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3年 北郷未結
RES
⑯『マッシュル-MASHLE-』(アニメ) 2023年
(あらすじ)
魔法が当然のものとして使用される魔法界に、唯一魔法が使えない男、マッシュ・バーンデッドがいた。魔法に匹敵する力を持つため、彼は人目のつかない森の奥で、日々筋トレに取り組んでいた。家族との平穏な暮らしを望む彼だったが、ある日、突然命を狙われ、なぜか魔法学校に入学し、トップである「神覚者」を目指すことに。鍛え抜かれたパワーがすべての魔法を粉砕する、アブノーマル冒険ファンタジー。
(考察)
最近の作品では、能力の「引き算」が物語に新しい面白さを生み出していると考えられる。主人公にあえて欠けた要素を持たせることで、従来の「何でもできる超人」像とは異なる、困難に立ち向かう姿を描いている。
たとえば、本作では魔法が一切使えない主人公が登場する。彼は魔法が使えない代わりに、筋力トレーニングに励み、最終的に魔法使い達との戦いを肉体的な力でねじ伏せていく。この展開において、視聴者たちは「主人公が魔法にどう対処するのか?」という視点から物語を楽しむことになる。魔法が使える者たちに対抗するために、主人公がどのような戦略を立て、戦いを切り抜けていくのかが、物語の重要なテーマとなる。
この手法は他作品にも見られる。たとえば『僕のヒーローアカデミア』では、世界の8割が特殊な能力「個性」を持つ中で、主人公は「無個性」として描かれている。彼は能力がないというハンデに直面しながらも、ヒーローになることを目指し、数々の試練を乗り越えていく。
このように、あえて主人公に「欠けた部分」を設定することで、物語に新たな緊張感と成長がもたらされると考える。
かつてのバトル漫画では、主人公は超人的な力を持ち、レベルアップを繰り返しながら、あらゆる困難を乗り越えていくという形式が多く見られた。
しかし、最近のバトル漫画では、主人公に何らかの欠点やハンデがあり、仲間と協力しながらその困難に立ち向かう物語が目立つようになっている。
これは、主人公の能力をあえて「引き算」して考えることで、物語に新たな視点と魅力をもたらしていると考えられる。
従来の「足し算」の成長物語ではなく、制約の中でどのように工夫し、前に進んでいくかという過程が、視聴者に新鮮な驚きや共感を与えていると考える。
⑰『天気の子』(映画) 監督:新海誠 2019年
(あらすじ)
離島の実家から家出して東京にやって来た高校生・森嶋帆高は、職探しに苦労するも、オカルト雑誌のライターという仕事にありつく。東京では何日も雨が降り続く中、帆高は弟と2人で暮らす明るい少女・天野陽菜と出会う。そして彼は、彼女が不思議な能力を持っていることに気づく。それは祈るだけで、空を晴れにできる力だった。
(考察)
本作では、街に降り注ぐ大量の雨水や、差し込む太陽光の描写は繊細かつ美しく、光と影の使い方によって水や光が立体感を持ち、線を感じさせない画力が発揮されている。これにより、自然の力が見事に表現されている。このことからも、天気が作品の中で重要な要素として扱われていることがわかる。
新海誠監督はインタビューで「天気は地球のどこでも存在し、誰もが共感できるテーマです。気象は遠く空の上で起こる、我々の手の届かない大規模な現象であるにもかかわらず、私たちの日常や気分に直接的な影響を与える個人的な出来事でもあると思います。コントロールできないほど大きな存在でありながら、私たちの心の奥深くでつながっているのです」と述べている。つまり、彼は天気という巨大で不可視な存在が、個人の内面的な感情や経験と密接に結びついている点を強調している。
この「遠く離れた誰かとつながっている」という感覚は、新海監督の作品全体に共通する特徴と言えるだろう。彼の作品では、距離的に離れていても感情や体験を通して人々がつながる瞬間が多く描かれている。そのつながりは、しばしば自然や天気といった普遍的な要素を媒介として表現される。
また、音楽を背景に物語が進行する中で、異なる時系列や場面が次々と切り替わるが、これらのシーンは一見離れているように見えて、実は深い物語の繋がりを持っている。新海誠作品における時間や空間の扱いは、登場人物同士の距離感や心の変化を巧妙に映し出しており、それが観客に多層的な感動を与えていると考える。
(参考サイト)『『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」』https://weathernews.jp/s/topics/202012/240115/(最終閲覧日2024/8/26)
⑱『ショーシャンクの空に』(映画) 監督:フランク・ダラボン 1995年
(あらすじ)
妻とその愛人を射殺したかどで刑務所送りとなった銀行員。初めは戸惑っていたが、やがて彼は自らの不思議な魅力で、すさんだ受刑者達の心を掴んでゆく。そして20年の歳月が流れた時、彼は冤罪を晴らす重要な証拠をつかむ。
(考察)
本作は囚人たちが抱く「希望」や「自由」が、彼らの生き方にどのように影響するかを描いている。エリス・ボイド・“レッド”・レディングは、長年の監獄生活によって「シャバ」を恐れるようになった。これをレッドは「施設慣れ」と呼び、終身刑が囚人を精神的に蝕み、外の世界での生活に適応できない状態になったことを指す。
例えば、仮釈放されたブルックスは、長年の刑務所生活から釈放されるも、社会に馴染めず、ついには自ら命を絶ってしまった。このように、刑務所内での希望はむしろ危険であり、場合によっては自殺に繋がるというレッドの見解は説得力がある。
作品を通して、レッドの視点は一貫して「外の世界」への不安を示し、刑務所に留まることへの安全志向が強調されている。
一方で、アンディー・デュフレーンは異なる見方を持っている。彼は「希望は永遠の命」という言葉にあるように、外の世界に出て、知らなかったことを知ることに生きる希望を見出している。
このように、レッドとアンディーの希望に対する見解は、対照的なものとして描かれている。レッドにとって希望は危険なものであり、「死」を意味するが、アンディーにとっては希望こそが生きる意味そのものであり、「永遠の命」となっている。
この対比は、作品全体を通じて「希望」と「生死」が重要なテーマとして表現されていると考える。
⑲『そして誰もいなくなった』(小説) 著者:アガサ・クリスティ 訳者:福田逸 新水社 1984年
(あらすじ)
とある孤島に招き寄せられたのは、たがいに面識もない、職業や年齢もさまざまな十人の男女だった。だが、招待主の姿は島にはなく、やがて夕食の席上、謎の声が、彼らの過去の犯罪を暴き立てる。そして無気味な童謡の歌詞通りに、彼らが一人ずつ殺されてゆく、推理小説。
(考察)
本作は、絶海の孤島に閉じ込められた10人が、童謡「十人の兵隊さん」の歌詞通りに次々と命を落としていくという、物語となっている。
この物語の特徴は、童謡に忠実に再現される殺人だ。犯人である元判事のウォーグレイヴは、1つの作品を完成させるかのように、一人ひとりを童謡の歌詞に対応させて殺害していく。このことからウォーグレイヴの計画は、単なる復讐劇ではなく、「完全な犯罪」というテーマに執着していると考える。彼は、生き物の命を奪うことに強い執着を抱き、法廷では罪人に死を宣告することで、その喜びを味わってきた。判事としての「正義」が、生命を奪うことへの強い執着に取り込まれ、極端な殺人の形式になっていると考える。
