多層的な感動を与えていると考える。
(参考サイト)『『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」』https://weathernews.jp/s/topics/202012/240115/(最終閲覧日2024/8/26)
⑱『ショーシャンクの空に』(映画) 監督:フランク・ダラボン 1995年
(あらすじ)
妻とその愛人を射殺したかどで刑務所送りとなった銀行員。初めは戸惑っていたが、やがて彼は自らの不思議な魅力で、すさんだ受刑者達の心を掴んでゆく。そして20年の歳月が流れた時、彼は冤罪を晴らす重要な証拠をつかむ。
(考察)
本作は囚人たちが抱く「希望」や「自由」が、彼らの生き方にどのように影響するかを描いている。エリス・ボイド・“レッド”・レディングは、長年の監獄生活によって「シャバ」を恐れるようになった。これをレッドは「施設慣れ」と呼び、終身刑が囚人を精神的に蝕み、外の世界での生活に適応できない状態になったことを指す。
例えば、仮釈放されたブルックスは、長年の刑務所生活から釈放されるも、社会に馴染めず、ついには自ら命を絶ってしまった。このように、刑務所内での希望はむしろ危険であり、場合によっては自殺に繋がるというレッドの見解は説得力がある。
作品を通して、レッドの視点は一貫して「外の世界」への不安を示し、刑務所に留まることへの安全志向が強調されている。
一方で、アンディー・デュフレーンは異なる見方を持っている。彼は「希望は永遠の命」という言葉にあるように、外の世界に出て、知らなかったことを知ることに生きる希望を見出している。
このように、レッドとアンディーの希望に対する見解は、対照的なものとして描かれている。レッドにとって希望は危険なものであり、「死」を意味するが、アンディーにとっては希望こそが生きる意味そのものであり、「永遠の命」となっている。
この対比は、作品全体を通じて「希望」と「生死」が重要なテーマとして表現されていると考える。
⑲『そして誰もいなくなった』(小説) 著者:アガサ・クリスティ 訳者:福田逸 新水社 1984年
(あらすじ)
とある孤島に招き寄せられたのは、たがいに面識もない、職業や年齢もさまざまな十人の男女だった。だが、招待主の姿は島にはなく、やがて夕食の席上、謎の声が、彼らの過去の犯罪を暴き立てる。そして無気味な童謡の歌詞通りに、彼らが一人ずつ殺されてゆく、推理小説。
(考察)
本作は、絶海の孤島に閉じ込められた10人が、童謡「十人の兵隊さん」の歌詞通りに次々と命を落としていくという、物語となっている。
この物語の特徴は、童謡に忠実に再現される殺人だ。犯人である元判事のウォーグレイヴは、1つの作品を完成させるかのように、一人ひとりを童謡の歌詞に対応させて殺害していく。このことからウォーグレイヴの計画は、単なる復讐劇ではなく、「完全な犯罪」というテーマに執着していると考える。彼は、生き物の命を奪うことに強い執着を抱き、法廷では罪人に死を宣告することで、その喜びを味わってきた。判事としての「正義」が、生命を奪うことへの強い執着に取り込まれ、極端な殺人の形式になっていると考える。
また、本作が戯曲形式であることも、物語の冷酷さを際立たせていると考える。登場人物たちの感情はあまり描写されず、出来事が淡々と進行するため、感情移入することが難しい。そのため、読者は純粋に事件そのものに注目させられる。これによって、読者は登場人物の恐怖や絶望よりも、出来事の冷徹さに目を向けさせられ、物語全体が不気味な冷酷さで包まれていると考える。
このことから、ウォーグレイヴの犯行は単なる殺人事件を超えた「死の芸術」であり、冷徹なまでに計画された舞台で人々が命を落としていく様子は、読者に強い衝撃を与えるものとなっている。彼の「正義」や「罪」に対する執念が、物語全体を通じて究極的なテーマとして描かれていると考える。
⑳『真実』(映画) 2019年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
世界中にその名を知られる、国民的大女優ファビエンヌが、自伝本「真実」を出版。海外で脚本家として活躍している娘のリュミール、テレビ俳優として人気の娘婿、そのふたりの娘シャルロット、ファビエンヌの現在のパートナーと元夫、彼女の公私にわたるすべてを把握する長年の秘書。“出版祝い”を口実に、ファビエンヌを取り巻く“家族”が集まるが、全員の気がかりはただ一つ。「いったい彼女は何を綴ったのか?」
そしてこの自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された、愛憎うず巻く心の影を露わにしていく。
(考察)
まず、自伝本に綴られた“嘘”について、自伝本では、ファビエンヌが良き母として描かれている。しかし、実際は俳優業に専念していたため、娘の世話にはあまり関わっていなかった。
一方、自伝本に綴られなかった“真実”は、ファビエンヌがリュミエールの劇を見に行っていたこと、亡くなったライバル、サラを偲んで役をもらったことである。
綴られた“嘘”は読者にとっては“真実”である。一方、綴られない“真実”は本人以外知ることができないため、人間関係において摩擦が生じてしまう。
作中において、何が“真実”なのかは明示されない。しかし私は、親が子を思う気持ちは紛れもない“真実”であると考える。
㉑『グエムルー漢江の怪物ー』(映画) 監督:ポン・ジュノ 2006年
(あらすじ)
ソウルの中心を南北に分けて流れる雄大な河、漢江。ある日、突然正体不明の巨大怪物<グエムル>が現れた。河川敷の売店で店番をしていたカンドゥの目の前で、次々と人が襲われ、愛娘である中学生のヒョンソも攫われてしまう。さらに、カンドゥの父・ヒボン、弟のナミル、妹のナムジョのパク一家4人は、グエムルが保有するウイルスに感染していると疑われ、政府に隔離されてしまう。しかし、カンドゥは携帯電話にヒョンソからの着信を受け、家族と共に病院を脱出し、ヒョンソを救うため、漢江へと向かう。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は、韓国の社会的な構造からである。
本作は、2000年に在韓米軍の人間がホルムアルデヒドを漢江に流したという、実際の事件を参考にしている。
これは、「第五福竜丸事件」などの被爆事件から着想を得た『ゴジラ』の設定に近く、大国アメリカの傲慢さや、その力に支配されている自国の問題という、社会的なテーマが浮かび上がってくる。
また、韓国は、1960年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げてきたが、2000年代に入ると、雇用条件の悪化や、経済格差問題が目立つようになる。
このことから、作中で登場する「グエムル」という怪物は、人々が被る社会的な抑圧や怒りを体現したものではないかと考える。
2つ目は、ポン・ジュノ監督が映画の中で用いる“匂い”の意味である。
主人公の男・カンドゥは、愛娘であるヒョンソが目の前でグエムルに襲われ、連れ去られてしまう。
そんなカンドゥを見たヒボン(カンドゥの父)は、「子を失った親から漂う匂い」がすると言う。しかし、その匂いは他の人には分からない。匂いとは嗅覚を通して、記憶に残り、その人を印象づけるものだと考える。
このことから、ポン・ジュノ監督が表現する“匂い”とは、個人の拭いきれない過去や存在そのものを象徴するものとして機能しているのではないかと考えた。
(参考サイト)『【解説】映画『グエムルー漢江の怪物ー』にみる格差社会と、怪物の正体とは? 』https://cinemore.jp/jp/erudition/1201/article_1202_p1.html(最終閲覧:2024/9/16)
㉒『マスク』菊池寛 1920年 青空文庫より
(あらすじ)
見かけは頑健に思われているが、実は心臓も肺も、胃腸も弱い。そんな自分に医者は「流行性感冒にかかったら、助かりっこありません」と言う。だから、徹底的に感染予防に努めた。でも暖かくなったある晴れた日に、黒いマスクの男を見かけると、嫌悪感を抱くようになる。
(考察)
本作の状況は、現代のコロナ禍における、人々の心象と重なっていると考える。流行性感冒が流行し、主人公は外出をできるだけ控えるようになる。そして外に出る際には、ガーゼをたっぷりと詰めたマスクを装着する。また、友人が40度の熱を出したことを知り、死に怯える。この恐れは、ウイルスが目に見えないものでありながら、常に身近に潜む脅威であることを示している。
その後、流行が収まった後も、主人公はなおもマスクを着用し続ける。ここで重要なのは、マスクが防護具以上の意味を持ち始めている点だ。同じようにマスクをしている人を見ると、主人公は仲間意識や誇りを感じる。マスクは個人の意思や信念を象徴するものとなり、共通の経験をする人々との繋がりを強調する。
しかし、時が経つにつれ、主人公もマスクを外すようになる。その一方で、まだマスクを着けている人を見ると、今度は不快に感じるようになる。この変化は、自己本位的な心情が反映されており、かつて共感していた行為が、今では疎ましく感じられるという複雑な心理を表している。これは、人間の信念や感情が状況に応じて流動的であり、他者への視点が自己の立場に大きく影響されることを表現している。
最後に、自分の信念を強く貫く他者との対立が浮かび上がる。自己の考えに固執する人物に対して、主人公は圧迫感を覚える。これは、異なる価値観を持つ他者との関係において、人が感じる葛藤や摩擦を象徴している。
これは、他人にマスクを強要する「マスク警察」の片鱗が現れていると考える。本作では、現代でも普遍的な感染症下の同調圧力の問題が描かれていると考える。
㉓『桜の樹の下には』梶井基次郎 1931年 青空文庫より
(あらすじ)
不思議な生き生きとした美しい満開の桜を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。
(考察)
この作品では、桜の生き生きとした美しさと、土の中に埋められた屍の生々しさを対比させている。例えば「桜の樹の下には屍体が埋まっているが、桜の花は見事に咲いている。」という対比は、桜の美しさが際立つほど、同時に屍の存在が強く浮かび上がる。
また、屍体から出る液体が、桜の美しい花弁や蕊を形成しているというイメージも印象深く、生死の循環をえがくことで生命と死の密接な関係を表現していると考える。
さらに、「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」という一節からは、桜と屍体の対比にあるように、比較する対象があるからこそ、物を美しいと思える心があることを実感できる、逆説的な心の複雑さを表現していると考える。
本作は、その短さにもかかわらず、圧倒的な表現力を持ち、桜の美しさの裏に潜む死の存在を通して、人間の心の複雑な感情を表現していると考える。
㉔『岸辺のふたり』(アニメ) 監督:マイケル・デュドック・デ・ヴィット
(あらすじ)
海沿いの土手を、横並びで自転車を走らせる、仲睦まじい親子。
しかし、父は海の岸辺にあったボートを使って、どこかへ行ってしまう。娘は何度もその場所を訪れ、父の帰りを待つ。
そしてある日、海の水が無くなってしまう。
月日がたち、老婆となった女の子は海の水がなくなり、草原となった場所を歩いていく。歩いていくと、そこには父が乗っていったボートがあった。ボートに横たわる女の子。しばらくして起き上がり、草むらを駆けるとどんどん若返っていき、その先には父の姿が。
最後、親子で抱きしめ合う場面で幕を閉じる。
2001年アカデミー賞短編アニメ賞、英国アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞。
(考察)
この作品は、娘から見た父の死について描かれていると考える。
冒頭の場面では、父が1度岸辺に降りるも、再度丘の上にいる娘のもとへ戻り、抱きしめてから、岸辺に降りてボートを漕いでいく。
これは、丘から海までの道が生と死の境目を表現しており、海が死の世界への道だと考えると、父と娘の死別を表現していると考える。
ボートを使うことで、突然、どこか遠くに行ってしまった感覚や、遠くに行ってしまっても、いつか戻ってくるだろうという気持ちが表現されていると考える。
そして、女の子が歳を重ねるにつれ、自転車から降りることなくただ海の向こうを眺めるようになる。これは歳を重ねることで、父の死を受け止められるようになったことを暗示していると考える。
そして最後、老婆になった女の子は、水が無くなり草むらとなった海を歩いていき、そこで父と再会する。ここでは女の子の死が連想できる。
海の水が無くなるくらいの長い年月を経て、再会できたのは、お互いが死を迎えた後であった。
このことから、本作では、長い年月が流れても親子の変わらない愛情を描き出していると考える。
㉕『怒り』(映画) 監督:李相日 2016年
(あらすじ)
ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。現場には『怒』の血文字が残されており、犯人は行方をくらました。そして、事件から1年後、千葉と東京と沖縄に素性の知れない3人の男が現れた。殺人犯を追う警察は、新たな手配写真を公開した。その顔の特徴は、3人の男にそれぞれ当てはまるところがあった。
(考察)
本作のモデルとなったのは、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」と、その犯人の市橋達也である。殺害した被害者を浴槽に遺棄したこと、顔を変えるために整形手術を行い、ホクロを消して唇を薄くしたこと、全国各地を逃げ回っていたことなどが、作品とリンクしている。
この作品は、千葉・東京・沖縄で起こる3つの物語が並行して進んでいく。
千葉では、漁港で働く男・洋平と、その娘である愛子が、田代という素性の知れない男に出会い、愛子と田代が恋に落ちていく。
東京では、大手通信会社に勤める優馬がハッテン場で出会った直人とともに暮らす様子が描かれる。
沖縄では、夜逃げ同然で離島に移り住んできた高校生の泉と、その同級生の辰哉が、無人島でバックパッカーの田中に遭遇する。
それぞれの場所で、謎の男との出会いがあり、周りの人物らは殺人犯ではないかと疑いながらも、ともに生活していく。
これらを踏まえ、本作における“怒り”とは、自分自身への怒りだと考える。信じていた人を守りきれなかった、信じなくてはいけない人を信じきれなかった。
例えば、辰哉は、泉が公園で米兵に強姦されているところを助けられなかった。辰哉はそれを田中にからかわれ、田中を殺してしまう。辰哉は逮捕後に「信じていたから、許せなかった」と供述した。
信じていた人に裏切られた怒りと、守るべき人を守れなかった自分への怒りが描かれている。
また、愛子はテレビのニュースで報道される男の写真と、田代の顔や仕草の特徴が一致していたことから、犯人じゃないと自分に言い聞かせていたものの、警察に通報してしまう。
2人は同棲を始めたばかりであったが、田代は家から姿を消した。愛子は泣き叫び、信じたい人を信じきれなかった自分への怒りを露わにする。
このことから、本作は、友情や愛情など、信頼のもとで成り立つ関係において、相手がもし殺人犯だったらどこまで「信じる」ことができるか、その責任や重さを描いていると考える。
(参考サイト)
『【若者に訊け】吉田修一 市橋達也事件念頭に置いた『怒り』』https://www.news-postseven.com/archives/20140223_242015.html/3
(最終閲覧:2024/09/21)
㉖『プラトーン』(映画) 監督:オリバー・ストーン 1987年
(あらすじ)
1967年、大学を中退した正義感溢れる若者が、志願兵としてベトナム戦争に従軍する。配属されたのは最前線の小隊プラトーン。そこでは冷酷非情な隊長と、無益な殺人に反対する班長が対立していた。やがて彼は戦場で、想像を絶する人間の狂気を目の当たりにすることになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は映像表現が生み出す戦争の緊迫感である。銃撃戦の場面では、1つのショットが次々と写り変わることで、銃撃戦の激しさを表現している。また、全身のショットや顔のクローズアップなどを組み合わせることで、激しくなる銃撃戦に緊迫感を覚える兵たちの心境を表現していると考える。
2つ目は、兵視点から考える戦争の意義についてである。
物語が兵視点で描かれているため、戦争に勝ったとしても、その喜びが誇張して描かれず、数多くの仲間が犠牲になった苦しみや、虚無感を演出している。
主人公のテイラーは、戦争が終わった後、以下のように語る。
「今思うと、あの時の僕らは自分自身と戦っていたんだ。敵は、僕らの心の中にいた。」
ここから、国同士の対立ではなく、同じ軍の兵同士の衝突が本作のテーマの1つであると考える。
戦争で皆が国のために一丸となって戦っているのではなく、一人一人が自分の主張や正義を持っており、仲間内でも銃口を向けあっている、前線で戦う者の現実が描かかれていると考える。
㉗『最強のふたり(吹替版)』(映画) 監督:エリック・トレダノ 2012年
(あらすじ)
パラグライダーの事故で首から下が麻痺した大富豪のフィリップ。介護人募集の面接にやってきたのは、スラム街暮らしの黒人青年ドリスだった。水と油の2人だったが、ドリスはフィリップの心を解きほぐし、固い絆で結ばれていく。
(考察)
この作品のテーマは、対等な人間関係の構築であると考える。
話の冒頭、介護者の面接にて、面接を受ける人たちは次々に「人を助けたい」「障害者の自立を支援したい」「何もできない人たちですから」と志望動機を述べていく。これらは彼らの中に障害者=何も出来ない、可哀想な人といった隠れた偏見があると考える。
健常者である自分たちが、障害者の人達に希望を与えてあげるといった、対等の意識がないと考える。
しかし、ドリスはこのような先入観を持たず、フィリップという人物そのものに目を向けていく。
これが、2人の友情の根幹にあるものだと考える。
これを象徴するのが、以下の場面だ。
フィリップの友人が、ドリスが人を殴ったと聞いて、「怪しげな人間を近づけるな。そんな状態で。」とフィリップに忠告をする場面がある。
しかし、フィリップは目をそらす。「そんな状態で」と、障害があるという理由で無力さを決めつけている友人に呆れていると考える。
そこで、フィリップはドリスの話題を出す。
「いらないよ、情けなど。あいつ、電話を差し出すんだ。うっかりとね。私に同情していない証だよ。」
このことから、ドリスが普通の人と変わらない接し方をしていることが明らかである。フィリップが求めているのは、同情ではなく、対等な人間関係である。
これらのことから、障害者に対する無意識な偏見や特別視をしないことが、相互理解と信頼を生むと考える。
相手と良好な関係を築くには、無意識な偏見の目に敏感にならなければならないことを訴えていると考える。
㉘『夜明けのすべて』(小説) 瀬尾まいこ 2020年 水鈴社
(あらすじ)
