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3年 佐藤希実 RES
1、『ときめきメモリアル Girl's Side 1st Love for Nintendo Switch』(ゲーム)制作:コナミデジタルエンターテインメント

【概要】
はばたき市という架空の街にあるはばたき学園を舞台に主人公の女の子が高校3年間を過ごしながら、男の子たちを攻略していく恋愛シュミレーションゲーム。Girl’s Sideシリーズ(以下GSシリーズとする)の初代にあたる2002年発売の『ときめきメモリアル Girl's Side』(PS2版)を移植した2007年発売の『ときめきメモリアル Girl's Side 1st Love』(ニンテンドーDS版)、フルボイス化版で2009年発売の『ときめきメモリアル Girl's Side 1st Love Plus』(ニンテンドーDS版)を更に高音質化などをして移植したものが本作である。(以下本作品名はGS1とする)ときめきメモリアルシリーズに共通する伝説の場所には学園の敷地内にある教会が設定されていて、伝説の物語も、教会に関連する話になっている。
ニンテンドーDS版とPS2版で物語の本筋は同じであるが、システムに関しては異なる部分がいくつか挙げられる。
まず、EVSである。EVSとはプレイヤーが入力した主人公の名前をコンピューターが作成した合成音声でキャラクターが呼んでくれるというもので、ニンテンドーDS版ではおそらく容量の問題で実装されなかったと思われる。そして、ニンテンドーDS版では男の子からの名前の呼ばれ方が1つしかなく、PS2版にあった男の子の好感度による主人公の名前の呼び方の変化は無くなっている。
次に、ニンテンドーDS版で搭載されたタッチイベントと親友モードである。タッチイベントは、スチルイベントやデートの際に男の子にタッチすると、反応が見られるというもの。このイベントが親友モード時に重要になったり、キャラクターのEnd回収に必要なポイントを左右したりする仕様になっている。また、親友イベントは、主人公に本命の相手がいることを知った男の子が、主人公のことを好き、または気になっている状態にも関わらず、身を引き、親友の立ち位置になって主人公を応援してくれるというもの。タッチイベントで得られる愛情ポイントが増えると、親友モードでの男の子との会話が変化するなど、細かく設定されている。これらの他にも主人公の服やBGM、キャラクターの表情差分など細かなところが少しずつ異なる。
本作の攻略対象である男の子は10人で、GSシリーズの中では唯一、学園の理事長が攻略対象に入っていることが特徴としてある。そして、主人公の友達という設定の女性キャラクターも存在し、VSモードという女友達から恋の宣戦布告をされ、敗れると特定の攻略対象が攻略できなくなる要素がある。

【考察】
GSシリーズは男主人公で女の子を攻略していく『ときめきメモリアル』のゲームシステムを引き継いでいて、勉強、芸術、おしゃれ、流行、運動、魅力、女友達と遊ぶ、休養、部活や文化祭などによって変化する専用コマンドなど、これらのコマンドを選択肢し、主人公のパラメータを上げていく。パラメータによって男の子との会話に変化が起こるのは面白いと感じる。そして、狙いの男の子とどんなにたくさんデートして、告白未遂のような会話をしたとしても、男の子が主人公に求めるパラメータ値に届かなかった場合は、男の子と過ごした日々は最初から無かったことかのようなエンディングを迎える。そのゲームシステムの残酷さが本作のフィクション性を高めているようにも感じた。
そして、36歳の学園の理事長、天之橋一鶴というキャラクターが攻略対象に入っていることは、制作当時の時代性を感じさせる。天之橋一鶴は主人公に気配りと魅力のパラメータを求めるのだが、プレイヤーのほとんどは気配りを上げやすくするためにアルバイトをするか、部活に入る選択をする。このどちらかに入れば、気配りは自然と上がっていくため、プレイヤーは魅力のパラメータ値を上げることに集中する。ここで問題なのが、主人公の魅力(この魅力は、コマンド実行時に表示される主人公の行動から外見的な魅力であると捉える)のパラメータ値が上がることで、高校生の主人公をデートに誘ってくるなどのアプローチをしてくる36歳の男性という構図が完成してしまうことだ。この図は既存のプレイヤー内でも嫌悪感を示す声が上げられる。現代でこのような成人男性が女子高生と恋愛をするという設定を、高校を舞台にした恋愛シュミレーションゲームに入れたのであれば、間違いなく、多くの批判を受けるだろう。しかし、2002年頃にはそこまで大きな問題ではなく、あくまでゲーム、キャラクターというフィクションであるという認識の下、このキャラクターを作成したのかもしれない。この点に関しては詳しくはわからないが、現代の価値観と大きく異なる当時の様相がうかがえる。


2、『ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Season for Nintendo Switch』(ゲーム)制作:コナミデジタルエンターテインメント

【概要】
 ゲームシステムや移植までの流れは、前作の『ときめきメモリアル Girl's Side 1st Love for Nintendo Switch』とほとんどが同じであり、2006年にPS2版『ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Kiss』が発売され、その後PS2版を移植した2008年にニンテンドーDS版『ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Season』が発売された。本作のSwitch版はニンテンドーDS版を基盤にしている。スピンオフ作品として、2007年にはPC用タイピングソフト『ときめきメモリアルGirl's Side 2nd Kissタイピング』が発売された。(以下本作品名はGS2とする)
 本作は、はばたき市の羽ヶ崎学園が舞台であり、前作のはばたき学園よりも庶民的な学校と言う設定である。伝説の場所は海辺の灯台になっていて、伝説の物語の内容も海や人魚に関する話になっている。攻略対象のキャラクターは11人である。
 前作に追加された要素として、PS2版ではアプローチシステム、ニンテンドーDS版では大接近モードが挙げられる。

【考察】
 本作では、前作よりもキャラクターの心情がよく描かれ、ストーリーも主人公が攻略対象の理解者になるというドラマ性があった。特に、本作には自分の本性を隠して、他社の理想を演じるキャラクターが3人もいる。この自分を隠し、演じるというキャラクター設定は今や、乙女ゲームなどでは鉄板化した設定のようにも思われるが、同じ作品にその設定のキャラクターが複数人いるというのは珍しいと感じる。前作よりもキャラクターに現実味をもたせたことは、プレイヤーの没頭感を増させるという狙いがあったのではないかと感じる。


3、『ときめきメモリアル Girl's Side 3rd Story for Nintendo Switch』(ゲーム)制作:コナミデジタルエンターテインメント

【概要】
本作は、2010年に発売されたニンテンドーDS版である『ときめきメモリアル Girl's Side 3rd Story』を基盤とし、2012年に新しい攻略対象やLive2Dなどが加えられたPSP版の『ときめきメモリアル Girl's Side Premium 3rd Story』の1部がNintendo Switchにも移植され、制作された。(以下、本作品名はGS3とする。)本作の舞台はGS1と同じく、はばたき学園となっているが、伝説の内容は異なる。攻略対象は追加キャラも含めると11人である。主人公の幼馴染で1番最初に強制イベントで出会う王子キャラが2人いることが特徴。
本作では、新しいシステムとして三角関係モードがある。主人公が2人の男子と仲良くなると、3人で休日に出かけたり、3人で下校したり、などのイベントが起きるようになる。しかし、主人公が1人とだけ偏って仲良くしてしまうと、3人の関係性も変化し、しまいには主人公を取り合って仲違いをするというイベントもある。

【考察】
 本作のみ、三角関係モードがゲームシステムに導入されたことに関しては、2006年から2017年まで連載された『君に届け』など、2010年代に人気を博した作品に見られる、主人公が2人の男子に好意を寄せられる少女漫画の構図を取り入れたものだと考察する。
それは後作の『ときめきメモリアル Girl's Side 4th Heart』(以降GS4とする)でも続いた流れであり、DS版GS3の発売後、現在でも人気である、男性キャラクターたちの中にプレイヤーが混ざってストーリーが進んでいくような、女性向けアプリゲームが多くリリースされ始めた。GS4では、仲良しグループという、男の子3人、主人公(女の子)1人で仲良くなることで、4人でのイベントが見られるようになるというシステムが新たに導入された。この仲良しグループではGS3での三角関係モードとは違い、結成すると、全員が主人公を好きになったとしても解散することはなく、1番好感度が高い男の子と関係を進めていくことができる。エンディングでは恋に敗れた男の子2人が主人公ともう1人の恋路を応援したということがわかるセリフも書かれる。この仲良しグループでは、主人公と男の子の関係性の悪化が描かれない。それは女性向けアプリゲームの主人公の、男性キャラクターたちに必要とされるという特性が、GS4の主人公にも引き継がれているのだと考えられる。私は、GS3、4はその年代の流行りを巧みに取り入れた作品だと考察する。

4、『マダム・ウェブ』(映画)(2024年)監督:S・J・クラークソン

【あらすじ】
ニューヨークで救急救命士として働くキャシー・ウェブ(後のマダム・ウェブ)は、ある時、救命活動中に生死を彷徨う大事故に巻き込まれてしまう。それをきっかけに、キャシーは予知能力、未来視の能力を得る。そして、キャシーは偶然にも出会った3人の少女たちが、黒いマスクの男に殺される未来を見たことで、少女たちを助けることを決意する。予知能力という特殊能力を使い、何度も危機を回避していく。謎の男の目的や正体を暴くことで、少女たちの使命やキャシーの出生の秘密も明らかになっていく。

