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3年 北郷未結
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①『ステップ』(映画) 監督:飯塚健 2020年
(あらすじ)
健一はカレンダーに“再出発”と書き込んだ。始まったのは、2歳半になる娘・美紀の子育てと仕事の両立の生活だ。結婚3年目、30歳という若さで妻を亡くした健一はトップセールスマンのプライドも捨て、時短勤務が許される部署へ異動。何もかも予定外の、うまくいかないことだらけの毎日に揉まれていた。そんな姿を見て、義理の父母が娘を引き取ろうかと提案してくれたが、男手一つで育てることを決める。妻と夢見た幸せな家庭を、きっと天国から見ていてくれる彼女と一緒に作っていきたいと心に誓い、前に進み始めるのだ。保育園から小学校卒業までの10年間。子供の成長に、妻と死別してからの時間を噛みしめる健一。そんな時、誰よりも健一と美紀を見守り続けてくれていた義父が倒れたと連絡を受ける。誰もが「こんなはずじゃなかったのに」と思って生きてきた。いろんな経験をして、いろんな人に出会って、少しずつ一歩一歩前へと踏み出してきた。健一は成長を振り返りながら、美紀とともに義父の元に向かう。そこには、妻が残してくれた「大切な絆」があった。大切なものを失った人たちの“10年間の足跡”を描く。
(考察)
この作品では、変わる環境の中でも、変わらないものもあることがテーマであると考える。このテーマは、編集や登場人物の言葉から考えることができる。
まず、編集では、同じ構図からのカット「同ポジション」が多用される。例えば、美紀の幼稚園時代の通学路の坂を映すカットや、ハンバーグをこねる親子を昔の親子と重ねるカットが挟み込まれている。坂やキッチンの外観は変わらないが、人だけが成長している。この表現は、普段の日常の中で、少しずつ成長していく親子を表現していると考える。
次に、登場人物の言葉から考察する。健一は、営業開発の会議における案出しの場面にて、「家庭とは変わり続ける場所」という発言をする。朋子の父である村松は、再婚に悩む健一に「家族だってリフォームすればいい」という言葉を投げかける。私はこの言葉から、家庭をすべて変えるのではなく、既存のものに付け加えることで1部を新しくし、家族の絆を繋いでいく、という解釈をした。本作の場合であれば、奈々恵との再婚である。朋子の存在(絆)はそのままに、奈々恵が家庭に加わることで、新しい家族の絆が構築されていく。
また、『ステップ』の原作者である、重松清は映画化においてのインタビューで、自身の作品について以下のように語る。
「家族って、決してまん丸な満月ではないと思うんです。みんなちょっとずつ何かが欠けていたり、足りなかったり、失われていたり、思い通りにならなかったりするけれど、それを補ってくれる誰かがいる。そのことを信じていいんだと教えてくれるベースキャンプが、親子や夫婦だと思うんです。」
家族の形はそれぞれで、不完全だからこそ、支えてくれる人を大切にし、信頼することで、温かみのある絆が築かれていくと考える。
さらに、重松は「「はじまり」の物語を書きたかった」とも語っている。
作中では、妻が亡くなり、幼い子どもを1人手で育てることに限界を感じ、弱音を吐く健一が多く描かれる。その中でも、義父母や幼稚園の先生に支えられ、必死に子どもと向き合い、家事も仕事もこなしていく。
健一の「悲しさや寂しさは乗り越えるものではなく、付き合っていくもの。」という言葉にあるように、再出発には、過去を受け止め、未来に向かっていく力、またその時に寄り添ってくれる相手がいることが大切であると、この作品は訴えていると考える。
(参考サイト) 『2020映画『ステップ』制作委員会「映画「ステップ」公式サイト|大ヒット上映中!」』https://step-movie.jp/ (最終閲覧2024/8/16)
②『告白』(映画) 監督:中島哲也 2010年
(あらすじ)
ある中学校で、1年B組の担任・森口悠子は、生徒を前にして、自分の娘が学校で死亡したのは警察が断定した事故死ではなく、この組の生徒に殺されたのだと告白する。そして自らの手で仕返しをすると宣言して学校を辞め、後任で熱血教師“ウェルテル”がやってくる。「生徒に娘を殺された」という森口悠子の告白からはじまり、殺人事件に関わった登場人物たちの独白形式で構成される物語。
(考察)
映画で用いられている映像表現から、視聴者に与える影響について4つの観点から考察していく。
1つ目は語り手である。
この作品では、事件に関わった登場人物の視点から物語が語られていく。その手法は「告白」という形式をとり、同じ事件が複数の視点から語られることで、物語に多層的な深みを持たせている。語り手の順番は、被害者である森口悠子から始まり、次第に加害者たちへと移行していく。具体的には、森口悠子→北原美月→下村優子→渡辺修哉→下村直樹の順番で、それぞれの立場から語られることで、事件が持つ様々な側面が浮き彫りになっていく。特に、一人称で語られることで、登場人物がその瞬間に抱いた感情や葛藤が生々しく描かれていく。残酷な殺人事件であっても、異なる視点を重ねることで、単なる残虐性だけでなく、人間が抱える複雑な心理や倫理観の揺らぎが鮮明に描き出されている。この語り手の変化は、物語全体の構造を通して、読者に事件の多面性と、その背後にある人間性を問いかける重要な要素となっていると考える。
2つ目は音楽(BGM)である。この作品における音楽(BGM)の存在は、物語の異質さを際立たせている。作中で使用される挿入歌は19曲にも及び、その多くが洋楽である。特に注目すべきは、曲調が物語の内容と大きく乖離している点だ。穏やかな曲調が、残酷な場面と組み合わさることで、異様なギャップを生み出し、作品全体に独特な不気味さを与えている。
例えば、クラスメイトが渡辺修哉を虐めていることを、先生にチクったとして、北原美月がリンチを受ける場面がある。クラスメイトがそろって美月を突き飛ばしたり、暴言を吐いて追い詰める中、BGMではPoPoyansの「When the owl sleeps」が流れる。歌詞がついているため、視聴者はこのBGMを完全に無視することはできない。女性の優しくて静かな歌声と、画面の暴力性が衝突し、どことなく気持ち悪さを覚える。この気持ち悪さは、渡辺修哉に殺人者のレッテルを貼り付け、殺人者への虐めは正統であるとでも言わんばかりに、限度を超えた虐めをするクラスの曲がった正義感を表現していると考える。本作においてBGMは、画面とのギャップを生み出すことで、物語の道徳的な複雑さを際立たせていると考える。
3つ目は、ケータイやネットの掲示板が多用されている点である。
本作では、現代社会におけるコミュニケーション手段として、ケータイやインターネットの掲示板が頻繁に登場している。犯人探しのメールのやり取りや、辱めの写真の拡散、掲示板への匿名投稿などが描かれることで、匿名性がもたらす罪意識の希薄さや、陰湿な虐めが強調されている。そして、ネット上での情報の拡散は現実世界の人間関係にも影響を及ぼし、登場人物たちの行動に一層の残虐性を与えている。このような要素が、物語に現代性をもたらし、現代の問題としてのいじめや暴力の陰湿さを浮き彫りにしていると考える。
4つ目は血の描写である。
血の描写が象徴的に用いられる点も、この作品の大きな特徴である。特にスローモーションで表現される血の演出は、視覚的にも強烈であり、残虐性だけでなく、差別や偏見をも象徴していると考えられる。
例えば、給食の牛乳に血が混ぜられていることを、視覚的に表現するため、白の画面に1滴の赤い液体が落とされる画面が挿入される。赤い液体は徐々に広がり、スローモーションで白い液体に溶け込んでいく。このシーンは、単なる衝撃的なビジュアルとしてだけでなく、血というものが持つ「汚染」や「他者との隔絶」の象徴として機能していると考える。また、下村直樹が母親を切りつけるシーンでも、スローモーションで血しぶきが空中に舞い上がる。このスローモーションは、血のリアルさを強調しつつ、視聴者に残酷な行為の背後にある感情的な重さや社会的な偏見を思い起こさせる効果があると考える。
このように、血の描写は単なる暴力の表現にとどまらず、差別や偏見の象徴としても機能し、血が持つ象徴性を通じて、登場人物たちが抱える苦悩や、社会の中での異物感がより一層鮮明に描かれていると考える。
以上の4つの点から、本作は視聴覚の表現を用いて、あえて視聴者に不快感を感じさせることで、作品の残虐性や道徳観の歪みを強調していると考える。
③『家族シネマ』柳美里 1999年 講談社文庫
(あらすじ)
バラバラになった家族が20年ぶりに再開し、失われた家を求めて、映画出演を決めた、家族を描いた物語。
(考察)
本作では、すでに崩壊している家族が、映画の撮影という作られた世界観の中で、良き“家族”を演じる姿が描かれている。この設定は、家族という本来の絆が失われ、単なる「演技」としての関係性が強調する。
たとえば、P.60で「既に調教済みのラブラドルレトリバーのように母の声に敏感に反応するしかないのだ。割れてしまった家族のレプリカじゃないか、そう呟いてバスルームに向かった。」と描かれるシーンでは、家族が既に崩壊しており、その関係は表面的なものでしかないことが表現されている。このことから、家族は「レプリカ」に過ぎず、本物の絆は存在しないことが暗示されていると考える。