職場の人たちの理解に助けられながらも、月に1度のPMS(月経前症候群)でイライラが抑えられない藤沢は、やる気がないように見える、転職してきたばかりの山添に当たってしまう。山添はパニック障害になり、生きがいも気力も失っていた。互いに友情も恋も感じてないけれど、おせっかい者同士の2人は、自分の病気は治せなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は小説という形態の特徴から考察する。
本作は、PMSやパニック障害など、心の病気を持つ2人が物語の中心となっている。
例えば、藤沢さんはPMSの症状によって、小さなことで苛立ってしまい、強い口調で周りに当たってしまうことがある。
そこで「」書きの台詞のあとに、強い口調で言ってしまったことを後悔する胸の内が書かれる。表面上の言葉とは裏腹に、様々な感情や葛藤を抱えており、台詞ではなく、心の中の声が物語において重要な意味を持っている。
これは、小説という表現形式だからこそ、内面と実際にでる行動の差をテンポよく描くことができ、心の問題ならではの矛盾や葛藤が表現されていると考える。
2つ目は、本作のテーマである。
山添の発言に以下のようなものがある。「そう思うと同時に、「病気にもランクがあったんだね」という藤沢さんの言葉が頭に浮かんだ。俺は知らず知らずら自分の病気をかさに着るようになったのだろうか。まさか、本当のことなんだからしかたない。PMSよりパニック障害のほうがつらいに決まっている。いや、はたして、本当にそうだろうか。俺はPMSどころか生理のことも知らない。実際は想像以上にしんどいのかもしれない。」(P55)
この内面的な葛藤は、病気に対する主観的な視点と客観的な理解とギャップを示しており、物語の重要なテーマの一つと言える。
また、藤沢さんが虫垂炎になり、手術をした後の面会で、お腹に穴を開けても3日程で回復することに2人が感心する場面がある。
そこで、山添が「すべてではないだろうけど、回復させる力がぼくらにはあるんですね」(P.266)と発言する。
この言葉には、単なる身体的な回復だけでなく、人生において困難に直面しても、それを乗り越える力が人間には備わっているというメッセージが込められているように感じられる。
㉙『家長の心配』(小説) フランツ・カフカ 青空文庫より
(あらすじ)
「オドラデク」という生物がいる。
名前の起源も、生態も、声や姿形ですら、全てが謎に満ちているそいつは、度々主人公の家にやってきては、特に何かするでもなくじっとしている。
何かの役に立ちそうでもなく、害をなすわけでもない。
そんな不思議な生物に、主人公が抱いている思いとは。
(考察)
本作では、「オドラデク」という謎の生物が登場する。それは一見すると平たい星形の糸巻のようなもので、星形の中央から小さな棒が1本突き出し、さらにもう1本の棒と合わせて直立する組み立て品だ。外見は単純だが、捕まえることができないほど素早く、屋根裏部屋や階段、廊下、玄関などを転々と移動する姿が描かれている。その挙動や存在感は、座敷わらしや幽霊のように、どこか不気味で捉えどころがない。
この生物は、主人公自身の内面を象徴しているのではないかと考える。オドラデクの姿形はあるが、その実態を正確に把握することができない。読者それぞれがその特徴を聞いて、自由にその姿を想像していくように、主人公も自分自身の精神を捉えきれずにいると考える。この点から、オドラデクは主人公の内面的な曖昧さ、あるいは不確かな精神状態を象徴していると言える。つまり、主人公が抱える思想や主義、その根底にある無気力さや空虚さを表現していると考える。
例えば、作中の「いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。」という言葉に着目すると、カフカがダーウィニズムを信奉する無神論者であったことを考えると、オドラデクは名前もなく具体的な形も持たない、自分の思想や主義を体現している存在とも解釈できる。
さらに、「それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。」という言葉からは、肉体は滅びても精神は生き残るといった、思想や主義の象徴である可能性が浮かび上がる。
このように、オドラデクという謎の生物を通して、主人公が自分の存在意義や目的に対する疑問を抱えていること、そしてそれが物語全体に流れるテーマの1つであると考える。
㉚『つみきのいえ』(映画) 監督:加藤久仁生 2008年
(あらすじ)
水に沈みかけた街で孤独に暮らす老人。彼の家は水面が上昇する度に上へ上へと、積み木を重ねるように伸びていく。彼はなぜひとりで暮らしているのか、徐々に解き明かされる物語。
米国アカデミー賞短編アニメーション賞、アヌシー国際アニメーション映画祭アヌシー・クリスタル賞(最高賞)、広島国際アニメーションフェスティバル広島賞、観客賞などを受賞。
(考察)
本作は、スケッチノートのような少しザラついた紙に、色鉛筆や絵の具で描いたような柔らかな線と色合いが特徴である。
作品は、ワンルームの部屋に1人の老人が椅子に腰をかけており、壁一面に貼られた奥さんとの写真を眺めるところから始まる。
常に水の音がするが、水以外の音がしない世界の静けさに老人の孤独が表現されていると考える。
場面は変わり、ある朝床が水浸しになってしまう。これは水面の上昇によるもので、老人はレンガを使って手作業で新しい階を作っていく。
ある日、老人が愛用していたキセルを水の中に落としてしまい、ダイバーの服を着て水中に潜っていく。
そして、潜って下の階に行く毎に、奥さんや家族との記憶が蘇っていく。しかしその人たちはもう居ない。病気なのか、どこか遠くへ行ってしまったのか、この水の世界に呑まれたのか理由は分からない。家は高く、高く積まれており、地面を駆け回ることも、木を見ることも、鳥が羽ばたくことも見ることは出来ない。何も無い水上の世界では、新たな生命の芽生えや成長はない。
しかし、この家は生きている。男が家の階を増やすことで、この家で培われた思い出は生き続ける。
このことから、男が家を改修し続けていくのは、家族との思い出を生かし続けるためだと考える。
(あらすじ)
魔法が当然のものとして使用される魔法界に、唯一魔法が使えない男、マッシュ・バーンデッドがいた。魔法に匹敵する力を持つため、彼は人目のつかない森の奥で、日々筋トレに取り組んでいた。家族との平穏な暮らしを望む彼だったが、ある日、突然命を狙われ、なぜか魔法学校に入学し、トップである「神覚者」を目指すことに。鍛え抜かれたパワーがすべての魔法を粉砕する、アブノーマル冒険ファンタジー。
(考察)
最近の作品では、能力の「引き算」が物語に新しい面白さを生み出していると考えられる。主人公にあえて欠けた要素を持たせることで、従来の「何でもできる超人」像とは異なる、困難に立ち向かう姿を描いている。
たとえば、本作では魔法が一切使えない主人公が登場する。彼は魔法が使えない代わりに、筋力トレーニングに励み、最終的に魔法使い達との戦いを肉体的な力でねじ伏せていく。この展開において、視聴者たちは「主人公が魔法にどう対処するのか?」という視点から物語を楽しむことになる。魔法が使える者たちに対抗するために、主人公がどのような戦略を立て、戦いを切り抜けていくのかが、物語の重要なテーマとなる。
この手法は他作品にも見られる。たとえば『僕のヒーローアカデミア』では、世界の8割が特殊な能力「個性」を持つ中で、主人公は「無個性」として描かれている。彼は能力がないというハンデに直面しながらも、ヒーローになることを目指し、数々の試練を乗り越えていく。
このように、あえて主人公に「欠けた部分」を設定することで、物語に新たな緊張感と成長がもたらされると考える。
かつてのバトル漫画では、主人公は超人的な力を持ち、レベルアップを繰り返しながら、あらゆる困難を乗り越えていくという形式が多く見られた。
しかし、最近のバトル漫画では、主人公に何らかの欠点やハンデがあり、仲間と協力しながらその困難に立ち向かう物語が目立つようになっている。
これは、主人公の能力をあえて「引き算」して考えることで、物語に新たな視点と魅力をもたらしていると考えられる。
従来の「足し算」の成長物語ではなく、制約の中でどのように工夫し、前に進んでいくかという過程が、視聴者に新鮮な驚きや共感を与えていると考える。
⑰『天気の子』(映画) 監督:新海誠 2019年
(あらすじ)
離島の実家から家出して東京にやって来た高校生・森嶋帆高は、職探しに苦労するも、オカルト雑誌のライターという仕事にありつく。東京では何日も雨が降り続く中、帆高は弟と2人で暮らす明るい少女・天野陽菜と出会う。そして彼は、彼女が不思議な能力を持っていることに気づく。それは祈るだけで、空を晴れにできる力だった。
(考察)
本作では、街に降り注ぐ大量の雨水や、差し込む太陽光の描写は繊細かつ美しく、光と影の使い方によって水や光が立体感を持ち、線を感じさせない画力が発揮されている。これにより、自然の力が見事に表現されている。このことからも、天気が作品の中で重要な要素として扱われていることがわかる。
新海誠監督はインタビューで「天気は地球のどこでも存在し、誰もが共感できるテーマです。気象は遠く空の上で起こる、我々の手の届かない大規模な現象であるにもかかわらず、私たちの日常や気分に直接的な影響を与える個人的な出来事でもあると思います。コントロールできないほど大きな存在でありながら、私たちの心の奥深くでつながっているのです」と述べている。つまり、彼は天気という巨大で不可視な存在が、個人の内面的な感情や経験と密接に結びついている点を強調している。
この「遠く離れた誰かとつながっている」という感覚は、新海監督の作品全体に共通する特徴と言えるだろう。彼の作品では、距離的に離れていても感情や体験を通して人々がつながる瞬間が多く描かれている。そのつながりは、しばしば自然や天気といった普遍的な要素を媒介として表現される。
また、音楽を背景に物語が進行する中で、異なる時系列や場面が次々と切り替わるが、これらのシーンは一見離れているように見えて、実は深い物語の繋がりを持っている。新海誠作品における時間や空間の扱いは、登場人物同士の距離感や心の変化を巧妙に映し出しており、それが観客に多層的な感動を与えていると考える。
(参考サイト)『『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」』https://weathernews.jp/s/topics/202012/240115/(最終閲覧日2024/8/26)
⑱『ショーシャンクの空に』(映画) 監督:フランク・ダラボン 1995年
(あらすじ)
妻とその愛人を射殺したかどで刑務所送りとなった銀行員。初めは戸惑っていたが、やがて彼は自らの不思議な魅力で、すさんだ受刑者達の心を掴んでゆく。そして20年の歳月が流れた時、彼は冤罪を晴らす重要な証拠をつかむ。
(考察)
本作は囚人たちが抱く「希望」や「自由」が、彼らの生き方にどのように影響するかを描いている。エリス・ボイド・“レッド”・レディングは、長年の監獄生活によって「シャバ」を恐れるようになった。これをレッドは「施設慣れ」と呼び、終身刑が囚人を精神的に蝕み、外の世界での生活に適応できない状態になったことを指す。
例えば、仮釈放されたブルックスは、長年の刑務所生活から釈放されるも、社会に馴染めず、ついには自ら命を絶ってしまった。このように、刑務所内での希望はむしろ危険であり、場合によっては自殺に繋がるというレッドの見解は説得力がある。
作品を通して、レッドの視点は一貫して「外の世界」への不安を示し、刑務所に留まることへの安全志向が強調されている。
一方で、アンディー・デュフレーンは異なる見方を持っている。彼は「希望は永遠の命」という言葉にあるように、外の世界に出て、知らなかったことを知ることに生きる希望を見出している。
このように、レッドとアンディーの希望に対する見解は、対照的なものとして描かれている。レッドにとって希望は危険なものであり、「死」を意味するが、アンディーにとっては希望こそが生きる意味そのものであり、「永遠の命」となっている。
この対比は、作品全体を通じて「希望」と「生死」が重要なテーマとして表現されていると考える。
⑲『そして誰もいなくなった』(小説) 著者:アガサ・クリスティ 訳者:福田逸 新水社 1984年
(あらすじ)
とある孤島に招き寄せられたのは、たがいに面識もない、職業や年齢もさまざまな十人の男女だった。だが、招待主の姿は島にはなく、やがて夕食の席上、謎の声が、彼らの過去の犯罪を暴き立てる。そして無気味な童謡の歌詞通りに、彼らが一人ずつ殺されてゆく、推理小説。
(考察)
本作は、絶海の孤島に閉じ込められた10人が、童謡「十人の兵隊さん」の歌詞通りに次々と命を落としていくという、物語となっている。
この物語の特徴は、童謡に忠実に再現される殺人だ。犯人である元判事のウォーグレイヴは、1つの作品を完成させるかのように、一人ひとりを童謡の歌詞に対応させて殺害していく。このことからウォーグレイヴの計画は、単なる復讐劇ではなく、「完全な犯罪」というテーマに執着していると考える。彼は、生き物の命を奪うことに強い執着を抱き、法廷では罪人に死を宣告することで、その喜びを味わってきた。判事としての「正義」が、生命を奪うことへの強い執着に取り込まれ、極端な殺人の形式になっていると考える。
また、本作が戯曲形式であることも、物語の冷酷さを際立たせていると考える。登場人物たちの感情はあまり描写されず、出来事が淡々と進行するため、感情移入することが難しい。そのため、読者は純粋に事件そのものに注目させられる。これによって、読者は登場人物の恐怖や絶望よりも、出来事の冷徹さに目を向けさせられ、物語全体が不気味な冷酷さで包まれていると考える。
このことから、ウォーグレイヴの犯行は単なる殺人事件を超えた「死の芸術」であり、冷徹なまでに計画された舞台で人々が命を落としていく様子は、読者に強い衝撃を与えるものとなっている。彼の「正義」や「罪」に対する執念が、物語全体を通じて究極的なテーマとして描かれていると考える。
⑳『真実』(映画) 2019年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
世界中にその名を知られる、国民的大女優ファビエンヌが、自伝本「真実」を出版。海外で脚本家として活躍している娘のリュミール、テレビ俳優として人気の娘婿、そのふたりの娘シャルロット、ファビエンヌの現在のパートナーと元夫、彼女の公私にわたるすべてを把握する長年の秘書。“出版祝い”を口実に、ファビエンヌを取り巻く“家族”が集まるが、全員の気がかりはただ一つ。「いったい彼女は何を綴ったのか?」
そしてこの自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された、愛憎うず巻く心の影を露わにしていく。
(考察)
まず、自伝本に綴られた“嘘”について、自伝本では、ファビエンヌが良き母として描かれている。しかし、実際は俳優業に専念していたため、娘の世話にはあまり関わっていなかった。
一方、自伝本に綴られなかった“真実”は、ファビエンヌがリュミエールの劇を見に行っていたこと、亡くなったライバル、サラを偲んで役をもらったことである。
綴られた“嘘”は読者にとっては“真実”である。一方、綴られない“真実”は本人以外知ることができないため、人間関係において摩擦が生じてしまう。
作中において、何が“真実”なのかは明示されない。しかし私は、親が子を思う気持ちは紛れもない“真実”であると考える。
㉑『グエムルー漢江の怪物ー』(映画) 監督:ポン・ジュノ 2006年
(あらすじ)
ソウルの中心を南北に分けて流れる雄大な河、漢江。ある日、突然正体不明の巨大怪物<グエムル>が現れた。河川敷の売店で店番をしていたカンドゥの目の前で、次々と人が襲われ、愛娘である中学生のヒョンソも攫われてしまう。さらに、カンドゥの父・ヒボン、弟のナミル、妹のナムジョのパク一家4人は、グエムルが保有するウイルスに感染していると疑われ、政府に隔離されてしまう。しかし、カンドゥは携帯電話にヒョンソからの着信を受け、家族と共に病院を脱出し、ヒョンソを救うため、漢江へと向かう。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は、韓国の社会的な構造からである。
本作は、2000年に在韓米軍の人間がホルムアルデヒドを漢江に流したという、実際の事件を参考にしている。
これは、「第五福竜丸事件」などの被爆事件から着想を得た『ゴジラ』の設定に近く、大国アメリカの傲慢さや、その力に支配されている自国の問題という、社会的なテーマが浮かび上がってくる。
また、韓国は、1960年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げてきたが、2000年代に入ると、雇用条件の悪化や、経済格差問題が目立つようになる。
このことから、作中で登場する「グエムル」という怪物は、人々が被る社会的な抑圧や怒りを体現したものではないかと考える。
2つ目は、ポン・ジュノ監督が映画の中で用いる“匂い”の意味である。
主人公の男・カンドゥは、愛娘であるヒョンソが目の前でグエムルに襲われ、連れ去られてしまう。
そんなカンドゥを見たヒボン(カンドゥの父)は、「子を失った親から漂う匂い」がすると言う。しかし、その匂いは他の人には分からない。匂いとは嗅覚を通して、記憶に残り、その人を印象づけるものだと考える。
このことから、ポン・ジュノ監督が表現する“匂い”とは、個人の拭いきれない過去や存在そのものを象徴するものとして機能しているのではないかと考えた。
(参考サイト)『【解説】映画『グエムルー漢江の怪物ー』にみる格差社会と、怪物の正体とは? 』https://cinemore.jp/jp/erudition/1201/article_1202_p1.html(最終閲覧:2024/9/16)
㉒『マスク』菊池寛 1920年 青空文庫より
(あらすじ)
見かけは頑健に思われているが、実は心臓も肺も、胃腸も弱い。そんな自分に医者は「流行性感冒にかかったら、助かりっこありません」と言う。だから、徹底的に感染予防に努めた。でも暖かくなったある晴れた日に、黒いマスクの男を見かけると、嫌悪感を抱くようになる。
(考察)
本作の状況は、現代のコロナ禍における、人々の心象と重なっていると考える。流行性感冒が流行し、主人公は外出をできるだけ控えるようになる。そして外に出る際には、ガーゼをたっぷりと詰めたマスクを装着する。また、友人が40度の熱を出したことを知り、死に怯える。この恐れは、ウイルスが目に見えないものでありながら、常に身近に潜む脅威であることを示している。
その後、流行が収まった後も、主人公はなおもマスクを着用し続ける。ここで重要なのは、マスクが防護具以上の意味を持ち始めている点だ。同じようにマスクをしている人を見ると、主人公は仲間意識や誇りを感じる。マスクは個人の意思や信念を象徴するものとなり、共通の経験をする人々との繋がりを強調する。