【考察】
 本作は他のスパイダーマン作品とは異なり、目立つ戦闘シーンは少なく、映画の見栄え的な問題から、ホラーの要素が加わったのだろうと思った。そして、キャシーが3人の少女の死を予知して助けることに関して、きちんと能力を獲得した初期段階で救えなかった命があることでキャシーの行動に納得がいく作りになっていた。
また、新しい命を生む存在である女性が主人公の作品であるため、キャシーが救命士であることやキャシーの母が自分の命を犠牲にしてキャシーを産んだこと、予知能力によって3人の少女の死を何度も見せる死の近さの演出など、命の重みを感じさせる描写が多くあったと思った。


5、『落下の解剖学』(映画)(2023年)監督:ジュスティーヌ・トリエ

【あらすじ】
 人里離れた雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳のダニエルが血を流して倒れていた父親を発見する。息子の悲鳴を聞いた母親サンドラが救助を要請するも、父親はすでに息絶えていた。事故死や自殺と思われたが、不審な点も多くあったため、サンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。必死に自らの無罪を主張するサンドラだったが、裁判で仲むつまじいと思われていた家族像とは裏腹の、夫婦のあいだに隠された秘密や嘘が明らかになっていく法廷劇。

【考察】
 物語が始まって、すぐに夫の転落死という事件が起こり、盲目の息子が第1発見者となる。誰も事件を見ていないことから、観客は真相解明や犯人探しに夢中になって、話の展開を追うが、本作のラストはサンドラが無罪判決を受けて物語が終わる。なぜ、夫は転落死したのか、詳しく明かされることは無かった。物語の中盤から、サンドラの犯人疑惑が濃くなり、夫婦仲が冷めきっていたことやサンドラの不倫などが明かされ、話の軸が夫の死の真相からサンドラの罪に移っていくさまがあまりに自然で、観客はこの映画が真相を明かさないラストへ進んでいることには全く気づかない。
ラストについては、真実というものへの問題提起がなされているように感じた。事件に関わる人物ごとに真実があり、ときには検察官の提示する事実とは異なる場合もある。この作品を見る観客もラストを見てもなお、サンドラが犯人だと思う人もいれば、事故や自殺の可能性を見出す人もいるかも知れない。私は、本作は、前述したことのように人によって異なる真実があるということを丁寧に描いた作品だと考えた。また、サンドラは作家であるため、目撃者が誰もいないこの事件はいとも簡単に、彼女の作り上げられた真相へと導かれてしまった可能性がある点も興味深いと感じた。


6、『劇場版SPY×FAMILY CODE:White』(映画)(2023年)監督:片桐崇

【あらすじ】
イーデン校では、優勝者にステラが授与されると噂の調理実習が実施されることになった。アーニャはステラを獲得するべく、審査員長である校長の好物、フリジス地方の伝統菓子メレメレを作ることを決める。本場の味を再現するために、フォージャー家はフリジスへ向かうことになるが、旅行の途中、列車内でアーニャが怪しげなトランクケースに入ったチョコレートを食べてしまう。そのチョコレートには世界平和を揺るがす重大な秘密が隠されていて、フォージャー家は国家レベルの争いに巻き込まれてしまう。

【考察】
見たときに、『クレヨンしんちゃん』の少し下品な描写と劇場版の『名探偵コナン』に見られる爆発シーンのような派手さが合わさった作品だと思った。原作よりも大幅に低年齢向けに作品づくりがされていた印象だった。特に、アーニャが便意を我慢するという場面ではアーニャの我慢する表情や愚鈍な様子が原作よりも誇張されて描かれていた。また、キャラクターの心理描写が少なく、なぜその行動をするに至ったのか、不明なまま物語が進んでしまい、原作でキャラクターが持っていた設定などからキャラクター本体が切り離されてしまっていた。本作は原作やアニメを見ていない、新たなファンの獲得を目的として制作されたのだろうと思う。


7、『屋根裏のラジャー』(映画)(2023年)制作:スタジオポノック 監督:百瀬義行
原作『The Imaginary』(訳題:『僕が消えないうちに』)著:A.F.ハロルド

【あらすじ】
 少年ラジャーは、愛をなくした少女アマンダによって生み出された想像の友達(イマジナリ)だ。ラジャーは屋根裏部屋でアマンダと一緒に想像の世界に飛び込み、遊ぶ毎日を送っていた。しかし、イマジナリには人間に忘れられると消えていくという、避けられない運命があった。ある時、アマンダが交通事故に遭ったことで、ラジャーは自分が消えてしまう危機に直面する。ラジャーは人間に忘れられ、居場所がなくなったイマジナリが集まるイマジナリの町にたどり着き、仲間に出会ったことで、イマジナリの運命に立ち向かう決意をする。

【考察】
 それぞれの子どもが、抱える不安や孤独、恐怖という現実から目を背け、安らぎを得るための存在としてイマジナリが描かれているのだと感じた。ラジャーを想像したアマンダは、父親を亡くしていて、ラジャーが生まれたのは3ヶ月と3週間と3日前とあるが、この日はアマンダの父親の命日だということが終盤に明かされる。そして、イマジナリのジンザンは眠らないキャラクターとして設定されているが、それは子供が夜、寝るときに見守る存在として想像されたとある。
そんなイマジナリを食べる存在のミスター・バンティングは現実を強制的に直視させる大人の表象であると感じた。本作では子どもから大人になるにつれ、イマジナリをだんだんと忘れてしまうことが描かれる。アマンダの母親リジーはアマンダの話すイマジナリの存在を信じずに、軽くあしらう様子が見られる。アマンダに対して、決して「現実を見なさい」などと口にすることはないが、どこかに、夫を喪ったことから完全に立ち直れていない自分と空想に耽る娘とに心の距離を感じているような気持ちがあることが予想される。大人が子どもに感じる不安や心配の気持ちがイマジナリを食べるミスター・バンティングによって表象され、子どもを現実へと引き戻していくのだと考えた。
 イマジナリが抱える、忘れられると消えてしまうという問題についてはラストに、アマンダの母親リジーが自分の幼少期のイマジナリであるレイゾウコを思い出したことで、イマジナリの未来に新たな可能性が提示されたのだと考える。また、アマンダが交通事故に遭い、意識を失ってしまったことで、ラジャーが消えそうになる場面があったが、このことは創造主のアマンダが生死の境を彷徨っていたからだとも捉えることができるが、イマジナリ自身の子どもに忘れられてしまったという感覚も消える要因の1つではないかとも考えられる。イマジナリ自身が孤独や不安感を抱えることは子どもを見守り、楽しい想像の世界に導くというイマジナリの特質からは大きく外れてしまう。イマジナリとしての存在意義の喪失や役割を果たせなくなった際に、イマジナリは消えてしまうのではないかと思った。
 スタジオポノックの作品であるため、人物の目や輪郭、鼻の位置や描き方はやはりジブリに似たものだが、色彩に関しては、ジブリと異なり少し影色にぼかしが入っていたり、少し淡いような配色であったりするため、絵本にあうような絵のタッチに思えた。それはイマジナリの存在や思ったことがそのまま現れる想像の世界が描かれる原作の世界観にとても合っているように思った。


8、『ウィッシュ』(映画)(2023年)監督:クリス・バック、ファウ・ヴィーラスンソーン

【あらすじ】
 18歳を迎えたときに王に自分の願いを授け、時が来たときに願いを叶えてもらえるという魔法の王国ロサスに暮らす少女アーシャの願いは、100才になる祖父のサビーノの願いが叶うことだった。しかし預けられた願いはすべて魔法を操るマグニフィコ王に支配されており、国のためにならない願いは叶えられることはないという衝撃の真実をアーシャは知る。魔法に頼らなくても叶うはずのみんなの願いを取り戻したいというアーシャの願いに応え、空から舞い降りてきたのは“願い星”のスターだった。アーシャはスターや仲間とともに立ち上がり、マグニフィコ王から願いを取り戻そうと動き出す。

【考察】
この映画の評価として度々耳にするのは、「マグニフィコ王は国に良い事をもたらす願いのみを叶えるという実に理に適った良い国王ではないか、それに歯向かうアーシャこそヴィランではないのか」ということだ。しかし、ディズニー作品は「星に願いを」の曲で始まり、様々な作品のディズニーキャラクターたちは空を見上げ、星に願いをかけてきた。それがディズニーのテーマである。そう捉えるとマグニフィコ王に願いを託し、自身の願いを忘れ、喪失感を抱えるロサス王国の人々は救われなくてはならないキャラクターと言えると感じた。アーシャが星に強く願うシーンやスターというキャラクターが設定されたことなどからディズニーは100周年を迎えた記念的な作品で、空を見上げて星に願いをかけることこそがディズニーの普遍的なテーマであると改めて強調したのだと感じた。   
また、本作の特典映像では、制作陣によってマグニフィコ王の設定が語られ、従来のディズニーのヴィランとは違った形で設定されたことがわかった。制作当初、マグニフィコ王は登場した瞬間からヴィランであることが観客に明かされ、町の人々を恐怖に陥れる強大な敵としてアーシャの前に立ちふさがる敵として描かれていた。しかし、制作のある段階で、マグニフィコ王が闇に落ちていく様子が描かれるように設定が変更されたのだ。新たなヴィラン像を提示されたことで、観客にはヴィランが悪に染まった背景を理解することが求められることになった。これは世界の多様性への動きに伴う他者理解の重要性への喚起であると考えられる。
 