また、本作が戯曲形式であることも、物語の冷酷さを際立たせていると考える。登場人物たちの感情はあまり描写されず、出来事が淡々と進行するため、感情移入することが難しい。そのため、読者は純粋に事件そのものに注目させられる。これによって、読者は登場人物の恐怖や絶望よりも、出来事の冷徹さに目を向けさせられ、物語全体が不気味な冷酷さで包まれていると考える。
このことから、ウォーグレイヴの犯行は単なる殺人事件を超えた「死の芸術」であり、冷徹なまでに計画された舞台で人々が命を落としていく様子は、読者に強い衝撃を与えるものとなっている。彼の「正義」や「罪」に対する執念が、物語全体を通じて究極的なテーマとして描かれていると考える。
⑳『真実』(映画) 2019年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
世界中にその名を知られる、国民的大女優ファビエンヌが、自伝本「真実」を出版。海外で脚本家として活躍している娘のリュミール、テレビ俳優として人気の娘婿、そのふたりの娘シャルロット、ファビエンヌの現在のパートナーと元夫、彼女の公私にわたるすべてを把握する長年の秘書。“出版祝い”を口実に、ファビエンヌを取り巻く“家族”が集まるが、全員の気がかりはただ一つ。「いったい彼女は何を綴ったのか?」
そしてこの自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された、愛憎うず巻く心の影を露わにしていく。
(考察)
まず、自伝本に綴られた“嘘”について、自伝本では、ファビエンヌが良き母として描かれている。しかし、実際は俳優業に専念していたため、娘の世話にはあまり関わっていなかった。
一方、自伝本に綴られなかった“真実”は、ファビエンヌがリュミエールの劇を見に行っていたこと、亡くなったライバル、サラを偲んで役をもらったことである。
綴られた“嘘”は読者にとっては“真実”である。一方、綴られない“真実”は本人以外知ることができないため、人間関係において摩擦が生じてしまう。
作中において、何が“真実”なのかは明示されない。しかし私は、親が子を思う気持ちは紛れもない“真実”であると考える。
㉑『グエムルー漢江の怪物ー』(映画) 監督:ポン・ジュノ 2006年
(あらすじ)
ソウルの中心を南北に分けて流れる雄大な河、漢江。ある日、突然正体不明の巨大怪物<グエムル>が現れた。河川敷の売店で店番をしていたカンドゥの目の前で、次々と人が襲われ、愛娘である中学生のヒョンソも攫われてしまう。さらに、カンドゥの父・ヒボン、弟のナミル、妹のナムジョのパク一家4人は、グエムルが保有するウイルスに感染していると疑われ、政府に隔離されてしまう。しかし、カンドゥは携帯電話にヒョンソからの着信を受け、家族と共に病院を脱出し、ヒョンソを救うため、漢江へと向かう。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は、韓国の社会的な構造からである。
本作は、2000年に在韓米軍の人間がホルムアルデヒドを漢江に流したという、実際の事件を参考にしている。
これは、「第五福竜丸事件」などの被爆事件から着想を得た『ゴジラ』の設定に近く、大国アメリカの傲慢さや、その力に支配されている自国の問題という、社会的なテーマが浮かび上がってくる。
また、韓国は、1960年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げてきたが、2000年代に入ると、雇用条件の悪化や、経済格差問題が目立つようになる。
このことから、作中で登場する「グエムル」という怪物は、人々が被る社会的な抑圧や怒りを体現したものではないかと考える。
2つ目は、ポン・ジュノ監督が映画の中で用いる“匂い”の意味である。
主人公の男・カンドゥは、愛娘であるヒョンソが目の前でグエムルに襲われ、連れ去られてしまう。
そんなカンドゥを見たヒボン(カンドゥの父)は、「子を失った親から漂う匂い」がすると言う。しかし、その匂いは他の人には分からない。匂いとは嗅覚を通して、記憶に残り、その人を印象づけるものだと考える。
このことから、ポン・ジュノ監督が表現する“匂い”とは、個人の拭いきれない過去や存在そのものを象徴するものとして機能しているのではないかと考えた。
(参考サイト)『【解説】映画『グエムルー漢江の怪物ー』にみる格差社会と、怪物の正体とは? 』https://cinemore.jp/jp/erudition/1201/article_1202_p1.html(最終閲覧:2024/9/16)
㉒『マスク』菊池寛 1920年 青空文庫より
(あらすじ)
見かけは頑健に思われているが、実は心臓も肺も、胃腸も弱い。そんな自分に医者は「流行性感冒にかかったら、助かりっこありません」と言う。だから、徹底的に感染予防に努めた。でも暖かくなったある晴れた日に、黒いマスクの男を見かけると、嫌悪感を抱くようになる。
(考察)
本作の状況は、現代のコロナ禍における、人々の心象と重なっていると考える。流行性感冒が流行し、主人公は外出をできるだけ控えるようになる。そして外に出る際には、ガーゼをたっぷりと詰めたマスクを装着する。また、友人が40度の熱を出したことを知り、死に怯える。この恐れは、ウイルスが目に見えないものでありながら、常に身近に潜む脅威であることを示している。
その後、流行が収まった後も、主人公はなおもマスクを着用し続ける。ここで重要なのは、マスクが防護具以上の意味を持ち始めている点だ。同じようにマスクをしている人を見ると、主人公は仲間意識や誇りを感じる。マスクは個人の意思や信念を象徴するものとなり、共通の経験をする人々との繋がりを強調する。
しかし、時が経つにつれ、主人公もマスクを外すようになる。その一方で、まだマスクを着けている人を見ると、今度は不快に感じるようになる。この変化は、自己本位的な心情が反映されており、かつて共感していた行為が、今では疎ましく感じられるという複雑な心理を表している。これは、人間の信念や感情が状況に応じて流動的であり、他者への視点が自己の立場に大きく影響されることを表現している。
最後に、自分の信念を強く貫く他者との対立が浮かび上がる。自己の考えに固執する人物に対して、主人公は圧迫感を覚える。これは、異なる価値観を持つ他者との関係において、人が感じる葛藤や摩擦を象徴している。
これは、他人にマスクを強要する「マスク警察」の片鱗が現れていると考える。本作では、現代でも普遍的な感染症下の同調圧力の問題が描かれていると考える。
㉓『桜の樹の下には』梶井基次郎 1931年 青空文庫より
(あらすじ)
不思議な生き生きとした美しい満開の桜を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。
(考察)
この作品では、桜の生き生きとした美しさと、土の中に埋められた屍の生々しさを対比させている。例えば「桜の樹の下には屍体が埋まっているが、桜の花は見事に咲いている。」という対比は、桜の美しさが際立つほど、同時に屍の存在が強く浮かび上がる。
また、屍体から出る液体が、桜の美しい花弁や蕊を形成しているというイメージも印象深く、生死の循環をえがくことで生命と死の密接な関係を表現していると考える。