しかし、時が経つにつれ、主人公もマスクを外すようになる。その一方で、まだマスクを着けている人を見ると、今度は不快に感じるようになる。この変化は、自己本位的な心情が反映されており、かつて共感していた行為が、今では疎ましく感じられるという複雑な心理を表している。これは、人間の信念や感情が状況に応じて流動的であり、他者への視点が自己の立場に大きく影響されることを表現している。
最後に、自分の信念を強く貫く他者との対立が浮かび上がる。自己の考えに固執する人物に対して、主人公は圧迫感を覚える。これは、異なる価値観を持つ他者との関係において、人が感じる葛藤や摩擦を象徴している。
これは、他人にマスクを強要する「マスク警察」の片鱗が現れていると考える。本作では、現代でも普遍的な感染症下の同調圧力の問題が描かれていると考える。
㉓『桜の樹の下には』梶井基次郎 1931年 青空文庫より
(あらすじ)
不思議な生き生きとした美しい満開の桜を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。
(考察)
この作品では、桜の生き生きとした美しさと、土の中に埋められた屍の生々しさを対比させている。例えば「桜の樹の下には屍体が埋まっているが、桜の花は見事に咲いている。」という対比は、桜の美しさが際立つほど、同時に屍の存在が強く浮かび上がる。
また、屍体から出る液体が、桜の美しい花弁や蕊を形成しているというイメージも印象深く、生死の循環をえがくことで生命と死の密接な関係を表現していると考える。
さらに、「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」という一節からは、桜と屍体の対比にあるように、比較する対象があるからこそ、物を美しいと思える心があることを実感できる、逆説的な心の複雑さを表現していると考える。
本作は、その短さにもかかわらず、圧倒的な表現力を持ち、桜の美しさの裏に潜む死の存在を通して、人間の心の複雑な感情を表現していると考える。
㉔『岸辺のふたり』(アニメ) 監督:マイケル・デュドック・デ・ヴィット
(あらすじ)
海沿いの土手を、横並びで自転車を走らせる、仲睦まじい親子。
しかし、父は海の岸辺にあったボートを使って、どこかへ行ってしまう。娘は何度もその場所を訪れ、父の帰りを待つ。
そしてある日、海の水が無くなってしまう。
月日がたち、老婆となった女の子は海の水がなくなり、草原となった場所を歩いていく。歩いていくと、そこには父が乗っていったボートがあった。ボートに横たわる女の子。しばらくして起き上がり、草むらを駆けるとどんどん若返っていき、その先には父の姿が。
最後、親子で抱きしめ合う場面で幕を閉じる。
2001年アカデミー賞短編アニメ賞、英国アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞。
(考察)
この作品は、娘から見た父の死について描かれていると考える。
冒頭の場面では、父が1度岸辺に降りるも、再度丘の上にいる娘のもとへ戻り、抱きしめてから、岸辺に降りてボートを漕いでいく。
これは、丘から海までの道が生と死の境目を表現しており、海が死の世界への道だと考えると、父と娘の死別を表現していると考える。
ボートを使うことで、突然、どこか遠くに行ってしまった感覚や、遠くに行ってしまっても、いつか戻ってくるだろうという気持ちが表現されていると考える。
そして、女の子が歳を重ねるにつれ、自転車から降りることなくただ海の向こうを眺めるようになる。これは歳を重ねることで、父の死を受け止められるようになったことを暗示していると考える。
そして最後、老婆になった女の子は、水が無くなり草むらとなった海を歩いていき、そこで父と再会する。ここでは女の子の死が連想できる。
海の水が無くなるくらいの長い年月を経て、再会できたのは、お互いが死を迎えた後であった。
このことから、本作では、長い年月が流れても親子の変わらない愛情を描き出していると考える。
㉕『怒り』(映画) 監督:李相日 2016年
(あらすじ)
ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。現場には『怒』の血文字が残されており、犯人は行方をくらました。そして、事件から1年後、千葉と東京と沖縄に素性の知れない3人の男が現れた。殺人犯を追う警察は、新たな手配写真を公開した。その顔の特徴は、3人の男にそれぞれ当てはまるところがあった。
(考察)
本作のモデルとなったのは、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」と、その犯人の市橋達也である。殺害した被害者を浴槽に遺棄したこと、顔を変えるために整形手術を行い、ホクロを消して唇を薄くしたこと、全国各地を逃げ回っていたことなどが、作品とリンクしている。
この作品は、千葉・東京・沖縄で起こる3つの物語が並行して進んでいく。
千葉では、漁港で働く男・洋平と、その娘である愛子が、田代という素性の知れない男に出会い、愛子と田代が恋に落ちていく。
東京では、大手通信会社に勤める優馬がハッテン場で出会った直人とともに暮らす様子が描かれる。
沖縄では、夜逃げ同然で離島に移り住んできた高校生の泉と、その同級生の辰哉が、無人島でバックパッカーの田中に遭遇する。
それぞれの場所で、謎の男との出会いがあり、周りの人物らは殺人犯ではないかと疑いながらも、ともに生活していく。
これらを踏まえ、本作における“怒り”とは、自分自身への怒りだと考える。信じていた人を守りきれなかった、信じなくてはいけない人を信じきれなかった。
例えば、辰哉は、泉が公園で米兵に強姦されているところを助けられなかった。辰哉はそれを田中にからかわれ、田中を殺してしまう。辰哉は逮捕後に「信じていたから、許せなかった」と供述した。
信じていた人に裏切られた怒りと、守るべき人を守れなかった自分への怒りが描かれている。
また、愛子はテレビのニュースで報道される男の写真と、田代の顔や仕草の特徴が一致していたことから、犯人じゃないと自分に言い聞かせていたものの、警察に通報してしまう。
2人は同棲を始めたばかりであったが、田代は家から姿を消した。愛子は泣き叫び、信じたい人を信じきれなかった自分への怒りを露わにする。
このことから、本作は、友情や愛情など、信頼のもとで成り立つ関係において、相手がもし殺人犯だったらどこまで「信じる」ことができるか、その責任や重さを描いていると考える。
(参考サイト)
『【若者に訊け】吉田修一 市橋達也事件念頭に置いた『怒り』』https://www.news-postseven.com/archives/20140223_242015.html/3
(最終閲覧:2024/09/21)
㉖『プラトーン』(映画) 監督:オリバー・ストーン 1987年
(あらすじ)
1967年、大学を中退した正義感溢れる若者が、志願兵としてベトナム戦争に従軍する。配属されたのは最前線の小隊プラトーン。そこでは冷酷非情な隊長と、無益な殺人に反対する班長が対立していた。やがて彼は戦場で、想像を絶する人間の狂気を目の当たりにすることになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は映像表現が生み出す戦争の緊迫感である。銃撃戦の場面では、1つのショットが次々と写り変わることで、銃撃戦の激しさを表現している。また、全身のショットや顔のクローズアップなどを組み合わせることで、激しくなる銃撃戦に緊迫感を覚える兵たちの心境を表現していると考える。
2つ目は、兵視点から考える戦争の意義についてである。
物語が兵視点で描かれているため、戦争に勝ったとしても、その喜びが誇張して描かれず、数多くの仲間が犠牲になった苦しみや、虚無感を演出している。
主人公のテイラーは、戦争が終わった後、以下のように語る。
「今思うと、あの時の僕らは自分自身と戦っていたんだ。敵は、僕らの心の中にいた。」
ここから、国同士の対立ではなく、同じ軍の兵同士の衝突が本作のテーマの1つであると考える。
戦争で皆が国のために一丸となって戦っているのではなく、一人一人が自分の主張や正義を持っており、仲間内でも銃口を向けあっている、前線で戦う者の現実が描かかれていると考える。
㉗『最強のふたり(吹替版)』(映画) 監督:エリック・トレダノ 2012年
(あらすじ)
パラグライダーの事故で首から下が麻痺した大富豪のフィリップ。介護人募集の面接にやってきたのは、スラム街暮らしの黒人青年ドリスだった。水と油の2人だったが、ドリスはフィリップの心を解きほぐし、固い絆で結ばれていく。
(考察)
この作品のテーマは、対等な人間関係の構築であると考える。
話の冒頭、介護者の面接にて、面接を受ける人たちは次々に「人を助けたい」「障害者の自立を支援したい」「何もできない人たちですから」と志望動機を述べていく。これらは彼らの中に障害者=何も出来ない、可哀想な人といった隠れた偏見があると考える。
健常者である自分たちが、障害者の人達に希望を与えてあげるといった、対等の意識がないと考える。
しかし、ドリスはこのような先入観を持たず、フィリップという人物そのものに目を向けていく。
これが、2人の友情の根幹にあるものだと考える。
これを象徴するのが、以下の場面だ。
フィリップの友人が、ドリスが人を殴ったと聞いて、「怪しげな人間を近づけるな。そんな状態で。」とフィリップに忠告をする場面がある。
しかし、フィリップは目をそらす。「そんな状態で」と、障害があるという理由で無力さを決めつけている友人に呆れていると考える。
そこで、フィリップはドリスの話題を出す。
「いらないよ、情けなど。あいつ、電話を差し出すんだ。うっかりとね。私に同情していない証だよ。」
このことから、ドリスが普通の人と変わらない接し方をしていることが明らかである。フィリップが求めているのは、同情ではなく、対等な人間関係である。
これらのことから、障害者に対する無意識な偏見や特別視をしないことが、相互理解と信頼を生むと考える。
相手と良好な関係を築くには、無意識な偏見の目に敏感にならなければならないことを訴えていると考える。
㉘『夜明けのすべて』(小説) 瀬尾まいこ 2020年 水鈴社
(あらすじ)
職場の人たちの理解に助けられながらも、月に1度のPMS(月経前症候群)でイライラが抑えられない藤沢は、やる気がないように見える、転職してきたばかりの山添に当たってしまう。山添はパニック障害になり、生きがいも気力も失っていた。互いに友情も恋も感じてないけれど、おせっかい者同士の2人は、自分の病気は治せなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は小説という形態の特徴から考察する。
本作は、PMSやパニック障害など、心の病気を持つ2人が物語の中心となっている。
例えば、藤沢さんはPMSの症状によって、小さなことで苛立ってしまい、強い口調で周りに当たってしまうことがある。
そこで「」書きの台詞のあとに、強い口調で言ってしまったことを後悔する胸の内が書かれる。表面上の言葉とは裏腹に、様々な感情や葛藤を抱えており、台詞ではなく、心の中の声が物語において重要な意味を持っている。
これは、小説という表現形式だからこそ、内面と実際にでる行動の差をテンポよく描くことができ、心の問題ならではの矛盾や葛藤が表現されていると考える。
2つ目は、本作のテーマである。
山添の発言に以下のようなものがある。「そう思うと同時に、「病気にもランクがあったんだね」という藤沢さんの言葉が頭に浮かんだ。俺は知らず知らずら自分の病気をかさに着るようになったのだろうか。まさか、本当のことなんだからしかたない。PMSよりパニック障害のほうがつらいに決まっている。いや、はたして、本当にそうだろうか。俺はPMSどころか生理のことも知らない。実際は想像以上にしんどいのかもしれない。」(P55)
この内面的な葛藤は、病気に対する主観的な視点と客観的な理解とギャップを示しており、物語の重要なテーマの一つと言える。
また、藤沢さんが虫垂炎になり、手術をした後の面会で、お腹に穴を開けても3日程で回復することに2人が感心する場面がある。
そこで、山添が「すべてではないだろうけど、回復させる力がぼくらにはあるんですね」(P.266)と発言する。
この言葉には、単なる身体的な回復だけでなく、人生において困難に直面しても、それを乗り越える力が人間には備わっているというメッセージが込められているように感じられる。
㉙『家長の心配』(小説) フランツ・カフカ 青空文庫より
(あらすじ)
「オドラデク」という生物がいる。
名前の起源も、生態も、声や姿形ですら、全てが謎に満ちているそいつは、度々主人公の家にやってきては、特に何かするでもなくじっとしている。
何かの役に立ちそうでもなく、害をなすわけでもない。
そんな不思議な生物に、主人公が抱いている思いとは。
(考察)
本作では、「オドラデク」という謎の生物が登場する。それは一見すると平たい星形の糸巻のようなもので、星形の中央から小さな棒が1本突き出し、さらにもう1本の棒と合わせて直立する組み立て品だ。外見は単純だが、捕まえることができないほど素早く、屋根裏部屋や階段、廊下、玄関などを転々と移動する姿が描かれている。その挙動や存在感は、座敷わらしや幽霊のように、どこか不気味で捉えどころがない。
この生物は、主人公自身の内面を象徴しているのではないかと考える。オドラデクの姿形はあるが、その実態を正確に把握することができない。読者それぞれがその特徴を聞いて、自由にその姿を想像していくように、主人公も自分自身の精神を捉えきれずにいると考える。この点から、オドラデクは主人公の内面的な曖昧さ、あるいは不確かな精神状態を象徴していると言える。つまり、主人公が抱える思想や主義、その根底にある無気力さや空虚さを表現していると考える。
例えば、作中の「いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。」という言葉に着目すると、カフカがダーウィニズムを信奉する無神論者であったことを考えると、オドラデクは名前もなく具体的な形も持たない、自分の思想や主義を体現している存在とも解釈できる。
さらに、「それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。」という言葉からは、肉体は滅びても精神は生き残るといった、思想や主義の象徴である可能性が浮かび上がる。
このように、オドラデクという謎の生物を通して、主人公が自分の存在意義や目的に対する疑問を抱えていること、そしてそれが物語全体に流れるテーマの1つであると考える。
㉚『つみきのいえ』(映画) 監督:加藤久仁生 2008年
(あらすじ)
水に沈みかけた街で孤独に暮らす老人。彼の家は水面が上昇する度に上へ上へと、積み木を重ねるように伸びていく。彼はなぜひとりで暮らしているのか、徐々に解き明かされる物語。
米国アカデミー賞短編アニメーション賞、アヌシー国際アニメーション映画祭アヌシー・クリスタル賞(最高賞)、広島国際アニメーションフェスティバル広島賞、観客賞などを受賞。
(考察)
本作は、スケッチノートのような少しザラついた紙に、色鉛筆や絵の具で描いたような柔らかな線と色合いが特徴である。
作品は、ワンルームの部屋に1人の老人が椅子に腰をかけており、壁一面に貼られた奥さんとの写真を眺めるところから始まる。
常に水の音がするが、水以外の音がしない世界の静けさに老人の孤独が表現されていると考える。
場面は変わり、ある朝床が水浸しになってしまう。これは水面の上昇によるもので、老人はレンガを使って手作業で新しい階を作っていく。
ある日、老人が愛用していたキセルを水の中に落としてしまい、ダイバーの服を着て水中に潜っていく。
そして、潜って下の階に行く毎に、奥さんや家族との記憶が蘇っていく。しかしその人たちはもう居ない。病気なのか、どこか遠くへ行ってしまったのか、この水の世界に呑まれたのか理由は分からない。家は高く、高く積まれており、地面を駆け回ることも、木を見ることも、鳥が羽ばたくことも見ることは出来ない。何も無い水上の世界では、新たな生命の芽生えや成長はない。
しかし、この家は生きている。男が家の階を増やすことで、この家で培われた思い出は生き続ける。
このことから、男が家を改修し続けていくのは、家族との思い出を生かし続けるためだと考える。
3年 北郷未結
RES
①『ステップ』(映画) 監督:飯塚健 2020年
(あらすじ)
健一はカレンダーに“再出発”と書き込んだ。始まったのは、2歳半になる娘・美紀の子育てと仕事の両立の生活だ。結婚3年目、30歳という若さで妻を亡くした健一はトップセールスマンのプライドも捨て、時短勤務が許される部署へ異動。何もかも予定外の、うまくいかないことだらけの毎日に揉まれていた。そんな姿を見て、義理の父母が娘を引き取ろうかと提案してくれたが、男手一つで育てることを決める。妻と夢見た幸せな家庭を、きっと天国から見ていてくれる彼女と一緒に作っていきたいと心に誓い、前に進み始めるのだ。保育園から小学校卒業までの10年間。子供の成長に、妻と死別してからの時間を噛みしめる健一。そんな時、誰よりも健一と美紀を見守り続けてくれていた義父が倒れたと連絡を受ける。誰もが「こんなはずじゃなかったのに」と思って生きてきた。いろんな経験をして、いろんな人に出会って、少しずつ一歩一歩前へと踏み出してきた。健一は成長を振り返りながら、美紀とともに義父の元に向かう。そこには、妻が残してくれた「大切な絆」があった。大切なものを失った人たちの“10年間の足跡”を描く。
(考察)
この作品では、変わる環境の中でも、変わらないものもあることがテーマであると考える。このテーマは、編集や登場人物の言葉から考えることができる。
まず、編集では、同じ構図からのカット「同ポジション」が多用される。例えば、美紀の幼稚園時代の通学路の坂を映すカットや、ハンバーグをこねる親子を昔の親子と重ねるカットが挟み込まれている。坂やキッチンの外観は変わらないが、人だけが成長している。この表現は、普段の日常の中で、少しずつ成長していく親子を表現していると考える。
次に、登場人物の言葉から考察する。健一は、営業開発の会議における案出しの場面にて、「家庭とは変わり続ける場所」という発言をする。朋子の父である村松は、再婚に悩む健一に「家族だってリフォームすればいい」という言葉を投げかける。私はこの言葉から、家庭をすべて変えるのではなく、既存のものに付け加えることで1部を新しくし、家族の絆を繋いでいく、という解釈をした。本作の場合であれば、奈々恵との再婚である。朋子の存在(絆)はそのままに、奈々恵が家庭に加わることで、新しい家族の絆が構築されていく。
また、『ステップ』の原作者である、重松清は映画化においてのインタビューで、自身の作品について以下のように語る。
「家族って、決してまん丸な満月ではないと思うんです。みんなちょっとずつ何かが欠けていたり、足りなかったり、失われていたり、思い通りにならなかったりするけれど、それを補ってくれる誰かがいる。そのことを信じていいんだと教えてくれるベースキャンプが、親子や夫婦だと思うんです。」
家族の形はそれぞれで、不完全だからこそ、支えてくれる人を大切にし、信頼することで、温かみのある絆が築かれていくと考える。