さらに、P.79では「私と妹は小さいころから、ママみたい、という言葉を使って互いを貶し合った。」という描写がある。ここでは、家族間のコミュニケーションが歪んでおり、愛情や理解ではなく、憎しみや軽蔑が根付いていることが表現されていると考える。
また、P.87でも「父の暴力、母の性的な放埒さがもたらした恥辱にも、私たちは何とか耐えてきたのだ。…私も弟も妹もしっかりと植えつけられた父と母への憎しみを外へ向けるしかなかったのだ。」とあり、家族が一体感を失い、それぞれが個別に憎しみを抱え、それを外へ向けることで辛うじて耐えている状況が描かれている。ここで強調されているのは、教育や育成というよりも、支配と抑圧がもたらす憎しみの感情だ。家族間の繋がりは希薄で、撮影以外ではまともにコミュニケーションが取れず、再生不可能な関係性が浮き彫りにされていると考える。
このように、映画の撮影という表向きの「演技」と、実際の家族関係との間に大きな隔たりがあることが描かれている。登場人物らの心理描写も少ないことから、誰も心を開いておらず、どこか壁がある関係性を描いている。
このことから、この作品では、家族間の束縛によって憎しみがうまれ、根付いた憎しみが関係の修復を拒否している様子が描かれていると考える。
⓸『ALWAYS三丁目の夕日』(映画) 監督:山崎貴 2007年
(あらすじ)
西原良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした映画である。
昭和33年、東京下町の三丁目。ある日鈴木則文が営む自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で上京した六子がやってくる。しかし、思い描いていた東京で働くイメージとのギャップに、少し落胆してしまう。その鈴木オートの向かいにある駄菓子屋の店主で、しがない小説家の芥川竜之介。彼は一杯飲み屋のおかみ・ヒロミのもとに連れてこられた身寄りのない少年・淳之介の世話をすることとなった。
(考察)
この作品では、昭和のノスタルジーな町空間が広がっている。木造の家に、子どもたちが集まる駄菓子屋、タバコ屋、自転車で配達をする蕎麦屋の従業員など、現在では見かけなくなってしまった風景に、懐かしさを覚える。また、鈴木家が三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)を揃えて喜ぶ場面など、昭和30年代を象徴する描写に溢れおり、生き生きとした暮らしが描かれている。
また、特徴的なのは、家族間を越えて町全体で共同生活を送っている点である。家に鍵が付いていない、玄関に扉がない引き戸など、誰でも他所の家に簡単に上がり込むことができる。他所の家にそのまま入り込んで挨拶するなど、他者との隔たりが少ない、集団的な暮らしが描かれている。個人的で閉鎖的な現代の家族像と比較して、集団的で開放的な昭和の家族像が描かれており、時代に即した家族の形をみることができる。
そして最後は、皆がそれぞれの場所で夕日を眺める場面で幕を閉じる。この作品では、昭和のノスタルジーと家族の温かさが、美しい夕日で象徴されており、「懐かしさ」「温かさ」が普遍的なものであることを表現していると考える。
⑤『コンビニ人間』(小説) 村田沙耶香 2018 文春文庫
(あらすじ)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏無しの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってくる。第155回芥川賞受賞作品。
(考察)
この小説の特徴は2つあると考える。
1つ目は、視聴覚に訴える描写が多いことだ。店舗に並ぶ商品の彩りや、商品をかごにいれる音など、主人公がコンビニで働く中で見て感じた世界が、そのまま読者に共有されていく。普段私たちが気にしないコンビニの風景や音が鮮明に描かれていることから、主人公はコンビニという場所を自分の居場所や生きがいとして捉え、より魅力的な場所に見えていると考える。
2つ目は、主人公の視点を通して描かれる、現代社会の生きづらさである。
主人公の古倉は幼少期から変わり者で、周りの人の振る舞いを真似することで「普通」で「正常」な人になりきっていた。コンビニ店員として普通に働くことができるのも、マニュアルによるものであり、マニュアル外になると、普通の人間になることが難しい。
自分は普通の人間だと思っていても、周りから見て変であれば、変わり者として扱われてしまう。しかし、どこが変であるかは自分には分からない。これは、マイノリティへの理解が不十分で、表面的な多様性を掲げる現代社会を象徴していると考える。
また、固定観念が拭いきれていない現代社会の特徴も表現されている。
35歳の新人アルバイト・白羽の不真面目な勤務態度を見た店長は、「人生終了だよな。だめだ、ありゃ。社会のお荷物だよ。人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に所属するのが義務なんだよ」(P.66)と語る。
これは、社会的なものに属すことが、その人の「人間」としてのアイディンティティを確立させる、という社会の根底にある固定観念を表現していると考える。
また、白羽の言葉に、「…現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」(P.92)というものがある。
これらの表現から、多様性を謳う現代でも、その根底には「普通」や「正常」といった判断軸があるという、矛盾した社会を表現していると考える。
⑥『水を縫う』(小説)寺地はるな 2020年 集英社
(あらすじ)
主人公は松岡清澄、高校一年生。 一歳の頃に父と母が離婚し、祖母と、市役所勤めの母と、結婚を控えた姉の水青との四人暮らしをしている。 いつまでも父親になれない夫と離婚し、必死に生きてきたけれど、息子の清澄は扱いづらくなるばかり。 そんな時、母が教えてくれた、子育てに大切な「失敗する権利」とは。
(考察)
この小説では、章ごとに語り手が変わり、複数の視点から物語が展開される。第1章は清澄、第2章は姉の水青、第3章は母、第4章は祖母、第5章は元父の同僚・黒田、第6章は再び清澄の視点で語られる。こうした視点の交代によって、各キャラクターの内面やその背景にある出来事が多面的に描かれていく。特に、家族という親密な関係を通じて、性別に関する固定観念がどのように形成され、それぞれの人生に影響を与えているかが浮き彫りにされる。
まず、清澄のエピソードからは、性別にとらわれない価値観を模索する姿が描かれている。彼は裁縫や料理が得意であり、クラスメイトから「女子力が高い」と評価されるが、これに対して清澄は、「調理や裁縫に長けていることは、性別を問わず生活力と呼ぶべきではないか」と反論する(P.21)。この発言は、社会が性別に基づいて特定のスキルや特質を価値づけることへの疑問を投げかけており、清澄はそれを超えて自らのアイデンティティを築こうとしている。この考え方は、現代のジェンダー論においても重要なテーマであり、固定観念に縛られない個の尊重を強調していると考える。
一方、姉の水青のエピソードでは、性別による被害とそれが心理的に及ぼす影響が描かれている。彼女は小学6年生のときに、夜道でスカートを切られる事件を経験し、その後「かわいい服」を避けるようになった。この出来事が、担任教師の「オンナノコオンナノコした服」(P.59)という発言と結びつき、水青の中で「かわいい」という言葉に対する不信感と嫌悪感が芽生えてしまう。このエピソードは、社会が女性に対して抱く期待や規範が、いかに個々のアイデンティティ形成に影響を及ぼすかを考えさせる。特に、外見や装いに関するジェンダーの規範が、どのように女性の自己認識を歪めるかが表現されていると考える。
母と祖母のエピソードもまた、性別役割に対する不満を象徴している。母は、「子どもに無償の愛を注ぐことができる」という母親像に疑問を抱き、理想的な母親像に対して強い違和感を感じている。これは、母親としての自己を絶対的なものとして捉えず、むしろそれに対する違和感や葛藤を認める姿勢を示しており、伝統的な母親像に縛られない新たな母性の在り方を提示していると考える。
さらに、祖母のエピソードでは、幼少期に父親から「女は男には力ではかなわない」(P.146)という言葉を聞かされたり、結婚後、夫より稼ぐことに対して顔をしかめられる経験を持つ祖母は、「男だから、女だからと制限されない時代を子や孫には生きてほしい」と願っている(P.147)。この願いは、祖母が自身の経験を通して見出したものであり、性別役割に縛られない自由な生き方への渇望が表れている。
最後に、元父・全の言葉に影響を受けた清澄のエピソードは、人生の流動性とそれに対する個人の対応の重要性が描かれている。元父は「流れる水は淀まない」と語り、動き続けることの大切さを説く(P.223)。これを受けた清澄は、「川は海へと続いている。流れる水は、ほんとうに海にたどりつけるのかと心細く思ったりしないのだろうか」と考えながらも、「また針を動かす」(P.233)と決意する。ここでは、未来が不確実であっても、自分の好きなことや感性を大切にし、前進することが重要であると清澄は理解している。彼の姿勢は、人生が逆境に満ちていても、自分なりの道を進むことが未来への可能性を切り開くことを示している。
このように、この小説は各キャラクターの視点を通して、性別に基づく固定観念や社会的役割に対する挑戦を描き出している。それぞれの人物が直面する困難とその対処法は、現代社会におけるジェンダーに関する議論を深めるための重要な示唆を提供していると考える。