9、『君と宇宙を歩くために』(漫画/第1巻)著:泥ノ田犬彦

【あらすじ】
 勉強もバイトも続かず、不安や焦りを抱えるヤンキーの小林。ある日、彼のクラスに変わり者の宇野くんが転校してくる。宇野くんのことを知れば知るほど彼の生き方の真っ直ぐさに惹かれ、小林は宇野くんから自分を変えるための勇気をもらう。〝普通〟ができない正反対の2人がそれぞれ壁にぶつかりながらも楽しく生きるために奮闘する友情物語。
 
【考察】
 「わからないことがある時は一人で宇宙に浮いているみたい」という宇野くんのセリフがあるが、日常を宇宙に例えることは非常に上手い表現だと感じた。
本作では、不測の事態に極端に弱かったり、大きな音や怒鳴り声が苦手だったり、手帳に毎日する行動手順や決め事を書き留めていたりする宇野くんを特別な存在、異質な存在として描いていない。また、彼のそんな特性を明確な症状名を明記せずに描いている。加えて、バイトの業務をなかなか覚えられずにバイトを何度も変えてきたという生きづらさを抱える主人公の小林を通して宇野くんを描くことによって、少し変わった宇野くんというキャラクターをバイアスがかからずに知ることができると感じた。

10、『アイ・フィール・プリティ!人生最高のハプニング』(映画)(2018年)監督:マーク・シルヴァースタイン、アビー・コーン

【あらすじ】
 冴えない容姿を気にして消極的だった女性レネーが、痩せるためにジム通いを決意。しかし、トレーニング中の事故で頭を強打してしまったことで、自分自身が絶世の美女に変身したと思い込み、その後の生活はたちまち自信に溢れるものとなり、着たかった服、やりたかった仕事に次々挑戦していく。実際には何ひとつ変わってないにもかかわらず、自信を持ったことにより、たちまち仕事も恋も絶好調となっていく。

【考察】
 本作では、容姿に悩み、自信が持てずに卑屈気味になっている主人公レネーがスポーツジムで転倒したことで絶世の美女になったと思い込むが、そのレネーの視点は観客には共有されない。しかし、レネーの視点が共有されないことによって、そのままの彼女に自信が加わっただけで、魅力が増し、生命力に満ち溢れる変貌ぶりに驚く。そして、普段使っている言葉には外見至上主義の精神性が潜んでいることにも気づかせてくれる作品だと思った。


11、『華麗なるギャツビー』(映画)(1974年)監督:ジャック・クレイトン

【あらすじ】
「或る男の一生」「暗黒街の巨頭」に続くF・スコット・フィッツジェラルドの小説3度目の映画化。脚本は映画『ゴッドファーザー』(1972年)の監督F・F・コッポラ。
主人公ニックは、ニューヨークの郊外の大豪邸に住むギャツビーに出会い、ギャツビーがニックのいとこであるデイジーとかつて恋人関係だったことを知る。デイジーはすでに大金持ちのトムと結婚していたが、関係はあまりいいものとは言えなかった。ニックはデイジーとギャツビーの中を取り持つことになり二人の再会の手助けを行う。一方で、デイジーの夫トムは自動車修理工場の婦人と不倫の真っ最中であった。デイジーとギャツビーの仲が急速に深まり、ついにギャツビーは、トムにデイジーとの結婚を切り出そうとするが、はっきりしない。そして、登場人物たちの関係性はどんどん歪んでいく。

【考察】
 デイジーは物語の中で感情的な一面を多く見せ、他の人物たちと比べると、幼稚な人物に描かれていると思った。それに関して、デイジーがニックに「娘を馬鹿に育てている」と漏らすシーンがある。この場面でデイジーは一気に大人びた表情を見せ、世の中を俯瞰したような目をする。そうして涙を流すわけだが、この場面にはデイジーの本来の姿が描かれているのではないかと思った。本作が描いた1920年代のアメリカは、合衆国憲法で女性参政権が認められ、女性の社会参加や自立が推進されていた。しかし、そんな社会の流れとは対立したキャラクターとして、デイジーという女性が描かれている。女性参政権が認められたといえども、すぐに人々の間で浸透することはなく、アメリカの上流階級の女性たちは、お金持ちの男性に嫁ぎ、夫の機嫌を損ねないように社会に関する意見を持たないという従来の生き方しか選ぶことができなかったのではと考えられる。デイジーは、女性が社会で認められていく中で、自分は自由な生き方を選ぶことができないために、自分の娘にそんな社会への復讐をぶつけていると思われる。デイジーは、愛するギャツビーが夫の策略により、死しても、それを悲しむ様子は見せず、最初から出会っていなかったかのような淡白さを見せることも、定められた生き方から逃れられずに諦めた末のふるまいであったのではないかと考察することができる。その点をニックが物語の最初に独白する「批判したい相手は同じ恵まれた育ちとは限らない」という言葉が確固たるものにする。デイジーの人生やその辛さのすべてを第三者は知るすべを持たない。デイジーは度々、ニックに本音のようなものを吐露するが、ニックは心から理解しているような素振りは見せない。また、ニックが物語を回想する形式で進んでいく本作は、男性に生まれることほうが生きやすい世の中であったことが暗に示唆されているようにも捉えられる。


12、『ミーン・ガールズ』(映画)(2004年)監督:マーク・ウォーターズ

【あらすじ】
アフリカに住み、学校に通わず、自宅学習のみで育った少女ケイディが、母国アメリカに戻り、初めて高校に通うことになる。学校について何も知らないため、最初は戸惑うものの、ジャニスとダミアンに声をかけられたことで、だんだんと高校に馴染んでいく。そして、ケイディはそこそこ可愛かったために学校の牛耳る女子グループ“プラスティックス”に半ば強制的に加わることになる。そして、プラスティックスの女王バチであるレジーナの元恋人、アーロンに好意を寄せていることを漏らされ、レジーナにバレてしまう。レジーナは二人の仲を取り持つと言っていたにも関わらず、アーロンとよりを戻してしまう。そのことに傷ついたケイディは、ジャニスとダミアンとともにレジーナへの復讐を始める。

【考察】
 ケイディがプラスティックスに加入した後の女王バチのレジーナと情報通のグレチェンの関係性がだんだんと壊れていく様子があまりにリアルで驚いた。権力を持っているレジーナが新入りのケイディを気に入っていることを知った途端、レジーナの良くない情報を漏らし始めたり、愚痴をこぼし始めたりする様子やグレチェンの焦りや不安の表情はまさに学校社会で付き合っているだけの友達関係でよくあることで、この作品を見た女性はもれなくノスタルジックな気持ちになることが容易にわかる。
また、ケイディがレジーナを蹴落とすことに成功し、プラスティックスの女王バチに君臨し、どんどんと約束を破ったり、気取るようになったりしたことで、ジャニスとダミアンとの友情も壊れてしまう。どの友達にも良い顔をしようとして、大事なことをすべて後回しにした結果、誰からも相手にされなくなるという構図は高校生がする失敗にしてはいささか幼稚だと思ってしまうが、そんな学校の友達関係初心者のケイディがいることで、この作品のコメディの面が際立つのだと思った。

13、『最強のふたり』(映画)(2011年)監督:オリヴィエ・ナカシュ、エリック・トレダノ
【あらすじ】
 事故で全身麻痺となり、車椅子生活をする大富豪のフィリップは、住み込みの介護人の募集をする。そこにやってきたのは、スラム街暮らしで、働く気も、フィリップに気を遣う様子も全くみせない黒人青年ドリスだった。フィリップを特別扱いすることなく、他の人々と同じように接するドリスはフィリップの心をだんだんと解きほぐしていく。実話を基にしたヒューマン・コメディ。

【考察】
序盤の面接のシーンで
フィリップ「見送るよ」
ドリス「立たないで座ったままで構わない」
という会話があった。最初の出会いから、ドリスは全くフィリップの身体障害に対して偏見や気遣いなどを持つことなく、接している。また、ドリスがフィリップに紅茶を飲ませようとカップに紅茶を注いでいるとき、フィリップの足に熱いお茶をこぼしてしまうが、熱さを感じないフィリップの足に興味を示して、面白そうに何度も熱いカップを足に押し当てるという行動を取る。また別のシーンではフィリップが「チョコをくれ」と言ったときドリスは「このチョコは健常者用だ」とブラックジョークを言う。このドリスの容赦のなさがフィリップは気に入ったと言って、ドリスは介護士として本採用される。ドリスのこれらの行動は、人種も関係していることだと考えられる。フィリップは豪華で華やかな世界に生きるが、そこには黒人は一人もいない。この作品では人種による格差が描かれている。黒人であるというだけで貧困層のなかで生き、生活苦に陥り、法を犯すこともある。常に偏見の目にさらされ、バカにされ、そんな状況に生きていても偏見に対して抗議するドリスの力強さにフィリップだけでなく、観客も勇気を与えられると感じた。また、ドリスを通して黒人と白人の教育水準が全く異なることや至高と称される著名な芸術家たちは白人が多く、公教育は白人のものだということも同時に感じさせる。
誰かと信頼関係を築いていく社会の中で、1番が無くしていかなければいけないことが差別や偏見だと訴えかける作品だった。本作では、障害者への気遣いの気持ちは差別のように描かれている。


14、『学園アイドルマスター』(ゲーム)(2024年)

【概要】
QualiArts・バンダイナムコエンターテインメントの共同開発・運営によるスマートフォン用ゲームアプリ。「アイドルマスターシリーズ」6ブランド目となる育成シュミレーションゲーム。

