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加藤隆介
RES
3年加藤
春休み課題
1.Self-Reference ENGINE
小説 2010年 著者:円城塔
あらすじ
彼女のこめかみには弾丸が埋まっていて、我が家に伝わる箱は、どこかの方向に毎年一度だけ倒される。老教授の最終講義は鯰文書の謎を解き明かし、床下からは大量のフロイトが出現する。そして小さく白い可憐な靴下は異形の巨大石像へと挑みかかり、僕らは反乱を起こした時間のなか、あてのない冒険へと歩みを進める──軽々とジャンルを越境し続ける著者による脅威のデビュー作、2篇の増補を加えて待望の文庫化!
考察
小説には語られなかった無限の物語が存在する。「私は男である」という文章が存在する以上「私は女である」という文章も存在しうる。これは作中で時間の束が崩壊し無数の時空間が存在することで表現されている。しかし、小説家は無数の物語をすべて読者に提示することはできない。小説家は主人公の性別を一つに特定し、年齢を一つに特定する。そうして無数の世界の中から一つに特定されたものが、読者に提示された小説である。世界の特定は読者の見えないところで行われるため、小説家は実際に提示した一つの世界しか考えていないと誤解されがちではないだろうか。文章を書いたことがあれば分かる通り、実際は常に無数の分岐に直面していて、その都度提示する世界を選択しているし、選択されたものは何度も書き換えられている。「吾輩は猫である」という文章はもともと「吾輩は犬である」だったかもしれないし、私たちは主人公が犬であった場合の展開を想像して楽しむことができる。ifルートに代表される二次創作の隆盛はこれを体現している。重要なのは、提示された作品の展開だけが作者の思想だと決めつけないことである。
2.ユートピア
小説 1516年 著者:トマス・モア
あらすじ
表題の「ユートピア」は「どこにも無い」という意味のトマス・モア(1478-1535)の造語である。モアが描き出したこの理想国は自由と規律を兼ね備えた共和国で、国民は人間の自然な姿を愛し「戦争でえられた名誉ほど不名誉なものはない」と考えている。社会思想史上の第一級の古典であるだけでなく、読みものとしても十分に面白い。
今回取り扱うのは1957年に岩波書店から出版されたもの(訳:平井正穂)。
考察
架空の国という意味で名づけられたこの作品は、五百年もの時を経ることによってユートピアの不在性を別の面から証明してみせたのではいだろうか。
作中で理想的な社会として語られるユートピアは、二十世紀以降にディストピア小説で提起される多くの問題をすでに抱えているように見える。一つ目に奴隷の存在である。社会で一方的に定められた正しさから逸脱した人間は犯罪者として奴隷にされる。
二つ目にプライバシーの排除である。全ての物資が共有財産であるユートピアでは、家すら例外ではない。誰でも自由に入ることができるし、居住する家自体が定期的に抽選で変わってしまう。食事の時間は町の人々が一堂に会し、外の町に出向くにも複数人で記録を残した上でないといけない。
しかし、このような問題点があるからといって『ユートピア』がすでにディストピアを内包していると主張するのは一面的な見方といえる。昔の常識が今の非常識になることは普遍的な事象であり、理想的な社会は時代や地域とともに移り変わる。当時理想郷と認識されていた架空のユートピアですら、時代が変わればディストピアと呼ばれるこの状況こそがユートピアの不在性を示しているといえる。
3.ガリバー旅行記
小説 1735年 著者:ジョナサン・スウィフト
あらすじ
小人たちの国、巨人たちの国、空飛ぶ島の国、馬たちの国…イギリスに妻子を残し、懲りずに旅を続けたガリバー。彼が出会ったおとぎの国々を、誰もが一度は夢見たことがあるだろう。子供の心と想像力で、スウィフトが描いたこの奇想天外、ユーモアあふれる冒険譚は、けれどとびきり鋭く辛辣に、人間と現実社会をみつめている。読むたび発見を新たにする、冒険旅行小説の歴史的名著。抜群に読みやすい新訳版。
今回取り扱うのは角川文庫から2011年に出版されたもの(訳:山田蘭)
考察
本作は一般的に社会風刺を目的としたユートピア文学と考えられている。しかし、『ユートピア』とは違い、作品の成立時点からディストピア文学として書かれたのではないだろうか。
ガリバーは作中で四つの主要な国に訪れるわけだが、その全てを追い出されるか逃げるように出ていくことになる。とくに理想的に描かれたフウイヌム国ですら野蛮なヤフーと同族とみなされ、出ていくように「勧告」を受ける。『ユートピア』のように遥か彼方に理想の国があり、その社会制度を見習おうというものではない。実際にいくつものユートピアを訪れた上で諦観の念を募らせていくのである。これは当時の英国社会への批判どころではなく、普遍的な社会への諦めと捉えるのが自然ではないだろうか。
いくつものユートピアを訪れながらも全てに失念し、理想的なフウイヌム国を訪れた結果むしろ傲慢さが表れ滑稽に描かれるガリバーという構図。社会の改善を一切諦め、ディストピア的な環境で我慢することを余儀なくされた結末。ここに『ユートピア』に感じられるような向上心は見られない。これらの理由から、本作は作品の成立時点からディストピア小説として書かれたものだと考える。
4.1984
小説 1949年 著者:ジョージ・オーウェル
あらすじ
「ビッグ・ブラザーが見ている」党があらゆる行動を監視し、言語も思想も管理された近未来世界。過去の捏造に従事するウィンストンは記憶と真実を留めるため、密かに日記を書き始めた。若い娘ジュリアから意外な愛の告白を受け逢瀬を重ねる中、伝説の反逆組織の男に声をかけられ、禁断の本を入手する。だがそれは恐るべき未来への扉であった──圧倒的リーダビリティの新訳で堪能するディストピア小説の最高傑作。
今回取り扱うのは角川文庫から2021年に出版されたもの(訳:田内志文)
考察
私はこの作品を読んで、ユートピアとディストピアの典型的な違いとして道徳を信じる社会か信じない社会か、主人公が訪問者か居住者か、の二点を挙げられると考えた。
『ユートピア』の住人はみな敬虔で、道徳心に満ち溢れている。ゆるぎない道徳心を前提とした社会では、定める必要すらなく全体主義的でありプライバシーも必要ない。一方『1984』では個々人の道徳などは信用されない。徹底的な監視と拷問によって全体主義を作り上げる。ユートピアとディストピアという一見真逆の社会が同じような制度をしているのは、道徳の絶対性と道徳の不在という片面での極致を描いたものという共通点からではないだろうか。
また、主人公がディストピア社会の一員であり、その中で物語が展開されることも大きな違いである。理想郷を訪れるユートピア文学に対して、ディストピア文学は社会の中で生まれ育つ話が多い。ここで重要なのは、『1984』のような監視社会であれば、自身のディストピア的要素を訪問者から隠すことなど容易いということである。本作の社会も、訪問者の視点で見ればユートピアとして扱われていたかもしれず、『ユートピア』にも訪問者に隠されたディストピアがあるかもしれない。
5.第四間氷期
小説 1958年 著者:阿部公房
あらすじ