⑦『ALWAYS続・三丁目の夕日』(映画) 2007年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和34年の春、日本は東京オリンピックの開催が決定し、高度経済成長期時代を迎えようとしていた。そんな中、東京下町のの夕日町三丁目では、茶川が黙って去っていったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。そこへある日、淳之介の実父である川渕が再び息子を連れ戻しにやって来る。そして、人並みの暮らしをさせることを条件に改めて淳之介を預かった茶川は、安定した生活と共にヒロミへ1人前の自分を見せられるよう、“芥川賞”の夢に向かって執筆を始める。一方、経営が軌道に乗り始めていた鈴木オートでは、事業に失敗した親戚の娘・美加をしばらく預かることになった。
(考察)
本作では、昭和時代の文化の広がりによって、人々の生活や心に与えた影響について描いていると考える。
例えば、六子が友達と映画を見に出かける場面には、その時代特有の娯楽の広がりが感じられる。映画館に貼られたポスターには、「男はつらいよ」や「七人の侍」といった日本映画史に残る名作が並び、人々の生活に文化的な豊かさが加わっていたことがうかがえる。
また、文学が与える心理的な影響については、茶川が書いた『踊り子』が表現している。『踊り子』は、茶川がヒロミをモデルとして、ヒロミへの想いを描いた作品となっている。芥川賞を取るには至らなかったが、ヒロミには深く響き、芥川と共に生きる道を選ぶ決め手となった。また、街の人々も全員『踊り子』を呼んで降り、「泣けた」「心がぎゅっとなった」と、茶川に感想を述べていく。このことから、茶川の作品が人々の心に深く響いていることが分かる。
そして、最後の場面で、茶川とヒロミ、淳之介の3人が夕方の買い物帰りに夕日を見て、口々に「綺麗」と言うなかで、ふと淳之介が「3人で見てるから綺麗なんだよ」と言う。
このことから、文学は人々の心に深く入り込み、家族や愛の本質を探求する手段として重要な役割を果たしていると考える。
この作品を通して、家族とは、単に血縁関係に基づくものではなく、辛い時も楽しい時もその気持ちを共有し合う、シンプルでありながらも奥深い関係性であると考えた。このような昭和の時代の家族や地域社会のあり方が、現代においても見習うべきものではないかと考える。
⑧『ALWAYS三丁目の夕日'64』(映画) 2012年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和39年。東京は念願のオリンピック開催を控え、ビルや高速道路の建設ラッシュで熱気にあふれていた。そんな中、東京の下町、夕日三丁目に暮らす小説家の茶川竜之介は結婚したヒロミと高校生になった淳之介と楽しい生活を送っていた。しかも、ヒロミのお腹にはもうすぐ生まれてくる新しい命も宿っていた。しかし、連載中の『銀河少年ミノル』が、謎の新人作家・緑沼アキラに人気を奪われ、窮地に陥る。
一方、向かいの鈴木オートでは1人前となった従業員の六子に、青年医師・菊池孝太郎との新しい関係性が芽生える。
(考察)
物語の中心にあるのは、茶川と父、茶川と淳之介の親子関係だ。茶川は、自身の小説家としての道を父に否定され勘当されたが、父が亡くなった後に実家を訪ねた際、父が密かに茶川の成功を応援していたことを知る。父の部屋には、茶川が芥川賞の最終選考に残ったときの新聞記事と、茶川の小説に感想付きのしおりをはさんだものが、毎号分、本棚に並べられていた。父が突き放したのは、茶川の将来を心配したゆえの行動だったと悟る。
この父子の関係は、茶川と淳之介の間でも繰り返される。
淳之介は、東大受験の勉強をするふりをして、小説を書いていた。それは、週刊誌で茶川の小説が打ち切りになり、淳之介の小説が採用されるほどの実力であった。
ある日、雑誌の編集者が家に訪ね、淳之介を小説家としてデビューさせることを話に来る。淳之介が小説家としての道を歩むことを決断した時、茶川は、
「お前にはほとほと愛想がつきた。」「出てけ。お前のような恩知らずは、二度とこの家の敷居をまたぐな。」
と言い放ち、淳之介の勉強道具と通学バックを外に投げ出す。
淳之介が立ち去った後、茶川はヒロミに抱かれ、泣きながら「淳之介は、うちの大事な長男だからな。」と言う。
このことから、淳之介を後押しするために、わざと家から追い払ったことが分かる。
このことから、親心とは血の繋がりだけではなく、共に生活し、信頼関係を築く中で育まれるものであると考えた。そして、親としての愛情や心配は、子どもの成長や旅立ちを見守る過程で深まっていくものだと考えた。
⑨『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(映画) 2023年 監督:アーロン・ホーバス
(あらすじ)
ニューヨークで配管工を営む双子の兄弟マリオとルイージ。ある日、謎の土管で迷い込んだのは、魔法に満ちた新世界だった。新世界で離れ離れになってしまった兄弟が、絆の力で世界の危機に立ち向かう。マリオとルイージに加え、ピーチ姫、クッパ、キノピオ、ドンキーコング、ヨッシーなど原作ゲームシリーズでおなじみのキャラクターが多数登場する。
(考察)
2つの観点から、考察する。
1つ目は、スピード感のあるカメラの動きである。
本作におけるカメラワークは、スピード感が強く、スーパーマリオブラザーズのゲームの世界観を忠実に再現している。
ゲームにおけるスーパーマリオブラザーズのシリーズは、走る・歩く・ジャンプのボタンを使って各ステージを冒険するゲームと、車を使ってステージごとに順位を競い合うゲームがある。映画ではこれらの要素が多く取り入れられており、マリオは走ったり、ときには車に乗ったりしながら世界の危機に立ち向かう。
また、マリオの動きを後方から捉えるカメラワークは、アクロバティックで視覚的にインパクトのある場面となっている。これにより、観客はゲームの中に入り込んだかのような没入感を得ることができる。こうしたカメラの動きは、ゲームの世界観をそのまま映像として再現しており、ゲームと映画の垣根を超えた新たなエンターテインメントを形成していると考える。
2つ目は、ピーチ姫の活躍である。
キノコ王国のリーダーとして、彼女は従来の「助けられる存在」から「戦うヒロイン」へと進化している。ドレス姿でクッパたちに立ち向かう彼女の姿は、従来のプリンセス像を覆すものであり、ジェンダー意識の変化を反映していると考えられる。また、ピーチ姫が強敵・クッパとの政略結婚を拒否し、自らの意思を貫くシーンは、単なるキャラクターの成長を超えて、現代の女性像を象徴するものとなっている。
このように、本作はエンターテインメントとしての楽しさを提供するだけでなく、社会的なメッセージも含んでおり、観客に多くの示唆を与える作品となっていると考える。
⑩『そして、バトンは渡された』(小説) 瀬尾まいこ 文藝春秋 2018
(あらすじ)
幼い頃に母親を亡くし、父とも海外赴任を機に別れ、継母を選んだ優子。 父親が3人、母親が2人いて、家族の形態は17年のうちに、7回変わった。その後も大人の都合に振り回され、高校生の今は二十歳しか離れていない森宮と暮らす。 血の繋がらない親の間をリレーされながらも、出逢う家族皆に愛情をいっぱい注がれてきた彼女自身が伴侶を持つとき、親として選ばれたのは森宮だった。
(考察)
本作では、何度も変わる親たちの、優子へのそれぞれの愛情の形が描かかれている。それが非常識的なものや、的外れなものであっても、優子は愛情表現の1つと捉え、受け止めていく。しかし、私は優子の立場を大人の都合で振り回される子どもとして捉えた。
なぜなら、この小説は優子の視点から描かれているため、親となった大人たちは皆、優しくて優子想いのように描かれているが、大人たちの言動は自分本位のものであることが多いと考えたからである。
例えば、実父である水戸は、優子が10歳のときに、ブラジルへの転勤が決まり、そのまま離れ離れになってしまった。このとき、梨花という再婚者が決まったばかりであるのに、水戸は「やりたいことがある」といって決断を曲げない。唯一血の繋がった親子であるのに、10歳の娘を置いて、海外転勤してしまうことに、自分のキャリアを優先する、大人の都合が垣間見えた。
そして、日本に残った優子は、梨花の恋愛気質に翻弄され、次々に父が変わることになる。これも、梨花が「お金持ちと恋したい」「堅実な人と恋したい」といった、優子よりも自身の恋愛を優先していると考える。
また、3度目の父である森宮は、“普通の親”に対するこだわりを持っており、優子の高校3年生の始業式の朝、気合い入れにカツ丼を作る場面がある。優子の反応はいまいちであり、朝から重いけれど作ってくれたから、といって食べる。これは、優子の好みを把握せず、自分が親としてやりたいことを優先しているようにも見える。
このことから、この作品では大人の都合に振り回されながらも、親に対する愛情を示す、子どもの視点が繊細に描写されていると考える。
⑪『白雪姫』(アニメ映画) 監督:デイヴィッド・ハンド 1937年
(あらすじ)
明るく綺麗な心を持つ美しい王女、白雪姫は、女王である継母にその美しさを妬まれる。女王は家来に白雪姫を殺すことを命じるが、白雪姫は森の中へ逃げ込んでしまう。そこで、7人の小人や動物たちと出会い、楽しく暮らすが、魔女に姿を変えた王女に毒林檎を食べさせられ、眠らされてしまう。その後、王子のキスによって目を覚まし、2人はお城で幸せに暮らす。