さらに、重松は「「はじまり」の物語を書きたかった」とも語っている。
作中では、妻が亡くなり、幼い子どもを1人手で育てることに限界を感じ、弱音を吐く健一が多く描かれる。その中でも、義父母や幼稚園の先生に支えられ、必死に子どもと向き合い、家事も仕事もこなしていく。
健一の「悲しさや寂しさは乗り越えるものではなく、付き合っていくもの。」という言葉にあるように、再出発には、過去を受け止め、未来に向かっていく力、またその時に寄り添ってくれる相手がいることが大切であると、この作品は訴えていると考える。
(参考サイト) 『2020映画『ステップ』制作委員会「映画「ステップ」公式サイト|大ヒット上映中!」』https://step-movie.jp/ (最終閲覧2024/8/16)
②『告白』(映画) 監督:中島哲也 2010年
(あらすじ)
ある中学校で、1年B組の担任・森口悠子は、生徒を前にして、自分の娘が学校で死亡したのは警察が断定した事故死ではなく、この組の生徒に殺されたのだと告白する。そして自らの手で仕返しをすると宣言して学校を辞め、後任で熱血教師“ウェルテル”がやってくる。「生徒に娘を殺された」という森口悠子の告白からはじまり、殺人事件に関わった登場人物たちの独白形式で構成される物語。
(考察)
映画で用いられている映像表現から、視聴者に与える影響について4つの観点から考察していく。
1つ目は語り手である。
この作品では、事件に関わった登場人物の視点から物語が語られていく。その手法は「告白」という形式をとり、同じ事件が複数の視点から語られることで、物語に多層的な深みを持たせている。語り手の順番は、被害者である森口悠子から始まり、次第に加害者たちへと移行していく。具体的には、森口悠子→北原美月→下村優子→渡辺修哉→下村直樹の順番で、それぞれの立場から語られることで、事件が持つ様々な側面が浮き彫りになっていく。特に、一人称で語られることで、登場人物がその瞬間に抱いた感情や葛藤が生々しく描かれていく。残酷な殺人事件であっても、異なる視点を重ねることで、単なる残虐性だけでなく、人間が抱える複雑な心理や倫理観の揺らぎが鮮明に描き出されている。この語り手の変化は、物語全体の構造を通して、読者に事件の多面性と、その背後にある人間性を問いかける重要な要素となっていると考える。
2つ目は音楽(BGM)である。この作品における音楽(BGM)の存在は、物語の異質さを際立たせている。作中で使用される挿入歌は19曲にも及び、その多くが洋楽である。特に注目すべきは、曲調が物語の内容と大きく乖離している点だ。穏やかな曲調が、残酷な場面と組み合わさることで、異様なギャップを生み出し、作品全体に独特な不気味さを与えている。
例えば、クラスメイトが渡辺修哉を虐めていることを、先生にチクったとして、北原美月がリンチを受ける場面がある。クラスメイトがそろって美月を突き飛ばしたり、暴言を吐いて追い詰める中、BGMではPoPoyansの「When the owl sleeps」が流れる。歌詞がついているため、視聴者はこのBGMを完全に無視することはできない。女性の優しくて静かな歌声と、画面の暴力性が衝突し、どことなく気持ち悪さを覚える。この気持ち悪さは、渡辺修哉に殺人者のレッテルを貼り付け、殺人者への虐めは正統であるとでも言わんばかりに、限度を超えた虐めをするクラスの曲がった正義感を表現していると考える。本作においてBGMは、画面とのギャップを生み出すことで、物語の道徳的な複雑さを際立たせていると考える。
3つ目は、ケータイやネットの掲示板が多用されている点である。
本作では、現代社会におけるコミュニケーション手段として、ケータイやインターネットの掲示板が頻繁に登場している。犯人探しのメールのやり取りや、辱めの写真の拡散、掲示板への匿名投稿などが描かれることで、匿名性がもたらす罪意識の希薄さや、陰湿な虐めが強調されている。そして、ネット上での情報の拡散は現実世界の人間関係にも影響を及ぼし、登場人物たちの行動に一層の残虐性を与えている。このような要素が、物語に現代性をもたらし、現代の問題としてのいじめや暴力の陰湿さを浮き彫りにしていると考える。
4つ目は血の描写である。
血の描写が象徴的に用いられる点も、この作品の大きな特徴である。特にスローモーションで表現される血の演出は、視覚的にも強烈であり、残虐性だけでなく、差別や偏見をも象徴していると考えられる。
例えば、給食の牛乳に血が混ぜられていることを、視覚的に表現するため、白の画面に1滴の赤い液体が落とされる画面が挿入される。赤い液体は徐々に広がり、スローモーションで白い液体に溶け込んでいく。このシーンは、単なる衝撃的なビジュアルとしてだけでなく、血というものが持つ「汚染」や「他者との隔絶」の象徴として機能していると考える。また、下村直樹が母親を切りつけるシーンでも、スローモーションで血しぶきが空中に舞い上がる。このスローモーションは、血のリアルさを強調しつつ、視聴者に残酷な行為の背後にある感情的な重さや社会的な偏見を思い起こさせる効果があると考える。
このように、血の描写は単なる暴力の表現にとどまらず、差別や偏見の象徴としても機能し、血が持つ象徴性を通じて、登場人物たちが抱える苦悩や、社会の中での異物感がより一層鮮明に描かれていると考える。
以上の4つの点から、本作は視聴覚の表現を用いて、あえて視聴者に不快感を感じさせることで、作品の残虐性や道徳観の歪みを強調していると考える。
③『家族シネマ』柳美里 1999年 講談社文庫
(あらすじ)
バラバラになった家族が20年ぶりに再開し、失われた家を求めて、映画出演を決めた、家族を描いた物語。
(考察)
本作では、すでに崩壊している家族が、映画の撮影という作られた世界観の中で、良き“家族”を演じる姿が描かれている。この設定は、家族という本来の絆が失われ、単なる「演技」としての関係性が強調する。
たとえば、P.60で「既に調教済みのラブラドルレトリバーのように母の声に敏感に反応するしかないのだ。割れてしまった家族のレプリカじゃないか、そう呟いてバスルームに向かった。」と描かれるシーンでは、家族が既に崩壊しており、その関係は表面的なものでしかないことが表現されている。このことから、家族は「レプリカ」に過ぎず、本物の絆は存在しないことが暗示されていると考える。
さらに、P.79では「私と妹は小さいころから、ママみたい、という言葉を使って互いを貶し合った。」という描写がある。ここでは、家族間のコミュニケーションが歪んでおり、愛情や理解ではなく、憎しみや軽蔑が根付いていることが表現されていると考える。
また、P.87でも「父の暴力、母の性的な放埒さがもたらした恥辱にも、私たちは何とか耐えてきたのだ。…私も弟も妹もしっかりと植えつけられた父と母への憎しみを外へ向けるしかなかったのだ。」とあり、家族が一体感を失い、それぞれが個別に憎しみを抱え、それを外へ向けることで辛うじて耐えている状況が描かれている。ここで強調されているのは、教育や育成というよりも、支配と抑圧がもたらす憎しみの感情だ。家族間の繋がりは希薄で、撮影以外ではまともにコミュニケーションが取れず、再生不可能な関係性が浮き彫りにされていると考える。
このように、映画の撮影という表向きの「演技」と、実際の家族関係との間に大きな隔たりがあることが描かれている。登場人物らの心理描写も少ないことから、誰も心を開いておらず、どこか壁がある関係性を描いている。
このことから、この作品では、家族間の束縛によって憎しみがうまれ、根付いた憎しみが関係の修復を拒否している様子が描かれていると考える。
⓸『ALWAYS三丁目の夕日』(映画) 監督:山崎貴 2007年
(あらすじ)
西原良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした映画である。
昭和33年、東京下町の三丁目。ある日鈴木則文が営む自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で上京した六子がやってくる。しかし、思い描いていた東京で働くイメージとのギャップに、少し落胆してしまう。その鈴木オートの向かいにある駄菓子屋の店主で、しがない小説家の芥川竜之介。彼は一杯飲み屋のおかみ・ヒロミのもとに連れてこられた身寄りのない少年・淳之介の世話をすることとなった。
(考察)
この作品では、昭和のノスタルジーな町空間が広がっている。木造の家に、子どもたちが集まる駄菓子屋、タバコ屋、自転車で配達をする蕎麦屋の従業員など、現在では見かけなくなってしまった風景に、懐かしさを覚える。また、鈴木家が三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)を揃えて喜ぶ場面など、昭和30年代を象徴する描写に溢れおり、生き生きとした暮らしが描かれている。
また、特徴的なのは、家族間を越えて町全体で共同生活を送っている点である。家に鍵が付いていない、玄関に扉がない引き戸など、誰でも他所の家に簡単に上がり込むことができる。他所の家にそのまま入り込んで挨拶するなど、他者との隔たりが少ない、集団的な暮らしが描かれている。個人的で閉鎖的な現代の家族像と比較して、集団的で開放的な昭和の家族像が描かれており、時代に即した家族の形をみることができる。
そして最後は、皆がそれぞれの場所で夕日を眺める場面で幕を閉じる。この作品では、昭和のノスタルジーと家族の温かさが、美しい夕日で象徴されており、「懐かしさ」「温かさ」が普遍的なものであることを表現していると考える。
⑤『コンビニ人間』(小説) 村田沙耶香 2018 文春文庫
(あらすじ)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏無しの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってくる。第155回芥川賞受賞作品。
(考察)
この小説の特徴は2つあると考える。
1つ目は、視聴覚に訴える描写が多いことだ。店舗に並ぶ商品の彩りや、商品をかごにいれる音など、主人公がコンビニで働く中で見て感じた世界が、そのまま読者に共有されていく。普段私たちが気にしないコンビニの風景や音が鮮明に描かれていることから、主人公はコンビニという場所を自分の居場所や生きがいとして捉え、より魅力的な場所に見えていると考える。
2つ目は、主人公の視点を通して描かれる、現代社会の生きづらさである。
主人公の古倉は幼少期から変わり者で、周りの人の振る舞いを真似することで「普通」で「正常」な人になりきっていた。コンビニ店員として普通に働くことができるのも、マニュアルによるものであり、マニュアル外になると、普通の人間になることが難しい。
自分は普通の人間だと思っていても、周りから見て変であれば、変わり者として扱われてしまう。しかし、どこが変であるかは自分には分からない。これは、マイノリティへの理解が不十分で、表面的な多様性を掲げる現代社会を象徴していると考える。
また、固定観念が拭いきれていない現代社会の特徴も表現されている。
35歳の新人アルバイト・白羽の不真面目な勤務態度を見た店長は、「人生終了だよな。だめだ、ありゃ。社会のお荷物だよ。人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に所属するのが義務なんだよ」(P.66)と語る。
これは、社会的なものに属すことが、その人の「人間」としてのアイディンティティを確立させる、という社会の根底にある固定観念を表現していると考える。
また、白羽の言葉に、「…現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」(P.92)というものがある。
これらの表現から、多様性を謳う現代でも、その根底には「普通」や「正常」といった判断軸があるという、矛盾した社会を表現していると考える。
⑥『水を縫う』(小説)寺地はるな 2020年 集英社
(あらすじ)
主人公は松岡清澄、高校一年生。 一歳の頃に父と母が離婚し、祖母と、市役所勤めの母と、結婚を控えた姉の水青との四人暮らしをしている。 いつまでも父親になれない夫と離婚し、必死に生きてきたけれど、息子の清澄は扱いづらくなるばかり。 そんな時、母が教えてくれた、子育てに大切な「失敗する権利」とは。
(考察)
この小説では、章ごとに語り手が変わり、複数の視点から物語が展開される。第1章は清澄、第2章は姉の水青、第3章は母、第4章は祖母、第5章は元父の同僚・黒田、第6章は再び清澄の視点で語られる。こうした視点の交代によって、各キャラクターの内面やその背景にある出来事が多面的に描かれていく。特に、家族という親密な関係を通じて、性別に関する固定観念がどのように形成され、それぞれの人生に影響を与えているかが浮き彫りにされる。
まず、清澄のエピソードからは、性別にとらわれない価値観を模索する姿が描かれている。彼は裁縫や料理が得意であり、クラスメイトから「女子力が高い」と評価されるが、これに対して清澄は、「調理や裁縫に長けていることは、性別を問わず生活力と呼ぶべきではないか」と反論する(P.21)。この発言は、社会が性別に基づいて特定のスキルや特質を価値づけることへの疑問を投げかけており、清澄はそれを超えて自らのアイデンティティを築こうとしている。この考え方は、現代のジェンダー論においても重要なテーマであり、固定観念に縛られない個の尊重を強調していると考える。
一方、姉の水青のエピソードでは、性別による被害とそれが心理的に及ぼす影響が描かれている。彼女は小学6年生のときに、夜道でスカートを切られる事件を経験し、その後「かわいい服」を避けるようになった。この出来事が、担任教師の「オンナノコオンナノコした服」(P.59)という発言と結びつき、水青の中で「かわいい」という言葉に対する不信感と嫌悪感が芽生えてしまう。このエピソードは、社会が女性に対して抱く期待や規範が、いかに個々のアイデンティティ形成に影響を及ぼすかを考えさせる。特に、外見や装いに関するジェンダーの規範が、どのように女性の自己認識を歪めるかが表現されていると考える。
母と祖母のエピソードもまた、性別役割に対する不満を象徴している。母は、「子どもに無償の愛を注ぐことができる」という母親像に疑問を抱き、理想的な母親像に対して強い違和感を感じている。これは、母親としての自己を絶対的なものとして捉えず、むしろそれに対する違和感や葛藤を認める姿勢を示しており、伝統的な母親像に縛られない新たな母性の在り方を提示していると考える。
さらに、祖母のエピソードでは、幼少期に父親から「女は男には力ではかなわない」(P.146)という言葉を聞かされたり、結婚後、夫より稼ぐことに対して顔をしかめられる経験を持つ祖母は、「男だから、女だからと制限されない時代を子や孫には生きてほしい」と願っている(P.147)。この願いは、祖母が自身の経験を通して見出したものであり、性別役割に縛られない自由な生き方への渇望が表れている。
最後に、元父・全の言葉に影響を受けた清澄のエピソードは、人生の流動性とそれに対する個人の対応の重要性が描かれている。元父は「流れる水は淀まない」と語り、動き続けることの大切さを説く(P.223)。これを受けた清澄は、「川は海へと続いている。流れる水は、ほんとうに海にたどりつけるのかと心細く思ったりしないのだろうか」と考えながらも、「また針を動かす」(P.233)と決意する。ここでは、未来が不確実であっても、自分の好きなことや感性を大切にし、前進することが重要であると清澄は理解している。彼の姿勢は、人生が逆境に満ちていても、自分なりの道を進むことが未来への可能性を切り開くことを示している。
このように、この小説は各キャラクターの視点を通して、性別に基づく固定観念や社会的役割に対する挑戦を描き出している。それぞれの人物が直面する困難とその対処法は、現代社会におけるジェンダーに関する議論を深めるための重要な示唆を提供していると考える。
⑦『ALWAYS続・三丁目の夕日』(映画) 2007年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和34年の春、日本は東京オリンピックの開催が決定し、高度経済成長期時代を迎えようとしていた。そんな中、東京下町のの夕日町三丁目では、茶川が黙って去っていったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。そこへある日、淳之介の実父である川渕が再び息子を連れ戻しにやって来る。そして、人並みの暮らしをさせることを条件に改めて淳之介を預かった茶川は、安定した生活と共にヒロミへ1人前の自分を見せられるよう、“芥川賞”の夢に向かって執筆を始める。一方、経営が軌道に乗り始めていた鈴木オートでは、事業に失敗した親戚の娘・美加をしばらく預かることになった。
(考察)
本作では、昭和時代の文化の広がりによって、人々の生活や心に与えた影響について描いていると考える。
例えば、六子が友達と映画を見に出かける場面には、その時代特有の娯楽の広がりが感じられる。映画館に貼られたポスターには、「男はつらいよ」や「七人の侍」といった日本映画史に残る名作が並び、人々の生活に文化的な豊かさが加わっていたことがうかがえる。
また、文学が与える心理的な影響については、茶川が書いた『踊り子』が表現している。『踊り子』は、茶川がヒロミをモデルとして、ヒロミへの想いを描いた作品となっている。芥川賞を取るには至らなかったが、ヒロミには深く響き、芥川と共に生きる道を選ぶ決め手となった。また、街の人々も全員『踊り子』を呼んで降り、「泣けた」「心がぎゅっとなった」と、茶川に感想を述べていく。このことから、茶川の作品が人々の心に深く響いていることが分かる。
そして、最後の場面で、茶川とヒロミ、淳之介の3人が夕方の買い物帰りに夕日を見て、口々に「綺麗」と言うなかで、ふと淳之介が「3人で見てるから綺麗なんだよ」と言う。
このことから、文学は人々の心に深く入り込み、家族や愛の本質を探求する手段として重要な役割を果たしていると考える。
この作品を通して、家族とは、単に血縁関係に基づくものではなく、辛い時も楽しい時もその気持ちを共有し合う、シンプルでありながらも奥深い関係性であると考えた。このような昭和の時代の家族や地域社会のあり方が、現代においても見習うべきものではないかと考える。
⑧『ALWAYS三丁目の夕日'64』(映画) 2012年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和39年。東京は念願のオリンピック開催を控え、ビルや高速道路の建設ラッシュで熱気にあふれていた。そんな中、東京の下町、夕日三丁目に暮らす小説家の茶川竜之介は結婚したヒロミと高校生になった淳之介と楽しい生活を送っていた。しかも、ヒロミのお腹にはもうすぐ生まれてくる新しい命も宿っていた。しかし、連載中の『銀河少年ミノル』が、謎の新人作家・緑沼アキラに人気を奪われ、窮地に陥る。
一方、向かいの鈴木オートでは1人前となった従業員の六子に、青年医師・菊池孝太郎との新しい関係性が芽生える。
(考察)