現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機械は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。
考察
この作品は一見ディストピア的な未来像を提示するものに見える。しかし実際のテーマは、人間の自己中心的な考え方への批判にあると考えた。
本作にはディストピア的な要素が多く見られる。そして、すべての要素に人間の身勝手さが描かれている。氷河の融解は温暖化を示唆しており、自然より産業発展を優先した人間の身勝手さが問題になる。遺伝子の改造は言うまでもなく被験者の人権を侵害する行為である。また、勝見が予言によって殺されることも、作中では因果応報として描かれる。自分が生み出したものによって被害を受けるという構図は、水棲人間を生み出した現人類が水棲人間に飼われるという予言で変奏される。
この視点から考え直すと、水棲人間に支配される未来をディストピアだと決めつけて抵抗しようとする勝見は、今の価値観に支配されず未来を受け入れる頼木たちに相対化されて、ひどく身勝手に描かれていることが分かる。
ここから本作は勝見を通して、「自己中心的な常識に依って未知の対象を非難すること」を批判していると考えられる。これはユートピア文学批評に対する鋭い批判にもなっている。
6.わたしを離さないで
小説 2005年 著者:カズオ・イシグロ
あらすじ
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設へールシャムの親友トミーやルースも「提供者」だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく。
今回取り扱うのはハヤカワepi文庫から2008年に出版されたもの。(訳:土屋政雄)
考察
本作はユートピアの犠牲者を描いていることが特徴といえるだろう。医療の発達した英国社会で臓器提供を目的に作られたクローン人間を育てる施設ヘールシャムでの思い出を、キャシーの一人称視点で振り返っている。施設を卒業してから時間が経ちながらも、まだ提供者になっていないという特殊な立場は、黄金時代と人生の終末の狭間であり、ユートピアとディストピアの中間だと考えられる。作品世界が具体的に描かれないためキャシーの語りからの推測にならざるを得ないが、『1984』の考察で示した分類に従うと「信じない・居住者」になるだろう。しかし、本作はこれまでのユートピア文学に見られるような極端な社会と比べて、私たちの社会に近しい。完全に「信じない」というよりも「見て見ぬふりをする」というのが正確だろう。ヘールシャムで行われた展示会はまさしく、「見て見ぬふり」をされて消えかけている道徳に訴えかけるための行事であった。キャシーは提供者となって死にゆく恐怖を和らげるために、ヘールシャム時代の思い出を理想化する。ヘールシャム時代と提供者の隙間に時間軸を置いたからこそ、読者の共感を誘えたのではないだろうか。
7.虐殺器官
小説 2007年 著者:伊藤計劃
あらすじ
9・11以降の“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……彼の目的とはいったいなにか? 大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは? 現代の罪と罰を描破する、ゼロ年代最高のフィクション
考察
今作では『わたしを離さないで』と似ているユートピアの犠牲者の問題が描かれていた。『1984』の世界では行き過ぎた監視社会により反乱が生まれていないが、本作の監視社会ではテロを防げなかった。監視や罰則を与えても、自爆前提の特攻をされるので意味がなかったのである。そこでジョン・ポールはテロを起こしそうな地域で紛争を起こし、アメリカに対するテロを無くした。米国民は戦争を遠い国の話と考え、連続的な日常を生きている。『わたしを離さないで』の社会が施設を見て見ぬふりするのと、『第四間氷期』で勝見が信じるものと同じである。クラヴィスによって虐殺の舞台が反転したことは『第四間氷期』の断絶した未来の訪れに近い。
クラヴィスはこれまでアメリカ上層部の命令という言い訳で、紛争地域の用人を幾度となく暗殺してきた。一連の事件の結果、それがジョン・ポールのやり方と変わらないことに気づく。その罪を償うために自分の意志でアメリカ社会に虐殺の舞台を移し、母の死というトラウマを克服するという繋がり方が綺麗である。
8.ハーモニー
小説 2009年 著者:伊藤計劃
あらすじ
21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはすの少女の影を見る――『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
考察
本作は『ユートピア』社会の極致を描いたように感じる。徹底的な道徳心に加え病気も怪我もない優しい世界である。しかし『ユートピア』で危惧したように、道徳観に息苦しさを感じる子どもたちが増えて自殺者が増えていた。道徳を信じる社会の居住者であるからこそ、『ユートピア』で描かれなかったディストピア的要素が見えてくる。作中最も重要な人物である御冷ミァハは自殺を無くすために人間から意識を無くそうとするが、これはフウイヌム国をさらに進めたものに見える。絶対的な理性に従っていたフウイヌム国のように、意識のなくなった社会では戦争も議論も自殺もない。意識のない世界は我々にはディストピアに感じるかもしれないが、感情や意識が進化の過程で一時的に必要になっただけだとすれば、必要になった段階でまた生まれるだろう。意識が神秘的で必須のものであるという感覚を覆す作品だった。
9.なめらかな世界と、その敵
小説 2015年 著者:伴名練
あらすじ
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの一度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳󠄁銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曽有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6編。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。
1作目。今回取り扱うのは2022年にハヤカワ文庫から出版された文庫『なめらかな世界と、その敵』に収録されたもの。2019年には同書の単行本が早川書房から出版されているが、内容に一部修正が入っている。初出は2015年『稀刊奇想マガジン準備号』。
考察
この作品最大の魅力は、現実世界の読者を作品世界のユートピアの犠牲者に仕立て上げたことだと考える。
本作は「並行世界を自由に行き来できる」世界でありながら、それができない人を描いている。この作品世界の人間たちは、自分が死にそうになれば自分が死にそうになっていない世界に行く。誰かが亡くなっても、その人が亡くなっていない世界に行ける。彼らは常にいくつかの世界を歩んでいて、授業を聞きながらアルバイトをこなし、アルバイトをこなしながらゲームをする。