【考察】
 2021年にリリースが開始された育成シュミレーションゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』と類似するゲームシステムを引き継いでいる印象だった。
 プレイヤーはプロデューサーとして、特定のアイドルをトップアイドルにするため、奮闘するという流れでアイドルごとに物語は進んでいく(メインストーリーは全く流れが異なるため、ここでは触れない)がその物語中で全く影響がないと思われる、プロデューサーの性別が男性のみに絞られてしまっていた。他にもキャラクターのほとんどがトップアイドルを目指すにも関わらず、プロデューサーと2人きりでお出かけをして、しまいには「デートだね」などの恋愛を匂わすセリフをプロデューサーに向かって言う。完全にアイドルとスキャンダルが切り離されたフィクションが強い作品だと感じた。他にも何故かアイドルに膝枕をしてもらったり、アイドルにお弁当を作ってもらったり、などの描写があり、アイドルと友達以上恋人未満のような関係性を楽しむという完全に男性向けに顧客を絞った作品づくりをしているのだと思った。しかし、成績の振るわなかったアイドルたちがプロデューサーに出会ったことで成長し、大きなステージに立てるようになるという構図は感動や達成感があり、とても面白いと感じた。プロデューサーの性別をどちらともとれるようにする、もしくは、性別を選択式にすれば、より楽しみ方の幅が広がるように思った。


15、『バグズ・ライフ』(映画)(1998年)ディズニー・ピクサー制作 監督:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン

【あらすじ】
 アリ王国に住むアリたちは、ホッパー率いるバッタ軍団に恐怖により支配され、虐げられ、毎年、冬の間の食べ物を集めさせられていた。その収穫期の最中、主人公の発明家の働きアリ、フリックの発明がバッタ用の食料をのせていた石にあたってしまい、食べ物がすべて、水の中に落ちてしまう。他のアリたちから厄介者だと思われていたフリックは裁判にかけられ、国を追放される。しかし、責任を感じたフリックは、故郷を救うため、バッタに対抗する助っ人を探しに、ひとり都会へと旅立った。

【考察】
 アニマルスタディーズが用いられている作品だと思った。アリやバッタ、クモ、イモ虫が人間の言葉を話し、更にその虫たちが暮らす自然界には、都会という概念が存在する。そこでは他の虫たちを乗せて別の場所まで運ぶ、人間界でのバスや鉄道のような役割をする虫が居たり、信号のように青と赤の色を切り替えて虫たちの動きを統制する虫が居たり、そこには人間界での都会と同じように規律を正された交通ルールが敷かれている。また、その都会には居酒屋もあり、客である虫と店員である虫が描かれ、客の虫たちがお酒を楽しむ様子があった。そんな虫たちからはそれぞれの虫が持つ特徴や生態などはほとんど排除され、人間のように振る舞う様子のみがあった。
 そして、虫たちにも体格差などから強さが存在し、主人公のフリックたち、アリは敵役のホッパー率いるバッタたちから虐げられ、エサの穀物を搾取される労働者として位置し、ホッパーたちバッタは他の虫や鳥から守る(建前)代わりに穀物を搾取する支配者として位置する。そしてアリの国の中でも、他のアリは、発明で穀物集めに革新をもたらそうとするフリック(物語中に他のアリたちを扇動するリーダーになる)を「歩く災難」と呼び、疎ましく思っている。バッタたちのリーダーであるホッパーはバッタの中で絶大な権力を持つリーダーで、アリたちが反逆しないように努める。このキャラクターたちの構図はまさに現実の労働社会を表していると思った。ジョン・ハラスとジョイ・バチュラーが監督の『動物農場』(1945年)が思い起こされる作品だった。


16、『シンデレラII』(映画)(2002年)監督:ジョン・カフカ

【あらすじ】
ジャックとガスは、仲間やフェアリーゴッドマザーとともにシンデレラの物語を作ってシンデレラにその物語を本にしてプレゼントしようと思いつく。1つ目の物語は、シンデレラが王子の妃になってから初めてのパーティーを開くことになった。シンデレラはパーティーを開くために、お城の規則やしきたりを侍女から教え込まれる。しかし、その規則やしきたりはなんのために決められているのかわからないものばかり。シンデレラはより楽しく生活するために、どんどん規則やしきたりを変えていくという話。2つ目の物語は、シンデレラの役に立つためにフェアリーゴッドマザーの魔法で人間になったジャックの話。3つ目の物語はシンデレラの義理の姉、アナスタシアが町でパン屋を営む男性に出会い、恋に落ちる話である。
 
【考察】
 宮廷の規則が次々に紹介されていくシーンでは、シンデレラの表情が頻繁に映され、顔には目の下のシワや眉毛の間のシワなど、顔にほんの一瞬、線が入ることでシンデレラの表情を現実の人間に近づけ、視聴者がシンデレラの心情を共有しやすいように、理解できるように、描かれていたと感じた。
アナスタシアがシンデレラと話すシーンでは、アナスタシアは「美人は恋愛で苦労しない、私がもっと美人だったら」と、前作で見せていた意地悪でわがままな態度とはうってかわって自信のなさ、彼女の弱さをシンデレラに明かしている。そしてお城でシンデレラとおめかしをするシーンでは、アナスタシアは自然に笑うことを忘れてしまっていた。彼女が笑うのは誰かを馬鹿にするときなどで、誰かと笑い合ったり、誰かに笑いかけたりすることは無かったのだろうと推測ができる。前作では悪役に位置していた彼女が幸せを掴む様子は、この作品の登場人物の中では1番現実味を帯びている。誰かを傷つけたことがない純粋で善良なシンデレラを身近な存在に感じることは難しいが、アナスタシアは悪い面も良い面も描かれたことによって多くの観客の共感を得られるキャラクターになったのではないかと思った。


17、『シンデレラIII』(映画)(2007年)監督:フランク・ニッセン

【あらすじ】
愛する王子と結ばれて幸せに暮らし始めたシンデレラ。そんなある日、ひょんなことから妖精のおばあさんの魔法の杖を手に入れた継母は、シンデレラが屋根裏部屋から脱出し、ガラスの靴を足に合わせたあの運命の日まで時間を戻す。そして、継母は戻った時の中で魔法を使い、アナスタシアの足をガラスの靴が入るサイズに変えて、運命を変えてしまう。お城に招かれるアナスタシアたちであったが、王子はあの夜にダンスを踊った女性がアナスタシアではないことに気づく。しかし、継母は魔法で王子の記憶を書き換え、アナスタシアと結婚するように操ってしまう。

【考察】
 様々な愛の在り方があることを示した作品のように思った。目立つのは、継母と国王の愛である。この2人の持つ愛は大きく異なる。継母は前前作である『シンデレラ』(1950年)から一貫して自分と自分の娘の保身をはかるためにシンデレラをいじめるというキャラクターであるが、3作品を通してみると、継母はアナスタシアとドリゼラを自分のように苦労させないために、貴族や王子と結婚させようとする親心という愛を持ったキャラクターだと読み取ることもできる。しかし、その愛はシンデレラや他のキャラクターに比べるとあまりにも一方通行で歪んだものである。一方で、国王は王子の結婚に対してあまり口出しをせず、シンデレラを選んだ王子の気持ちや幸せを優先する愛を持っている。その愛は国王というだけあって、息子である王子のみに向けられるものではない。本作ではダンスが下手なアナスタシアを責めることはせずに、自分と亡き妻との思い出の貝がらをアナスタシアに渡すシーンがある。ラストシーンでは自分の行動を悔やみ、この貝がらを持つ資格はないと返そうとするアナスタシアに対し、「愛される資格は誰にでもある」と声をかける。
 現代風に言うならば、継母は毒親であり、アナスタシアとドリゼラは被害者であるともいえる。
 

18、『アリスインワンダーランド』(映画)(2010年)監督:ティム・バートン

【あらすじ】
6歳のアリスは、暗い穴に落ちていって、服を着たウサギや笑う猫、青いイモ虫などの不思議な生き物に会う夢を頻繁に見ていた。そして、13年後、変わらず同じ夢を見ているという19歳に成長したアリス。ある日、アリスはパーティー中に、貴族のヘイミッシュにプロポーズされ、返事をせずにを逃げ出してしまう。そんな中、見かけた白うさぎを追いかけて大きな穴に落ちてしまう。穴を落ちた先はワンダーランドの世界だった。そこでアリスは、マッドハッター、白の女王、赤の女王など、摩訶不思議な住人たちと出会う。 マッドハッターは、アリスこそがワンダーランドの独裁者である赤の女王が従えるジャバウォッキーを倒すことで支配を終わらせることのできる救世主だと信じていた。 いつの間にかワンダーランドの運命を背負ってしまったアリスは、自分がジャバウォッキーを倒すことができるアリスなのか自問自答しながら、赤の女王との戦いに巻き込まれていく。
 ルイス・キャロルの児童文学『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』を原作にして、その後日談のストーリーとして再構成が行われた。