(考察)
この作品には2つ特徴があると考える。
1つ目は、白雪姫と小人・動物たちの動きの差である。
白雪姫は、表情や体の動きにおいて、現実の人間のような動きを見せる。
例えば、笑う時には目を細めて少し口角をあげるだけで、体全体は動かない。また、歩く時も足が動くだけで、まっすぐな姿勢を保ったまま、横移動していく。
一方、小人・動物たちは、笑う時には口を大きく開け、体も笑うごとに上下する。また、小人たちが歩くときは、踏み込むごとに全身が上下したり、体のお肉や服、ヒゲが左右に揺れる。
このように、動きに連動してキャラクターの体が大きく動くことで、重みを表現していると考える。また、体の肉が揺れたり、表情が変わるときには頬の肉が持ち上がったり、下がったりして、体の質感に弾力性を持たせていると考える。このことから、動きや体の質感からキャラクターの重みを表現し、平面の世界に生命をもたらしていると考える。
2つ目は、キャラクターの身体をモノに例えて表現している点である。
作中で、小人たちの家を動物たちと掃除する場面がある。白雪姫は箒を片手に地面のホコリをはくが、リスたちはシッポを箒がわりにして床のホコリをはいている。また、動物たちが川で服を洗う場面では、亀のお腹の段差部分を洗濯板のように使って、服を洗っている。
これは、動物の身体的特徴をモノに例えて表現する、ディズニー的な想像力のひとつであると考える。『蒸気船ウィリー』でも、動物の身体を楽器として表現していたように、あえて身体をモノとして例えることで、画面内で生き生きと動く、キャラクターの生命性が強調されると考える。
⑫『木を植えた男』(映画) 監督:フレデリック・バック 1987年
(あらすじ)
人里離れた荒野に住む、初老の羊飼いブヒエ。彼は荒れ果てた大地にたった一人で木を植え続けていた。目的など多くを語らない彼の信念を貫くその行動は、二つの大きな戦争の間も続き、中年になった若者が再びその地を訪れた時、不毛の大地はまさに楽園に変身していた。
(考察)
フレデリック・バックの作品に込めた思いを要約したものが以下の文である。
「動物や植物は人間にとって大切な役割を果たす。かけがえのないものであるのに、私たちの行き過ぎた開発が彼らの生きる道を閉ざしてしまっている。」
この作品が環境問題について、助け合いや平和の精神から描いていることを念頭に、考察していく。
家族を亡くした羊飼いの男は、不毛な砂漠の土地を甦らせるため、たった1人で1万本の柏の木を植え続ける。そこで、第一次世界大戦勃発する。男が荒地に戻ると、柏の木が育って森になっていた。それまで白黒だった画面に緑が広がり、水が流れる描写も加わる。
ここで語りが強調するのは、羊飼いの男がたった1人で自然を変化させたことだ。
自然が豊かになったことで、木の家が建ち、仕事ができ、農作物が育つようになり、人々の生活に豊かさをもたらした。人は緑を作ることができ、緑は人々の生活を作ることができる。
私は、環境問題は1人でどうにかできる問題ではないと思い込んでいた。しかし、動画で出てくる政治家のように口だけで何も行動しなければ環境が変わることはなく、羊飼いの男のように1人の力でも不屈の精神と行動力があれば環境そのものを生み出すことができることを学んだ。
このことから、本作は緑の神秘と環境問題への希望を描いていると考える。
⑬『HELLO WORLD』(映画)監督:伊藤智彦 2020年
(あらすじ)
2027年、京都。内気な男子高校生・直実は、10年後の未来からきた自分・ナオミと出会う。ナオミは、直実が同級生の瑠璃と恋人関係になること、さらに瑠璃がその後の事故で命を落とすことを告げる。直実は瑠璃の命を救うために未来を変えようと奮闘し、ナオミの目的や世界の秘密を知ることとなる。
(考察)
本作は全て2Dによって作られており、2Dの特徴が活かされた画面となっている。
例えば、物語は未来や仮想空間の場で戦うといった、SFの要素を含んでおり、近未来的な建物や乗り物、武器が数多く登場する。街並みや建物が崩れる場面では、ドアや窓ガラスが一つ一つ崩れて、細かい破片が飛び散るなど、より繊細でリアルに描かれる。2Dを用いることで、非現実的な世界観をダイナミックに表現している。
また、現在から未来を移動する際の、異空間の表現も独創的である。背景や人物の色がビビッド調に変化したり、絵のタッチが変わって顔が歪んだり、膨張したりする。この表現も、2Dならではの広大な世界観の表現や、色使いの多様さ、立体物の歪み方が現れていると考える。
2Dのアニメーションは、SFなどの非現実的で高度な背景描写を求められる作品において、その効果を発揮すると考えた。
⑭『極主夫道 ザ・シネマ』(映画) 監督:瑠東栗一郎 2022年
(あらすじ)
極道の世界で“不死身の龍”として恐れられていた龍だが、美久との結婚を機に足を洗い、専業主夫として料理、洗濯、掃除などに天才的なスキルを発揮しながら、時にはご近所トラブルを解決する日々を送っていた。ある日、龍の住む町の保育園の土地が極悪地上げ屋に狙われ、悪質な嫌がらせを受ける。保育園の用心棒をすることになった龍は、雅たち仲間とともに地上げ屋と全面対決することになる。
(考察)
本作は、原作漫画やアニメの「再現度」を高く評価できると考える。特に主人公である「不死身の龍」のビジュアルや声は、まさにアニメそのままで、ファンにとっては期待通りの出来だと感じられる。
ただし、映画版では中学生の娘・向日葵という新たな人物が追加され、これにより家庭内での「父親」としての竜の姿がより深く描かれている。原作漫画では子どもがいない設定だったため、物語に新たな視点を加えていると考える。
さらに、映画版では、家の前に捨てられた小さな男の子の世話もする設定が加わっており、家族の絆や責任感といったテーマが強調されている。この設定変更は、コメディに加えて家族のメロドラマ的な要素を持ち込んでおり、観客に感情的な共感を呼び起こす効果があると考える。
また、最近の日本映画やドラマでは、俳優に芸人が起用されることが増えているが、本作も、コミカルな要素を強調するために芸人がキャスティングされている。これによって、映画に緊張感を持たせるよりも、芸人たちの勢いに少し笑ってしまうような、コメディ性を重視していると考える。
これらのことから、本作は原作ファンだけでなく、初めてこの世界に触れる観客にもその世界観を知ってもらうための「入口」として機能している。
家族愛とコメディの絶妙なバランスを持つこの作品は、笑いだけでなく、家族や人生についての考察も含まれており、コメディ映画以上の深みを持っていると考える。
⑮『ボヘミアン・ラプソディ』(映画) 監督:ブライアン・シンガー 2018年
(あらすじ)
世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマである。
1970年代、ロンドンのライブハウスに通っていたフレディ・マーキュリーは、3人の仲間らと共にバンドを結成し、アルバムを制作する。メンバーの個性や挑戦的な試みによって彼らは一世を風靡するが、フレディは次第に孤立していってしまう。
(考察)
フレディ・マーキュリーはバイセクシャルであり、HIVに感染した過去を持つ。この映画では、彼が抱えた心の葛藤が描かれている。特に、フレディの複雑な内面や人生の選択が、観客に強い感動を与えていると考える。
「QUEEN」のギタリスト、ブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーのインタビューによると、映画は完全なドキュメンタリーではないが、主人公の内面に関しては非常に忠実に描写されているという。
メイは次のように述べている。
「ドキュメンタリーじゃないから、すべての出来事が順序立てて正確に描写されているわけじゃない。でも、主人公の内面は正確に描かれていると思う。フレディの夢や情熱、強さと弱さが正直に描かれているからこそ、観客とつながりを感じてくれたんじゃないかな。」
この映画のライブシーンでは、特にアフリカの飢えに苦しむ子どもたちのために行われた「ライヴエイド」が象徴的である。屋外ステージでの演奏は、画面にフレアを差し込むなどの演出効果もあり、爽快感と迫力のある映像として描かれている。これにより、フレディが自分らしく生き生きと演奏していた姿を効果的に再現していると考えられる。
さらに、YouTubeで公開されている映画の予告編のコメント欄には、多くのファンの反響が寄せられている。
「QUEENを聞いて早40年。フレディが亡くなって終わってしまったと思われていた。でもこのコメ見て若い人達がこんなにもQUEENを讃えてるの読んで終わってなかったんだと実感した」
「高校生です。『We Will Rock You』しか知らなかったけど、この映画を見た友達に触発され、色々調べていくうちに、ああ、この曲もQUEENだったのかと思うことが多々ありました。彼らの生き方が本当にかっこいいと思いました。」
これらのコメントからもわかるように、この映画は新たな世代にもQUEENの音楽を再発見させ、音楽を通じて記憶を呼び起こし、過去と現在を繋ぐ役割を果たしている。
映画をきっかけに、QUEENの音楽は世代を超えて愛され続け、その影響力は途切れることなく引き継がれていることが考えられる。
(参考サイト)