このいかにも魅力的な「なめらかな世界」での「なめらかな」青春を描けば、それだけで面白くなりそうである。しかし、著者はそこに「その敵」である乗覚障害を加えた。障害を負い並行世界の移動ができなくなった人間にとって、現実は今いる世界だけであり、命は一つ限りである。これは我々読者の生き方と同じであるはずなのに、「なめらかな世界」の人間に相対化されて悲惨で孤独なものに感じられる。乗覚障害を負った人間は一度きりの人生を失敗しないよう、人との関りを断ち、勉学に集中する。同じ一度きりの人生でも周囲の環境次第でここまで感じ方が変わるのかと驚いた。
10.美亜羽へ贈る拳銃
小説 2011年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
3作目。初出は2011年『伊藤計劃トリビュート』。
考察
この作品では道徳を信じる社会から道徳を機械に任せる社会への変化と葛藤が描かれている。すでに機械に頼っていた社会は、ウェディング・ナイフの登場で決定的に道徳を信じない社会へ変化した。機械による確実な愛があるからこそ道徳的な、確証のない愛は誰にも信じられない。そんな中で機械の影響を受けない実継は自由な意思を持っていると書かれる。本作が『ハーモニー』へのトリビュートであることを考えると、実継は『ハーモニー』のような意識のない世界に抵抗しているようにも感じる。自由に感情を変えることができるユートピア社会の中で、それができない実継は犠牲者のようでありながら、だからこそ北条美亜羽に振られて神冴美亜羽を愛することができたのだろう。実継が機械によって神冴美亜羽を愛していたら、神冴美亜羽が実継に隠していたことは全て隠されたまま暮らすことになっていただろう。
11.ホーリーアイアンメイデン
小説 2017年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
4作目。初出は『年間日本SF傑作選91~99を編む パイロット版』。
考察
本作で行き着いた社会は『ハーモニー』に似ている。鞠奈の能力を受けた人は道徳的に変化し、その影響が全世界にまで及べばユートピアが完成する。しかし鞠奈は能力による道徳心が正しいものと信じられず、全人類の心を変化させるという罪を犯さないために妹の琴枝にだけは能力を使わなかった。これは人類の意識を失くすのに抵抗のなかったミァハと対照的である。みなが道徳心を手に入れた社会で一人だけ能力の影響を受けないというのは、琴枝にとってユートピアの犠牲者になるのと同義であり、琴枝はそれを拒んで死を選んだ。これは『ハーモニー』の三人に似ている。また、ユートピアへの過渡期を描いているという点では『第四間氷期』『美亜羽へ贈る拳銃』に共通する。特に『美亜羽へ贈る拳銃』は『ハーモニー』と同じく意識を環境に託しており、鞠奈の能力に道徳心を託す本作とも近い。
12.シンギュラリティ・ソヴィエト
小説 2018年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
5作目。初出は『改変歴史SFアンソロジー パイロット版』。
考察
本作ではシンギュラリティを超えた人工知能が人間を支配し、人間がちっぽけな存在になった世界を描いている。命を賭して敵国に復讐しにきたマイケルの人生や、それに対峙するヴィーカの運命はすべて人工知能に操られている。物語の大半をマイケルとヴィーカの個人的な存在意義を描くのに費やしたからこそ、誕生日を祝うためだけにソヴィエト全土を停電させ、七つの火を灯すために各地でテロや事故を起こさせた上で、それを一息で消してしまう人工知能の規模の大きさが強調される。全国民が同一の人工知能に脳を預けている本作の社会では、個人は人工知能を構成する細胞の一つにすぎない。そんな世界の中でも、姉の言葉に支えられ娘の誕生日に歌を歌う個人的な流れが生きていることに人間らしさを感じた。誕生日を盛大に祝おうとする気持ちに、本作の人工知能が人間の集合であることが見受けられる。
13.ひかりより速く、ゆるやかに
小説 2019年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
6作目。初出は2019年の『なめらかな世界と、その敵』単行本。
考察
本作では速希と速希の叔父、薙原の三人が対照的に描かれている。個人的な問題のために事故を小説にした速希、個人的な興味のために事故の再現をしようとした叔父、天乃のために解決策を考え続けた薙原。最終的には叔父から事故の解決法を、薙原から意思を受け継いだ速希が天乃を助け出すことになる。事故を題材にした小説の中で、速希は電車を2700年待つ選択をしていた。それに対する薙原の激怒によって、速希は「待つ方の人間」から「止まってられない人間」になることができる。しかしそれと同時に、薙原が貶した架空の想像力によって叔父は解決法を見つける。薙原の自己を犠牲にしてまで現実に向き合う意思と叔父の想像力を統合できたからこそ、速希は天乃を救い出すことができた。「止まってられない人間」の天乃に嫉妬と恐れを抱いていた速希は、同じく「止まってられない人間」である薙原と叔父の影響を受けることで天乃に向き合うことができた。
14.冬至草
小説 2002年 著者:石黒達昌
あらすじ
1926年の北海道、ある医師の診療所に運ばれてきた女は特異な症状を示していた……圧巻の幻想SF「雪女」、人の血液を養分とする異様な植物をめぐって科学という営為の光と影を描いた「冬至草」のほか、論文捏造事件を予見した「アブサルティに関する評伝」、架空生物ハネネズミを横書き論文形式で語り大江健三郎・筒井康隆に絶賛された芥川賞候補作など、伝説的作家による全8編を集成! 伴名練渾身の解説40p超を併録。
2作目。今回取り扱うのは『日本SFの臨界点 石黒達昌』(2021,編:伴名練)に収録されたもの。初出は2002年<文學界>。
考察
タイトルにもなっている冬至草は科学技術発展のメタファーになっていると考えた。冬至草は自らの種の繁殖のために、DMEという周囲の植物の生育を妨げる毒性の物質を持っている。この物質は濃度が濃くなると自家中毒を起こすため、冬至草が一時の繁栄の後急激に個体数を減らした原因と考えられている。また、冬至草は体内に放射能物質であるウランをため込み、濃縮度の高い葉や花が青白く光るという特徴を持つ。これによって遺伝子には細かい傷が無数についていて、遺伝子の再生がほぼ不可能になっている。冬至草がこのような生態である理由は明かされないが、これらの生態には自己破滅という共通点がある。この作品では、自らの繁栄のために他者を顧みず科学を発展させる人間を冬至草に例え、そこに絶滅と再生不能という結末をつけているのではないだろうか。
15.アブサルティに関する評伝
小説 2001年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
4作目。初出は2001年<すばる>。
考察