物語の中心にあるのは、茶川と父、茶川と淳之介の親子関係だ。茶川は、自身の小説家としての道を父に否定され勘当されたが、父が亡くなった後に実家を訪ねた際、父が密かに茶川の成功を応援していたことを知る。父の部屋には、茶川が芥川賞の最終選考に残ったときの新聞記事と、茶川の小説に感想付きのしおりをはさんだものが、毎号分、本棚に並べられていた。父が突き放したのは、茶川の将来を心配したゆえの行動だったと悟る。
この父子の関係は、茶川と淳之介の間でも繰り返される。
淳之介は、東大受験の勉強をするふりをして、小説を書いていた。それは、週刊誌で茶川の小説が打ち切りになり、淳之介の小説が採用されるほどの実力であった。
ある日、雑誌の編集者が家に訪ね、淳之介を小説家としてデビューさせることを話に来る。淳之介が小説家としての道を歩むことを決断した時、茶川は、
「お前にはほとほと愛想がつきた。」「出てけ。お前のような恩知らずは、二度とこの家の敷居をまたぐな。」
と言い放ち、淳之介の勉強道具と通学バックを外に投げ出す。
淳之介が立ち去った後、茶川はヒロミに抱かれ、泣きながら「淳之介は、うちの大事な長男だからな。」と言う。
このことから、淳之介を後押しするために、わざと家から追い払ったことが分かる。
このことから、親心とは血の繋がりだけではなく、共に生活し、信頼関係を築く中で育まれるものであると考えた。そして、親としての愛情や心配は、子どもの成長や旅立ちを見守る過程で深まっていくものだと考えた。
⑨『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(映画) 2023年 監督:アーロン・ホーバス
(あらすじ)
ニューヨークで配管工を営む双子の兄弟マリオとルイージ。ある日、謎の土管で迷い込んだのは、魔法に満ちた新世界だった。新世界で離れ離れになってしまった兄弟が、絆の力で世界の危機に立ち向かう。マリオとルイージに加え、ピーチ姫、クッパ、キノピオ、ドンキーコング、ヨッシーなど原作ゲームシリーズでおなじみのキャラクターが多数登場する。
(考察)
2つの観点から、考察する。
1つ目は、スピード感のあるカメラの動きである。
本作におけるカメラワークは、スピード感が強く、スーパーマリオブラザーズのゲームの世界観を忠実に再現している。
ゲームにおけるスーパーマリオブラザーズのシリーズは、走る・歩く・ジャンプのボタンを使って各ステージを冒険するゲームと、車を使ってステージごとに順位を競い合うゲームがある。映画ではこれらの要素が多く取り入れられており、マリオは走ったり、ときには車に乗ったりしながら世界の危機に立ち向かう。
また、マリオの動きを後方から捉えるカメラワークは、アクロバティックで視覚的にインパクトのある場面となっている。これにより、観客はゲームの中に入り込んだかのような没入感を得ることができる。こうしたカメラの動きは、ゲームの世界観をそのまま映像として再現しており、ゲームと映画の垣根を超えた新たなエンターテインメントを形成していると考える。
2つ目は、ピーチ姫の活躍である。
キノコ王国のリーダーとして、彼女は従来の「助けられる存在」から「戦うヒロイン」へと進化している。ドレス姿でクッパたちに立ち向かう彼女の姿は、従来のプリンセス像を覆すものであり、ジェンダー意識の変化を反映していると考えられる。また、ピーチ姫が強敵・クッパとの政略結婚を拒否し、自らの意思を貫くシーンは、単なるキャラクターの成長を超えて、現代の女性像を象徴するものとなっている。
このように、本作はエンターテインメントとしての楽しさを提供するだけでなく、社会的なメッセージも含んでおり、観客に多くの示唆を与える作品となっていると考える。
⑩『そして、バトンは渡された』(小説) 瀬尾まいこ 文藝春秋 2018
(あらすじ)
幼い頃に母親を亡くし、父とも海外赴任を機に別れ、継母を選んだ優子。 父親が3人、母親が2人いて、家族の形態は17年のうちに、7回変わった。その後も大人の都合に振り回され、高校生の今は二十歳しか離れていない森宮と暮らす。 血の繋がらない親の間をリレーされながらも、出逢う家族皆に愛情をいっぱい注がれてきた彼女自身が伴侶を持つとき、親として選ばれたのは森宮だった。
(考察)
本作では、何度も変わる親たちの、優子へのそれぞれの愛情の形が描かかれている。それが非常識的なものや、的外れなものであっても、優子は愛情表現の1つと捉え、受け止めていく。しかし、私は優子の立場を大人の都合で振り回される子どもとして捉えた。
なぜなら、この小説は優子の視点から描かれているため、親となった大人たちは皆、優しくて優子想いのように描かれているが、大人たちの言動は自分本位のものであることが多いと考えたからである。
例えば、実父である水戸は、優子が10歳のときに、ブラジルへの転勤が決まり、そのまま離れ離れになってしまった。このとき、梨花という再婚者が決まったばかりであるのに、水戸は「やりたいことがある」といって決断を曲げない。唯一血の繋がった親子であるのに、10歳の娘を置いて、海外転勤してしまうことに、自分のキャリアを優先する、大人の都合が垣間見えた。
そして、日本に残った優子は、梨花の恋愛気質に翻弄され、次々に父が変わることになる。これも、梨花が「お金持ちと恋したい」「堅実な人と恋したい」といった、優子よりも自身の恋愛を優先していると考える。
また、3度目の父である森宮は、“普通の親”に対するこだわりを持っており、優子の高校3年生の始業式の朝、気合い入れにカツ丼を作る場面がある。優子の反応はいまいちであり、朝から重いけれど作ってくれたから、といって食べる。これは、優子の好みを把握せず、自分が親としてやりたいことを優先しているようにも見える。
このことから、この作品では大人の都合に振り回されながらも、親に対する愛情を示す、子どもの視点が繊細に描写されていると考える。
⑪『白雪姫』(アニメ映画) 監督:デイヴィッド・ハンド 1937年
(あらすじ)
明るく綺麗な心を持つ美しい王女、白雪姫は、女王である継母にその美しさを妬まれる。女王は家来に白雪姫を殺すことを命じるが、白雪姫は森の中へ逃げ込んでしまう。そこで、7人の小人や動物たちと出会い、楽しく暮らすが、魔女に姿を変えた王女に毒林檎を食べさせられ、眠らされてしまう。その後、王子のキスによって目を覚まし、2人はお城で幸せに暮らす。
(考察)
この作品には2つ特徴があると考える。
1つ目は、白雪姫と小人・動物たちの動きの差である。
白雪姫は、表情や体の動きにおいて、現実の人間のような動きを見せる。
例えば、笑う時には目を細めて少し口角をあげるだけで、体全体は動かない。また、歩く時も足が動くだけで、まっすぐな姿勢を保ったまま、横移動していく。
一方、小人・動物たちは、笑う時には口を大きく開け、体も笑うごとに上下する。また、小人たちが歩くときは、踏み込むごとに全身が上下したり、体のお肉や服、ヒゲが左右に揺れる。
このように、動きに連動してキャラクターの体が大きく動くことで、重みを表現していると考える。また、体の肉が揺れたり、表情が変わるときには頬の肉が持ち上がったり、下がったりして、体の質感に弾力性を持たせていると考える。このことから、動きや体の質感からキャラクターの重みを表現し、平面の世界に生命をもたらしていると考える。
2つ目は、キャラクターの身体をモノに例えて表現している点である。
作中で、小人たちの家を動物たちと掃除する場面がある。白雪姫は箒を片手に地面のホコリをはくが、リスたちはシッポを箒がわりにして床のホコリをはいている。また、動物たちが川で服を洗う場面では、亀のお腹の段差部分を洗濯板のように使って、服を洗っている。
これは、動物の身体的特徴をモノに例えて表現する、ディズニー的な想像力のひとつであると考える。『蒸気船ウィリー』でも、動物の身体を楽器として表現していたように、あえて身体をモノとして例えることで、画面内で生き生きと動く、キャラクターの生命性が強調されると考える。
⑫『木を植えた男』(映画) 監督:フレデリック・バック 1987年
(あらすじ)
人里離れた荒野に住む、初老の羊飼いブヒエ。彼は荒れ果てた大地にたった一人で木を植え続けていた。目的など多くを語らない彼の信念を貫くその行動は、二つの大きな戦争の間も続き、中年になった若者が再びその地を訪れた時、不毛の大地はまさに楽園に変身していた。
(考察)
フレデリック・バックの作品に込めた思いを要約したものが以下の文である。
「動物や植物は人間にとって大切な役割を果たす。かけがえのないものであるのに、私たちの行き過ぎた開発が彼らの生きる道を閉ざしてしまっている。」
この作品が環境問題について、助け合いや平和の精神から描いていることを念頭に、考察していく。
家族を亡くした羊飼いの男は、不毛な砂漠の土地を甦らせるため、たった1人で1万本の柏の木を植え続ける。そこで、第一次世界大戦勃発する。男が荒地に戻ると、柏の木が育って森になっていた。それまで白黒だった画面に緑が広がり、水が流れる描写も加わる。
ここで語りが強調するのは、羊飼いの男がたった1人で自然を変化させたことだ。
自然が豊かになったことで、木の家が建ち、仕事ができ、農作物が育つようになり、人々の生活に豊かさをもたらした。人は緑を作ることができ、緑は人々の生活を作ることができる。
私は、環境問題は1人でどうにかできる問題ではないと思い込んでいた。しかし、動画で出てくる政治家のように口だけで何も行動しなければ環境が変わることはなく、羊飼いの男のように1人の力でも不屈の精神と行動力があれば環境そのものを生み出すことができることを学んだ。
このことから、本作は緑の神秘と環境問題への希望を描いていると考える。
⑬『HELLO WORLD』(映画)監督:伊藤智彦 2020年
(あらすじ)
2027年、京都。内気な男子高校生・直実は、10年後の未来からきた自分・ナオミと出会う。ナオミは、直実が同級生の瑠璃と恋人関係になること、さらに瑠璃がその後の事故で命を落とすことを告げる。直実は瑠璃の命を救うために未来を変えようと奮闘し、ナオミの目的や世界の秘密を知ることとなる。
(考察)
本作は全て2Dによって作られており、2Dの特徴が活かされた画面となっている。
例えば、物語は未来や仮想空間の場で戦うといった、SFの要素を含んでおり、近未来的な建物や乗り物、武器が数多く登場する。街並みや建物が崩れる場面では、ドアや窓ガラスが一つ一つ崩れて、細かい破片が飛び散るなど、より繊細でリアルに描かれる。2Dを用いることで、非現実的な世界観をダイナミックに表現している。
また、現在から未来を移動する際の、異空間の表現も独創的である。背景や人物の色がビビッド調に変化したり、絵のタッチが変わって顔が歪んだり、膨張したりする。この表現も、2Dならではの広大な世界観の表現や、色使いの多様さ、立体物の歪み方が現れていると考える。
2Dのアニメーションは、SFなどの非現実的で高度な背景描写を求められる作品において、その効果を発揮すると考えた。
⑭『極主夫道 ザ・シネマ』(映画) 監督:瑠東栗一郎 2022年
(あらすじ)
極道の世界で“不死身の龍”として恐れられていた龍だが、美久との結婚を機に足を洗い、専業主夫として料理、洗濯、掃除などに天才的なスキルを発揮しながら、時にはご近所トラブルを解決する日々を送っていた。ある日、龍の住む町の保育園の土地が極悪地上げ屋に狙われ、悪質な嫌がらせを受ける。保育園の用心棒をすることになった龍は、雅たち仲間とともに地上げ屋と全面対決することになる。
(考察)
本作は、原作漫画やアニメの「再現度」を高く評価できると考える。特に主人公である「不死身の龍」のビジュアルや声は、まさにアニメそのままで、ファンにとっては期待通りの出来だと感じられる。
ただし、映画版では中学生の娘・向日葵という新たな人物が追加され、これにより家庭内での「父親」としての竜の姿がより深く描かれている。原作漫画では子どもがいない設定だったため、物語に新たな視点を加えていると考える。
さらに、映画版では、家の前に捨てられた小さな男の子の世話もする設定が加わっており、家族の絆や責任感といったテーマが強調されている。この設定変更は、コメディに加えて家族のメロドラマ的な要素を持ち込んでおり、観客に感情的な共感を呼び起こす効果があると考える。
また、最近の日本映画やドラマでは、俳優に芸人が起用されることが増えているが、本作も、コミカルな要素を強調するために芸人がキャスティングされている。これによって、映画に緊張感を持たせるよりも、芸人たちの勢いに少し笑ってしまうような、コメディ性を重視していると考える。
これらのことから、本作は原作ファンだけでなく、初めてこの世界に触れる観客にもその世界観を知ってもらうための「入口」として機能している。
家族愛とコメディの絶妙なバランスを持つこの作品は、笑いだけでなく、家族や人生についての考察も含まれており、コメディ映画以上の深みを持っていると考える。
⑮『ボヘミアン・ラプソディ』(映画) 監督:ブライアン・シンガー 2018年
(あらすじ)
世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマである。
1970年代、ロンドンのライブハウスに通っていたフレディ・マーキュリーは、3人の仲間らと共にバンドを結成し、アルバムを制作する。メンバーの個性や挑戦的な試みによって彼らは一世を風靡するが、フレディは次第に孤立していってしまう。
(考察)
フレディ・マーキュリーはバイセクシャルであり、HIVに感染した過去を持つ。この映画では、彼が抱えた心の葛藤が描かれている。特に、フレディの複雑な内面や人生の選択が、観客に強い感動を与えていると考える。
「QUEEN」のギタリスト、ブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーのインタビューによると、映画は完全なドキュメンタリーではないが、主人公の内面に関しては非常に忠実に描写されているという。
メイは次のように述べている。
「ドキュメンタリーじゃないから、すべての出来事が順序立てて正確に描写されているわけじゃない。でも、主人公の内面は正確に描かれていると思う。フレディの夢や情熱、強さと弱さが正直に描かれているからこそ、観客とつながりを感じてくれたんじゃないかな。」
この映画のライブシーンでは、特にアフリカの飢えに苦しむ子どもたちのために行われた「ライヴエイド」が象徴的である。屋外ステージでの演奏は、画面にフレアを差し込むなどの演出効果もあり、爽快感と迫力のある映像として描かれている。これにより、フレディが自分らしく生き生きと演奏していた姿を効果的に再現していると考えられる。
さらに、YouTubeで公開されている映画の予告編のコメント欄には、多くのファンの反響が寄せられている。
「QUEENを聞いて早40年。フレディが亡くなって終わってしまったと思われていた。でもこのコメ見て若い人達がこんなにもQUEENを讃えてるの読んで終わってなかったんだと実感した」
「高校生です。『We Will Rock You』しか知らなかったけど、この映画を見た友達に触発され、色々調べていくうちに、ああ、この曲もQUEENだったのかと思うことが多々ありました。彼らの生き方が本当にかっこいいと思いました。」
これらのコメントからもわかるように、この映画は新たな世代にもQUEENの音楽を再発見させ、音楽を通じて記憶を呼び起こし、過去と現在を繋ぐ役割を果たしている。
映画をきっかけに、QUEENの音楽は世代を超えて愛され続け、その影響力は途切れることなく引き継がれていることが考えられる。
(参考サイト)
『クイーン単独独占インタビュー ブライアン・メイさん|NHK』https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/12/story/special_181227/(最終閲覧日2024/9/23)
(あらすじ)
健一はカレンダーに“再出発”と書き込んだ。始まったのは、2歳半になる娘・美紀の子育てと仕事の両立の生活だ。結婚3年目、30歳という若さで妻を亡くした健一はトップセールスマンのプライドも捨て、時短勤務が許される部署へ異動。何もかも予定外の、うまくいかないことだらけの毎日に揉まれていた。そんな姿を見て、義理の父母が娘を引き取ろうかと提案してくれたが、男手一つで育てることを決める。妻と夢見た幸せな家庭を、きっと天国から見ていてくれる彼女と一緒に作っていきたいと心に誓い、前に進み始めるのだ。保育園から小学校卒業までの10年間。子供の成長に、妻と死別してからの時間を噛みしめる健一。そんな時、誰よりも健一と美紀を見守り続けてくれていた義父が倒れたと連絡を受ける。誰もが「こんなはずじゃなかったのに」と思って生きてきた。いろんな経験をして、いろんな人に出会って、少しずつ一歩一歩前へと踏み出してきた。健一は成長を振り返りながら、美紀とともに義父の元に向かう。そこには、妻が残してくれた「大切な絆」があった。大切なものを失った人たちの“10年間の足跡”を描く。
(考察)
この作品では、変わる環境の中でも、変わらないものもあることがテーマであると考える。このテーマは、編集や登場人物の言葉から考えることができる。
まず、編集では、同じ構図からのカット「同ポジション」が多用される。例えば、美紀の幼稚園時代の通学路の坂を映すカットや、ハンバーグをこねる親子を昔の親子と重ねるカットが挟み込まれている。坂やキッチンの外観は変わらないが、人だけが成長している。この表現は、普段の日常の中で、少しずつ成長していく親子を表現していると考える。
次に、登場人物の言葉から考察する。健一は、営業開発の会議における案出しの場面にて、「家庭とは変わり続ける場所」という発言をする。朋子の父である村松は、再婚に悩む健一に「家族だってリフォームすればいい」という言葉を投げかける。私はこの言葉から、家庭をすべて変えるのではなく、既存のものに付け加えることで1部を新しくし、家族の絆を繋いでいく、という解釈をした。本作の場合であれば、奈々恵との再婚である。朋子の存在(絆)はそのままに、奈々恵が家庭に加わることで、新しい家族の絆が構築されていく。
また、『ステップ』の原作者である、重松清は映画化においてのインタビューで、自身の作品について以下のように語る。
「家族って、決してまん丸な満月ではないと思うんです。みんなちょっとずつ何かが欠けていたり、足りなかったり、失われていたり、思い通りにならなかったりするけれど、それを補ってくれる誰かがいる。そのことを信じていいんだと教えてくれるベースキャンプが、親子や夫婦だと思うんです。」
家族の形はそれぞれで、不完全だからこそ、支えてくれる人を大切にし、信頼することで、温かみのある絆が築かれていくと考える。
さらに、重松は「「はじまり」の物語を書きたかった」とも語っている。
作中では、妻が亡くなり、幼い子どもを1人手で育てることに限界を感じ、弱音を吐く健一が多く描かれる。その中でも、義父母や幼稚園の先生に支えられ、必死に子どもと向き合い、家事も仕事もこなしていく。
健一の「悲しさや寂しさは乗り越えるものではなく、付き合っていくもの。」という言葉にあるように、再出発には、過去を受け止め、未来に向かっていく力、またその時に寄り添ってくれる相手がいることが大切であると、この作品は訴えていると考える。