【考察】
 ストーリーの序盤でアリスは貴族のヘイミッシュから大勢の人々の前で求愛されるが、選択を迫られた末に、返事をせず、その場から逃けだしてしまうという場面がある。その後、ワンダーランドでジャバウォッキーとの戦いを目前にした場面では自分は本物のアリスではないという思い込みからか、白の女王に仕える人々の前でジャバウォッキーと戦う選択を迫られた際に、またもその場から逃げ出してしまう。ここでは、アリスが自分の将来を左右する重要な選択を迫られ、逃げ出すという構図の反復が狙われて行われていると考えられる。アリスが、大衆の生き方から大きく外れた価値観を持ち、重要な役割を与えられるという自分が大衆から逸脱する主人公だという事実から目を背けざるを得ない背景を持つキャラクターであることが表れている。
そして、本作は監督ティム・バートン、脚本リンダ・ウールヴァートンの脚色が大きく感じられる。同じディズニー作品の『ふしぎの国のアリス』と比べてみても、全体的に暗い画面構成で、その中に彩度の高い派手な小物や装飾を配置されることで実写でありながら現実離れした世界を演出している。色鮮やかな不気味さという画面構成でティム・バートンの色が全面に表現されている。そして、私たちの知っているアリスの不思議の国での冒険から13年後という設定もアリスの新しい解釈への手がかりになり、面白いと思った。脚本のリンダ・ウールヴァートンは『美女と野獣』や『マレフィセント』など多くのディズニー作品を手掛ける脚本家である。王子に依存しない強い主人公(女性)を描くことに長けているように思う。本作はアリスが周囲の人々と自分とのギャップに悩み、それを解決し、自立していくという場面構成である。いわば、19歳のアリスのワンダーランドでの冒険は、自分探しの旅なのである。ワンダーランドの支配者を倒すことによって、現実世界に戻った後、抑圧された自分の考えや願望を解放させることができたのだと考えられる。
 

19、『魔法にかけられて』(映画)(2007年)監督:ケヴィン・リマ

【あらすじ】
 アニメーションの中の美しい王国アンダレーシアで暮らす、真実の愛を夢見るジゼル。ある日、トロールに襲われているところをエドワード王子に助けられ、結婚を決める。結婚式当日、ジゼルは女王が変身した魔女のおばあさんに騙され、現実世界のニューヨークへと移動してしまう。大都会の冷たい人たちに戸惑うジゼルを助けたのは、現実主義の弁護士ロバートと娘のモーガンだった。動物を歌で呼び寄せ、意思疎通をしたり、ところ構わず歌いだしたりするジゼルに驚き、最初は、ジゼルをうとましく思っていたロバートだったが、彼女と過ごすうちにその素直で心優しい姿に惹かれていく。

【考察】
 あらゆるディズニー作品の要素が凝縮した作品であった。真実の愛を夢見る美しいプリンセスが森の動物たちと共に歌を歌い、その歌を聞いた王子に助けられ、恋に落ちる。意地悪な女王がおばあさんに化けて、毒リンゴをプリンセスに食べさせる。女王の座に執着する意地悪な女王がドラゴンになる。などディズニー作品の定番ともいえる展開や場面で構成されていた。しかし、ニューヨークの現実世界とアンデレーシアというアニメーションの世界という2つを描くことによってこの作品の独自の面白さが作り上げられている。
多くの物語の世界ではプリンセスが森の動物達を歌で呼び寄せるなどの描写が見られるが、現実のニューヨークという都会ではネズミ、ハト、ハエ、ゴキブリがその呼びかけに応えるのである。このことは、暗に都会の自然環境に対してのアンチテーゼが込められているように感じた。
そして、弁護士として離婚相談を何件もこなし、娘のためにナンシーと結婚をしようとしている現実世界で生きるロバート(おそらく1度、離婚を経験している)と、出会って1日で王子との結婚を決めた物語の中の人物のジゼルが惹かれ合うのは意外な展開である。
ロバートは「偉大なる女性たち」という本を娘のモーガンにプレゼントする。そして、モーガンは登場時に柔道着を着ている。これらのことから、ロバートは自分の経験や仕事柄、愛に冷めているために、モーガンが将来、自立した強い女性になれるように教育をしているとわかる。ロバートの恋人のナンシーは、女性ばかりのファッション業界で仕事をする自立した女性で、物わかりが良い人物である。
作品内では、自立した女性やそれに類似するような女性像が頻繁に描かれるのとともに結婚や愛について描かれる。この両方を最初から持つのがジゼルであるように思う。アンデレーシアとは全く異なるニューヨークで、生き方や信念を変えることは一切なく、自分を信じている。そして、彼女の信じる愛に対して冷たいことを言うロバートに対しても反論する。自分の信じることを曲げないことは、彼女の自立性を担保し、自分自身を深く愛していることも表す。
女王の従者のナサニエルが現実世界のレストランのキッチンでスープの中に映った女王と話すシーンではアニメーションと現実の境界をうまく交錯させていた。
(女王が魔法で現実世界のナサニエルに毒リンゴを送り、ジゼルに食べさせるように言う場面。リンゴはスープの中に浮いている状態。)
女王が現実世界のリンゴを掴んだ瞬間にそのリンゴはスープの中に沈み込み、アニメーションに一瞬で変わる。そして、リンゴを離し、スープにリンゴが浮かび上がった部分から徐々にアニメーションのリンゴから現実世界のリンゴへと変化する。このような一瞬でアニメーションと現実が入れ替わる様子は、ジゼルのアイデンティティの曖昧さの表現のようにも捉えられる。ジゼルが現実世界で王子の助けを待ち、故郷のアンデレーシアに帰る意思を持っていると考えられる物語の中盤までは、アニメーションで描かれた女王が現実に干渉するような場面が描かれるが、それ以降は女王が実際に女王も現実世界のニューヨークへとやって来て、完全に現実のものとなる。女王が現実世界にやって来た場面の時点では、すでにジゼルはロバートに惹かれ、故郷に帰らずにロバートと結ばれることを夢見ている。最後にはドラゴンへと変身した女王が現実世界で高い塔から落ち、女王はアンデレーシアに帰ることはないまま、死を迎えた。つまり、女王はジゼルのアイデンティティが現実世界に移転していく様を体現する役割を持っているのだと言える。


20、『魔法にかけられて2』(映画)(2022年)監督:アダム・シャンクマン

【あらすじ】
ジゼルはロバートと結婚してから、ソフィアという女の子を授かり、ニューヨーク郊外の家は新しい家族が増えたことで、窮屈に感じ始めた。更に、モーガンはティーンエイジャーになり、家族と距離を取るようになってしまった。そんな生活を変えるために、モンロービルという土地に引っ越しを決める。しかし、新生活は思うようにいかず、モーガンとの関係も悪くなるばかりであった。そんなジゼルは、アンダレーシアから新居祝いにやってきたエドワードとナンシーから、魔法の杖と巻物をもらう。永遠の幸せを願い、魔法をかけたが、思いがけず、街全体をおとぎの世界にしてしまった。その魔法によって意地悪な継母へと変わり始めたジゼル。ジゼルは、深夜12時の鐘が鳴り止めば、魔法は現実になってしまうため、モーガンに元の世界に戻す望みを託す。

【考察】
 本作は前作の『魔法にかけられて』と同様にディズニー作品をオマージュしたような展開で構成されているが、現実の世界が物語の世界になることを望んだことで、ジゼルが『シンデレラ』の意地悪な継母のように義理の娘を邪険に扱うようになってしまうという展開が面白いと感じた。
ジゼルとモーガンの複雑な親子関係が取り上げられていて、ジゼルとロバートの間に子供ソフィアが生まれたことで、思春期のモーガンは昔のように家族に接することができず、ジゼルのことも「ママ」と呼んでいたのが「継母」と呼ぶように変わり、距離が離れてしまっている。日本では義理の母親を「お母さん」や「ママ」以外で呼ぶとなると名前にさんをつけて呼ぶくらいしかないように思うが、英語圏では義理の母親をそのまま「継母」と呼んで不自然でないことがわかった。名前で呼ぶこともできるはずなのにわざわざ「継母」と呼ぶことで相手に対する拒絶感や不信感を表しているのだと思った。

2024/06/04(火) 15:05 No.2044 EDIT DEL
2年 谷澤佳歩
1.『海獣の子供』(アニメ映画)(2019年)監督:佐藤歩

【概要・あらすじ】
五十嵐大介氏作の同名の漫画が原作で、それをアニメ映画化した作品。
自分の気持ちを伝えることが苦手な中学生の安海琉花は、夏休み初日に自身の所属するハンドボール部で問題を起こし、学校で居場所が無くなってしまう。家でも居場所のない孤独な彼女は父が働く水族館を訪れるが、そこでジュゴンに育てられた2人の少年に出会う。海の中で暮らしてきた彼らは長時間陸で活動出来ない特異体質を持っており、水族館で保護されていた。彼らと過ごすうちに、琉花は世界中で起こる不思議な出来事に巻き込まれていく。

【考察】
まず映像がとにかく美麗な印象を受けた。水中や魚のリアルさや、原作の絵柄特有の人物の瞳や、海辺の風景の色彩など、最初に印象に残るとすれば映像表現の美しさが挙げられると思う。
言葉でコミュニケーションを取ることの難しさが主題になっていて「一番大切な約束は、言葉では交わさない」というテーマがあり、特に後半の祭りの儀式の場面は言語化が難しい程の圧倒的な情報量で溢れかえっている。観客には世界観の言語での説明はかなり少なく、最後まで観ても考察をしても答えがはっきりと分かるものは多くない。
事象は海、それを捉えて表現する言葉が船に例えられ、奔流を全て捉えきることは到底不可能だが、それでも言葉を尽くすことも重要であることが表現されている。世界観の規模感がかなり大きめなのも特徴で、自然現象や宇宙の事象が描写されており、現状の人間の知識では答えが出ないこと、そこに無理に答えを見出そうとすることがナンセンスであることを表現しているようにも感じられた。監督の「答えは出ないことが答え」という言葉にもあるように、この作品は意味を見出して答えをあれこれ考えるよりも、映像や音楽で表現された世界をそのまま感じ取る観賞の方が合っているように考えられる。