真実を絶対視しているアブサルティは、相対的に過程や個性を無駄なものと見做している。個々の事例や方法に差異があっても、真実に辿り着けば差異に意味はなく、真実を広めるためなら嘘を吐いてもいいと考えている。彼が「絶対者」と表現する純系マウスはすべてが同じ遺伝子を持っていて個性がない。主人公がしたような告発や嫉妬も起きることのない、繁殖というマウスにとっての真実を求め続ける組織である。それは「アリストテレス」という雑誌でアブサルティが提示した未来像に合致している。そこに描かれるのは、密室で必要な栄養と快楽を十分に与えられながら種のための仕事に従事し、他者と自己の区別も行われずに死に、その全てが観察され次のクローンに引き継がれる社会である。彼は一般的にディストピアと考えられる、個性も自由も否定し真実のみがある社会にユートピアを見出したのではないだろうか。
16.或る一日
小説 1999年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
5作目。初出は1999年<文學界>。
考察
この作品は原子力事故のようなものが起こった場所の簡易的な診療所に、他国の医師である主人公がやってくる。診療所にいる子どもたちは治るあてもなく次々死んでいき、働いている医師でさえも主人公以外は汚染の影響を受けている。主人公は自国から汚染されていない食料が届きマスクもしていて、ディストピアに訪問している状態である。そこで生活する子どもたちは健気に遊んでいるが、それは次々死んでいく。安全な国から来た主人公の目でその死は淡白な出来事として描かれ、自らは安全な故郷への思いを募らせていく。主人公は『虐殺器官』のクラヴィスに似ていて、仕事柄犠牲の現場に出てきているものの、安全で清潔な装備に囲まれ、国に帰れば穏やかで連続的な日常が待っている。ディストピアの訪問者でありながらユートピアの居住者でもある。自らの普遍的な社会を守るという点ではウィリアムズに近いだろう。
17.雪女
小説 2000年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
7作目。初出は2000年『人喰い病』。
考察
この作品では人間の長寿に対する憧憬が描かれながら、自然に手を出すことの恐れが表現されている。体質性低体温症を持つユキは代謝が低く、200年近く生きていると推定される。その生殖は解明されていないものの、症例が稀有なことから近親相姦であると推測されており、生まれてくる子供は自己の身体の複製に近い。医師である柚木はユキの特徴を人間の延命に活かせるのではと考え、精力的に生態解明にあたる。しかし調査を進めるほどに、姉弟間の近親相姦に伴う死体食という絶望的な推論に近づいていき、無為な時間を引き延ばされる長寿への恐れも抱いていく。最終的には自分が干渉したせいでユキの出産が失敗する可能性に思い当たり、未知の生命へ手を出し滅ぼしてしまうことへの後悔が残される。永遠の生への憧れと人間が手を加えることによる絶滅というテーマはハネネズミでも変奏され、雪女に手を出すことで殺害される男という伝承にも似た構図が見られる。
18.平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,
小説 2021年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
8作目。初出は1993年<海燕>。
考察
ネズミは人間と違って、個体の識別がなされていないという。他者のないネズミには自己もなく、個体が死んでも種として残っていれば死んでいない細胞と同じようなものである。反転すれば、種の最後の一匹が死んでしまえばそれまで生まれてきたすべてのネズミが一度に死ぬことになり、種の絶滅より自分の死が重いと感じる人間とは対照的である。
対称性について顕著に書かれているのが、最後までハネネズミ研究に従事した明寺と榊原である。標本がわずかしかないという状況で、生態の解明を掲げ実験を望む明寺と、安全な冷凍保存を選んで未来へ託そうとする榊原は何度も対立的に描かれる。明寺は『雪女』の柚木のように死を恐れており、自らの生のためにハネネズミを絶滅させてしまう。明寺は多産説が崩れた瞬間に、長寿への憧れによる自身の取り返しのつかない行為に気づき、絶滅の責任を物理的に背負ったのではないだろうか。
19.九月某日の誓い
小説 2020年 著者:芦沢央
あらすじ
大正時代の屋敷で少女二人の運命を怪死事件が結ぶ芦沢央「九月某日の誓い」。
今回取り扱うのは2022年「新しい世界を生きるための14のSF」に収録されたもの。初出は2020年<小説すばる>
考察
作中では操が久美子を守るために真実を隠していたのに対して、最終場面では久美子が自分と操のために真実を隠すことを決意する。能力の真相という秘密を久美子のために隠していた操と、心の中での操への恐怖を操のために隠していると思いながら実は自分のためだった久美子は対照的に、操の方が堅固に描かれる。しかし、互いに隠していたことを解放することによって二人は秘密を共有する関係になり、互いを信頼して現実に立ち向かえるようになる。無意識への恐怖は『1984』や『儚い羊たちの祝宴』でも強固に描かれるほど普遍的なもので、無意識の能力によって父を殺めたことは久美子のトラウマになるはずだった。だが久美子はその事実を知ると同時に操の思いやりに気づき、操のために能力をコントロールすることでトラウマを克服する。それは同時に、操のために操から一生離れないという誓いになっている。
20.少女禁区
小説 2010年 著者:伴名練
あらすじ
15歳の「私」の主人は、数百年に1度といわれる呪詛の才を持つ、驕慢な美少女。「お前が私の玩具になれ。死ぬまで私を楽しませろ」親殺しの噂もあるその少女は、彼のひとがたに釘を打ち、あらゆる呪詛を用いて、少年を玩具のように扱うが…!? 死をこえてなお「私」を縛りつけるものとは──。
考察
彼女がこちらの世界にいたとき「私」にとって苦痛の象徴だった呪いが、彼女があちらの世界に行ったことによって存在の証となる。しかし、その証を信じられる相手は一人だけだ。
「私」が彼女と過ごすことになったのは、自分が苦痛を受けることで家族を守るためだった。彼女の呪いによる痛みは「私」のみに向けられ、痛みによってのたうち回る「私」の姿は、事情を知らない周囲からすれば奇異に映るだろう。彼女は唯一常に隣に居てくれた「私」に自分を信じさせるために、自分の無実を打ち明けた。「わたしは、ただ一人に、わたしを信じさせられればよかったのだ」という言葉通り、無実の告白も呪いによる存在の証明も、届けたかった相手は「私」だけである。それを示す客観的視点として、死に際の「私」の話を聞く、施療所で働く「わたし」という枠物語の構造がとられている。「わたし」が「私」の話を病ゆえの妄想と考えたように、それはどこまでも孤独で高尚な、二人だけの証である。
春休み課題
1.Self-Reference ENGINE
小説 2010年 著者:円城塔
あらすじ
彼女のこめかみには弾丸が埋まっていて、我が家に伝わる箱は、どこかの方向に毎年一度だけ倒される。老教授の最終講義は鯰文書の謎を解き明かし、床下からは大量のフロイトが出現する。そして小さく白い可憐な靴下は異形の巨大石像へと挑みかかり、僕らは反乱を起こした時間のなか、あてのない冒険へと歩みを進める──軽々とジャンルを越境し続ける著者による脅威のデビュー作、2篇の増補を加えて待望の文庫化!