さらに、「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」という一節からは、桜と屍体の対比にあるように、比較する対象があるからこそ、物を美しいと思える心があることを実感できる、逆説的な心の複雑さを表現していると考える。
本作は、その短さにもかかわらず、圧倒的な表現力を持ち、桜の美しさの裏に潜む死の存在を通して、人間の心の複雑な感情を表現していると考える。
㉔『岸辺のふたり』(アニメ) 監督:マイケル・デュドック・デ・ヴィット
(あらすじ)
海沿いの土手を、横並びで自転車を走らせる、仲睦まじい親子。
しかし、父は海の岸辺にあったボートを使って、どこかへ行ってしまう。娘は何度もその場所を訪れ、父の帰りを待つ。
そしてある日、海の水が無くなってしまう。
月日がたち、老婆となった女の子は海の水がなくなり、草原となった場所を歩いていく。歩いていくと、そこには父が乗っていったボートがあった。ボートに横たわる女の子。しばらくして起き上がり、草むらを駆けるとどんどん若返っていき、その先には父の姿が。
最後、親子で抱きしめ合う場面で幕を閉じる。
2001年アカデミー賞短編アニメ賞、英国アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞。
(考察)
この作品は、娘から見た父の死について描かれていると考える。
冒頭の場面では、父が1度岸辺に降りるも、再度丘の上にいる娘のもとへ戻り、抱きしめてから、岸辺に降りてボートを漕いでいく。
これは、丘から海までの道が生と死の境目を表現しており、海が死の世界への道だと考えると、父と娘の死別を表現していると考える。
ボートを使うことで、突然、どこか遠くに行ってしまった感覚や、遠くに行ってしまっても、いつか戻ってくるだろうという気持ちが表現されていると考える。
そして、女の子が歳を重ねるにつれ、自転車から降りることなくただ海の向こうを眺めるようになる。これは歳を重ねることで、父の死を受け止められるようになったことを暗示していると考える。
そして最後、老婆になった女の子は、水が無くなり草むらとなった海を歩いていき、そこで父と再会する。ここでは女の子の死が連想できる。
海の水が無くなるくらいの長い年月を経て、再会できたのは、お互いが死を迎えた後であった。
このことから、本作では、長い年月が流れても親子の変わらない愛情を描き出していると考える。
㉕『怒り』(映画) 監督:李相日 2016年
(あらすじ)
ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。現場には『怒』の血文字が残されており、犯人は行方をくらました。そして、事件から1年後、千葉と東京と沖縄に素性の知れない3人の男が現れた。殺人犯を追う警察は、新たな手配写真を公開した。その顔の特徴は、3人の男にそれぞれ当てはまるところがあった。
(考察)
本作のモデルとなったのは、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」と、その犯人の市橋達也である。殺害した被害者を浴槽に遺棄したこと、顔を変えるために整形手術を行い、ホクロを消して唇を薄くしたこと、全国各地を逃げ回っていたことなどが、作品とリンクしている。
この作品は、千葉・東京・沖縄で起こる3つの物語が並行して進んでいく。
千葉では、漁港で働く男・洋平と、その娘である愛子が、田代という素性の知れない男に出会い、愛子と田代が恋に落ちていく。
東京では、大手通信会社に勤める優馬がハッテン場で出会った直人とともに暮らす様子が描かれる。
沖縄では、夜逃げ同然で離島に移り住んできた高校生の泉と、その同級生の辰哉が、無人島でバックパッカーの田中に遭遇する。
それぞれの場所で、謎の男との出会いがあり、周りの人物らは殺人犯ではないかと疑いながらも、ともに生活していく。
これらを踏まえ、本作における“怒り”とは、自分自身への怒りだと考える。信じていた人を守りきれなかった、信じなくてはいけない人を信じきれなかった。
例えば、辰哉は、泉が公園で米兵に強姦されているところを助けられなかった。辰哉はそれを田中にからかわれ、田中を殺してしまう。辰哉は逮捕後に「信じていたから、許せなかった」と供述した。
信じていた人に裏切られた怒りと、守るべき人を守れなかった自分への怒りが描かれている。
また、愛子はテレビのニュースで報道される男の写真と、田代の顔や仕草の特徴が一致していたことから、犯人じゃないと自分に言い聞かせていたものの、警察に通報してしまう。
2人は同棲を始めたばかりであったが、田代は家から姿を消した。愛子は泣き叫び、信じたい人を信じきれなかった自分への怒りを露わにする。
このことから、本作は、友情や愛情など、信頼のもとで成り立つ関係において、相手がもし殺人犯だったらどこまで「信じる」ことができるか、その責任や重さを描いていると考える。
(参考サイト)
『【若者に訊け】吉田修一 市橋達也事件念頭に置いた『怒り』』https://www.news-postseven.com/archives/20140223_242015.html/3
(最終閲覧:2024/09/21)
㉖『プラトーン』(映画) 監督:オリバー・ストーン 1987年
(あらすじ)
1967年、大学を中退した正義感溢れる若者が、志願兵としてベトナム戦争に従軍する。配属されたのは最前線の小隊プラトーン。そこでは冷酷非情な隊長と、無益な殺人に反対する班長が対立していた。やがて彼は戦場で、想像を絶する人間の狂気を目の当たりにすることになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は映像表現が生み出す戦争の緊迫感である。銃撃戦の場面では、1つのショットが次々と写り変わることで、銃撃戦の激しさを表現している。また、全身のショットや顔のクローズアップなどを組み合わせることで、激しくなる銃撃戦に緊迫感を覚える兵たちの心境を表現していると考える。
2つ目は、兵視点から考える戦争の意義についてである。
物語が兵視点で描かれているため、戦争に勝ったとしても、その喜びが誇張して描かれず、数多くの仲間が犠牲になった苦しみや、虚無感を演出している。
主人公のテイラーは、戦争が終わった後、以下のように語る。
「今思うと、あの時の僕らは自分自身と戦っていたんだ。敵は、僕らの心の中にいた。」
ここから、国同士の対立ではなく、同じ軍の兵同士の衝突が本作のテーマの1つであると考える。
戦争で皆が国のために一丸となって戦っているのではなく、一人一人が自分の主張や正義を持っており、仲間内でも銃口を向けあっている、前線で戦う者の現実が描かかれていると考える。
㉗『最強のふたり(吹替版)』(映画) 監督:エリック・トレダノ 2012年
(あらすじ)
パラグライダーの事故で首から下が麻痺した大富豪のフィリップ。介護人募集の面接にやってきたのは、スラム街暮らしの黒人青年ドリスだった。水と油の2人だったが、ドリスはフィリップの心を解きほぐし、固い絆で結ばれていく。
(考察)
この作品のテーマは、対等な人間関係の構築であると考える。
話の冒頭、介護者の面接にて、面接を受ける人たちは次々に「人を助けたい」「障害者の自立を支援したい」「何もできない人たちですから」と志望動機を述べていく。これらは彼らの中に障害者=何も出来ない、可哀想な人といった隠れた偏見があると考える。