2.『PERSONA3 THE MOVIE #1 Spring of Birth』(アニメ映画)(2013年)監督:秋田谷典昭

【概要・あらすじ】
ATLUS社から2006年に発売されたゲーム『ペルソナ3』を四部作で映画化した作品の第1部。
ゲームのスタートである4月から6月辺りまでのメインイベントを、映画内容に組み込んで構成されている。
主人公である高校2年生の結城理は、家庭の事情で小中高一貫校である月光館学園の高等部に編入することになる。学生寮に入寮して間もなく結城は異形の怪物・シャドウに襲われ、秘められていた「ワイルド」のペルソナ能力を覚醒させる。それがきっかけで、結城はこの世界には1日と1日の挟間にある隠された時間、影時間があり、街は動きを止めて人々はオブジェへと姿を変えることを知らされる。そこにはびこる異形の怪物、シャドウに対抗できるのはペルソナという特殊な力を持つ者だけだった。潜在能力を認められた結城は勧誘を受け、同じペルソナ使いたちで構成された特別課外活動部へと引き入れられる。彼らはそれぞれの目的のため、影時間を消滅させるべく影時間にのみ出現するダンジョン、タルタロスへと潜って影時間の真相を追っていく。

【考察】
主人公の名前はゲームではプレイヤーが自由に決められるが、映画版では「結城理」という名前が使われている。同作ゲームのポータブル版では女性主人公版も存在するが、映画では女性主人公は登場しない。ゲームではプレイヤー=主人公という構図になっているが、映画では一人のキャラクターとして、観客は結城を客観的で俯瞰的な視点で捉えられるようになっている。ある程度はゲームとも一致するが、序盤の結城は人間的な感情や人間味がかなり希薄なキャラクターとして描写されており、口癖が「どうでもいい」で、「死ぬってそんなに怖いこと?」という発言など、生きることや人間関係への意欲や活力が欠落している。しかし、特別課外活動部で仲間と協力してシャドウを倒すことの経験を経て、徐々に仲間や友達、協力することの重要性を知り、人間的に少しずつ成長していく過程が描かれる。仲間と共に戦うことで生まれる連帯感や、死んだらどうでもよくないという理由が受動的とはいえ生まれたことで、人間として最低ラインである生きる理由が保証され、今作の結城は人間らしく生きることのスタートラインに立ったと言える状態になったと考えられる。
結城の人間性が欠落している理由についてはゲーム同様この段階では明らかにならず、初見ではなぜ結城がこんなに無気力なのか、推測は可能なもののはっきりとは分からないようになっている。幼少期に両親を事故で亡くしていることは分かるので、これ以上大切な誰かを作ることで、無意識にその後の喪失を恐れているのではないかということは推測出来る。映画版は結城というキャラクターの人物像が明示され、仲間の大事さや結城の成長を描写して観客に客観的に理解させることに重きを置いている作品であることが考察される。

3.『PERSONA3 THE MOVIE #2 Midsummer Knight's Dream』(アニメ映画)(2014年)監督:田口智久

【概要・あらすじ】
ATLUS社から2006年に発売されたゲーム『ペルソナ3』を四部作で映画化した作品の第2部。
前作の続きである6月から10月初め辺りまでのメインイベントを、映画内容に組み込んで構成されている。
ペルソナ使い数名が新たに覚醒し、特別課外活動部(通称S.E.E.S.)に徐々に加入し始め、活動が活発になっていく中で、結城たちは毎月の満月の夜に顕現する、強力な敵である大型シャドウを12体撃破すれば影時間が消滅することを知る。影時間の消滅を悲願とする仲間は大型シャドウ撃破に邁進するが、結城は影時間が消滅すれば特別課外活動部としての活動もなくなってしまい、自分は加入前の無気力な人間に戻ってしまうのではないかと恐れ、影時間を消滅させたくないという仲間たちとは相反する願いを抱えたまま戦いに臨むことになる。

【考察】
前作『#1 Spring of Birth』の続編として作られた作品であり、引き続きゲーム本編の流れを追う形で話が進んでいく。今作は前作の4月から6月に比べて進みが6月から10月とかなり速い上、新規メンバーの加入イベントや影時間についての新たな情報、敵対するペルソナ使いの存在など、物語としても外せない重要な場面が非常に多いため、やや急ぎ足な印象を受ける。今作では結城は前作と比べてかなり人間らしくなっており、仲間に対しても積極的に歩み寄ろうとする姿勢を見せる。しかし、今作の後半では特別課外活動部が終了するかもしれないことを受け、影時間消滅と特別課外活動部存続というジレンマの中で戦いに挑むことになる。
特別課外活動部を存続させたい結城の判断の迷いによって大型シャドウの撃破が遅れた結果、今作の終盤で加入メンバーの1人である荒垣真次郎が影時間に命を落とすという展開になる。この事件が、後の映画版での結城の成長に大きく影響する出来事となるが、ゲームではこの荒垣の死亡イベントは避けられるものではなく、またプレイヤーが原因で起こる・阻止できるイベントでもないため、ゲームでプレイヤーが自責の念に駆られることはあまりない。しかし、メンバーの死にショックを受けるプレイヤーも決して少なくないイベントでもある。オーディオコメンタリーにて、監督は結城に罪悪感を抱かせるために結城の迷いの描写を入れたと語っている。
特別課外活動部で充実した生活を送っていた結城だが、その活動の正当性やエゴ、そして命について考えさせられる展開になっていると考えられる。
影時間を消滅させようとすることは本当に良いことなのか、特別課外活動部の活動は生活の充実の一部として捉えて良いほど生ぬるいものなのかなどを結城に問いかける構図で、知らず知らずの内に特別課外活動部という居場所に抱いていた甘さを、メンバーと共に痛感させられる展開になっている。
仲間や友人を持ち、共に過ごすことの楽しさや喜びと、それらはあくまで永遠に続くものではなく、いつか、あるいはある日突然失われてもおかしくないという、儚く尊いものでもあるというメッセージがあるのではないかと考えられる。

4.『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(単発テレビアニメ)(1993年)監督:おおすみ正秋

【概要・あらすじ】
アニメ『ルパン三世』のTVスペシャルシリーズ第5作。
ルパンと次元はとある仕事でミスを犯し、アジトを警官隊に包囲されてしまう。しかしそこに現れた銭形は警官隊を解散させると単身で乗り込んでくる。訝しがるルパンを後目に、銭形は自身がルパンの専従捜査官を解任されたことを明かす。銭形に替わってルパン捜査に就いたのは、傭兵あがりで捜査対象を殺すことも厭わないことで知られるキース・ヘイドン捜査官であり、銭形は謎多き武器密売組織「ショットシェル」の壊滅捜査を命じられたとのことであった。銭形を哀れに思ったルパンは「ショットシェル」から大金を盗み、ついでに壊滅させる計画を立てる。銭形はルパンの大金強奪計画を知らず、純粋に自分のためにショットシェルを壊滅させようとしていると感謝してルパンに協力する。

【考察】
前作の『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』も冷戦を中心にした内容だったが、ロシアや原子力潜水艦、核関連兵器の技術者や各国の軍事力競争など、冷戦を思わせる要素が多く散りばめられており、冷戦の終結は1989年で作品放送が1993年なので、社会情勢を意識したタイムリーな内容であったと思われる。構図としてはルパン一味+銭形、ルパンの暗殺を請け負うキース、次元の殺害を目的とするカレンの三つ巴になっているが、核関連兵器の技術者でもあるカレンは原子力潜水艦を悪用されないようにするため、概ねルパン側に協力的である。今作のゲストヒロイン的存在でもある彼女だが、最終的にはキースの銃の乱射によって命を落とすことになる。ゲストヒロインが死ぬのはTVスペシャルシリーズの中で第一作の『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』でもあった展開である。カレンが死ぬ展開になったのは、勘違いとはいえ自分とは復讐する理由のない次元に復讐しようとしたためとも考えられるが、次元の過去に因縁があるゲストヒロインは死ぬ確率が高く、今後のテレビシリーズに因縁を引きずらないためとも考えられる。

5.『船を編む』(実写映画)(2013年)監督:石井裕也

【概要・あらすじ】
原作は三浦しをん氏による同名の小説。
1995年、玄武書房で38年辞書一筋の編集者・荒木公平が定年を迎えようとしていた。荒木の仕事ぶりに惚れ込む辞書監修者の松本朋佑教授は引き留めようとするが、「病気の妻を介護するため」という荒木の意志は堅い。急遽、社内で荒木の後任探しが始まる。なかなかめぼしい人材が見当たらない中、荒木の部下・西岡正志が密かに社内恋愛で同棲中の三好麗美から言語学部の院卒で変人と噂される馬締光也の情報を仕入れる。名字の通り性格は生真面目だがコミュニケーション能力に著しく欠ける馬締は社内でも浮いていた。一方で言葉に対する卓越したセンスを持ち合わせ、「右」を定義せよという荒木の質問に合格。松本が熱意を燃やす新しい辞書『大渡海』の編纂を進める辞書編集部に異動となる。