考察
小説には語られなかった無限の物語が存在する。「私は男である」という文章が存在する以上「私は女である」という文章も存在しうる。これは作中で時間の束が崩壊し無数の時空間が存在することで表現されている。しかし、小説家は無数の物語をすべて読者に提示することはできない。小説家は主人公の性別を一つに特定し、年齢を一つに特定する。そうして無数の世界の中から一つに特定されたものが、読者に提示された小説である。世界の特定は読者の見えないところで行われるため、小説家は実際に提示した一つの世界しか考えていないと誤解されがちではないだろうか。文章を書いたことがあれば分かる通り、実際は常に無数の分岐に直面していて、その都度提示する世界を選択しているし、選択されたものは何度も書き換えられている。「吾輩は猫である」という文章はもともと「吾輩は犬である」だったかもしれないし、私たちは主人公が犬であった場合の展開を想像して楽しむことができる。ifルートに代表される二次創作の隆盛はこれを体現している。重要なのは、提示された作品の展開だけが作者の思想だと決めつけないことである。
2.ユートピア
小説 1516年 著者:トマス・モア
あらすじ
表題の「ユートピア」は「どこにも無い」という意味のトマス・モア(1478-1535)の造語である。モアが描き出したこの理想国は自由と規律を兼ね備えた共和国で、国民は人間の自然な姿を愛し「戦争でえられた名誉ほど不名誉なものはない」と考えている。社会思想史上の第一級の古典であるだけでなく、読みものとしても十分に面白い。
今回取り扱うのは1957年に岩波書店から出版されたもの(訳:平井正穂)。
考察
架空の国という意味で名づけられたこの作品は、五百年もの時を経ることによってユートピアの不在性を別の面から証明してみせたのではいだろうか。
作中で理想的な社会として語られるユートピアは、二十世紀以降にディストピア小説で提起される多くの問題をすでに抱えているように見える。一つ目に奴隷の存在である。社会で一方的に定められた正しさから逸脱した人間は犯罪者として奴隷にされる。
二つ目にプライバシーの排除である。全ての物資が共有財産であるユートピアでは、家すら例外ではない。誰でも自由に入ることができるし、居住する家自体が定期的に抽選で変わってしまう。食事の時間は町の人々が一堂に会し、外の町に出向くにも複数人で記録を残した上でないといけない。
しかし、このような問題点があるからといって『ユートピア』がすでにディストピアを内包していると主張するのは一面的な見方といえる。昔の常識が今の非常識になることは普遍的な事象であり、理想的な社会は時代や地域とともに移り変わる。当時理想郷と認識されていた架空のユートピアですら、時代が変わればディストピアと呼ばれるこの状況こそがユートピアの不在性を示しているといえる。
3.ガリバー旅行記
小説 1735年 著者:ジョナサン・スウィフト
あらすじ
小人たちの国、巨人たちの国、空飛ぶ島の国、馬たちの国…イギリスに妻子を残し、懲りずに旅を続けたガリバー。彼が出会ったおとぎの国々を、誰もが一度は夢見たことがあるだろう。子供の心と想像力で、スウィフトが描いたこの奇想天外、ユーモアあふれる冒険譚は、けれどとびきり鋭く辛辣に、人間と現実社会をみつめている。読むたび発見を新たにする、冒険旅行小説の歴史的名著。抜群に読みやすい新訳版。
今回取り扱うのは角川文庫から2011年に出版されたもの(訳:山田蘭)
考察
本作は一般的に社会風刺を目的としたユートピア文学と考えられている。しかし、『ユートピア』とは違い、作品の成立時点からディストピア文学として書かれたのではないだろうか。
ガリバーは作中で四つの主要な国に訪れるわけだが、その全てを追い出されるか逃げるように出ていくことになる。とくに理想的に描かれたフウイヌム国ですら野蛮なヤフーと同族とみなされ、出ていくように「勧告」を受ける。『ユートピア』のように遥か彼方に理想の国があり、その社会制度を見習おうというものではない。実際にいくつものユートピアを訪れた上で諦観の念を募らせていくのである。これは当時の英国社会への批判どころではなく、普遍的な社会への諦めと捉えるのが自然ではないだろうか。
いくつものユートピアを訪れながらも全てに失念し、理想的なフウイヌム国を訪れた結果むしろ傲慢さが表れ滑稽に描かれるガリバーという構図。社会の改善を一切諦め、ディストピア的な環境で我慢することを余儀なくされた結末。ここに『ユートピア』に感じられるような向上心は見られない。これらの理由から、本作は作品の成立時点からディストピア小説として書かれたものだと考える。
4.1984
小説 1949年 著者:ジョージ・オーウェル
あらすじ
「ビッグ・ブラザーが見ている」党があらゆる行動を監視し、言語も思想も管理された近未来世界。過去の捏造に従事するウィンストンは記憶と真実を留めるため、密かに日記を書き始めた。若い娘ジュリアから意外な愛の告白を受け逢瀬を重ねる中、伝説の反逆組織の男に声をかけられ、禁断の本を入手する。だがそれは恐るべき未来への扉であった──圧倒的リーダビリティの新訳で堪能するディストピア小説の最高傑作。
今回取り扱うのは角川文庫から2021年に出版されたもの(訳:田内志文)
考察
私はこの作品を読んで、ユートピアとディストピアの典型的な違いとして道徳を信じる社会か信じない社会か、主人公が訪問者か居住者か、の二点を挙げられると考えた。
『ユートピア』の住人はみな敬虔で、道徳心に満ち溢れている。ゆるぎない道徳心を前提とした社会では、定める必要すらなく全体主義的でありプライバシーも必要ない。一方『1984』では個々人の道徳などは信用されない。徹底的な監視と拷問によって全体主義を作り上げる。ユートピアとディストピアという一見真逆の社会が同じような制度をしているのは、道徳の絶対性と道徳の不在という片面での極致を描いたものという共通点からではないだろうか。
また、主人公がディストピア社会の一員であり、その中で物語が展開されることも大きな違いである。理想郷を訪れるユートピア文学に対して、ディストピア文学は社会の中で生まれ育つ話が多い。ここで重要なのは、『1984』のような監視社会であれば、自身のディストピア的要素を訪問者から隠すことなど容易いということである。本作の社会も、訪問者の視点で見ればユートピアとして扱われていたかもしれず、『ユートピア』にも訪問者に隠されたディストピアがあるかもしれない。
5.第四間氷期
小説 1958年 著者:阿部公房
あらすじ
現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機械は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。
考察
この作品は一見ディストピア的な未来像を提示するものに見える。しかし実際のテーマは、人間の自己中心的な考え方への批判にあると考えた。