健常者である自分たちが、障害者の人達に希望を与えてあげるといった、対等の意識がないと考える。
しかし、ドリスはこのような先入観を持たず、フィリップという人物そのものに目を向けていく。
これが、2人の友情の根幹にあるものだと考える。
これを象徴するのが、以下の場面だ。
フィリップの友人が、ドリスが人を殴ったと聞いて、「怪しげな人間を近づけるな。そんな状態で。」とフィリップに忠告をする場面がある。
しかし、フィリップは目をそらす。「そんな状態で」と、障害があるという理由で無力さを決めつけている友人に呆れていると考える。
そこで、フィリップはドリスの話題を出す。
「いらないよ、情けなど。あいつ、電話を差し出すんだ。うっかりとね。私に同情していない証だよ。」
このことから、ドリスが普通の人と変わらない接し方をしていることが明らかである。フィリップが求めているのは、同情ではなく、対等な人間関係である。
これらのことから、障害者に対する無意識な偏見や特別視をしないことが、相互理解と信頼を生むと考える。
相手と良好な関係を築くには、無意識な偏見の目に敏感にならなければならないことを訴えていると考える。
㉘『夜明けのすべて』(小説) 瀬尾まいこ 2020年 水鈴社
(あらすじ)
職場の人たちの理解に助けられながらも、月に1度のPMS(月経前症候群)でイライラが抑えられない藤沢は、やる気がないように見える、転職してきたばかりの山添に当たってしまう。山添はパニック障害になり、生きがいも気力も失っていた。互いに友情も恋も感じてないけれど、おせっかい者同士の2人は、自分の病気は治せなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は小説という形態の特徴から考察する。
本作は、PMSやパニック障害など、心の病気を持つ2人が物語の中心となっている。
例えば、藤沢さんはPMSの症状によって、小さなことで苛立ってしまい、強い口調で周りに当たってしまうことがある。
そこで「」書きの台詞のあとに、強い口調で言ってしまったことを後悔する胸の内が書かれる。表面上の言葉とは裏腹に、様々な感情や葛藤を抱えており、台詞ではなく、心の中の声が物語において重要な意味を持っている。
これは、小説という表現形式だからこそ、内面と実際にでる行動の差をテンポよく描くことができ、心の問題ならではの矛盾や葛藤が表現されていると考える。
2つ目は、本作のテーマである。
山添の発言に以下のようなものがある。「そう思うと同時に、「病気にもランクがあったんだね」という藤沢さんの言葉が頭に浮かんだ。俺は知らず知らずら自分の病気をかさに着るようになったのだろうか。まさか、本当のことなんだからしかたない。PMSよりパニック障害のほうがつらいに決まっている。いや、はたして、本当にそうだろうか。俺はPMSどころか生理のことも知らない。実際は想像以上にしんどいのかもしれない。」(P55)
この内面的な葛藤は、病気に対する主観的な視点と客観的な理解とギャップを示しており、物語の重要なテーマの一つと言える。
また、藤沢さんが虫垂炎になり、手術をした後の面会で、お腹に穴を開けても3日程で回復することに2人が感心する場面がある。
そこで、山添が「すべてではないだろうけど、回復させる力がぼくらにはあるんですね」(P.266)と発言する。
この言葉には、単なる身体的な回復だけでなく、人生において困難に直面しても、それを乗り越える力が人間には備わっているというメッセージが込められているように感じられる。
㉙『家長の心配』(小説) フランツ・カフカ 青空文庫より
(あらすじ)
「オドラデク」という生物がいる。
名前の起源も、生態も、声や姿形ですら、全てが謎に満ちているそいつは、度々主人公の家にやってきては、特に何かするでもなくじっとしている。
何かの役に立ちそうでもなく、害をなすわけでもない。
そんな不思議な生物に、主人公が抱いている思いとは。
(考察)
本作では、「オドラデク」という謎の生物が登場する。それは一見すると平たい星形の糸巻のようなもので、星形の中央から小さな棒が1本突き出し、さらにもう1本の棒と合わせて直立する組み立て品だ。外見は単純だが、捕まえることができないほど素早く、屋根裏部屋や階段、廊下、玄関などを転々と移動する姿が描かれている。その挙動や存在感は、座敷わらしや幽霊のように、どこか不気味で捉えどころがない。
この生物は、主人公自身の内面を象徴しているのではないかと考える。オドラデクの姿形はあるが、その実態を正確に把握することができない。読者それぞれがその特徴を聞いて、自由にその姿を想像していくように、主人公も自分自身の精神を捉えきれずにいると考える。この点から、オドラデクは主人公の内面的な曖昧さ、あるいは不確かな精神状態を象徴していると言える。つまり、主人公が抱える思想や主義、その根底にある無気力さや空虚さを表現していると考える。
例えば、作中の「いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。」という言葉に着目すると、カフカがダーウィニズムを信奉する無神論者であったことを考えると、オドラデクは名前もなく具体的な形も持たない、自分の思想や主義を体現している存在とも解釈できる。
さらに、「それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。」という言葉からは、肉体は滅びても精神は生き残るといった、思想や主義の象徴である可能性が浮かび上がる。
このように、オドラデクという謎の生物を通して、主人公が自分の存在意義や目的に対する疑問を抱えていること、そしてそれが物語全体に流れるテーマの1つであると考える。
㉚『つみきのいえ』(映画) 監督:加藤久仁生 2008年
(あらすじ)
水に沈みかけた街で孤独に暮らす老人。彼の家は水面が上昇する度に上へ上へと、積み木を重ねるように伸びていく。彼はなぜひとりで暮らしているのか、徐々に解き明かされる物語。
米国アカデミー賞短編アニメーション賞、アヌシー国際アニメーション映画祭アヌシー・クリスタル賞(最高賞)、広島国際アニメーションフェスティバル広島賞、観客賞などを受賞。
(考察)
本作は、スケッチノートのような少しザラついた紙に、色鉛筆や絵の具で描いたような柔らかな線と色合いが特徴である。
作品は、ワンルームの部屋に1人の老人が椅子に腰をかけており、壁一面に貼られた奥さんとの写真を眺めるところから始まる。
常に水の音がするが、水以外の音がしない世界の静けさに老人の孤独が表現されていると考える。
場面は変わり、ある朝床が水浸しになってしまう。これは水面の上昇によるもので、老人はレンガを使って手作業で新しい階を作っていく。
ある日、老人が愛用していたキセルを水の中に落としてしまい、ダイバーの服を着て水中に潜っていく。
そして、潜って下の階に行く毎に、奥さんや家族との記憶が蘇っていく。しかしその人たちはもう居ない。病気なのか、どこか遠くへ行ってしまったのか、この水の世界に呑まれたのか理由は分からない。家は高く、高く積まれており、地面を駆け回ることも、木を見ることも、鳥が羽ばたくことも見ることは出来ない。何も無い水上の世界では、新たな生命の芽生えや成長はない。
しかし、この家は生きている。男が家の階を増やすことで、この家で培われた思い出は生き続ける。