【考察】
辞書編纂そのものだけではなく、編纂に関わる人々やその想いに焦点を当てて描写された作品であると考えられる。1995年という時代設定がされている理由としては、ネット関連の語彙が大量に増え始める時期であるためだとされる。一冊の辞書を出版するに当たっての一連の流れを追って話が展開されていくが、編纂の初期と終盤で関わってくる人々が移ろい、言葉もどんどん増え、編集者たちの生活も大きく変化していく。作中でかなり長い時間が経過した作品だ思われる。初期の編纂に関わった人が出版される頃にはこの世にいないことも不思議ではなく、辞書編纂に人生の長い時間をかける想いとその過酷さ、静かな覚悟を感じられる作品である。
作中では馬締が何度も海中に溺れるようなシーンがイメージ映像的に流れるが、これは言葉は海の水のように無数に存在し、その言葉の意味を出来る限り捉えて、表現したいことや伝えたいことを支える、言葉の海を渡る舟を辞書に準えていると推測する。『海獣の子供』と共通する世界観やイメージを持っているように考えられた。

6.『モノノ怪 鵺』(テレビアニメ)(2007年)

【あらすじ】
京の街にある屋敷では、香道・笛小路流の家元・瑠璃姫の婿を選定するために、聞香が行われていた。聞香には4人の婿候補が招待されていたが、参加者の一人である実尊寺が現れない。そのため、3人の参加者と、モノノ怪を探しに来た薬売りが飛び入りで参加し、その4人で聞香が行われることとなる。

【考察】
独特の世界観、絵柄や映像表現がかなり強烈に印象に残る作風のアニメである。特に今回の話では、聞香をした際、香りを絵で表現するに当たって、もともと寒い冬の雪景色で全体的に彩度の低かったが、香りを聞いた瞬間背景が一瞬で明るい色に変化することで表現しているのが印象に残った。人の情念とあやかしの両者が組み合わさることでモノノ怪となるとあるため、物語としては怪異譚の中でもいわゆるヒトコワのものと、本当の怪異としてのホラーが組み合わさったようなジャンルであると考えられる。欄奈待、通称東大寺と呼ばれる香木を欲しがっていた婿候補たちだが、その香木に狂わされ、自分たちが死んだことに気づかないまま聞香を行い、手に入りもしない香木を求め、評判を呼んで次々と犠牲者を出していたことが分かるようになっている。人の情念がベースとなって顕現するモノノ怪が多いが、今回はあやかしが主体となっていたケースであると考えられる。悪さをするモノノ怪を薬売りが退治したという、シンプルかつ構図的にはかなり王道な物語展開になっている。
薬売りと犬だけは彩度が通常と同じく設定されており、これは屋敷の中でこの二人だけが生者であることも示していると考えられる。

7.『モノノ怪 のっぺらぼう』(テレビアニメ)(2007年)

【あらすじ】
佐々木家に嫁いだ娘であるお蝶は、一家を惨殺した下手人として死罪になり、牢屋に閉じ込められていた。薬売りは事件の原因がモノノ怪によるものだと考え、お蝶のいる牢屋の中に出向く。淡々と自分の罪を受け入れるお蝶に対し、薬売りはその詳細について、のらりくらりとした調子で繰り返し問うたあと、「私はね、あなた一人で殺ったんじゃないと思ってるんですよ」と切り出すのだった。

【考察】
話の規模感がかなり小さめで登場人物も少なく、舞台もほとんど動かないため、会話劇で徐々に謎が解き明かされていくような話の構成となっている。実際にお蝶が一家を惨殺したのかと考えるとその可能性は低く、実際は妄想の中でお蝶が一家惨殺を想像しているだけであり、それこそがお蝶自信を押し殺している状態なのだと考えられる。牢屋の中にいる状態のお蝶は、一家惨殺なんて妄想をしてはいけないという心理状態、狐面の男に牢屋から連れ出されて求婚される場面のお蝶は、自己を抑圧し妄想に留めた自分を正当化している状態だと考察する。母から名家の嫁に行くことを切望されてきたお蝶の行き場のない気持ちがのっぺらぼうを生み出していたが、薬売りがのっぺらぼうを退治したことによって、お蝶が佐々木家を出るという新たな選択肢を取るためのはじめの一歩へ背中を押す結果になったのではないかと思われる。

8.『モノノ怪 座敷童子』(テレビアニメ)(2007年)

【あらすじ】
ある雨の日、万屋という宿屋に志乃という身籠った女性が訪れた。万屋の女将は、面倒なことに巻き込まれたくないという思いで、志乃に部屋がない旨を話して彼女の宿泊を断るが、志乃はこのままでは腹の中の赤子もろとも殺されてしまうと必死に女将に頼み続ける。女将は根負けして、客室ではない部屋に志乃を泊めることにした。しかし、志乃が泊まった部屋では、何やら奇妙なことが起こり始める。

【考察】
後味の悪さはそこまでなく、比較的穏やかな結末を迎えたエピソードだと思われる。黄色のだるまや座敷童子は志乃のお腹の中にいる子供を表現している。内容が内容であるためやや比喩的な表現が多く使用されていると思われるが、それでも背景は壮絶で中和されているようには感じられない。赤い布がへその緒、座敷童子が赤子たちの魂、だるまは恐らく赤子の骨を入れた入れ物なのだろうと推測される。志乃の外見が金髪碧眼と明らかに白人風の見た目をしているところから、だるまが何となくマトリョーシカのようにも見えた。
元がテレビアニメなので前編と後編に分かれているのだが、怪異の背景になにがあったのかは、こういったものを見慣れている人なら前編だけでも何となく察せてしまうのではないかと考えられる。
志乃が赤子たちの「ただ生まれたかっただけ」という願いに共鳴し、彼らの願いを叶えようとしたことで、比較的穏やかに退治されたのだと考察される。

9.『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(アニメ映画)(2023年)監督:古賀豪

【あらすじ】
廃刊間近となっている雑誌の記者・山田は、廃村となった哭倉村に取材にやってきた。山田は同じく村へやってきた鬼太郎、ねこ娘、目玉おやじと遭遇するが、鬼太郎たちに引き返すようにと言われた警告を無視して、鬼太郎たちに村について取材しようとつきまとう。
時を遡って昭和31年、当時の日本で政財界を牛耳っていた龍賀一族の当主、龍賀時貞が死去する。東京で帝国血液銀行に勤める水木は、龍賀一族の経営する製薬会社、龍賀製薬の担当者であり、時貞の娘婿である龍賀製薬社長の龍賀克典とは懇意にしていた。水木は次期当主と目される克典にアピールして出世の足掛かりとすべく、一族が暮らす哭倉村へと向かうのだった。

【考察】
序盤は横溝正史チックな世界観で、いかにもミステリーが始まりそうな雰囲気があるが、中盤から登場する狂骨の存在があくまでもこれはゲゲゲの鬼太郎の世界であることを感じさせる。昭和である時代背景を随所に反映させており、水木の着ているスーツの型や煙草の扱い、血液銀行など、細部の小物や背景にこだわりがあり、当時の世界観を醸し出すことに成功していると考えられる。龍賀一族とそこが行ってきたMの製造背景は、国民の血液を吸って戦争に突き進んだかつての日本の縮図として描かれているのではないかと考察した。水木の戦場での回想シーンが龍賀一族から命に関わる理不尽を強いられる際に何度か描かれるため、戦争への批判的なメッセージも含まれているのではないかと考察した。水木の左瞼の傷跡と左耳が欠けているのは、恐らく原作者の水木しげる氏が戦争で左腕を失っていることからだと考えられる。物語の終盤で狂骨となった時弥が鬼太郎たちに何を望むかを訊かれた際、「忘れないで…」という言葉が、人間の過ちによる悲劇を忘れないことが重要であるというメッセージで、それが戦争にも重ねられると考えられた。
ゲゲ郎たち幽霊族は一丸となって水木達や鬼太郎を救おうと献身的になり、逆に近親相姦など血縁を利用して私欲を満たしてきた龍賀一族は対比的に描かれている。
左目は未来を象徴するという話を耳にするが、この物語で龍賀一族の時麿、乙米、丙江、庚子は、殺される際に左目が抉られるように傷つけられている。反対に、人間が嫌いで普段左目を髪で隠しているゲゲ郎は、自らを犠牲に狂骨を止める中、体は腐ってしまうが「友よ、おぬしが生きる未来をこの目で見てみとうなった」と言ったあと、彼は目玉おやじの姿になって息子の鬼太郎と共に未来の世界を見て生きている。鬼太郎は左目が生まれつき無いが、目玉おやじが眼窩にはまることが出来るようになっていると思われる。龍賀一族に未来はないが、幽霊族には未来があることを示していると考察する。
人間が繰り返してきた愚かな歴史は、決して単なる過去のものにするのではなく、そこから学んで忘れないようにすること、そして絶望せずに未来を見据えることが必要だというメッセージがあるのではないかと考えた。

10.『ルックバック』(アニメ映画)(2024年)監督:押山清高

【概要・あらすじ】
原作は藤本タツキ氏による同名の漫画作品。
小学4年生の藤野は学年新聞で4コマ漫画を毎週連載し、同級生や家族から絶賛されていた。ある日、教師から不登校児である京本の漫画を掲載したいため、藤野の連載している内の1枠を譲って欲しいと告げられる。
藤野は京本を見下していたが、京本の画力は高く、掲載された京本の漫画は周囲の児童からも称賛され、比べて藤野の絵は普通だと掌を返すような反応をされる。
藤野は屈辱を覚えながら絵の本格的な練習を開始し、友人・家族関係にも軋轢を生みながらも努力を重ねていく。だが、そうした研鑽の果てにも京本の画力には届かず、3年生の時から続けた連載を6年生の途中で辞めて、とうとうペンを折ることになる。
小学校の卒業式の日になり、教師から卒業証書を届けるよう頼まれた藤野は、この日初めて対面し、京本に藤野のファンだと告げられる。京本にサインをねだられた藤野はどてらにサインをし、再び漫画を描くことを決意するのだった。