本作にはディストピア的な要素が多く見られる。そして、すべての要素に人間の身勝手さが描かれている。氷河の融解は温暖化を示唆しており、自然より産業発展を優先した人間の身勝手さが問題になる。遺伝子の改造は言うまでもなく被験者の人権を侵害する行為である。また、勝見が予言によって殺されることも、作中では因果応報として描かれる。自分が生み出したものによって被害を受けるという構図は、水棲人間を生み出した現人類が水棲人間に飼われるという予言で変奏される。
この視点から考え直すと、水棲人間に支配される未来をディストピアだと決めつけて抵抗しようとする勝見は、今の価値観に支配されず未来を受け入れる頼木たちに相対化されて、ひどく身勝手に描かれていることが分かる。
ここから本作は勝見を通して、「自己中心的な常識に依って未知の対象を非難すること」を批判していると考えられる。これはユートピア文学批評に対する鋭い批判にもなっている。
6.わたしを離さないで
小説 2005年 著者:カズオ・イシグロ
あらすじ
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設へールシャムの親友トミーやルースも「提供者」だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく。
今回取り扱うのはハヤカワepi文庫から2008年に出版されたもの。(訳:土屋政雄)
考察
本作はユートピアの犠牲者を描いていることが特徴といえるだろう。医療の発達した英国社会で臓器提供を目的に作られたクローン人間を育てる施設ヘールシャムでの思い出を、キャシーの一人称視点で振り返っている。施設を卒業してから時間が経ちながらも、まだ提供者になっていないという特殊な立場は、黄金時代と人生の終末の狭間であり、ユートピアとディストピアの中間だと考えられる。作品世界が具体的に描かれないためキャシーの語りからの推測にならざるを得ないが、『1984』の考察で示した分類に従うと「信じない・居住者」になるだろう。しかし、本作はこれまでのユートピア文学に見られるような極端な社会と比べて、私たちの社会に近しい。完全に「信じない」というよりも「見て見ぬふりをする」というのが正確だろう。ヘールシャムで行われた展示会はまさしく、「見て見ぬふり」をされて消えかけている道徳に訴えかけるための行事であった。キャシーは提供者となって死にゆく恐怖を和らげるために、ヘールシャム時代の思い出を理想化する。ヘールシャム時代と提供者の隙間に時間軸を置いたからこそ、読者の共感を誘えたのではないだろうか。
7.虐殺器官
小説 2007年 著者:伊藤計劃
あらすじ
9・11以降の“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……彼の目的とはいったいなにか? 大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは? 現代の罪と罰を描破する、ゼロ年代最高のフィクション
考察
今作では『わたしを離さないで』と似ているユートピアの犠牲者の問題が描かれていた。『1984』の世界では行き過ぎた監視社会により反乱が生まれていないが、本作の監視社会ではテロを防げなかった。監視や罰則を与えても、自爆前提の特攻をされるので意味がなかったのである。そこでジョン・ポールはテロを起こしそうな地域で紛争を起こし、アメリカに対するテロを無くした。米国民は戦争を遠い国の話と考え、連続的な日常を生きている。『わたしを離さないで』の社会が施設を見て見ぬふりするのと、『第四間氷期』で勝見が信じるものと同じである。クラヴィスによって虐殺の舞台が反転したことは『第四間氷期』の断絶した未来の訪れに近い。
クラヴィスはこれまでアメリカ上層部の命令という言い訳で、紛争地域の用人を幾度となく暗殺してきた。一連の事件の結果、それがジョン・ポールのやり方と変わらないことに気づく。その罪を償うために自分の意志でアメリカ社会に虐殺の舞台を移し、母の死というトラウマを克服するという繋がり方が綺麗である。
8.ハーモニー
小説 2009年 著者:伊藤計劃
あらすじ
21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはすの少女の影を見る――『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
考察
本作は『ユートピア』社会の極致を描いたように感じる。徹底的な道徳心に加え病気も怪我もない優しい世界である。しかし『ユートピア』で危惧したように、道徳観に息苦しさを感じる子どもたちが増えて自殺者が増えていた。道徳を信じる社会の居住者であるからこそ、『ユートピア』で描かれなかったディストピア的要素が見えてくる。作中最も重要な人物である御冷ミァハは自殺を無くすために人間から意識を無くそうとするが、これはフウイヌム国をさらに進めたものに見える。絶対的な理性に従っていたフウイヌム国のように、意識のなくなった社会では戦争も議論も自殺もない。意識のない世界は我々にはディストピアに感じるかもしれないが、感情や意識が進化の過程で一時的に必要になっただけだとすれば、必要になった段階でまた生まれるだろう。意識が神秘的で必須のものであるという感覚を覆す作品だった。
9.なめらかな世界と、その敵
小説 2015年 著者:伴名練
あらすじ
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの一度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳󠄁銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曽有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6編。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。
1作目。今回取り扱うのは2022年にハヤカワ文庫から出版された文庫『なめらかな世界と、その敵』に収録されたもの。2019年には同書の単行本が早川書房から出版されているが、内容に一部修正が入っている。初出は2015年『稀刊奇想マガジン準備号』。
考察
この作品最大の魅力は、現実世界の読者を作品世界のユートピアの犠牲者に仕立て上げたことだと考える。
本作は「並行世界を自由に行き来できる」世界でありながら、それができない人を描いている。この作品世界の人間たちは、自分が死にそうになれば自分が死にそうになっていない世界に行く。誰かが亡くなっても、その人が亡くなっていない世界に行ける。彼らは常にいくつかの世界を歩んでいて、授業を聞きながらアルバイトをこなし、アルバイトをこなしながらゲームをする。