(参考サイト) 『2020映画『ステップ』制作委員会「映画「ステップ」公式サイト|大ヒット上映中!」』https://step-movie.jp/ (最終閲覧2024/8/16)
②『告白』(映画) 監督:中島哲也 2010年
(あらすじ)
ある中学校で、1年B組の担任・森口悠子は、生徒を前にして、自分の娘が学校で死亡したのは警察が断定した事故死ではなく、この組の生徒に殺されたのだと告白する。そして自らの手で仕返しをすると宣言して学校を辞め、後任で熱血教師“ウェルテル”がやってくる。「生徒に娘を殺された」という森口悠子の告白からはじまり、殺人事件に関わった登場人物たちの独白形式で構成される物語。
(考察)
映画で用いられている映像表現から、視聴者に与える影響について4つの観点から考察していく。
1つ目は語り手である。
この作品では、事件に関わった登場人物の視点から物語が語られていく。その手法は「告白」という形式をとり、同じ事件が複数の視点から語られることで、物語に多層的な深みを持たせている。語り手の順番は、被害者である森口悠子から始まり、次第に加害者たちへと移行していく。具体的には、森口悠子→北原美月→下村優子→渡辺修哉→下村直樹の順番で、それぞれの立場から語られることで、事件が持つ様々な側面が浮き彫りになっていく。特に、一人称で語られることで、登場人物がその瞬間に抱いた感情や葛藤が生々しく描かれていく。残酷な殺人事件であっても、異なる視点を重ねることで、単なる残虐性だけでなく、人間が抱える複雑な心理や倫理観の揺らぎが鮮明に描き出されている。この語り手の変化は、物語全体の構造を通して、読者に事件の多面性と、その背後にある人間性を問いかける重要な要素となっていると考える。
2つ目は音楽(BGM)である。この作品における音楽(BGM)の存在は、物語の異質さを際立たせている。作中で使用される挿入歌は19曲にも及び、その多くが洋楽である。特に注目すべきは、曲調が物語の内容と大きく乖離している点だ。穏やかな曲調が、残酷な場面と組み合わさることで、異様なギャップを生み出し、作品全体に独特な不気味さを与えている。
例えば、クラスメイトが渡辺修哉を虐めていることを、先生にチクったとして、北原美月がリンチを受ける場面がある。クラスメイトがそろって美月を突き飛ばしたり、暴言を吐いて追い詰める中、BGMではPoPoyansの「When the owl sleeps」が流れる。歌詞がついているため、視聴者はこのBGMを完全に無視することはできない。女性の優しくて静かな歌声と、画面の暴力性が衝突し、どことなく気持ち悪さを覚える。この気持ち悪さは、渡辺修哉に殺人者のレッテルを貼り付け、殺人者への虐めは正統であるとでも言わんばかりに、限度を超えた虐めをするクラスの曲がった正義感を表現していると考える。本作においてBGMは、画面とのギャップを生み出すことで、物語の道徳的な複雑さを際立たせていると考える。
3つ目は、ケータイやネットの掲示板が多用されている点である。
本作では、現代社会におけるコミュニケーション手段として、ケータイやインターネットの掲示板が頻繁に登場している。犯人探しのメールのやり取りや、辱めの写真の拡散、掲示板への匿名投稿などが描かれることで、匿名性がもたらす罪意識の希薄さや、陰湿な虐めが強調されている。そして、ネット上での情報の拡散は現実世界の人間関係にも影響を及ぼし、登場人物たちの行動に一層の残虐性を与えている。このような要素が、物語に現代性をもたらし、現代の問題としてのいじめや暴力の陰湿さを浮き彫りにしていると考える。
4つ目は血の描写である。
血の描写が象徴的に用いられる点も、この作品の大きな特徴である。特にスローモーションで表現される血の演出は、視覚的にも強烈であり、残虐性だけでなく、差別や偏見をも象徴していると考えられる。
例えば、給食の牛乳に血が混ぜられていることを、視覚的に表現するため、白の画面に1滴の赤い液体が落とされる画面が挿入される。赤い液体は徐々に広がり、スローモーションで白い液体に溶け込んでいく。このシーンは、単なる衝撃的なビジュアルとしてだけでなく、血というものが持つ「汚染」や「他者との隔絶」の象徴として機能していると考える。また、下村直樹が母親を切りつけるシーンでも、スローモーションで血しぶきが空中に舞い上がる。このスローモーションは、血のリアルさを強調しつつ、視聴者に残酷な行為の背後にある感情的な重さや社会的な偏見を思い起こさせる効果があると考える。
このように、血の描写は単なる暴力の表現にとどまらず、差別や偏見の象徴としても機能し、血が持つ象徴性を通じて、登場人物たちが抱える苦悩や、社会の中での異物感がより一層鮮明に描かれていると考える。
以上の4つの点から、本作は視聴覚の表現を用いて、あえて視聴者に不快感を感じさせることで、作品の残虐性や道徳観の歪みを強調していると考える。
③『家族シネマ』柳美里 1999年 講談社文庫
(あらすじ)
バラバラになった家族が20年ぶりに再開し、失われた家を求めて、映画出演を決めた、家族を描いた物語。
(考察)
本作では、すでに崩壊している家族が、映画の撮影という作られた世界観の中で、良き“家族”を演じる姿が描かれている。この設定は、家族という本来の絆が失われ、単なる「演技」としての関係性が強調する。
たとえば、P.60で「既に調教済みのラブラドルレトリバーのように母の声に敏感に反応するしかないのだ。割れてしまった家族のレプリカじゃないか、そう呟いてバスルームに向かった。」と描かれるシーンでは、家族が既に崩壊しており、その関係は表面的なものでしかないことが表現されている。このことから、家族は「レプリカ」に過ぎず、本物の絆は存在しないことが暗示されていると考える。
さらに、P.79では「私と妹は小さいころから、ママみたい、という言葉を使って互いを貶し合った。」という描写がある。ここでは、家族間のコミュニケーションが歪んでおり、愛情や理解ではなく、憎しみや軽蔑が根付いていることが表現されていると考える。
また、P.87でも「父の暴力、母の性的な放埒さがもたらした恥辱にも、私たちは何とか耐えてきたのだ。…私も弟も妹もしっかりと植えつけられた父と母への憎しみを外へ向けるしかなかったのだ。」とあり、家族が一体感を失い、それぞれが個別に憎しみを抱え、それを外へ向けることで辛うじて耐えている状況が描かれている。ここで強調されているのは、教育や育成というよりも、支配と抑圧がもたらす憎しみの感情だ。家族間の繋がりは希薄で、撮影以外ではまともにコミュニケーションが取れず、再生不可能な関係性が浮き彫りにされていると考える。
このように、映画の撮影という表向きの「演技」と、実際の家族関係との間に大きな隔たりがあることが描かれている。登場人物らの心理描写も少ないことから、誰も心を開いておらず、どこか壁がある関係性を描いている。
このことから、この作品では、家族間の束縛によって憎しみがうまれ、根付いた憎しみが関係の修復を拒否している様子が描かれていると考える。
⓸『ALWAYS三丁目の夕日』(映画) 監督:山崎貴 2007年
(あらすじ)
西原良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした映画である。
昭和33年、東京下町の三丁目。ある日鈴木則文が営む自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で上京した六子がやってくる。しかし、思い描いていた東京で働くイメージとのギャップに、少し落胆してしまう。その鈴木オートの向かいにある駄菓子屋の店主で、しがない小説家の芥川竜之介。彼は一杯飲み屋のおかみ・ヒロミのもとに連れてこられた身寄りのない少年・淳之介の世話をすることとなった。
(考察)
この作品では、昭和のノスタルジーな町空間が広がっている。木造の家に、子どもたちが集まる駄菓子屋、タバコ屋、自転車で配達をする蕎麦屋の従業員など、現在では見かけなくなってしまった風景に、懐かしさを覚える。また、鈴木家が三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)を揃えて喜ぶ場面など、昭和30年代を象徴する描写に溢れおり、生き生きとした暮らしが描かれている。
また、特徴的なのは、家族間を越えて町全体で共同生活を送っている点である。家に鍵が付いていない、玄関に扉がない引き戸など、誰でも他所の家に簡単に上がり込むことができる。他所の家にそのまま入り込んで挨拶するなど、他者との隔たりが少ない、集団的な暮らしが描かれている。個人的で閉鎖的な現代の家族像と比較して、集団的で開放的な昭和の家族像が描かれており、時代に即した家族の形をみることができる。
そして最後は、皆がそれぞれの場所で夕日を眺める場面で幕を閉じる。この作品では、昭和のノスタルジーと家族の温かさが、美しい夕日で象徴されており、「懐かしさ」「温かさ」が普遍的なものであることを表現していると考える。
⑤『コンビニ人間』(小説) 村田沙耶香 2018 文春文庫
(あらすじ)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏無しの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってくる。第155回芥川賞受賞作品。
(考察)
この小説の特徴は2つあると考える。
1つ目は、視聴覚に訴える描写が多いことだ。店舗に並ぶ商品の彩りや、商品をかごにいれる音など、主人公がコンビニで働く中で見て感じた世界が、そのまま読者に共有されていく。普段私たちが気にしないコンビニの風景や音が鮮明に描かれていることから、主人公はコンビニという場所を自分の居場所や生きがいとして捉え、より魅力的な場所に見えていると考える。
2つ目は、主人公の視点を通して描かれる、現代社会の生きづらさである。
主人公の古倉は幼少期から変わり者で、周りの人の振る舞いを真似することで「普通」で「正常」な人になりきっていた。コンビニ店員として普通に働くことができるのも、マニュアルによるものであり、マニュアル外になると、普通の人間になることが難しい。
自分は普通の人間だと思っていても、周りから見て変であれば、変わり者として扱われてしまう。しかし、どこが変であるかは自分には分からない。これは、マイノリティへの理解が不十分で、表面的な多様性を掲げる現代社会を象徴していると考える。
また、固定観念が拭いきれていない現代社会の特徴も表現されている。
35歳の新人アルバイト・白羽の不真面目な勤務態度を見た店長は、「人生終了だよな。だめだ、ありゃ。社会のお荷物だよ。人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に所属するのが義務なんだよ」(P.66)と語る。
これは、社会的なものに属すことが、その人の「人間」としてのアイディンティティを確立させる、という社会の根底にある固定観念を表現していると考える。
また、白羽の言葉に、「…現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」(P.92)というものがある。
これらの表現から、多様性を謳う現代でも、その根底には「普通」や「正常」といった判断軸があるという、矛盾した社会を表現していると考える。
⑥『水を縫う』(小説)寺地はるな 2020年 集英社
(あらすじ)
主人公は松岡清澄、高校一年生。 一歳の頃に父と母が離婚し、祖母と、市役所勤めの母と、結婚を控えた姉の水青との四人暮らしをしている。 いつまでも父親になれない夫と離婚し、必死に生きてきたけれど、息子の清澄は扱いづらくなるばかり。 そんな時、母が教えてくれた、子育てに大切な「失敗する権利」とは。
(考察)
この小説では、章ごとに語り手が変わり、複数の視点から物語が展開される。第1章は清澄、第2章は姉の水青、第3章は母、第4章は祖母、第5章は元父の同僚・黒田、第6章は再び清澄の視点で語られる。こうした視点の交代によって、各キャラクターの内面やその背景にある出来事が多面的に描かれていく。特に、家族という親密な関係を通じて、性別に関する固定観念がどのように形成され、それぞれの人生に影響を与えているかが浮き彫りにされる。
まず、清澄のエピソードからは、性別にとらわれない価値観を模索する姿が描かれている。彼は裁縫や料理が得意であり、クラスメイトから「女子力が高い」と評価されるが、これに対して清澄は、「調理や裁縫に長けていることは、性別を問わず生活力と呼ぶべきではないか」と反論する(P.21)。この発言は、社会が性別に基づいて特定のスキルや特質を価値づけることへの疑問を投げかけており、清澄はそれを超えて自らのアイデンティティを築こうとしている。この考え方は、現代のジェンダー論においても重要なテーマであり、固定観念に縛られない個の尊重を強調していると考える。
一方、姉の水青のエピソードでは、性別による被害とそれが心理的に及ぼす影響が描かれている。彼女は小学6年生のときに、夜道でスカートを切られる事件を経験し、その後「かわいい服」を避けるようになった。この出来事が、担任教師の「オンナノコオンナノコした服」(P.59)という発言と結びつき、水青の中で「かわいい」という言葉に対する不信感と嫌悪感が芽生えてしまう。このエピソードは、社会が女性に対して抱く期待や規範が、いかに個々のアイデンティティ形成に影響を及ぼすかを考えさせる。特に、外見や装いに関するジェンダーの規範が、どのように女性の自己認識を歪めるかが表現されていると考える。
母と祖母のエピソードもまた、性別役割に対する不満を象徴している。母は、「子どもに無償の愛を注ぐことができる」という母親像に疑問を抱き、理想的な母親像に対して強い違和感を感じている。これは、母親としての自己を絶対的なものとして捉えず、むしろそれに対する違和感や葛藤を認める姿勢を示しており、伝統的な母親像に縛られない新たな母性の在り方を提示していると考える。
さらに、祖母のエピソードでは、幼少期に父親から「女は男には力ではかなわない」(P.146)という言葉を聞かされたり、結婚後、夫より稼ぐことに対して顔をしかめられる経験を持つ祖母は、「男だから、女だからと制限されない時代を子や孫には生きてほしい」と願っている(P.147)。この願いは、祖母が自身の経験を通して見出したものであり、性別役割に縛られない自由な生き方への渇望が表れている。
最後に、元父・全の言葉に影響を受けた清澄のエピソードは、人生の流動性とそれに対する個人の対応の重要性が描かれている。元父は「流れる水は淀まない」と語り、動き続けることの大切さを説く(P.223)。これを受けた清澄は、「川は海へと続いている。流れる水は、ほんとうに海にたどりつけるのかと心細く思ったりしないのだろうか」と考えながらも、「また針を動かす」(P.233)と決意する。ここでは、未来が不確実であっても、自分の好きなことや感性を大切にし、前進することが重要であると清澄は理解している。彼の姿勢は、人生が逆境に満ちていても、自分なりの道を進むことが未来への可能性を切り開くことを示している。
このように、この小説は各キャラクターの視点を通して、性別に基づく固定観念や社会的役割に対する挑戦を描き出している。それぞれの人物が直面する困難とその対処法は、現代社会におけるジェンダーに関する議論を深めるための重要な示唆を提供していると考える。
⑦『ALWAYS続・三丁目の夕日』(映画) 2007年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和34年の春、日本は東京オリンピックの開催が決定し、高度経済成長期時代を迎えようとしていた。そんな中、東京下町のの夕日町三丁目では、茶川が黙って去っていったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。そこへある日、淳之介の実父である川渕が再び息子を連れ戻しにやって来る。そして、人並みの暮らしをさせることを条件に改めて淳之介を預かった茶川は、安定した生活と共にヒロミへ1人前の自分を見せられるよう、“芥川賞”の夢に向かって執筆を始める。一方、経営が軌道に乗り始めていた鈴木オートでは、事業に失敗した親戚の娘・美加をしばらく預かることになった。
(考察)
本作では、昭和時代の文化の広がりによって、人々の生活や心に与えた影響について描いていると考える。
例えば、六子が友達と映画を見に出かける場面には、その時代特有の娯楽の広がりが感じられる。映画館に貼られたポスターには、「男はつらいよ」や「七人の侍」といった日本映画史に残る名作が並び、人々の生活に文化的な豊かさが加わっていたことがうかがえる。
また、文学が与える心理的な影響については、茶川が書いた『踊り子』が表現している。『踊り子』は、茶川がヒロミをモデルとして、ヒロミへの想いを描いた作品となっている。芥川賞を取るには至らなかったが、ヒロミには深く響き、芥川と共に生きる道を選ぶ決め手となった。また、街の人々も全員『踊り子』を呼んで降り、「泣けた」「心がぎゅっとなった」と、茶川に感想を述べていく。このことから、茶川の作品が人々の心に深く響いていることが分かる。
そして、最後の場面で、茶川とヒロミ、淳之介の3人が夕方の買い物帰りに夕日を見て、口々に「綺麗」と言うなかで、ふと淳之介が「3人で見てるから綺麗なんだよ」と言う。
このことから、文学は人々の心に深く入り込み、家族や愛の本質を探求する手段として重要な役割を果たしていると考える。
この作品を通して、家族とは、単に血縁関係に基づくものではなく、辛い時も楽しい時もその気持ちを共有し合う、シンプルでありながらも奥深い関係性であると考えた。このような昭和の時代の家族や地域社会のあり方が、現代においても見習うべきものではないかと考える。
⑧『ALWAYS三丁目の夕日'64』(映画) 2012年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和39年。東京は念願のオリンピック開催を控え、ビルや高速道路の建設ラッシュで熱気にあふれていた。そんな中、東京の下町、夕日三丁目に暮らす小説家の茶川竜之介は結婚したヒロミと高校生になった淳之介と楽しい生活を送っていた。しかも、ヒロミのお腹にはもうすぐ生まれてくる新しい命も宿っていた。しかし、連載中の『銀河少年ミノル』が、謎の新人作家・緑沼アキラに人気を奪われ、窮地に陥る。
一方、向かいの鈴木オートでは1人前となった従業員の六子に、青年医師・菊池孝太郎との新しい関係性が芽生える。
(考察)
物語の中心にあるのは、茶川と父、茶川と淳之介の親子関係だ。茶川は、自身の小説家としての道を父に否定され勘当されたが、父が亡くなった後に実家を訪ねた際、父が密かに茶川の成功を応援していたことを知る。父の部屋には、茶川が芥川賞の最終選考に残ったときの新聞記事と、茶川の小説に感想付きのしおりをはさんだものが、毎号分、本棚に並べられていた。父が突き放したのは、茶川の将来を心配したゆえの行動だったと悟る。
この父子の関係は、茶川と淳之介の間でも繰り返される。