このことから、男が家を改修し続けていくのは、家族との思い出を生かし続けるためだと考える。
(あらすじ)
魔法が当然のものとして使用される魔法界に、唯一魔法が使えない男、マッシュ・バーンデッドがいた。魔法に匹敵する力を持つため、彼は人目のつかない森の奥で、日々筋トレに取り組んでいた。家族との平穏な暮らしを望む彼だったが、ある日、突然命を狙われ、なぜか魔法学校に入学し、トップである「神覚者」を目指すことに。鍛え抜かれたパワーがすべての魔法を粉砕する、アブノーマル冒険ファンタジー。
(考察)
最近の作品では、能力の「引き算」が物語に新しい面白さを生み出していると考えられる。主人公にあえて欠けた要素を持たせることで、従来の「何でもできる超人」像とは異なる、困難に立ち向かう姿を描いている。
たとえば、本作では魔法が一切使えない主人公が登場する。彼は魔法が使えない代わりに、筋力トレーニングに励み、最終的に魔法使い達との戦いを肉体的な力でねじ伏せていく。この展開において、視聴者たちは「主人公が魔法にどう対処するのか?」という視点から物語を楽しむことになる。魔法が使える者たちに対抗するために、主人公がどのような戦略を立て、戦いを切り抜けていくのかが、物語の重要なテーマとなる。
この手法は他作品にも見られる。たとえば『僕のヒーローアカデミア』では、世界の8割が特殊な能力「個性」を持つ中で、主人公は「無個性」として描かれている。彼は能力がないというハンデに直面しながらも、ヒーローになることを目指し、数々の試練を乗り越えていく。
このように、あえて主人公に「欠けた部分」を設定することで、物語に新たな緊張感と成長がもたらされると考える。
かつてのバトル漫画では、主人公は超人的な力を持ち、レベルアップを繰り返しながら、あらゆる困難を乗り越えていくという形式が多く見られた。
しかし、最近のバトル漫画では、主人公に何らかの欠点やハンデがあり、仲間と協力しながらその困難に立ち向かう物語が目立つようになっている。
これは、主人公の能力をあえて「引き算」して考えることで、物語に新たな視点と魅力をもたらしていると考えられる。
従来の「足し算」の成長物語ではなく、制約の中でどのように工夫し、前に進んでいくかという過程が、視聴者に新鮮な驚きや共感を与えていると考える。
⑰『天気の子』(映画) 監督:新海誠 2019年
(あらすじ)
離島の実家から家出して東京にやって来た高校生・森嶋帆高は、職探しに苦労するも、オカルト雑誌のライターという仕事にありつく。東京では何日も雨が降り続く中、帆高は弟と2人で暮らす明るい少女・天野陽菜と出会う。そして彼は、彼女が不思議な能力を持っていることに気づく。それは祈るだけで、空を晴れにできる力だった。
(考察)
本作では、街に降り注ぐ大量の雨水や、差し込む太陽光の描写は繊細かつ美しく、光と影の使い方によって水や光が立体感を持ち、線を感じさせない画力が発揮されている。これにより、自然の力が見事に表現されている。このことからも、天気が作品の中で重要な要素として扱われていることがわかる。
新海誠監督はインタビューで「天気は地球のどこでも存在し、誰もが共感できるテーマです。気象は遠く空の上で起こる、我々の手の届かない大規模な現象であるにもかかわらず、私たちの日常や気分に直接的な影響を与える個人的な出来事でもあると思います。コントロールできないほど大きな存在でありながら、私たちの心の奥深くでつながっているのです」と述べている。つまり、彼は天気という巨大で不可視な存在が、個人の内面的な感情や経験と密接に結びついている点を強調している。
この「遠く離れた誰かとつながっている」という感覚は、新海監督の作品全体に共通する特徴と言えるだろう。彼の作品では、距離的に離れていても感情や体験を通して人々がつながる瞬間が多く描かれている。そのつながりは、しばしば自然や天気といった普遍的な要素を媒介として表現される。
また、音楽を背景に物語が進行する中で、異なる時系列や場面が次々と切り替わるが、これらのシーンは一見離れているように見えて、実は深い物語の繋がりを持っている。新海誠作品における時間や空間の扱いは、登場人物同士の距離感や心の変化を巧妙に映し出しており、それが観客に多層的な感動を与えていると考える。
(参考サイト)『『天気の子』新海誠監督単独インタビュー 「僕たちの心は空につながっている」』https://weathernews.jp/s/topics/202012/240115/(最終閲覧日2024/8/26)
⑱『ショーシャンクの空に』(映画) 監督:フランク・ダラボン 1995年
(あらすじ)
妻とその愛人を射殺したかどで刑務所送りとなった銀行員。初めは戸惑っていたが、やがて彼は自らの不思議な魅力で、すさんだ受刑者達の心を掴んでゆく。そして20年の歳月が流れた時、彼は冤罪を晴らす重要な証拠をつかむ。
(考察)
本作は囚人たちが抱く「希望」や「自由」が、彼らの生き方にどのように影響するかを描いている。エリス・ボイド・“レッド”・レディングは、長年の監獄生活によって「シャバ」を恐れるようになった。これをレッドは「施設慣れ」と呼び、終身刑が囚人を精神的に蝕み、外の世界での生活に適応できない状態になったことを指す。
例えば、仮釈放されたブルックスは、長年の刑務所生活から釈放されるも、社会に馴染めず、ついには自ら命を絶ってしまった。このように、刑務所内での希望はむしろ危険であり、場合によっては自殺に繋がるというレッドの見解は説得力がある。
作品を通して、レッドの視点は一貫して「外の世界」への不安を示し、刑務所に留まることへの安全志向が強調されている。
一方で、アンディー・デュフレーンは異なる見方を持っている。彼は「希望は永遠の命」という言葉にあるように、外の世界に出て、知らなかったことを知ることに生きる希望を見出している。
このように、レッドとアンディーの希望に対する見解は、対照的なものとして描かれている。レッドにとって希望は危険なものであり、「死」を意味するが、アンディーにとっては希望こそが生きる意味そのものであり、「永遠の命」となっている。
この対比は、作品全体を通じて「希望」と「生死」が重要なテーマとして表現されていると考える。
⑲『そして誰もいなくなった』(小説) 著者:アガサ・クリスティ 訳者:福田逸 新水社 1984年
(あらすじ)
とある孤島に招き寄せられたのは、たがいに面識もない、職業や年齢もさまざまな十人の男女だった。だが、招待主の姿は島にはなく、やがて夕食の席上、謎の声が、彼らの過去の犯罪を暴き立てる。そして無気味な童謡の歌詞通りに、彼らが一人ずつ殺されてゆく、推理小説。
(考察)
本作は、絶海の孤島に閉じ込められた10人が、童謡「十人の兵隊さん」の歌詞通りに次々と命を落としていくという、物語となっている。
この物語の特徴は、童謡に忠実に再現される殺人だ。犯人である元判事のウォーグレイヴは、1つの作品を完成させるかのように、一人ひとりを童謡の歌詞に対応させて殺害していく。このことからウォーグレイヴの計画は、単なる復讐劇ではなく、「完全な犯罪」というテーマに執着していると考える。彼は、生き物の命を奪うことに強い執着を抱き、法廷では罪人に死を宣告することで、その喜びを味わってきた。判事としての「正義」が、生命を奪うことへの強い執着に取り込まれ、極端な殺人の形式になっていると考える。