このいかにも魅力的な「なめらかな世界」での「なめらかな」青春を描けば、それだけで面白くなりそうである。しかし、著者はそこに「その敵」である乗覚障害を加えた。障害を負い並行世界の移動ができなくなった人間にとって、現実は今いる世界だけであり、命は一つ限りである。これは我々読者の生き方と同じであるはずなのに、「なめらかな世界」の人間に相対化されて悲惨で孤独なものに感じられる。乗覚障害を負った人間は一度きりの人生を失敗しないよう、人との関りを断ち、勉学に集中する。同じ一度きりの人生でも周囲の環境次第でここまで感じ方が変わるのかと驚いた。
10.美亜羽へ贈る拳銃
小説 2011年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
3作目。初出は2011年『伊藤計劃トリビュート』。
考察
この作品では道徳を信じる社会から道徳を機械に任せる社会への変化と葛藤が描かれている。すでに機械に頼っていた社会は、ウェディング・ナイフの登場で決定的に道徳を信じない社会へ変化した。機械による確実な愛があるからこそ道徳的な、確証のない愛は誰にも信じられない。そんな中で機械の影響を受けない実継は自由な意思を持っていると書かれる。本作が『ハーモニー』へのトリビュートであることを考えると、実継は『ハーモニー』のような意識のない世界に抵抗しているようにも感じる。自由に感情を変えることができるユートピア社会の中で、それができない実継は犠牲者のようでありながら、だからこそ北条美亜羽に振られて神冴美亜羽を愛することができたのだろう。実継が機械によって神冴美亜羽を愛していたら、神冴美亜羽が実継に隠していたことは全て隠されたまま暮らすことになっていただろう。
11.ホーリーアイアンメイデン
小説 2017年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
4作目。初出は『年間日本SF傑作選91~99を編む パイロット版』。
考察
本作で行き着いた社会は『ハーモニー』に似ている。鞠奈の能力を受けた人は道徳的に変化し、その影響が全世界にまで及べばユートピアが完成する。しかし鞠奈は能力による道徳心が正しいものと信じられず、全人類の心を変化させるという罪を犯さないために妹の琴枝にだけは能力を使わなかった。これは人類の意識を失くすのに抵抗のなかったミァハと対照的である。みなが道徳心を手に入れた社会で一人だけ能力の影響を受けないというのは、琴枝にとってユートピアの犠牲者になるのと同義であり、琴枝はそれを拒んで死を選んだ。これは『ハーモニー』の三人に似ている。また、ユートピアへの過渡期を描いているという点では『第四間氷期』『美亜羽へ贈る拳銃』に共通する。特に『美亜羽へ贈る拳銃』は『ハーモニー』と同じく意識を環境に託しており、鞠奈の能力に道徳心を託す本作とも近い。
12.シンギュラリティ・ソヴィエト
小説 2018年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
5作目。初出は『改変歴史SFアンソロジー パイロット版』。
考察
本作ではシンギュラリティを超えた人工知能が人間を支配し、人間がちっぽけな存在になった世界を描いている。命を賭して敵国に復讐しにきたマイケルの人生や、それに対峙するヴィーカの運命はすべて人工知能に操られている。物語の大半をマイケルとヴィーカの個人的な存在意義を描くのに費やしたからこそ、誕生日を祝うためだけにソヴィエト全土を停電させ、七つの火を灯すために各地でテロや事故を起こさせた上で、それを一息で消してしまう人工知能の規模の大きさが強調される。全国民が同一の人工知能に脳を預けている本作の社会では、個人は人工知能を構成する細胞の一つにすぎない。そんな世界の中でも、姉の言葉に支えられ娘の誕生日に歌を歌う個人的な流れが生きていることに人間らしさを感じた。誕生日を盛大に祝おうとする気持ちに、本作の人工知能が人間の集合であることが見受けられる。
13.ひかりより速く、ゆるやかに
小説 2019年 著者:伴名練
あらすじ
同上。
6作目。初出は2019年の『なめらかな世界と、その敵』単行本。
考察
本作では速希と速希の叔父、薙原の三人が対照的に描かれている。個人的な問題のために事故を小説にした速希、個人的な興味のために事故の再現をしようとした叔父、天乃のために解決策を考え続けた薙原。最終的には叔父から事故の解決法を、薙原から意思を受け継いだ速希が天乃を助け出すことになる。事故を題材にした小説の中で、速希は電車を2700年待つ選択をしていた。それに対する薙原の激怒によって、速希は「待つ方の人間」から「止まってられない人間」になることができる。しかしそれと同時に、薙原が貶した架空の想像力によって叔父は解決法を見つける。薙原の自己を犠牲にしてまで現実に向き合う意思と叔父の想像力を統合できたからこそ、速希は天乃を救い出すことができた。「止まってられない人間」の天乃に嫉妬と恐れを抱いていた速希は、同じく「止まってられない人間」である薙原と叔父の影響を受けることで天乃に向き合うことができた。
14.冬至草
小説 2002年 著者:石黒達昌
あらすじ
1926年の北海道、ある医師の診療所に運ばれてきた女は特異な症状を示していた……圧巻の幻想SF「雪女」、人の血液を養分とする異様な植物をめぐって科学という営為の光と影を描いた「冬至草」のほか、論文捏造事件を予見した「アブサルティに関する評伝」、架空生物ハネネズミを横書き論文形式で語り大江健三郎・筒井康隆に絶賛された芥川賞候補作など、伝説的作家による全8編を集成! 伴名練渾身の解説40p超を併録。
2作目。今回取り扱うのは『日本SFの臨界点 石黒達昌』(2021,編:伴名練)に収録されたもの。初出は2002年<文學界>。
考察
タイトルにもなっている冬至草は科学技術発展のメタファーになっていると考えた。冬至草は自らの種の繁殖のために、DMEという周囲の植物の生育を妨げる毒性の物質を持っている。この物質は濃度が濃くなると自家中毒を起こすため、冬至草が一時の繁栄の後急激に個体数を減らした原因と考えられている。また、冬至草は体内に放射能物質であるウランをため込み、濃縮度の高い葉や花が青白く光るという特徴を持つ。これによって遺伝子には細かい傷が無数についていて、遺伝子の再生がほぼ不可能になっている。冬至草がこのような生態である理由は明かされないが、これらの生態には自己破滅という共通点がある。この作品では、自らの繁栄のために他者を顧みず科学を発展させる人間を冬至草に例え、そこに絶滅と再生不能という結末をつけているのではないだろうか。
15.アブサルティに関する評伝
小説 2001年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
4作目。初出は2001年<すばる>。
考察