『クイーン単独独占インタビュー ブライアン・メイさん|NHK』https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/12/story/special_181227/(最終閲覧日2024/9/23)
(あらすじ)
健一はカレンダーに“再出発”と書き込んだ。始まったのは、2歳半になる娘・美紀の子育てと仕事の両立の生活だ。結婚3年目、30歳という若さで妻を亡くした健一はトップセールスマンのプライドも捨て、時短勤務が許される部署へ異動。何もかも予定外の、うまくいかないことだらけの毎日に揉まれていた。そんな姿を見て、義理の父母が娘を引き取ろうかと提案してくれたが、男手一つで育てることを決める。妻と夢見た幸せな家庭を、きっと天国から見ていてくれる彼女と一緒に作っていきたいと心に誓い、前に進み始めるのだ。保育園から小学校卒業までの10年間。子供の成長に、妻と死別してからの時間を噛みしめる健一。そんな時、誰よりも健一と美紀を見守り続けてくれていた義父が倒れたと連絡を受ける。誰もが「こんなはずじゃなかったのに」と思って生きてきた。いろんな経験をして、いろんな人に出会って、少しずつ一歩一歩前へと踏み出してきた。健一は成長を振り返りながら、美紀とともに義父の元に向かう。そこには、妻が残してくれた「大切な絆」があった。大切なものを失った人たちの“10年間の足跡”を描く。
(考察)
この作品では、変わる環境の中でも、変わらないものもあることがテーマであると考える。このテーマは、編集や登場人物の言葉から考えることができる。
まず、編集では、同じ構図からのカット「同ポジション」が多用される。例えば、美紀の幼稚園時代の通学路の坂を映すカットや、ハンバーグをこねる親子を昔の親子と重ねるカットが挟み込まれている。坂やキッチンの外観は変わらないが、人だけが成長している。この表現は、普段の日常の中で、少しずつ成長していく親子を表現していると考える。
次に、登場人物の言葉から考察する。健一は、営業開発の会議における案出しの場面にて、「家庭とは変わり続ける場所」という発言をする。朋子の父である村松は、再婚に悩む健一に「家族だってリフォームすればいい」という言葉を投げかける。私はこの言葉から、家庭をすべて変えるのではなく、既存のものに付け加えることで1部を新しくし、家族の絆を繋いでいく、という解釈をした。本作の場合であれば、奈々恵との再婚である。朋子の存在(絆)はそのままに、奈々恵が家庭に加わることで、新しい家族の絆が構築されていく。
また、『ステップ』の原作者である、重松清は映画化においてのインタビューで、自身の作品について以下のように語る。
「家族って、決してまん丸な満月ではないと思うんです。みんなちょっとずつ何かが欠けていたり、足りなかったり、失われていたり、思い通りにならなかったりするけれど、それを補ってくれる誰かがいる。そのことを信じていいんだと教えてくれるベースキャンプが、親子や夫婦だと思うんです。」
家族の形はそれぞれで、不完全だからこそ、支えてくれる人を大切にし、信頼することで、温かみのある絆が築かれていくと考える。
さらに、重松は「「はじまり」の物語を書きたかった」とも語っている。
作中では、妻が亡くなり、幼い子どもを1人手で育てることに限界を感じ、弱音を吐く健一が多く描かれる。その中でも、義父母や幼稚園の先生に支えられ、必死に子どもと向き合い、家事も仕事もこなしていく。
健一の「悲しさや寂しさは乗り越えるものではなく、付き合っていくもの。」という言葉にあるように、再出発には、過去を受け止め、未来に向かっていく力、またその時に寄り添ってくれる相手がいることが大切であると、この作品は訴えていると考える。
(参考サイト) 『2020映画『ステップ』制作委員会「映画「ステップ」公式サイト|大ヒット上映中!」』https://step-movie.jp/ (最終閲覧2024/8/16)
②『告白』(映画) 監督:中島哲也 2010年
(あらすじ)
ある中学校で、1年B組の担任・森口悠子は、生徒を前にして、自分の娘が学校で死亡したのは警察が断定した事故死ではなく、この組の生徒に殺されたのだと告白する。そして自らの手で仕返しをすると宣言して学校を辞め、後任で熱血教師“ウェルテル”がやってくる。「生徒に娘を殺された」という森口悠子の告白からはじまり、殺人事件に関わった登場人物たちの独白形式で構成される物語。
(考察)
映画で用いられている映像表現から、視聴者に与える影響について4つの観点から考察していく。
1つ目は語り手である。
この作品では、事件に関わった登場人物の視点から物語が語られていく。その手法は「告白」という形式をとり、同じ事件が複数の視点から語られることで、物語に多層的な深みを持たせている。語り手の順番は、被害者である森口悠子から始まり、次第に加害者たちへと移行していく。具体的には、森口悠子→北原美月→下村優子→渡辺修哉→下村直樹の順番で、それぞれの立場から語られることで、事件が持つ様々な側面が浮き彫りになっていく。特に、一人称で語られることで、登場人物がその瞬間に抱いた感情や葛藤が生々しく描かれていく。残酷な殺人事件であっても、異なる視点を重ねることで、単なる残虐性だけでなく、人間が抱える複雑な心理や倫理観の揺らぎが鮮明に描き出されている。この語り手の変化は、物語全体の構造を通して、読者に事件の多面性と、その背後にある人間性を問いかける重要な要素となっていると考える。
2つ目は音楽(BGM)である。この作品における音楽(BGM)の存在は、物語の異質さを際立たせている。作中で使用される挿入歌は19曲にも及び、その多くが洋楽である。特に注目すべきは、曲調が物語の内容と大きく乖離している点だ。穏やかな曲調が、残酷な場面と組み合わさることで、異様なギャップを生み出し、作品全体に独特な不気味さを与えている。
例えば、クラスメイトが渡辺修哉を虐めていることを、先生にチクったとして、北原美月がリンチを受ける場面がある。クラスメイトがそろって美月を突き飛ばしたり、暴言を吐いて追い詰める中、BGMではPoPoyansの「When the owl sleeps」が流れる。歌詞がついているため、視聴者はこのBGMを完全に無視することはできない。女性の優しくて静かな歌声と、画面の暴力性が衝突し、どことなく気持ち悪さを覚える。この気持ち悪さは、渡辺修哉に殺人者のレッテルを貼り付け、殺人者への虐めは正統であるとでも言わんばかりに、限度を超えた虐めをするクラスの曲がった正義感を表現していると考える。本作においてBGMは、画面とのギャップを生み出すことで、物語の道徳的な複雑さを際立たせていると考える。
3つ目は、ケータイやネットの掲示板が多用されている点である。
本作では、現代社会におけるコミュニケーション手段として、ケータイやインターネットの掲示板が頻繁に登場している。犯人探しのメールのやり取りや、辱めの写真の拡散、掲示板への匿名投稿などが描かれることで、匿名性がもたらす罪意識の希薄さや、陰湿な虐めが強調されている。そして、ネット上での情報の拡散は現実世界の人間関係にも影響を及ぼし、登場人物たちの行動に一層の残虐性を与えている。このような要素が、物語に現代性をもたらし、現代の問題としてのいじめや暴力の陰湿さを浮き彫りにしていると考える。
4つ目は血の描写である。
血の描写が象徴的に用いられる点も、この作品の大きな特徴である。特にスローモーションで表現される血の演出は、視覚的にも強烈であり、残虐性だけでなく、差別や偏見をも象徴していると考えられる。
例えば、給食の牛乳に血が混ぜられていることを、視覚的に表現するため、白の画面に1滴の赤い液体が落とされる画面が挿入される。赤い液体は徐々に広がり、スローモーションで白い液体に溶け込んでいく。このシーンは、単なる衝撃的なビジュアルとしてだけでなく、血というものが持つ「汚染」や「他者との隔絶」の象徴として機能していると考える。また、下村直樹が母親を切りつけるシーンでも、スローモーションで血しぶきが空中に舞い上がる。このスローモーションは、血のリアルさを強調しつつ、視聴者に残酷な行為の背後にある感情的な重さや社会的な偏見を思い起こさせる効果があると考える。
このように、血の描写は単なる暴力の表現にとどまらず、差別や偏見の象徴としても機能し、血が持つ象徴性を通じて、登場人物たちが抱える苦悩や、社会の中での異物感がより一層鮮明に描かれていると考える。
以上の4つの点から、本作は視聴覚の表現を用いて、あえて視聴者に不快感を感じさせることで、作品の残虐性や道徳観の歪みを強調していると考える。
③『家族シネマ』柳美里 1999年 講談社文庫
(あらすじ)
バラバラになった家族が20年ぶりに再開し、失われた家を求めて、映画出演を決めた、家族を描いた物語。
(考察)
本作では、すでに崩壊している家族が、映画の撮影という作られた世界観の中で、良き“家族”を演じる姿が描かれている。この設定は、家族という本来の絆が失われ、単なる「演技」としての関係性が強調する。
たとえば、P.60で「既に調教済みのラブラドルレトリバーのように母の声に敏感に反応するしかないのだ。割れてしまった家族のレプリカじゃないか、そう呟いてバスルームに向かった。」と描かれるシーンでは、家族が既に崩壊しており、その関係は表面的なものでしかないことが表現されている。このことから、家族は「レプリカ」に過ぎず、本物の絆は存在しないことが暗示されていると考える。
さらに、P.79では「私と妹は小さいころから、ママみたい、という言葉を使って互いを貶し合った。」という描写がある。ここでは、家族間のコミュニケーションが歪んでおり、愛情や理解ではなく、憎しみや軽蔑が根付いていることが表現されていると考える。