淳之介は、東大受験の勉強をするふりをして、小説を書いていた。それは、週刊誌で茶川の小説が打ち切りになり、淳之介の小説が採用されるほどの実力であった。
ある日、雑誌の編集者が家に訪ね、淳之介を小説家としてデビューさせることを話に来る。淳之介が小説家としての道を歩むことを決断した時、茶川は、
「お前にはほとほと愛想がつきた。」「出てけ。お前のような恩知らずは、二度とこの家の敷居をまたぐな。」
と言い放ち、淳之介の勉強道具と通学バックを外に投げ出す。
淳之介が立ち去った後、茶川はヒロミに抱かれ、泣きながら「淳之介は、うちの大事な長男だからな。」と言う。
このことから、淳之介を後押しするために、わざと家から追い払ったことが分かる。
このことから、親心とは血の繋がりだけではなく、共に生活し、信頼関係を築く中で育まれるものであると考えた。そして、親としての愛情や心配は、子どもの成長や旅立ちを見守る過程で深まっていくものだと考えた。
⑨『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(映画) 2023年 監督:アーロン・ホーバス
(あらすじ)
ニューヨークで配管工を営む双子の兄弟マリオとルイージ。ある日、謎の土管で迷い込んだのは、魔法に満ちた新世界だった。新世界で離れ離れになってしまった兄弟が、絆の力で世界の危機に立ち向かう。マリオとルイージに加え、ピーチ姫、クッパ、キノピオ、ドンキーコング、ヨッシーなど原作ゲームシリーズでおなじみのキャラクターが多数登場する。
(考察)
2つの観点から、考察する。
1つ目は、スピード感のあるカメラの動きである。
本作におけるカメラワークは、スピード感が強く、スーパーマリオブラザーズのゲームの世界観を忠実に再現している。
ゲームにおけるスーパーマリオブラザーズのシリーズは、走る・歩く・ジャンプのボタンを使って各ステージを冒険するゲームと、車を使ってステージごとに順位を競い合うゲームがある。映画ではこれらの要素が多く取り入れられており、マリオは走ったり、ときには車に乗ったりしながら世界の危機に立ち向かう。
また、マリオの動きを後方から捉えるカメラワークは、アクロバティックで視覚的にインパクトのある場面となっている。これにより、観客はゲームの中に入り込んだかのような没入感を得ることができる。こうしたカメラの動きは、ゲームの世界観をそのまま映像として再現しており、ゲームと映画の垣根を超えた新たなエンターテインメントを形成していると考える。
2つ目は、ピーチ姫の活躍である。
キノコ王国のリーダーとして、彼女は従来の「助けられる存在」から「戦うヒロイン」へと進化している。ドレス姿でクッパたちに立ち向かう彼女の姿は、従来のプリンセス像を覆すものであり、ジェンダー意識の変化を反映していると考えられる。また、ピーチ姫が強敵・クッパとの政略結婚を拒否し、自らの意思を貫くシーンは、単なるキャラクターの成長を超えて、現代の女性像を象徴するものとなっている。
このように、本作はエンターテインメントとしての楽しさを提供するだけでなく、社会的なメッセージも含んでおり、観客に多くの示唆を与える作品となっていると考える。
⑩『そして、バトンは渡された』(小説) 瀬尾まいこ 文藝春秋 2018
(あらすじ)
幼い頃に母親を亡くし、父とも海外赴任を機に別れ、継母を選んだ優子。 父親が3人、母親が2人いて、家族の形態は17年のうちに、7回変わった。その後も大人の都合に振り回され、高校生の今は二十歳しか離れていない森宮と暮らす。 血の繋がらない親の間をリレーされながらも、出逢う家族皆に愛情をいっぱい注がれてきた彼女自身が伴侶を持つとき、親として選ばれたのは森宮だった。
(考察)
本作では、何度も変わる親たちの、優子へのそれぞれの愛情の形が描かかれている。それが非常識的なものや、的外れなものであっても、優子は愛情表現の1つと捉え、受け止めていく。しかし、私は優子の立場を大人の都合で振り回される子どもとして捉えた。
なぜなら、この小説は優子の視点から描かれているため、親となった大人たちは皆、優しくて優子想いのように描かれているが、大人たちの言動は自分本位のものであることが多いと考えたからである。
例えば、実父である水戸は、優子が10歳のときに、ブラジルへの転勤が決まり、そのまま離れ離れになってしまった。このとき、梨花という再婚者が決まったばかりであるのに、水戸は「やりたいことがある」といって決断を曲げない。唯一血の繋がった親子であるのに、10歳の娘を置いて、海外転勤してしまうことに、自分のキャリアを優先する、大人の都合が垣間見えた。
そして、日本に残った優子は、梨花の恋愛気質に翻弄され、次々に父が変わることになる。これも、梨花が「お金持ちと恋したい」「堅実な人と恋したい」といった、優子よりも自身の恋愛を優先していると考える。
また、3度目の父である森宮は、“普通の親”に対するこだわりを持っており、優子の高校3年生の始業式の朝、気合い入れにカツ丼を作る場面がある。優子の反応はいまいちであり、朝から重いけれど作ってくれたから、といって食べる。これは、優子の好みを把握せず、自分が親としてやりたいことを優先しているようにも見える。
このことから、この作品では大人の都合に振り回されながらも、親に対する愛情を示す、子どもの視点が繊細に描写されていると考える。
⑪『白雪姫』(アニメ映画) 監督:デイヴィッド・ハンド 1937年
(あらすじ)
明るく綺麗な心を持つ美しい王女、白雪姫は、女王である継母にその美しさを妬まれる。女王は家来に白雪姫を殺すことを命じるが、白雪姫は森の中へ逃げ込んでしまう。そこで、7人の小人や動物たちと出会い、楽しく暮らすが、魔女に姿を変えた王女に毒林檎を食べさせられ、眠らされてしまう。その後、王子のキスによって目を覚まし、2人はお城で幸せに暮らす。
(考察)
この作品には2つ特徴があると考える。
1つ目は、白雪姫と小人・動物たちの動きの差である。
白雪姫は、表情や体の動きにおいて、現実の人間のような動きを見せる。
例えば、笑う時には目を細めて少し口角をあげるだけで、体全体は動かない。また、歩く時も足が動くだけで、まっすぐな姿勢を保ったまま、横移動していく。
一方、小人・動物たちは、笑う時には口を大きく開け、体も笑うごとに上下する。また、小人たちが歩くときは、踏み込むごとに全身が上下したり、体のお肉や服、ヒゲが左右に揺れる。
このように、動きに連動してキャラクターの体が大きく動くことで、重みを表現していると考える。また、体の肉が揺れたり、表情が変わるときには頬の肉が持ち上がったり、下がったりして、体の質感に弾力性を持たせていると考える。このことから、動きや体の質感からキャラクターの重みを表現し、平面の世界に生命をもたらしていると考える。
2つ目は、キャラクターの身体をモノに例えて表現している点である。
作中で、小人たちの家を動物たちと掃除する場面がある。白雪姫は箒を片手に地面のホコリをはくが、リスたちはシッポを箒がわりにして床のホコリをはいている。また、動物たちが川で服を洗う場面では、亀のお腹の段差部分を洗濯板のように使って、服を洗っている。
これは、動物の身体的特徴をモノに例えて表現する、ディズニー的な想像力のひとつであると考える。『蒸気船ウィリー』でも、動物の身体を楽器として表現していたように、あえて身体をモノとして例えることで、画面内で生き生きと動く、キャラクターの生命性が強調されると考える。
⑫『木を植えた男』(映画) 監督:フレデリック・バック 1987年
(あらすじ)
人里離れた荒野に住む、初老の羊飼いブヒエ。彼は荒れ果てた大地にたった一人で木を植え続けていた。目的など多くを語らない彼の信念を貫くその行動は、二つの大きな戦争の間も続き、中年になった若者が再びその地を訪れた時、不毛の大地はまさに楽園に変身していた。
(考察)
フレデリック・バックの作品に込めた思いを要約したものが以下の文である。
「動物や植物は人間にとって大切な役割を果たす。かけがえのないものであるのに、私たちの行き過ぎた開発が彼らの生きる道を閉ざしてしまっている。」
この作品が環境問題について、助け合いや平和の精神から描いていることを念頭に、考察していく。
家族を亡くした羊飼いの男は、不毛な砂漠の土地を甦らせるため、たった1人で1万本の柏の木を植え続ける。そこで、第一次世界大戦勃発する。男が荒地に戻ると、柏の木が育って森になっていた。それまで白黒だった画面に緑が広がり、水が流れる描写も加わる。
ここで語りが強調するのは、羊飼いの男がたった1人で自然を変化させたことだ。
自然が豊かになったことで、木の家が建ち、仕事ができ、農作物が育つようになり、人々の生活に豊かさをもたらした。人は緑を作ることができ、緑は人々の生活を作ることができる。
私は、環境問題は1人でどうにかできる問題ではないと思い込んでいた。しかし、動画で出てくる政治家のように口だけで何も行動しなければ環境が変わることはなく、羊飼いの男のように1人の力でも不屈の精神と行動力があれば環境そのものを生み出すことができることを学んだ。
このことから、本作は緑の神秘と環境問題への希望を描いていると考える。
⑬『HELLO WORLD』(映画)監督:伊藤智彦 2020年
(あらすじ)
2027年、京都。内気な男子高校生・直実は、10年後の未来からきた自分・ナオミと出会う。ナオミは、直実が同級生の瑠璃と恋人関係になること、さらに瑠璃がその後の事故で命を落とすことを告げる。直実は瑠璃の命を救うために未来を変えようと奮闘し、ナオミの目的や世界の秘密を知ることとなる。
(考察)
本作は全て2Dによって作られており、2Dの特徴が活かされた画面となっている。
例えば、物語は未来や仮想空間の場で戦うといった、SFの要素を含んでおり、近未来的な建物や乗り物、武器が数多く登場する。街並みや建物が崩れる場面では、ドアや窓ガラスが一つ一つ崩れて、細かい破片が飛び散るなど、より繊細でリアルに描かれる。2Dを用いることで、非現実的な世界観をダイナミックに表現している。
また、現在から未来を移動する際の、異空間の表現も独創的である。背景や人物の色がビビッド調に変化したり、絵のタッチが変わって顔が歪んだり、膨張したりする。この表現も、2Dならではの広大な世界観の表現や、色使いの多様さ、立体物の歪み方が現れていると考える。
2Dのアニメーションは、SFなどの非現実的で高度な背景描写を求められる作品において、その効果を発揮すると考えた。
⑭『極主夫道 ザ・シネマ』(映画) 監督:瑠東栗一郎 2022年
(あらすじ)
極道の世界で“不死身の龍”として恐れられていた龍だが、美久との結婚を機に足を洗い、専業主夫として料理、洗濯、掃除などに天才的なスキルを発揮しながら、時にはご近所トラブルを解決する日々を送っていた。ある日、龍の住む町の保育園の土地が極悪地上げ屋に狙われ、悪質な嫌がらせを受ける。保育園の用心棒をすることになった龍は、雅たち仲間とともに地上げ屋と全面対決することになる。
(考察)
本作は、原作漫画やアニメの「再現度」を高く評価できると考える。特に主人公である「不死身の龍」のビジュアルや声は、まさにアニメそのままで、ファンにとっては期待通りの出来だと感じられる。
ただし、映画版では中学生の娘・向日葵という新たな人物が追加され、これにより家庭内での「父親」としての竜の姿がより深く描かれている。原作漫画では子どもがいない設定だったため、物語に新たな視点を加えていると考える。
さらに、映画版では、家の前に捨てられた小さな男の子の世話もする設定が加わっており、家族の絆や責任感といったテーマが強調されている。この設定変更は、コメディに加えて家族のメロドラマ的な要素を持ち込んでおり、観客に感情的な共感を呼び起こす効果があると考える。
また、最近の日本映画やドラマでは、俳優に芸人が起用されることが増えているが、本作も、コミカルな要素を強調するために芸人がキャスティングされている。これによって、映画に緊張感を持たせるよりも、芸人たちの勢いに少し笑ってしまうような、コメディ性を重視していると考える。
これらのことから、本作は原作ファンだけでなく、初めてこの世界に触れる観客にもその世界観を知ってもらうための「入口」として機能している。
家族愛とコメディの絶妙なバランスを持つこの作品は、笑いだけでなく、家族や人生についての考察も含まれており、コメディ映画以上の深みを持っていると考える。
⑮『ボヘミアン・ラプソディ』(映画) 監督:ブライアン・シンガー 2018年
(あらすじ)
世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマである。
1970年代、ロンドンのライブハウスに通っていたフレディ・マーキュリーは、3人の仲間らと共にバンドを結成し、アルバムを制作する。メンバーの個性や挑戦的な試みによって彼らは一世を風靡するが、フレディは次第に孤立していってしまう。
(考察)
フレディ・マーキュリーはバイセクシャルであり、HIVに感染した過去を持つ。この映画では、彼が抱えた心の葛藤が描かれている。特に、フレディの複雑な内面や人生の選択が、観客に強い感動を与えていると考える。
「QUEEN」のギタリスト、ブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーのインタビューによると、映画は完全なドキュメンタリーではないが、主人公の内面に関しては非常に忠実に描写されているという。
メイは次のように述べている。
「ドキュメンタリーじゃないから、すべての出来事が順序立てて正確に描写されているわけじゃない。でも、主人公の内面は正確に描かれていると思う。フレディの夢や情熱、強さと弱さが正直に描かれているからこそ、観客とつながりを感じてくれたんじゃないかな。」
この映画のライブシーンでは、特にアフリカの飢えに苦しむ子どもたちのために行われた「ライヴエイド」が象徴的である。屋外ステージでの演奏は、画面にフレアを差し込むなどの演出効果もあり、爽快感と迫力のある映像として描かれている。これにより、フレディが自分らしく生き生きと演奏していた姿を効果的に再現していると考えられる。
さらに、YouTubeで公開されている映画の予告編のコメント欄には、多くのファンの反響が寄せられている。
「QUEENを聞いて早40年。フレディが亡くなって終わってしまったと思われていた。でもこのコメ見て若い人達がこんなにもQUEENを讃えてるの読んで終わってなかったんだと実感した」
「高校生です。『We Will Rock You』しか知らなかったけど、この映画を見た友達に触発され、色々調べていくうちに、ああ、この曲もQUEENだったのかと思うことが多々ありました。彼らの生き方が本当にかっこいいと思いました。」
これらのコメントからもわかるように、この映画は新たな世代にもQUEENの音楽を再発見させ、音楽を通じて記憶を呼び起こし、過去と現在を繋ぐ役割を果たしている。
映画をきっかけに、QUEENの音楽は世代を超えて愛され続け、その影響力は途切れることなく引き継がれていることが考えられる。
(参考サイト)
『クイーン単独独占インタビュー ブライアン・メイさん|NHK』https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/12/story/special_181227/(最終閲覧日2024/9/23)
2年 野中涼風
RES
11.『7番房の奇跡』(映画)(2013)監督:イ・ファンギョン
【あらすじ】
知的年齢が6歳の父親ヨング(リュ・スンリョン)と、しっかりものの6歳の娘イェスン(カル・ソウォン)は二人仲良く幸せな暮らしを送っていた。ところがある日、ヨングは殺人の容疑で逮捕されてしまう。刑務所に送られたヨングは、娘のイェスンに会えなくなりつらい毎日を送っていた。そんなある日、ヨングに命を助けられた7番房の房長と仲間たちはヨングとイェスンを会わせるためにある計画を思いつく…。
【考察】
ヨングが障がいを持っていることを利用して冤罪が作り出されていた。作中でセーラームーンが憧憬の対象になっており、セーラームーンが世界的に人気であることがわかった。囚人たちがイェスンによって明るくなっていくのがわかった。火事や争いから助けるなど、ヨングの行いによって囚人や警察が変わった。冒頭で風船が有刺鉄線に引っかかっていたが、ヨングの無実が証明された後、風船が風に乗って飛んでいくシーンがあり、わだかまりの解消を連想することができた。ヨングを死刑にしたところで娘は帰ってこないのに、どうしてそこまでヨングを死刑にすることに拘るのか気になった。
12.『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(映画)(2016)監督:三木孝浩
【あらすじ】
京都の美大生の20歳の高寿は電車の中で出会った女性・愛美に一目ぼれする。勇気を振り絞って“また会える?”と約束をとりつけようとするが、それを聞いた愛美は突然涙してしまう。交際をスタートし、初めてのデートなど、初めての事があるたびに愛美は涙し、高寿は不思議に思うが、彼女には高寿に隠している事があった。
【考察】
高寿の居場所がわかる、高寿の描いた絵が教室に貼り出されるということを予言する、「私ずっとあなたのこと見てたんだよ」と高寿に言う、高寿の友人に「これからも南山くんと仲良くしてあげてくださいね」と言う、「高俊くんはずっとそうなんだね」と言う、高寿の実家のビーフシチューの隠し味を当てるなど、愛美が未来のことを知っている伏線がたくさんされていた。愛美が未来のことを知っていることで起きたすれ違いもあったが、高寿が愛美の視点に立つことで共に最後までの日々を歩んでいた。高寿にとって最初のが愛美にとっては最後の日で、その日に何も知らない高寿に「また会えるかな」と言われる愛美の視点の描写があり、涙無しでは見ることができなかった。
13.『街の上で』(映画)(2021)監督:今泉力哉
【あらすじ】
下北沢の古着屋で働いている荒川青(若葉竜也)は、ライブを見たり、行きつけの古本屋や飲み屋に行ったり、基本的にひとりで行動している。口数は多くもなく、少なくもないが、生活圏は異常に狭く、行動範囲も下北沢を出ない。恋人・雪(穂志もえか)に浮気された上にフラれたが、いまだに彼女のことが忘れられない。そんな青に、美大に通う女性監督・町子(萩原みのり)から、自主映画への出演依頼が舞い込む。いざ出演することにするまでと、出てみたものの、それで何か変わったのかわからない数日間、その過程で女性たちとの出会いもあり……。
【考察】
この映画は下北沢が舞台になっており、見たことのある場所が出てきて親近感が湧いた。劇中で漫画の聖地巡りを下北沢でするシーンがあり、この映画の聖地巡りをしたくなるような効果があると考える。それぞれにストーリーがある登場人物が下北沢という街で偶然交わる場面があり、世間の狭さを感じた。荒川青が映画に出る練習をするシーンでは携帯電話のビデオで撮影するという工夫がなされていた。
14.『百円の恋』(映画)(2014)監督:武正晴
【あらすじ】