真実を絶対視しているアブサルティは、相対的に過程や個性を無駄なものと見做している。個々の事例や方法に差異があっても、真実に辿り着けば差異に意味はなく、真実を広めるためなら嘘を吐いてもいいと考えている。彼が「絶対者」と表現する純系マウスはすべてが同じ遺伝子を持っていて個性がない。主人公がしたような告発や嫉妬も起きることのない、繁殖というマウスにとっての真実を求め続ける組織である。それは「アリストテレス」という雑誌でアブサルティが提示した未来像に合致している。そこに描かれるのは、密室で必要な栄養と快楽を十分に与えられながら種のための仕事に従事し、他者と自己の区別も行われずに死に、その全てが観察され次のクローンに引き継がれる社会である。彼は一般的にディストピアと考えられる、個性も自由も否定し真実のみがある社会にユートピアを見出したのではないだろうか。
16.或る一日
小説 1999年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
5作目。初出は1999年<文學界>。
考察
この作品は原子力事故のようなものが起こった場所の簡易的な診療所に、他国の医師である主人公がやってくる。診療所にいる子どもたちは治るあてもなく次々死んでいき、働いている医師でさえも主人公以外は汚染の影響を受けている。主人公は自国から汚染されていない食料が届きマスクもしていて、ディストピアに訪問している状態である。そこで生活する子どもたちは健気に遊んでいるが、それは次々死んでいく。安全な国から来た主人公の目でその死は淡白な出来事として描かれ、自らは安全な故郷への思いを募らせていく。主人公は『虐殺器官』のクラヴィスに似ていて、仕事柄犠牲の現場に出てきているものの、安全で清潔な装備に囲まれ、国に帰れば穏やかで連続的な日常が待っている。ディストピアの訪問者でありながらユートピアの居住者でもある。自らの普遍的な社会を守るという点ではウィリアムズに近いだろう。
17.雪女
小説 2000年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
7作目。初出は2000年『人喰い病』。
考察
この作品では人間の長寿に対する憧憬が描かれながら、自然に手を出すことの恐れが表現されている。体質性低体温症を持つユキは代謝が低く、200年近く生きていると推定される。その生殖は解明されていないものの、症例が稀有なことから近親相姦であると推測されており、生まれてくる子供は自己の身体の複製に近い。医師である柚木はユキの特徴を人間の延命に活かせるのではと考え、精力的に生態解明にあたる。しかし調査を進めるほどに、姉弟間の近親相姦に伴う死体食という絶望的な推論に近づいていき、無為な時間を引き延ばされる長寿への恐れも抱いていく。最終的には自分が干渉したせいでユキの出産が失敗する可能性に思い当たり、未知の生命へ手を出し滅ぼしてしまうことへの後悔が残される。永遠の生への憧れと人間が手を加えることによる絶滅というテーマはハネネズミでも変奏され、雪女に手を出すことで殺害される男という伝承にも似た構図が見られる。
18.平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,
小説 2021年 著者:石黒達昌
あらすじ
同上。
8作目。初出は1993年<海燕>。
考察
ネズミは人間と違って、個体の識別がなされていないという。他者のないネズミには自己もなく、個体が死んでも種として残っていれば死んでいない細胞と同じようなものである。反転すれば、種の最後の一匹が死んでしまえばそれまで生まれてきたすべてのネズミが一度に死ぬことになり、種の絶滅より自分の死が重いと感じる人間とは対照的である。
対称性について顕著に書かれているのが、最後までハネネズミ研究に従事した明寺と榊原である。標本がわずかしかないという状況で、生態の解明を掲げ実験を望む明寺と、安全な冷凍保存を選んで未来へ託そうとする榊原は何度も対立的に描かれる。明寺は『雪女』の柚木のように死を恐れており、自らの生のためにハネネズミを絶滅させてしまう。明寺は多産説が崩れた瞬間に、長寿への憧れによる自身の取り返しのつかない行為に気づき、絶滅の責任を物理的に背負ったのではないだろうか。
19.九月某日の誓い
小説 2020年 著者:芦沢央
あらすじ
大正時代の屋敷で少女二人の運命を怪死事件が結ぶ芦沢央「九月某日の誓い」。
今回取り扱うのは2022年「新しい世界を生きるための14のSF」に収録されたもの。初出は2020年<小説すばる>
考察
作中では操が久美子を守るために真実を隠していたのに対して、最終場面では久美子が自分と操のために真実を隠すことを決意する。能力の真相という秘密を久美子のために隠していた操と、心の中での操への恐怖を操のために隠していると思いながら実は自分のためだった久美子は対照的に、操の方が堅固に描かれる。しかし、互いに隠していたことを解放することによって二人は秘密を共有する関係になり、互いを信頼して現実に立ち向かえるようになる。無意識への恐怖は『1984』や『儚い羊たちの祝宴』でも強固に描かれるほど普遍的なもので、無意識の能力によって父を殺めたことは久美子のトラウマになるはずだった。だが久美子はその事実を知ると同時に操の思いやりに気づき、操のために能力をコントロールすることでトラウマを克服する。それは同時に、操のために操から一生離れないという誓いになっている。
20.少女禁区
小説 2010年 著者:伴名練
あらすじ
15歳の「私」の主人は、数百年に1度といわれる呪詛の才を持つ、驕慢な美少女。「お前が私の玩具になれ。死ぬまで私を楽しませろ」親殺しの噂もあるその少女は、彼のひとがたに釘を打ち、あらゆる呪詛を用いて、少年を玩具のように扱うが…!? 死をこえてなお「私」を縛りつけるものとは──。
考察
彼女がこちらの世界にいたとき「私」にとって苦痛の象徴だった呪いが、彼女があちらの世界に行ったことによって存在の証となる。しかし、その証を信じられる相手は一人だけだ。
「私」が彼女と過ごすことになったのは、自分が苦痛を受けることで家族を守るためだった。彼女の呪いによる痛みは「私」のみに向けられ、痛みによってのたうち回る「私」の姿は、事情を知らない周囲からすれば奇異に映るだろう。彼女は唯一常に隣に居てくれた「私」に自分を信じさせるために、自分の無実を打ち明けた。「わたしは、ただ一人に、わたしを信じさせられればよかったのだ」という言葉通り、無実の告白も呪いによる存在の証明も、届けたかった相手は「私」だけである。それを示す客観的視点として、死に際の「私」の話を聞く、施療所で働く「わたし」という枠物語の構造がとられている。「わたし」が「私」の話を病ゆえの妄想と考えたように、それはどこまでも孤独で高尚な、二人だけの証である。
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