また、P.87でも「父の暴力、母の性的な放埒さがもたらした恥辱にも、私たちは何とか耐えてきたのだ。…私も弟も妹もしっかりと植えつけられた父と母への憎しみを外へ向けるしかなかったのだ。」とあり、家族が一体感を失い、それぞれが個別に憎しみを抱え、それを外へ向けることで辛うじて耐えている状況が描かれている。ここで強調されているのは、教育や育成というよりも、支配と抑圧がもたらす憎しみの感情だ。家族間の繋がりは希薄で、撮影以外ではまともにコミュニケーションが取れず、再生不可能な関係性が浮き彫りにされていると考える。
このように、映画の撮影という表向きの「演技」と、実際の家族関係との間に大きな隔たりがあることが描かれている。登場人物らの心理描写も少ないことから、誰も心を開いておらず、どこか壁がある関係性を描いている。
このことから、この作品では、家族間の束縛によって憎しみがうまれ、根付いた憎しみが関係の修復を拒否している様子が描かれていると考える。
⓸『ALWAYS三丁目の夕日』(映画) 監督:山崎貴 2007年
(あらすじ)
西原良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした映画である。
昭和33年、東京下町の三丁目。ある日鈴木則文が営む自動車修理工場・鈴木オートに集団就職で上京した六子がやってくる。しかし、思い描いていた東京で働くイメージとのギャップに、少し落胆してしまう。その鈴木オートの向かいにある駄菓子屋の店主で、しがない小説家の芥川竜之介。彼は一杯飲み屋のおかみ・ヒロミのもとに連れてこられた身寄りのない少年・淳之介の世話をすることとなった。
(考察)
この作品では、昭和のノスタルジーな町空間が広がっている。木造の家に、子どもたちが集まる駄菓子屋、タバコ屋、自転車で配達をする蕎麦屋の従業員など、現在では見かけなくなってしまった風景に、懐かしさを覚える。また、鈴木家が三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)を揃えて喜ぶ場面など、昭和30年代を象徴する描写に溢れおり、生き生きとした暮らしが描かれている。
また、特徴的なのは、家族間を越えて町全体で共同生活を送っている点である。家に鍵が付いていない、玄関に扉がない引き戸など、誰でも他所の家に簡単に上がり込むことができる。他所の家にそのまま入り込んで挨拶するなど、他者との隔たりが少ない、集団的な暮らしが描かれている。個人的で閉鎖的な現代の家族像と比較して、集団的で開放的な昭和の家族像が描かれており、時代に即した家族の形をみることができる。
そして最後は、皆がそれぞれの場所で夕日を眺める場面で幕を閉じる。この作品では、昭和のノスタルジーと家族の温かさが、美しい夕日で象徴されており、「懐かしさ」「温かさ」が普遍的なものであることを表現していると考える。
⑤『コンビニ人間』(小説) 村田沙耶香 2018 文春文庫
(あらすじ)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏無しの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってくる。第155回芥川賞受賞作品。
(考察)
この小説の特徴は2つあると考える。
1つ目は、視聴覚に訴える描写が多いことだ。店舗に並ぶ商品の彩りや、商品をかごにいれる音など、主人公がコンビニで働く中で見て感じた世界が、そのまま読者に共有されていく。普段私たちが気にしないコンビニの風景や音が鮮明に描かれていることから、主人公はコンビニという場所を自分の居場所や生きがいとして捉え、より魅力的な場所に見えていると考える。
2つ目は、主人公の視点を通して描かれる、現代社会の生きづらさである。
主人公の古倉は幼少期から変わり者で、周りの人の振る舞いを真似することで「普通」で「正常」な人になりきっていた。コンビニ店員として普通に働くことができるのも、マニュアルによるものであり、マニュアル外になると、普通の人間になることが難しい。
自分は普通の人間だと思っていても、周りから見て変であれば、変わり者として扱われてしまう。しかし、どこが変であるかは自分には分からない。これは、マイノリティへの理解が不十分で、表面的な多様性を掲げる現代社会を象徴していると考える。
また、固定観念が拭いきれていない現代社会の特徴も表現されている。
35歳の新人アルバイト・白羽の不真面目な勤務態度を見た店長は、「人生終了だよな。だめだ、ありゃ。社会のお荷物だよ。人間はさー、仕事か、家庭か、どちらかで社会に所属するのが義務なんだよ」(P.66)と語る。
これは、社会的なものに属すことが、その人の「人間」としてのアイディンティティを確立させる、という社会の根底にある固定観念を表現していると考える。
また、白羽の言葉に、「…現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」(P.92)というものがある。
これらの表現から、多様性を謳う現代でも、その根底には「普通」や「正常」といった判断軸があるという、矛盾した社会を表現していると考える。
⑥『水を縫う』(小説)寺地はるな 2020年 集英社
(あらすじ)
主人公は松岡清澄、高校一年生。 一歳の頃に父と母が離婚し、祖母と、市役所勤めの母と、結婚を控えた姉の水青との四人暮らしをしている。 いつまでも父親になれない夫と離婚し、必死に生きてきたけれど、息子の清澄は扱いづらくなるばかり。 そんな時、母が教えてくれた、子育てに大切な「失敗する権利」とは。
(考察)
この小説では、章ごとに語り手が変わり、複数の視点から物語が展開される。第1章は清澄、第2章は姉の水青、第3章は母、第4章は祖母、第5章は元父の同僚・黒田、第6章は再び清澄の視点で語られる。こうした視点の交代によって、各キャラクターの内面やその背景にある出来事が多面的に描かれていく。特に、家族という親密な関係を通じて、性別に関する固定観念がどのように形成され、それぞれの人生に影響を与えているかが浮き彫りにされる。
まず、清澄のエピソードからは、性別にとらわれない価値観を模索する姿が描かれている。彼は裁縫や料理が得意であり、クラスメイトから「女子力が高い」と評価されるが、これに対して清澄は、「調理や裁縫に長けていることは、性別を問わず生活力と呼ぶべきではないか」と反論する(P.21)。この発言は、社会が性別に基づいて特定のスキルや特質を価値づけることへの疑問を投げかけており、清澄はそれを超えて自らのアイデンティティを築こうとしている。この考え方は、現代のジェンダー論においても重要なテーマであり、固定観念に縛られない個の尊重を強調していると考える。
一方、姉の水青のエピソードでは、性別による被害とそれが心理的に及ぼす影響が描かれている。彼女は小学6年生のときに、夜道でスカートを切られる事件を経験し、その後「かわいい服」を避けるようになった。この出来事が、担任教師の「オンナノコオンナノコした服」(P.59)という発言と結びつき、水青の中で「かわいい」という言葉に対する不信感と嫌悪感が芽生えてしまう。このエピソードは、社会が女性に対して抱く期待や規範が、いかに個々のアイデンティティ形成に影響を及ぼすかを考えさせる。特に、外見や装いに関するジェンダーの規範が、どのように女性の自己認識を歪めるかが表現されていると考える。
母と祖母のエピソードもまた、性別役割に対する不満を象徴している。母は、「子どもに無償の愛を注ぐことができる」という母親像に疑問を抱き、理想的な母親像に対して強い違和感を感じている。これは、母親としての自己を絶対的なものとして捉えず、むしろそれに対する違和感や葛藤を認める姿勢を示しており、伝統的な母親像に縛られない新たな母性の在り方を提示していると考える。
さらに、祖母のエピソードでは、幼少期に父親から「女は男には力ではかなわない」(P.146)という言葉を聞かされたり、結婚後、夫より稼ぐことに対して顔をしかめられる経験を持つ祖母は、「男だから、女だからと制限されない時代を子や孫には生きてほしい」と願っている(P.147)。この願いは、祖母が自身の経験を通して見出したものであり、性別役割に縛られない自由な生き方への渇望が表れている。
最後に、元父・全の言葉に影響を受けた清澄のエピソードは、人生の流動性とそれに対する個人の対応の重要性が描かれている。元父は「流れる水は淀まない」と語り、動き続けることの大切さを説く(P.223)。これを受けた清澄は、「川は海へと続いている。流れる水は、ほんとうに海にたどりつけるのかと心細く思ったりしないのだろうか」と考えながらも、「また針を動かす」(P.233)と決意する。ここでは、未来が不確実であっても、自分の好きなことや感性を大切にし、前進することが重要であると清澄は理解している。彼の姿勢は、人生が逆境に満ちていても、自分なりの道を進むことが未来への可能性を切り開くことを示している。
このように、この小説は各キャラクターの視点を通して、性別に基づく固定観念や社会的役割に対する挑戦を描き出している。それぞれの人物が直面する困難とその対処法は、現代社会におけるジェンダーに関する議論を深めるための重要な示唆を提供していると考える。