また、本作が戯曲形式であることも、物語の冷酷さを際立たせていると考える。登場人物たちの感情はあまり描写されず、出来事が淡々と進行するため、感情移入することが難しい。そのため、読者は純粋に事件そのものに注目させられる。これによって、読者は登場人物の恐怖や絶望よりも、出来事の冷徹さに目を向けさせられ、物語全体が不気味な冷酷さで包まれていると考える。
このことから、ウォーグレイヴの犯行は単なる殺人事件を超えた「死の芸術」であり、冷徹なまでに計画された舞台で人々が命を落としていく様子は、読者に強い衝撃を与えるものとなっている。彼の「正義」や「罪」に対する執念が、物語全体を通じて究極的なテーマとして描かれていると考える。
⑳『真実』(映画) 2019年 監督:是枝裕和
(あらすじ)
世界中にその名を知られる、国民的大女優ファビエンヌが、自伝本「真実」を出版。海外で脚本家として活躍している娘のリュミール、テレビ俳優として人気の娘婿、そのふたりの娘シャルロット、ファビエンヌの現在のパートナーと元夫、彼女の公私にわたるすべてを把握する長年の秘書。“出版祝い”を口実に、ファビエンヌを取り巻く“家族”が集まるが、全員の気がかりはただ一つ。「いったい彼女は何を綴ったのか?」
そしてこの自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された、愛憎うず巻く心の影を露わにしていく。
(考察)
まず、自伝本に綴られた“嘘”について、自伝本では、ファビエンヌが良き母として描かれている。しかし、実際は俳優業に専念していたため、娘の世話にはあまり関わっていなかった。
一方、自伝本に綴られなかった“真実”は、ファビエンヌがリュミエールの劇を見に行っていたこと、亡くなったライバル、サラを偲んで役をもらったことである。
綴られた“嘘”は読者にとっては“真実”である。一方、綴られない“真実”は本人以外知ることができないため、人間関係において摩擦が生じてしまう。
作中において、何が“真実”なのかは明示されない。しかし私は、親が子を思う気持ちは紛れもない“真実”であると考える。
㉑『グエムルー漢江の怪物ー』(映画) 監督:ポン・ジュノ 2006年
(あらすじ)
ソウルの中心を南北に分けて流れる雄大な河、漢江。ある日、突然正体不明の巨大怪物<グエムル>が現れた。河川敷の売店で店番をしていたカンドゥの目の前で、次々と人が襲われ、愛娘である中学生のヒョンソも攫われてしまう。さらに、カンドゥの父・ヒボン、弟のナミル、妹のナムジョのパク一家4人は、グエムルが保有するウイルスに感染していると疑われ、政府に隔離されてしまう。しかし、カンドゥは携帯電話にヒョンソからの着信を受け、家族と共に病院を脱出し、ヒョンソを救うため、漢江へと向かう。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は、韓国の社会的な構造からである。
本作は、2000年に在韓米軍の人間がホルムアルデヒドを漢江に流したという、実際の事件を参考にしている。
これは、「第五福竜丸事件」などの被爆事件から着想を得た『ゴジラ』の設定に近く、大国アメリカの傲慢さや、その力に支配されている自国の問題という、社会的なテーマが浮かび上がってくる。
また、韓国は、1960年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げてきたが、2000年代に入ると、雇用条件の悪化や、経済格差問題が目立つようになる。
このことから、作中で登場する「グエムル」という怪物は、人々が被る社会的な抑圧や怒りを体現したものではないかと考える。
2つ目は、ポン・ジュノ監督が映画の中で用いる“匂い”の意味である。
主人公の男・カンドゥは、愛娘であるヒョンソが目の前でグエムルに襲われ、連れ去られてしまう。
そんなカンドゥを見たヒボン(カンドゥの父)は、「子を失った親から漂う匂い」がすると言う。しかし、その匂いは他の人には分からない。匂いとは嗅覚を通して、記憶に残り、その人を印象づけるものだと考える。
このことから、ポン・ジュノ監督が表現する“匂い”とは、個人の拭いきれない過去や存在そのものを象徴するものとして機能しているのではないかと考えた。
(参考サイト)『【解説】映画『グエムルー漢江の怪物ー』にみる格差社会と、怪物の正体とは? 』https://cinemore.jp/jp/erudition/1201/article_1202_p1.html(最終閲覧:2024/9/16)
㉒『マスク』菊池寛 1920年 青空文庫より
(あらすじ)
見かけは頑健に思われているが、実は心臓も肺も、胃腸も弱い。そんな自分に医者は「流行性感冒にかかったら、助かりっこありません」と言う。だから、徹底的に感染予防に努めた。でも暖かくなったある晴れた日に、黒いマスクの男を見かけると、嫌悪感を抱くようになる。
(考察)
本作の状況は、現代のコロナ禍における、人々の心象と重なっていると考える。流行性感冒が流行し、主人公は外出をできるだけ控えるようになる。そして外に出る際には、ガーゼをたっぷりと詰めたマスクを装着する。また、友人が40度の熱を出したことを知り、死に怯える。この恐れは、ウイルスが目に見えないものでありながら、常に身近に潜む脅威であることを示している。
その後、流行が収まった後も、主人公はなおもマスクを着用し続ける。ここで重要なのは、マスクが防護具以上の意味を持ち始めている点だ。同じようにマスクをしている人を見ると、主人公は仲間意識や誇りを感じる。マスクは個人の意思や信念を象徴するものとなり、共通の経験をする人々との繋がりを強調する。
しかし、時が経つにつれ、主人公もマスクを外すようになる。その一方で、まだマスクを着けている人を見ると、今度は不快に感じるようになる。この変化は、自己本位的な心情が反映されており、かつて共感していた行為が、今では疎ましく感じられるという複雑な心理を表している。これは、人間の信念や感情が状況に応じて流動的であり、他者への視点が自己の立場に大きく影響されることを表現している。
最後に、自分の信念を強く貫く他者との対立が浮かび上がる。自己の考えに固執する人物に対して、主人公は圧迫感を覚える。これは、異なる価値観を持つ他者との関係において、人が感じる葛藤や摩擦を象徴している。
これは、他人にマスクを強要する「マスク警察」の片鱗が現れていると考える。本作では、現代でも普遍的な感染症下の同調圧力の問題が描かれていると考える。
㉓『桜の樹の下には』梶井基次郎 1931年 青空文庫より
(あらすじ)
不思議な生き生きとした美しい満開の桜を前に、逆に不安と憂鬱に駆られた「俺」は、桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。
(考察)
この作品では、桜の生き生きとした美しさと、土の中に埋められた屍の生々しさを対比させている。例えば「桜の樹の下には屍体が埋まっているが、桜の花は見事に咲いている。」という対比は、桜の美しさが際立つほど、同時に屍の存在が強く浮かび上がる。
また、屍体から出る液体が、桜の美しい花弁や蕊を形成しているというイメージも印象深く、生死の循環をえがくことで生命と死の密接な関係を表現していると考える。
さらに、「俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」という一節からは、桜と屍体の対比にあるように、比較する対象があるからこそ、物を美しいと思える心があることを実感できる、逆説的な心の複雑さを表現していると考える。