32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていたが、ある日、離婚した妹の二三子が子連れで戻ってくる。しかたなく同居をする一子だったが折り合いが悪くなり、家を出て一人暮らしを始めることに。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありついた一子の唯一の楽しみは、帰り道にあるボクシングジムで一人ストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することであった。百円ショップの店員たちは皆心に問題を抱え、そこは底辺の人間たちの巣窟のような場所だった。そんなある夜、狩野が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに二人はお互いの距離を縮めていき、なんとなく一緒に住み始め、体を重ねる一子と狩野。だが、そんなささやかな幸せの日々は長くは続かなかった。どうしてもうまくいかない日々の中、一子は衝動的にボクシングを始める。やがて、一子の中で何かが変わりだし、人生のリターンマッチのゴングが鳴り響こうとしていた……。
【考察】
一子の家庭環境の悪さが強調されていた。一子が働き始めた店も客層や、店員の素行が悪く、同じ空気を纏った人が集まっていると感じた。しかし、ボクシングと出会ったことによって本気で打ち込めるものができ、一子の性格も変わっていった。この映画からは、夢中になれるものの大切さを学んだ。
15.『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(映画)(2023)監督:ポール・キング
【あらすじ】
母と共に美味しいチョコレート店を作ろうと夢見るウォンカは、一流の職人が集まるチョコレートの町へ向かう。しかし、魔法のチョコレートを生みだすウォンカの才能は、カルテルの妬みを買う。ウォンカは邪魔をされながらも仲間とチョコレート工場作りを進める。
【考察】
この映画は、ミュージカルと言えるくらい劇中でたくさん歌われている。「お金が無くても帽子いっぱいの夢があれば笑顔でいられる」というセリフがあり、お金よりも大切なことがあることを再認識することができた。ウォンカの母が作ってくれた板チョコに金色の紙が入っており、ウォンカのチョコレートの始まりを知ることができた。
16.『キングダム』(映画)(2019)監督:佐藤信介
【あらすじ】
戦災孤児の信と漂は天下の大将軍になることを夢見て剣術の鍛錬を積んでいた。しかし、漂は王都の大臣に召し上げられて、別々の道を歩むことに。そんなある日、王宮でクーデターが勃発。傷を負った漂はなんとか信のいる納屋へ辿り着くが、地図と剣を信に託し、命を落とす。地図に記されていた小屋へ向かった信は、そこで漂そっくりの男と出会う。
【考察】
共に天下の大将軍になることを約束した信と漂だったが、漂だけが王宮で働くように言われたとき、漂は自分だけが選ばれても行く選択を取り、並み大抵ならぬ信頼関係があることを感じた。この映画では、ワイヤーアクションが多く使われており、ダイナミックなアクションシーンが見所である。
17.『ティアメイカー』(映画)(2024)監督:アレッサンドロ・ジェノヴェージ
【あらすじ】
ニカの育った児童養護施設グレイヴでは、ある伝説が語り継がれてきました。それは、人間の心に巣食うあらゆる恐怖や不安を作り出す罪を背負った謎多き涙の職人、"ティアスミス"に関する伝説です。しかし、17歳を迎えたニカに、おとぎ話の世界に別れを告げる時が訪れます。なぜなら、彼女の最大の夢が叶おうとしているから。養子縁組の手続きを進めていたミリガン夫妻の準備が整い、ニカにずっと憧れてきた家族ができることになったのです。しかし、ニカの新しい家に引き取られるのは彼女だけではありません。落ち着きがなくどことなく怪しげで、ニカが世界で一番兄弟にしたくないリジェルも、ニカと一緒にグレイヴからこの家に引き取られることになったのです。リジェルは知的で頭の回転が早く、悪魔のようにピアノを奏でて人を魅了する、うっとりするほど美しい青年ですが、その天使のような見た目の裏には、暗い本性が潜んでいます。ニカとリジェルは、同じ痛みと苦しみを過去に抱えているものの、一緒に暮らしても分かち合えそうにはありません。でも、彼らはそれぞれ優しさと怒りを持って苦しみと戦い、生き抜こうとしています。それは心を引き裂く感情を覆い隠す術でもあり、互いにとって伝説のティアスミスになることを可能にします。心の奥底を見通すティアスミスの前では、2人は強烈な力を受け入れる勇気を持たなければなりません。互いを引き寄せる、"愛"と呼ばれる力を。
【考察】
児童養護施設グレイヴでは雷が鳴っていたり、不穏なピアノの音が奏でられているなど、暗い印象がつけられていた。ニカは交通事故で家族を亡くし、いつ大切な人がいなくなるかわからないという生命の儚さを感じた。ニカの友人であるミキは同性愛者であり、親友のビリーを好きになってしまうという葛藤が描かれていた。裁判で証言した後、ニカが指の絆創膏をとる描写には、解放の意味があると考える。
18.『20世紀のキミ』(映画)(2022)監督:パン・ウリ
【あらすじ】
1999年、初恋も未経験の活発な女子高生のボラ(キム・ユジョン)は、心臓手術のため渡米する親友のヨンドゥ(ノ・ユンソ)からある頼み事をされる。それはヨンドゥが一目惚れした男子高校生「パク・ヒョンジン」の情報を集めることだった。ボラが懸命にヒョンジン(パク・ジョンウ)の情報を集めるうちに、ボラはヒョンジンの親友であるウノ(ピョン・ウソク)のことが気になり始めるが…。20世紀の終わりに17歳の少年少女が経験した、甘く切ない初恋の記憶をめぐるラブストーリー。
【考察】
ボラは親友であるヨンドゥのためにストーカーまがいのことを行ったり、同じ人を好きになってしまったらヨンドゥのことを優先したりするなど、2人の厚い友情を感じた。劇中では、ウノの視点も描かれており、ボラの視点も見ているからこそ辛かった。個展に行ったらウノに会えるハッピーエンドだと思っていたが、予想を裏切られた。ここで個展の招待状の送り主がウノの弟であることに納得させられた。
19.『パープル・ハート』(映画)(2022)監督:エリザベス・アレン・ローゼンバウム
【あらすじ】
苦境の中でシンガーソングライターを夢見るキャシー (ソフィア・カーソン) と、悩みを抱えた海兵隊員のルーク (ニコラス・ガリツィン) は、何もかもが正反対。でも軍からの給付金のためだけに、2人は結婚することに合意します。ところが、ある悲劇をきっかけに、2人の真意と作り事の境目はあいまいになり始めます。
【考察】
ルークは更生して海兵隊になるが、更生しても尚、悪人が付きまとってくることにやるせなさを感じた。劇中歌に力が入れられており、キャシーが歌うシーンがたびたび登場する。この映画からは、音楽には力があるということを考える。
20.『最強のふたり』(映画)(2012)監督:エリック・トレダノ
【あらすじ】
事故で全身麻痺となり、車いす生活を送る富豪フィリップ。スラム出身の黒人青年ドリスがそんな彼の介護役となる。だが、その生活パターンも音楽や服装の好みなど、2人の間に共通点はまったくなく、衝突してしまう。だが、2人は次第にお互いを受け入れるようになり、深い絆で結ばれていくようになる。
【考察】
フィリップとドリスは何もかも異なるが、ブラックジョークを言えるような信頼関係を築いていた。フィリップはドリスに出会った当初は型にはまっていたが、ドリスの影響により、明るく開放的に変化していった。フィリップの下で働いている女性がドリスに口説かれても動じなかったのは、同性愛者であることが理由であることが明かされていた。映画の最後にこの話のモデルとなったフィリップとアブデルの映像があり、実話であることに驚いた。
【あらすじ】
知的年齢が6歳の父親ヨング(リュ・スンリョン)と、しっかりものの6歳の娘イェスン(カル・ソウォン)は二人仲良く幸せな暮らしを送っていた。ところがある日、ヨングは殺人の容疑で逮捕されてしまう。刑務所に送られたヨングは、娘のイェスンに会えなくなりつらい毎日を送っていた。そんなある日、ヨングに命を助けられた7番房の房長と仲間たちはヨングとイェスンを会わせるためにある計画を思いつく…。
【考察】
ヨングが障がいを持っていることを利用して冤罪が作り出されていた。作中でセーラームーンが憧憬の対象になっており、セーラームーンが世界的に人気であることがわかった。囚人たちがイェスンによって明るくなっていくのがわかった。火事や争いから助けるなど、ヨングの行いによって囚人や警察が変わった。冒頭で風船が有刺鉄線に引っかかっていたが、ヨングの無実が証明された後、風船が風に乗って飛んでいくシーンがあり、わだかまりの解消を連想することができた。ヨングを死刑にしたところで娘は帰ってこないのに、どうしてそこまでヨングを死刑にすることに拘るのか気になった。
12.『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(映画)(2016)監督:三木孝浩
【あらすじ】
京都の美大生の20歳の高寿は電車の中で出会った女性・愛美に一目ぼれする。勇気を振り絞って“また会える?”と約束をとりつけようとするが、それを聞いた愛美は突然涙してしまう。交際をスタートし、初めてのデートなど、初めての事があるたびに愛美は涙し、高寿は不思議に思うが、彼女には高寿に隠している事があった。
【考察】
高寿の居場所がわかる、高寿の描いた絵が教室に貼り出されるということを予言する、「私ずっとあなたのこと見てたんだよ」と高寿に言う、高寿の友人に「これからも南山くんと仲良くしてあげてくださいね」と言う、「高俊くんはずっとそうなんだね」と言う、高寿の実家のビーフシチューの隠し味を当てるなど、愛美が未来のことを知っている伏線がたくさんされていた。愛美が未来のことを知っていることで起きたすれ違いもあったが、高寿が愛美の視点に立つことで共に最後までの日々を歩んでいた。高寿にとって最初のが愛美にとっては最後の日で、その日に何も知らない高寿に「また会えるかな」と言われる愛美の視点の描写があり、涙無しでは見ることができなかった。
13.『街の上で』(映画)(2021)監督:今泉力哉
【あらすじ】
下北沢の古着屋で働いている荒川青(若葉竜也)は、ライブを見たり、行きつけの古本屋や飲み屋に行ったり、基本的にひとりで行動している。口数は多くもなく、少なくもないが、生活圏は異常に狭く、行動範囲も下北沢を出ない。恋人・雪(穂志もえか)に浮気された上にフラれたが、いまだに彼女のことが忘れられない。そんな青に、美大に通う女性監督・町子(萩原みのり)から、自主映画への出演依頼が舞い込む。いざ出演することにするまでと、出てみたものの、それで何か変わったのかわからない数日間、その過程で女性たちとの出会いもあり……。
【考察】
この映画は下北沢が舞台になっており、見たことのある場所が出てきて親近感が湧いた。劇中で漫画の聖地巡りを下北沢でするシーンがあり、この映画の聖地巡りをしたくなるような効果があると考える。それぞれにストーリーがある登場人物が下北沢という街で偶然交わる場面があり、世間の狭さを感じた。荒川青が映画に出る練習をするシーンでは携帯電話のビデオで撮影するという工夫がなされていた。
14.『百円の恋』(映画)(2014)監督:武正晴
【あらすじ】
32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていたが、ある日、離婚した妹の二三子が子連れで戻ってくる。しかたなく同居をする一子だったが折り合いが悪くなり、家を出て一人暮らしを始めることに。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありついた一子の唯一の楽しみは、帰り道にあるボクシングジムで一人ストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することであった。百円ショップの店員たちは皆心に問題を抱え、そこは底辺の人間たちの巣窟のような場所だった。そんなある夜、狩野が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに二人はお互いの距離を縮めていき、なんとなく一緒に住み始め、体を重ねる一子と狩野。だが、そんなささやかな幸せの日々は長くは続かなかった。どうしてもうまくいかない日々の中、一子は衝動的にボクシングを始める。やがて、一子の中で何かが変わりだし、人生のリターンマッチのゴングが鳴り響こうとしていた……。
【考察】
一子の家庭環境の悪さが強調されていた。一子が働き始めた店も客層や、店員の素行が悪く、同じ空気を纏った人が集まっていると感じた。しかし、ボクシングと出会ったことによって本気で打ち込めるものができ、一子の性格も変わっていった。この映画からは、夢中になれるものの大切さを学んだ。
15.『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(映画)(2023)監督:ポール・キング
【あらすじ】
母と共に美味しいチョコレート店を作ろうと夢見るウォンカは、一流の職人が集まるチョコレートの町へ向かう。しかし、魔法のチョコレートを生みだすウォンカの才能は、カルテルの妬みを買う。ウォンカは邪魔をされながらも仲間とチョコレート工場作りを進める。
【考察】
この映画は、ミュージカルと言えるくらい劇中でたくさん歌われている。「お金が無くても帽子いっぱいの夢があれば笑顔でいられる」というセリフがあり、お金よりも大切なことがあることを再認識することができた。ウォンカの母が作ってくれた板チョコに金色の紙が入っており、ウォンカのチョコレートの始まりを知ることができた。
16.『キングダム』(映画)(2019)監督:佐藤信介
【あらすじ】
戦災孤児の信と漂は天下の大将軍になることを夢見て剣術の鍛錬を積んでいた。しかし、漂は王都の大臣に召し上げられて、別々の道を歩むことに。そんなある日、王宮でクーデターが勃発。傷を負った漂はなんとか信のいる納屋へ辿り着くが、地図と剣を信に託し、命を落とす。地図に記されていた小屋へ向かった信は、そこで漂そっくりの男と出会う。
【考察】
共に天下の大将軍になることを約束した信と漂だったが、漂だけが王宮で働くように言われたとき、漂は自分だけが選ばれても行く選択を取り、並み大抵ならぬ信頼関係があることを感じた。この映画では、ワイヤーアクションが多く使われており、ダイナミックなアクションシーンが見所である。
17.『ティアメイカー』(映画)(2024)監督:アレッサンドロ・ジェノヴェージ
【あらすじ】
ニカの育った児童養護施設グレイヴでは、ある伝説が語り継がれてきました。それは、人間の心に巣食うあらゆる恐怖や不安を作り出す罪を背負った謎多き涙の職人、"ティアスミス"に関する伝説です。しかし、17歳を迎えたニカに、おとぎ話の世界に別れを告げる時が訪れます。なぜなら、彼女の最大の夢が叶おうとしているから。養子縁組の手続きを進めていたミリガン夫妻の準備が整い、ニカにずっと憧れてきた家族ができることになったのです。しかし、ニカの新しい家に引き取られるのは彼女だけではありません。落ち着きがなくどことなく怪しげで、ニカが世界で一番兄弟にしたくないリジェルも、ニカと一緒にグレイヴからこの家に引き取られることになったのです。リジェルは知的で頭の回転が早く、悪魔のようにピアノを奏でて人を魅了する、うっとりするほど美しい青年ですが、その天使のような見た目の裏には、暗い本性が潜んでいます。ニカとリジェルは、同じ痛みと苦しみを過去に抱えているものの、一緒に暮らしても分かち合えそうにはありません。でも、彼らはそれぞれ優しさと怒りを持って苦しみと戦い、生き抜こうとしています。それは心を引き裂く感情を覆い隠す術でもあり、互いにとって伝説のティアスミスになることを可能にします。心の奥底を見通すティアスミスの前では、2人は強烈な力を受け入れる勇気を持たなければなりません。互いを引き寄せる、"愛"と呼ばれる力を。
【考察】
児童養護施設グレイヴでは雷が鳴っていたり、不穏なピアノの音が奏でられているなど、暗い印象がつけられていた。ニカは交通事故で家族を亡くし、いつ大切な人がいなくなるかわからないという生命の儚さを感じた。ニカの友人であるミキは同性愛者であり、親友のビリーを好きになってしまうという葛藤が描かれていた。裁判で証言した後、ニカが指の絆創膏をとる描写には、解放の意味があると考える。
18.『20世紀のキミ』(映画)(2022)監督:パン・ウリ
【あらすじ】
1999年、初恋も未経験の活発な女子高生のボラ(キム・ユジョン)は、心臓手術のため渡米する親友のヨンドゥ(ノ・ユンソ)からある頼み事をされる。それはヨンドゥが一目惚れした男子高校生「パク・ヒョンジン」の情報を集めることだった。ボラが懸命にヒョンジン(パク・ジョンウ)の情報を集めるうちに、ボラはヒョンジンの親友であるウノ(ピョン・ウソク)のことが気になり始めるが…。20世紀の終わりに17歳の少年少女が経験した、甘く切ない初恋の記憶をめぐるラブストーリー。
【考察】
ボラは親友であるヨンドゥのためにストーカーまがいのことを行ったり、同じ人を好きになってしまったらヨンドゥのことを優先したりするなど、2人の厚い友情を感じた。劇中では、ウノの視点も描かれており、ボラの視点も見ているからこそ辛かった。個展に行ったらウノに会えるハッピーエンドだと思っていたが、予想を裏切られた。ここで個展の招待状の送り主がウノの弟であることに納得させられた。
19.『パープル・ハート』(映画)(2022)監督:エリザベス・アレン・ローゼンバウム
【あらすじ】
苦境の中でシンガーソングライターを夢見るキャシー (ソフィア・カーソン) と、悩みを抱えた海兵隊員のルーク (ニコラス・ガリツィン) は、何もかもが正反対。でも軍からの給付金のためだけに、2人は結婚することに合意します。ところが、ある悲劇をきっかけに、2人の真意と作り事の境目はあいまいになり始めます。
【考察】
ルークは更生して海兵隊になるが、更生しても尚、悪人が付きまとってくることにやるせなさを感じた。劇中歌に力が入れられており、キャシーが歌うシーンがたびたび登場する。この映画からは、音楽には力があるということを考える。
20.『最強のふたり』(映画)(2012)監督:エリック・トレダノ
【あらすじ】
事故で全身麻痺となり、車いす生活を送る富豪フィリップ。スラム出身の黒人青年ドリスがそんな彼の介護役となる。だが、その生活パターンも音楽や服装の好みなど、2人の間に共通点はまったくなく、衝突してしまう。だが、2人は次第にお互いを受け入れるようになり、深い絆で結ばれていくようになる。
【考察】
フィリップとドリスは何もかも異なるが、ブラックジョークを言えるような信頼関係を築いていた。フィリップはドリスに出会った当初は型にはまっていたが、ドリスの影響により、明るく開放的に変化していった。フィリップの下で働いている女性がドリスに口説かれても動じなかったのは、同性愛者であることが理由であることが明かされていた。映画の最後にこの話のモデルとなったフィリップとアブデルの映像があり、実話であることに驚いた。
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