⑦『ALWAYS続・三丁目の夕日』(映画) 2007年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和34年の春、日本は東京オリンピックの開催が決定し、高度経済成長期時代を迎えようとしていた。そんな中、東京下町のの夕日町三丁目では、茶川が黙って去っていったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。そこへある日、淳之介の実父である川渕が再び息子を連れ戻しにやって来る。そして、人並みの暮らしをさせることを条件に改めて淳之介を預かった茶川は、安定した生活と共にヒロミへ1人前の自分を見せられるよう、“芥川賞”の夢に向かって執筆を始める。一方、経営が軌道に乗り始めていた鈴木オートでは、事業に失敗した親戚の娘・美加をしばらく預かることになった。
(考察)
本作では、昭和時代の文化の広がりによって、人々の生活や心に与えた影響について描いていると考える。
例えば、六子が友達と映画を見に出かける場面には、その時代特有の娯楽の広がりが感じられる。映画館に貼られたポスターには、「男はつらいよ」や「七人の侍」といった日本映画史に残る名作が並び、人々の生活に文化的な豊かさが加わっていたことがうかがえる。
また、文学が与える心理的な影響については、茶川が書いた『踊り子』が表現している。『踊り子』は、茶川がヒロミをモデルとして、ヒロミへの想いを描いた作品となっている。芥川賞を取るには至らなかったが、ヒロミには深く響き、芥川と共に生きる道を選ぶ決め手となった。また、街の人々も全員『踊り子』を呼んで降り、「泣けた」「心がぎゅっとなった」と、茶川に感想を述べていく。このことから、茶川の作品が人々の心に深く響いていることが分かる。
そして、最後の場面で、茶川とヒロミ、淳之介の3人が夕方の買い物帰りに夕日を見て、口々に「綺麗」と言うなかで、ふと淳之介が「3人で見てるから綺麗なんだよ」と言う。
このことから、文学は人々の心に深く入り込み、家族や愛の本質を探求する手段として重要な役割を果たしていると考える。
この作品を通して、家族とは、単に血縁関係に基づくものではなく、辛い時も楽しい時もその気持ちを共有し合う、シンプルでありながらも奥深い関係性であると考えた。このような昭和の時代の家族や地域社会のあり方が、現代においても見習うべきものではないかと考える。
⑧『ALWAYS三丁目の夕日'64』(映画) 2012年 監督:山崎貴
(あらすじ)
昭和39年。東京は念願のオリンピック開催を控え、ビルや高速道路の建設ラッシュで熱気にあふれていた。そんな中、東京の下町、夕日三丁目に暮らす小説家の茶川竜之介は結婚したヒロミと高校生になった淳之介と楽しい生活を送っていた。しかも、ヒロミのお腹にはもうすぐ生まれてくる新しい命も宿っていた。しかし、連載中の『銀河少年ミノル』が、謎の新人作家・緑沼アキラに人気を奪われ、窮地に陥る。
一方、向かいの鈴木オートでは1人前となった従業員の六子に、青年医師・菊池孝太郎との新しい関係性が芽生える。
(考察)
物語の中心にあるのは、茶川と父、茶川と淳之介の親子関係だ。茶川は、自身の小説家としての道を父に否定され勘当されたが、父が亡くなった後に実家を訪ねた際、父が密かに茶川の成功を応援していたことを知る。父の部屋には、茶川が芥川賞の最終選考に残ったときの新聞記事と、茶川の小説に感想付きのしおりをはさんだものが、毎号分、本棚に並べられていた。父が突き放したのは、茶川の将来を心配したゆえの行動だったと悟る。
この父子の関係は、茶川と淳之介の間でも繰り返される。
淳之介は、東大受験の勉強をするふりをして、小説を書いていた。それは、週刊誌で茶川の小説が打ち切りになり、淳之介の小説が採用されるほどの実力であった。
ある日、雑誌の編集者が家に訪ね、淳之介を小説家としてデビューさせることを話に来る。淳之介が小説家としての道を歩むことを決断した時、茶川は、
「お前にはほとほと愛想がつきた。」「出てけ。お前のような恩知らずは、二度とこの家の敷居をまたぐな。」
と言い放ち、淳之介の勉強道具と通学バックを外に投げ出す。
淳之介が立ち去った後、茶川はヒロミに抱かれ、泣きながら「淳之介は、うちの大事な長男だからな。」と言う。
このことから、淳之介を後押しするために、わざと家から追い払ったことが分かる。
このことから、親心とは血の繋がりだけではなく、共に生活し、信頼関係を築く中で育まれるものであると考えた。そして、親としての愛情や心配は、子どもの成長や旅立ちを見守る過程で深まっていくものだと考えた。
⑨『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(映画) 2023年 監督:アーロン・ホーバス
(あらすじ)
ニューヨークで配管工を営む双子の兄弟マリオとルイージ。ある日、謎の土管で迷い込んだのは、魔法に満ちた新世界だった。新世界で離れ離れになってしまった兄弟が、絆の力で世界の危機に立ち向かう。マリオとルイージに加え、ピーチ姫、クッパ、キノピオ、ドンキーコング、ヨッシーなど原作ゲームシリーズでおなじみのキャラクターが多数登場する。
(考察)
2つの観点から、考察する。
1つ目は、スピード感のあるカメラの動きである。
本作におけるカメラワークは、スピード感が強く、スーパーマリオブラザーズのゲームの世界観を忠実に再現している。
ゲームにおけるスーパーマリオブラザーズのシリーズは、走る・歩く・ジャンプのボタンを使って各ステージを冒険するゲームと、車を使ってステージごとに順位を競い合うゲームがある。映画ではこれらの要素が多く取り入れられており、マリオは走ったり、ときには車に乗ったりしながら世界の危機に立ち向かう。
また、マリオの動きを後方から捉えるカメラワークは、アクロバティックで視覚的にインパクトのある場面となっている。これにより、観客はゲームの中に入り込んだかのような没入感を得ることができる。こうしたカメラの動きは、ゲームの世界観をそのまま映像として再現しており、ゲームと映画の垣根を超えた新たなエンターテインメントを形成していると考える。
2つ目は、ピーチ姫の活躍である。
キノコ王国のリーダーとして、彼女は従来の「助けられる存在」から「戦うヒロイン」へと進化している。ドレス姿でクッパたちに立ち向かう彼女の姿は、従来のプリンセス像を覆すものであり、ジェンダー意識の変化を反映していると考えられる。また、ピーチ姫が強敵・クッパとの政略結婚を拒否し、自らの意思を貫くシーンは、単なるキャラクターの成長を超えて、現代の女性像を象徴するものとなっている。
このように、本作はエンターテインメントとしての楽しさを提供するだけでなく、社会的なメッセージも含んでおり、観客に多くの示唆を与える作品となっていると考える。
⑩『そして、バトンは渡された』(小説) 瀬尾まいこ 文藝春秋 2018
(あらすじ)
幼い頃に母親を亡くし、父とも海外赴任を機に別れ、継母を選んだ優子。 父親が3人、母親が2人いて、家族の形態は17年のうちに、7回変わった。その後も大人の都合に振り回され、高校生の今は二十歳しか離れていない森宮と暮らす。 血の繋がらない親の間をリレーされながらも、出逢う家族皆に愛情をいっぱい注がれてきた彼女自身が伴侶を持つとき、親として選ばれたのは森宮だった。
(考察)
本作では、何度も変わる親たちの、優子へのそれぞれの愛情の形が描かかれている。それが非常識的なものや、的外れなものであっても、優子は愛情表現の1つと捉え、受け止めていく。しかし、私は優子の立場を大人の都合で振り回される子どもとして捉えた。
なぜなら、この小説は優子の視点から描かれているため、親となった大人たちは皆、優しくて優子想いのように描かれているが、大人たちの言動は自分本位のものであることが多いと考えたからである。
例えば、実父である水戸は、優子が10歳のときに、ブラジルへの転勤が決まり、そのまま離れ離れになってしまった。このとき、梨花という再婚者が決まったばかりであるのに、水戸は「やりたいことがある」といって決断を曲げない。唯一血の繋がった親子であるのに、10歳の娘を置いて、海外転勤してしまうことに、自分のキャリアを優先する、大人の都合が垣間見えた。
そして、日本に残った優子は、梨花の恋愛気質に翻弄され、次々に父が変わることになる。これも、梨花が「お金持ちと恋したい」「堅実な人と恋したい」といった、優子よりも自身の恋愛を優先していると考える。
また、3度目の父である森宮は、“普通の親”に対するこだわりを持っており、優子の高校3年生の始業式の朝、気合い入れにカツ丼を作る場面がある。優子の反応はいまいちであり、朝から重いけれど作ってくれたから、といって食べる。これは、優子の好みを把握せず、自分が親としてやりたいことを優先しているようにも見える。
このことから、この作品では大人の都合に振り回されながらも、親に対する愛情を示す、子どもの視点が繊細に描写されていると考える。
⑪『白雪姫』(アニメ映画) 監督:デイヴィッド・ハンド 1937年
(あらすじ)
明るく綺麗な心を持つ美しい王女、白雪姫は、女王である継母にその美しさを妬まれる。女王は家来に白雪姫を殺すことを命じるが、白雪姫は森の中へ逃げ込んでしまう。そこで、7人の小人や動物たちと出会い、楽しく暮らすが、魔女に姿を変えた王女に毒林檎を食べさせられ、眠らされてしまう。その後、王子のキスによって目を覚まし、2人はお城で幸せに暮らす。
(考察)
この作品には2つ特徴があると考える。
1つ目は、白雪姫と小人・動物たちの動きの差である。
白雪姫は、表情や体の動きにおいて、現実の人間のような動きを見せる。