本作は、その短さにもかかわらず、圧倒的な表現力を持ち、桜の美しさの裏に潜む死の存在を通して、人間の心の複雑な感情を表現していると考える。
㉔『岸辺のふたり』(アニメ) 監督:マイケル・デュドック・デ・ヴィット
(あらすじ)
海沿いの土手を、横並びで自転車を走らせる、仲睦まじい親子。
しかし、父は海の岸辺にあったボートを使って、どこかへ行ってしまう。娘は何度もその場所を訪れ、父の帰りを待つ。
そしてある日、海の水が無くなってしまう。
月日がたち、老婆となった女の子は海の水がなくなり、草原となった場所を歩いていく。歩いていくと、そこには父が乗っていったボートがあった。ボートに横たわる女の子。しばらくして起き上がり、草むらを駆けるとどんどん若返っていき、その先には父の姿が。
最後、親子で抱きしめ合う場面で幕を閉じる。
2001年アカデミー賞短編アニメ賞、英国アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞。
(考察)
この作品は、娘から見た父の死について描かれていると考える。
冒頭の場面では、父が1度岸辺に降りるも、再度丘の上にいる娘のもとへ戻り、抱きしめてから、岸辺に降りてボートを漕いでいく。
これは、丘から海までの道が生と死の境目を表現しており、海が死の世界への道だと考えると、父と娘の死別を表現していると考える。
ボートを使うことで、突然、どこか遠くに行ってしまった感覚や、遠くに行ってしまっても、いつか戻ってくるだろうという気持ちが表現されていると考える。
そして、女の子が歳を重ねるにつれ、自転車から降りることなくただ海の向こうを眺めるようになる。これは歳を重ねることで、父の死を受け止められるようになったことを暗示していると考える。
そして最後、老婆になった女の子は、水が無くなり草むらとなった海を歩いていき、そこで父と再会する。ここでは女の子の死が連想できる。
海の水が無くなるくらいの長い年月を経て、再会できたのは、お互いが死を迎えた後であった。
このことから、本作では、長い年月が流れても親子の変わらない愛情を描き出していると考える。
㉕『怒り』(映画) 監督:李相日 2016年
(あらすじ)
ある夏の暑い日に八王子で夫婦殺人事件が起こった。現場には『怒』の血文字が残されており、犯人は行方をくらました。そして、事件から1年後、千葉と東京と沖縄に素性の知れない3人の男が現れた。殺人犯を追う警察は、新たな手配写真を公開した。その顔の特徴は、3人の男にそれぞれ当てはまるところがあった。
(考察)
本作のモデルとなったのは、「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」と、その犯人の市橋達也である。殺害した被害者を浴槽に遺棄したこと、顔を変えるために整形手術を行い、ホクロを消して唇を薄くしたこと、全国各地を逃げ回っていたことなどが、作品とリンクしている。
この作品は、千葉・東京・沖縄で起こる3つの物語が並行して進んでいく。
千葉では、漁港で働く男・洋平と、その娘である愛子が、田代という素性の知れない男に出会い、愛子と田代が恋に落ちていく。
東京では、大手通信会社に勤める優馬がハッテン場で出会った直人とともに暮らす様子が描かれる。
沖縄では、夜逃げ同然で離島に移り住んできた高校生の泉と、その同級生の辰哉が、無人島でバックパッカーの田中に遭遇する。
それぞれの場所で、謎の男との出会いがあり、周りの人物らは殺人犯ではないかと疑いながらも、ともに生活していく。
これらを踏まえ、本作における“怒り”とは、自分自身への怒りだと考える。信じていた人を守りきれなかった、信じなくてはいけない人を信じきれなかった。
例えば、辰哉は、泉が公園で米兵に強姦されているところを助けられなかった。辰哉はそれを田中にからかわれ、田中を殺してしまう。辰哉は逮捕後に「信じていたから、許せなかった」と供述した。
信じていた人に裏切られた怒りと、守るべき人を守れなかった自分への怒りが描かれている。
また、愛子はテレビのニュースで報道される男の写真と、田代の顔や仕草の特徴が一致していたことから、犯人じゃないと自分に言い聞かせていたものの、警察に通報してしまう。
2人は同棲を始めたばかりであったが、田代は家から姿を消した。愛子は泣き叫び、信じたい人を信じきれなかった自分への怒りを露わにする。
このことから、本作は、友情や愛情など、信頼のもとで成り立つ関係において、相手がもし殺人犯だったらどこまで「信じる」ことができるか、その責任や重さを描いていると考える。
(参考サイト)
『【若者に訊け】吉田修一 市橋達也事件念頭に置いた『怒り』』https://www.news-postseven.com/archives/20140223_242015.html/3
(最終閲覧:2024/09/21)
㉖『プラトーン』(映画) 監督:オリバー・ストーン 1987年
(あらすじ)
1967年、大学を中退した正義感溢れる若者が、志願兵としてベトナム戦争に従軍する。配属されたのは最前線の小隊プラトーン。そこでは冷酷非情な隊長と、無益な殺人に反対する班長が対立していた。やがて彼は戦場で、想像を絶する人間の狂気を目の当たりにすることになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は映像表現が生み出す戦争の緊迫感である。銃撃戦の場面では、1つのショットが次々と写り変わることで、銃撃戦の激しさを表現している。また、全身のショットや顔のクローズアップなどを組み合わせることで、激しくなる銃撃戦に緊迫感を覚える兵たちの心境を表現していると考える。
2つ目は、兵視点から考える戦争の意義についてである。
物語が兵視点で描かれているため、戦争に勝ったとしても、その喜びが誇張して描かれず、数多くの仲間が犠牲になった苦しみや、虚無感を演出している。
主人公のテイラーは、戦争が終わった後、以下のように語る。
「今思うと、あの時の僕らは自分自身と戦っていたんだ。敵は、僕らの心の中にいた。」
ここから、国同士の対立ではなく、同じ軍の兵同士の衝突が本作のテーマの1つであると考える。
戦争で皆が国のために一丸となって戦っているのではなく、一人一人が自分の主張や正義を持っており、仲間内でも銃口を向けあっている、前線で戦う者の現実が描かかれていると考える。
㉗『最強のふたり(吹替版)』(映画) 監督:エリック・トレダノ 2012年
(あらすじ)
パラグライダーの事故で首から下が麻痺した大富豪のフィリップ。介護人募集の面接にやってきたのは、スラム街暮らしの黒人青年ドリスだった。水と油の2人だったが、ドリスはフィリップの心を解きほぐし、固い絆で結ばれていく。
(考察)
この作品のテーマは、対等な人間関係の構築であると考える。
話の冒頭、介護者の面接にて、面接を受ける人たちは次々に「人を助けたい」「障害者の自立を支援したい」「何もできない人たちですから」と志望動機を述べていく。これらは彼らの中に障害者=何も出来ない、可哀想な人といった隠れた偏見があると考える。
健常者である自分たちが、障害者の人達に希望を与えてあげるといった、対等の意識がないと考える。
しかし、ドリスはこのような先入観を持たず、フィリップという人物そのものに目を向けていく。
これが、2人の友情の根幹にあるものだと考える。
これを象徴するのが、以下の場面だ。
フィリップの友人が、ドリスが人を殴ったと聞いて、「怪しげな人間を近づけるな。そんな状態で。」とフィリップに忠告をする場面がある。
しかし、フィリップは目をそらす。「そんな状態で」と、障害があるという理由で無力さを決めつけている友人に呆れていると考える。
そこで、フィリップはドリスの話題を出す。
「いらないよ、情けなど。あいつ、電話を差し出すんだ。うっかりとね。私に同情していない証だよ。」
このことから、ドリスが普通の人と変わらない接し方をしていることが明らかである。フィリップが求めているのは、同情ではなく、対等な人間関係である。
これらのことから、障害者に対する無意識な偏見や特別視をしないことが、相互理解と信頼を生むと考える。
相手と良好な関係を築くには、無意識な偏見の目に敏感にならなければならないことを訴えていると考える。
㉘『夜明けのすべて』(小説) 瀬尾まいこ 2020年 水鈴社
(あらすじ)
職場の人たちの理解に助けられながらも、月に1度のPMS(月経前症候群)でイライラが抑えられない藤沢は、やる気がないように見える、転職してきたばかりの山添に当たってしまう。山添はパニック障害になり、生きがいも気力も失っていた。互いに友情も恋も感じてないけれど、おせっかい者同士の2人は、自分の病気は治せなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。
(考察)
2つの観点から考察する。
1つ目は小説という形態の特徴から考察する。
本作は、PMSやパニック障害など、心の病気を持つ2人が物語の中心となっている。
例えば、藤沢さんはPMSの症状によって、小さなことで苛立ってしまい、強い口調で周りに当たってしまうことがある。
そこで「」書きの台詞のあとに、強い口調で言ってしまったことを後悔する胸の内が書かれる。表面上の言葉とは裏腹に、様々な感情や葛藤を抱えており、台詞ではなく、心の中の声が物語において重要な意味を持っている。
これは、小説という表現形式だからこそ、内面と実際にでる行動の差をテンポよく描くことができ、心の問題ならではの矛盾や葛藤が表現されていると考える。
2つ目は、本作のテーマである。
山添の発言に以下のようなものがある。「そう思うと同時に、「病気にもランクがあったんだね」という藤沢さんの言葉が頭に浮かんだ。俺は知らず知らずら自分の病気をかさに着るようになったのだろうか。まさか、本当のことなんだからしかたない。PMSよりパニック障害のほうがつらいに決まっている。いや、はたして、本当にそうだろうか。俺はPMSどころか生理のことも知らない。実際は想像以上にしんどいのかもしれない。」(P55)
この内面的な葛藤は、病気に対する主観的な視点と客観的な理解とギャップを示しており、物語の重要なテーマの一つと言える。
また、藤沢さんが虫垂炎になり、手術をした後の面会で、お腹に穴を開けても3日程で回復することに2人が感心する場面がある。
そこで、山添が「すべてではないだろうけど、回復させる力がぼくらにはあるんですね」(P.266)と発言する。
この言葉には、単なる身体的な回復だけでなく、人生において困難に直面しても、それを乗り越える力が人間には備わっているというメッセージが込められているように感じられる。
㉙『家長の心配』(小説) フランツ・カフカ 青空文庫より
(あらすじ)
「オドラデク」という生物がいる。
名前の起源も、生態も、声や姿形ですら、全てが謎に満ちているそいつは、度々主人公の家にやってきては、特に何かするでもなくじっとしている。
何かの役に立ちそうでもなく、害をなすわけでもない。
そんな不思議な生物に、主人公が抱いている思いとは。
(考察)
本作では、「オドラデク」という謎の生物が登場する。それは一見すると平たい星形の糸巻のようなもので、星形の中央から小さな棒が1本突き出し、さらにもう1本の棒と合わせて直立する組み立て品だ。外見は単純だが、捕まえることができないほど素早く、屋根裏部屋や階段、廊下、玄関などを転々と移動する姿が描かれている。その挙動や存在感は、座敷わらしや幽霊のように、どこか不気味で捉えどころがない。
この生物は、主人公自身の内面を象徴しているのではないかと考える。オドラデクの姿形はあるが、その実態を正確に把握することができない。読者それぞれがその特徴を聞いて、自由にその姿を想像していくように、主人公も自分自身の精神を捉えきれずにいると考える。この点から、オドラデクは主人公の内面的な曖昧さ、あるいは不確かな精神状態を象徴していると言える。つまり、主人公が抱える思想や主義、その根底にある無気力さや空虚さを表現していると考える。
例えば、作中の「いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。」という言葉に着目すると、カフカがダーウィニズムを信奉する無神論者であったことを考えると、オドラデクは名前もなく具体的な形も持たない、自分の思想や主義を体現している存在とも解釈できる。
さらに、「それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。」という言葉からは、肉体は滅びても精神は生き残るといった、思想や主義の象徴である可能性が浮かび上がる。
このように、オドラデクという謎の生物を通して、主人公が自分の存在意義や目的に対する疑問を抱えていること、そしてそれが物語全体に流れるテーマの1つであると考える。
㉚『つみきのいえ』(映画) 監督:加藤久仁生 2008年
(あらすじ)
水に沈みかけた街で孤独に暮らす老人。彼の家は水面が上昇する度に上へ上へと、積み木を重ねるように伸びていく。彼はなぜひとりで暮らしているのか、徐々に解き明かされる物語。
米国アカデミー賞短編アニメーション賞、アヌシー国際アニメーション映画祭アヌシー・クリスタル賞(最高賞)、広島国際アニメーションフェスティバル広島賞、観客賞などを受賞。
(考察)
本作は、スケッチノートのような少しザラついた紙に、色鉛筆や絵の具で描いたような柔らかな線と色合いが特徴である。
作品は、ワンルームの部屋に1人の老人が椅子に腰をかけており、壁一面に貼られた奥さんとの写真を眺めるところから始まる。
常に水の音がするが、水以外の音がしない世界の静けさに老人の孤独が表現されていると考える。
場面は変わり、ある朝床が水浸しになってしまう。これは水面の上昇によるもので、老人はレンガを使って手作業で新しい階を作っていく。
ある日、老人が愛用していたキセルを水の中に落としてしまい、ダイバーの服を着て水中に潜っていく。
そして、潜って下の階に行く毎に、奥さんや家族との記憶が蘇っていく。しかしその人たちはもう居ない。病気なのか、どこか遠くへ行ってしまったのか、この水の世界に呑まれたのか理由は分からない。家は高く、高く積まれており、地面を駆け回ることも、木を見ることも、鳥が羽ばたくことも見ることは出来ない。何も無い水上の世界では、新たな生命の芽生えや成長はない。
しかし、この家は生きている。男が家の階を増やすことで、この家で培われた思い出は生き続ける。
このことから、男が家を改修し続けていくのは、家族との思い出を生かし続けるためだと考える。
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