例えば、笑う時には目を細めて少し口角をあげるだけで、体全体は動かない。また、歩く時も足が動くだけで、まっすぐな姿勢を保ったまま、横移動していく。
一方、小人・動物たちは、笑う時には口を大きく開け、体も笑うごとに上下する。また、小人たちが歩くときは、踏み込むごとに全身が上下したり、体のお肉や服、ヒゲが左右に揺れる。
このように、動きに連動してキャラクターの体が大きく動くことで、重みを表現していると考える。また、体の肉が揺れたり、表情が変わるときには頬の肉が持ち上がったり、下がったりして、体の質感に弾力性を持たせていると考える。このことから、動きや体の質感からキャラクターの重みを表現し、平面の世界に生命をもたらしていると考える。
2つ目は、キャラクターの身体をモノに例えて表現している点である。
作中で、小人たちの家を動物たちと掃除する場面がある。白雪姫は箒を片手に地面のホコリをはくが、リスたちはシッポを箒がわりにして床のホコリをはいている。また、動物たちが川で服を洗う場面では、亀のお腹の段差部分を洗濯板のように使って、服を洗っている。
これは、動物の身体的特徴をモノに例えて表現する、ディズニー的な想像力のひとつであると考える。『蒸気船ウィリー』でも、動物の身体を楽器として表現していたように、あえて身体をモノとして例えることで、画面内で生き生きと動く、キャラクターの生命性が強調されると考える。
⑫『木を植えた男』(映画) 監督:フレデリック・バック 1987年
(あらすじ)
人里離れた荒野に住む、初老の羊飼いブヒエ。彼は荒れ果てた大地にたった一人で木を植え続けていた。目的など多くを語らない彼の信念を貫くその行動は、二つの大きな戦争の間も続き、中年になった若者が再びその地を訪れた時、不毛の大地はまさに楽園に変身していた。
(考察)
フレデリック・バックの作品に込めた思いを要約したものが以下の文である。
「動物や植物は人間にとって大切な役割を果たす。かけがえのないものであるのに、私たちの行き過ぎた開発が彼らの生きる道を閉ざしてしまっている。」
この作品が環境問題について、助け合いや平和の精神から描いていることを念頭に、考察していく。
家族を亡くした羊飼いの男は、不毛な砂漠の土地を甦らせるため、たった1人で1万本の柏の木を植え続ける。そこで、第一次世界大戦勃発する。男が荒地に戻ると、柏の木が育って森になっていた。それまで白黒だった画面に緑が広がり、水が流れる描写も加わる。
ここで語りが強調するのは、羊飼いの男がたった1人で自然を変化させたことだ。
自然が豊かになったことで、木の家が建ち、仕事ができ、農作物が育つようになり、人々の生活に豊かさをもたらした。人は緑を作ることができ、緑は人々の生活を作ることができる。
私は、環境問題は1人でどうにかできる問題ではないと思い込んでいた。しかし、動画で出てくる政治家のように口だけで何も行動しなければ環境が変わることはなく、羊飼いの男のように1人の力でも不屈の精神と行動力があれば環境そのものを生み出すことができることを学んだ。
このことから、本作は緑の神秘と環境問題への希望を描いていると考える。
⑬『HELLO WORLD』(映画)監督:伊藤智彦 2020年
(あらすじ)
2027年、京都。内気な男子高校生・直実は、10年後の未来からきた自分・ナオミと出会う。ナオミは、直実が同級生の瑠璃と恋人関係になること、さらに瑠璃がその後の事故で命を落とすことを告げる。直実は瑠璃の命を救うために未来を変えようと奮闘し、ナオミの目的や世界の秘密を知ることとなる。
(考察)
本作は全て2Dによって作られており、2Dの特徴が活かされた画面となっている。
例えば、物語は未来や仮想空間の場で戦うといった、SFの要素を含んでおり、近未来的な建物や乗り物、武器が数多く登場する。街並みや建物が崩れる場面では、ドアや窓ガラスが一つ一つ崩れて、細かい破片が飛び散るなど、より繊細でリアルに描かれる。2Dを用いることで、非現実的な世界観をダイナミックに表現している。
また、現在から未来を移動する際の、異空間の表現も独創的である。背景や人物の色がビビッド調に変化したり、絵のタッチが変わって顔が歪んだり、膨張したりする。この表現も、2Dならではの広大な世界観の表現や、色使いの多様さ、立体物の歪み方が現れていると考える。
2Dのアニメーションは、SFなどの非現実的で高度な背景描写を求められる作品において、その効果を発揮すると考えた。
⑭『極主夫道 ザ・シネマ』(映画) 監督:瑠東栗一郎 2022年
(あらすじ)
極道の世界で“不死身の龍”として恐れられていた龍だが、美久との結婚を機に足を洗い、専業主夫として料理、洗濯、掃除などに天才的なスキルを発揮しながら、時にはご近所トラブルを解決する日々を送っていた。ある日、龍の住む町の保育園の土地が極悪地上げ屋に狙われ、悪質な嫌がらせを受ける。保育園の用心棒をすることになった龍は、雅たち仲間とともに地上げ屋と全面対決することになる。
(考察)
本作は、原作漫画やアニメの「再現度」を高く評価できると考える。特に主人公である「不死身の龍」のビジュアルや声は、まさにアニメそのままで、ファンにとっては期待通りの出来だと感じられる。
ただし、映画版では中学生の娘・向日葵という新たな人物が追加され、これにより家庭内での「父親」としての竜の姿がより深く描かれている。原作漫画では子どもがいない設定だったため、物語に新たな視点を加えていると考える。
さらに、映画版では、家の前に捨てられた小さな男の子の世話もする設定が加わっており、家族の絆や責任感といったテーマが強調されている。この設定変更は、コメディに加えて家族のメロドラマ的な要素を持ち込んでおり、観客に感情的な共感を呼び起こす効果があると考える。
また、最近の日本映画やドラマでは、俳優に芸人が起用されることが増えているが、本作も、コミカルな要素を強調するために芸人がキャスティングされている。これによって、映画に緊張感を持たせるよりも、芸人たちの勢いに少し笑ってしまうような、コメディ性を重視していると考える。
これらのことから、本作は原作ファンだけでなく、初めてこの世界に触れる観客にもその世界観を知ってもらうための「入口」として機能している。
家族愛とコメディの絶妙なバランスを持つこの作品は、笑いだけでなく、家族や人生についての考察も含まれており、コメディ映画以上の深みを持っていると考える。
⑮『ボヘミアン・ラプソディ』(映画) 監督:ブライアン・シンガー 2018年
(あらすじ)
世界的人気ロックバンド「クイーン」のボーカルで、1991年に45歳の若さでこの世を去ったフレディ・マーキュリーを描いた伝記ドラマである。
1970年代、ロンドンのライブハウスに通っていたフレディ・マーキュリーは、3人の仲間らと共にバンドを結成し、アルバムを制作する。メンバーの個性や挑戦的な試みによって彼らは一世を風靡するが、フレディは次第に孤立していってしまう。
(考察)
フレディ・マーキュリーはバイセクシャルであり、HIVに感染した過去を持つ。この映画では、彼が抱えた心の葛藤が描かれている。特に、フレディの複雑な内面や人生の選択が、観客に強い感動を与えていると考える。
「QUEEN」のギタリスト、ブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーのインタビューによると、映画は完全なドキュメンタリーではないが、主人公の内面に関しては非常に忠実に描写されているという。
メイは次のように述べている。
「ドキュメンタリーじゃないから、すべての出来事が順序立てて正確に描写されているわけじゃない。でも、主人公の内面は正確に描かれていると思う。フレディの夢や情熱、強さと弱さが正直に描かれているからこそ、観客とつながりを感じてくれたんじゃないかな。」
この映画のライブシーンでは、特にアフリカの飢えに苦しむ子どもたちのために行われた「ライヴエイド」が象徴的である。屋外ステージでの演奏は、画面にフレアを差し込むなどの演出効果もあり、爽快感と迫力のある映像として描かれている。これにより、フレディが自分らしく生き生きと演奏していた姿を効果的に再現していると考えられる。
さらに、YouTubeで公開されている映画の予告編のコメント欄には、多くのファンの反響が寄せられている。
「QUEENを聞いて早40年。フレディが亡くなって終わってしまったと思われていた。でもこのコメ見て若い人達がこんなにもQUEENを讃えてるの読んで終わってなかったんだと実感した」
「高校生です。『We Will Rock You』しか知らなかったけど、この映画を見た友達に触発され、色々調べていくうちに、ああ、この曲もQUEENだったのかと思うことが多々ありました。彼らの生き方が本当にかっこいいと思いました。」
これらのコメントからもわかるように、この映画は新たな世代にもQUEENの音楽を再発見させ、音楽を通じて記憶を呼び起こし、過去と現在を繋ぐ役割を果たしている。
映画をきっかけに、QUEENの音楽は世代を超えて愛され続け、その影響力は途切れることなく引き継がれていることが考えられる。
(参考サイト)
『クイーン単独独占インタビュー ブライアン・メイさん|NHK』https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/12/story/special_181227/(最終閲覧日2024/9/23)
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