【考察】
「じゃあ、藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という京本の台詞が、そのまま創作者に向けたテーマになっていると思われる。創作物というものは、よほど上手いものでなければ見向きもされず、ほとんどが具体的に何かのためになることはそうそうない。藤野が同級生や家族から「いつまで漫画描いてるの?」という質問をされるが、小学生の藤野がその質問に答えることはない。京本と一緒に漫画を描いた過去と、もし京本と漫画を描いていなかったらというifルートが描かれると、京本は死ななかったかもしれないが、一緒に京本と漫画を描いて恐る恐る雑誌のページを確認したり、賞金で遠出して買い食いしたりなどの楽しかった思い出も作れなかったことが分かる。京本の「なんで描いてるの?」という台詞の後に、藤野の漫画に目を輝かせる京本の笑顔が浮かび上がることから、藤野にとって漫画を描く理由は、京本が面白いと言って自分の漫画を読んでくれるからなのだろうかと考えた。
映画の中では特別激しい動きのシーンはそう多くないが、京本に卒業証書を届けた帰り道の藤野のスキップシーンや、京本の手を引いて街を歩く藤野の二人のシーンなど、リアルなアニメーションの動きがまるで本当に生きている人間の物語や、追体験のような作風になっているのではないかと考察した。

11.『モブサイコ100 REIGEN ~知られざる奇跡の霊能力者~』(OVA)(2018年)監督:立川譲

【概要・あらすじ】
アニメ第1期の『モブサイコ100』の総集編のような形を取っているOVA作品。
とある占い師が本を執筆したことで成功を収めたニュースを聞いた霊幻新隆が、自分も自伝を書いて出版すれば儲けられるという思惑で、弟子である影山茂夫(モブ)にアニメ第1期で描かれてきた数々の事件を、いかにも霊幻本人が全て解決してきたかのように書くよう指示し、その流れでアニメ第1期の内容が大まかに振り返れるように構成されたものとなっている。

【考察】
霊幻が捏造しているシーンは、例えこの作品がモブサイコ100のアニメが初見だとしても、ある程度どこが捏造しているのかが何となく分かるようになっている。キャラクターの顔に雑に霊幻の顔が貼り付けるように描かれていたり、本来のキャラクターがいる所に、キャラクターの一部がはみ出すように霊幻が描かれていたり、実際に霊幻がいなかった場所ではわざと霊幻が見切れるように配置したりしているなどの工夫が見られる。エピソードの区切り区切りでモブが霊幻の自伝を書き進めるオリジナルストーリーが挿入されている。結果的に霊幻の目論見はモブの周囲にいた当事者たちによって失敗し、いつもの日常に戻っていくものとなっている。

12.『ルパン三世 ワルサーP38』(単発テレビアニメ)(1997年)監督:矢野博之

【あらすじ】
アニメ『ルパン三世』のTVスペシャルシリーズ第9作。ルパン三世生誕30周年記念作品でもある。
自分の名を騙った偽の予告状の真相を確かめるべく、ルパンは某国副大統領の誕生パーティーに潜入するが、謎の武装集団が現れ、副大統領を暗殺してしまう。ルパンを逮捕するため会場にいた銭形警部もまた、彼の目の前で何者かが撃った凶弾に倒れる。ルパンが狙撃者を確認しようとすると、窓から突き出たシルバーメタリックのワルサーP38を握った右手のみが見え、その手の甲にはタランチュラの刺青が入っていた。シルバーメタリックのワルサーP38は駆け出し時代のルパンの得物であったが、当時の相棒に裏切られて奪われたものであった。
ルパンは武装集団の正体が、密かに各国から支援を受ける「タランチュラ」と呼ばれる謎多き暗殺組織だと刺青から推測する。報復とワルサーP38の謎を追うため、ルパンは次元と共に彼らの本拠地の島があるバミューダトライアングルへと向かうのだった。

【考察】
全体的にシビアで、ルパンファミリーでも大きな負傷をしたり流血を含む戦闘シーンが非常に多かったり、ルパンファミリー以外のほぼ全てのゲストキャラクターが因果応報的に死亡するなどという暗めな作品となっている。
テーマとして出て来るキーワードは「自由」である。組織タランチュラに属する者は、皆特殊な毒の刺青を入れられ、組織の本部がある島から発生するガスを定期的に吸い続けないと死んでしまう。エレンを中心としてタランチュラからの脱却を図る穏健派と、所属し続けることを望む組織の人間とで対立の構図になっている。次元が組織の人間に対して本当は自由が怖いのではないかと見透かすも、組織の人間は不機嫌そうな顔をして答えなかった。
ルパンと不二子は作戦の一環でわざとタランチュラの刺青を入れられるのだが、エンディングまでこの刺青は消されず、完全に解決せずに終了する。後のシリーズで回復しているため、恐らく盗んだ大量の毒を分析することで、ドクター同様自力で薬を調合して解毒に成功したのだろうと推測される。

13.『かがみの孤城』(アニメ映画)(2022年)監督:原恵一

【概要・あらすじ】
原作は辻村美月氏による同名の小説。
2005年、中学1年生の女の子・安西こころは、同級生から受けたいじめが原因で不登校が続き、フリースクールにも通えずに家に引き籠もる生活を続けていた。5月のある日、自室の鏡が光り、中に吸い込まれたこころは、その向こうのオオカミさまという狼面をつけた謎の少女が仕切る絶海の孤城で、自分と似た問題を抱える中学生のリオン、フウカ、スバル、マサムネ、ウレシノ、アキと出会うことになる。

【考察】
元が優れた小説作品であることが分かる映画になっている。この作品の重要な要素として、孤城に訪れる中学生たちは、本当は生まれた年が大きく異なるところである。小説ならば叙述トリックで描写しなくても良い部分はあえて描写をしない部分があるが、アニメは絵で描写せざるを得ないところがある。例を挙げると、アキのルーズソックスや、アキと喜多嶋先生の顔の共通点、喜多嶋先生が結婚しているかなどの視覚的情報から、話の早い段階から少年少女たちの生きている年代にズレがあるのではないかということが推測出来てしまうのではないかと思う(『君の名は。』の影響もあるかもしれない)。アニメ化はしたものの、そこまで画的に大きく動くような場面も多くはなく、アニメである必要性が感じづらい作品ではないかと考えられる。

14.『君の膵臓をたべたい』(アニメ映画)(2018年)監督:牛嶋新一郎

【概要・あらすじ】
原作は住野よる氏による同名の小説で、住野氏のデビュー作品でもある。
主人公である「僕」は、病院で偶然「共病文庫」というタイトルの本を拾う。その本は「僕」のクラスメイトである山内桜良が綴っていた秘密の日記帳で、彼女の余命が膵臓の病気によってもう長くはないことが書かれていた。「僕」はその本の中身を興味本位で覗いたことにより、家族以外で唯一桜良の病気を知る人物となった。桜良の死ぬ前にやりたいことに付き合っていくうちに、「僕」と桜良という正反対の性格の2人が、お互いに自分には欠けている部分にそれぞれ憧れを持つようになり、次第に心を通わせて成長していく。

【考察】
「僕」と桜良は、性格の面では正反対のデザインをされているとは思われるが、それが互いに影響を及ぼし合っていることが顕著に分かるようになっている。特に「僕」は元々他者に対して懐疑的で、他人の中の自分の存在を低く見積もりがちな性格だったが、彼女と出会って他者にもっと興味を持ち、例え相手が自分を許容出来なかったとしても自分から許容し愛せる人間になることを決意したのが一番の大きな変化として描かれていると考えられる。正反対の二人のように思われつつ、名前は二人とも春を連想させるものだったのが、通ずる部分も少なからずあった二人なのではないかと考えた。
映像としては全体的に背景の輝度や彩度が高く、新海監督作品の影響が大きいように感じられた。

15.『すずめの戸締まり』(アニメ映画)(2022年)監督:新海誠

【あらすじ】
宮崎県の静かな町で叔母の岩戸環と暮らす17歳の女子高校生の岩戸鈴芽は、ある日夢を見る。一人の幼い少女が廃墟も立ち並ぶ草原の中をひたすら歩き、母を探すも見つからず疲れ果て蹲る。そこに一人の女性が歩いてくる。その女性を少女は見つめるが、その瞬間鈴芽は夢から目覚めてしまう。
鈴芽は登校中に、宗像草太という青年とすれ違う。近くの廃墟を探しているという彼に場所を教えた鈴芽は、彼が気になって通学路を引き返して後を追い、山中の今は廃れたリゾート地にある廃屋で水溜りの中に佇んでいた一つの古い扉を見つける。鈴芽は何かに引っ張られるように扉に手を伸ばし、引き込まれる。その扉の向こうには、広い草原と全ての時間が混ざりあった空があった。

【考察】
観た印象としては、よりオタク層より一般層向けの作風になったように感じられた。
九州から東日本大震災のあった東北まで、日本を縦断する形で旅をしていく展開は、終着点が震災に直面した場所として設定され、非常に分かりやすくするためなのではないかと考えられる。ダイジンが行く先をSNSで確認してから追うという順にすることで、これから向かう目的と目的地がその都度示され、観客が置いてきぼりになる瞬間が非常に少なくなるよう描写しているのではないかと考察した。今作はとにかく走るシーンが多く、走るという行為は肉体的にも精神的にも追い込まれる行為であるため、観客も見ていて緊張感を覚える場面が長かったのではないかとも考えた。
主人公の鈴芽は震災の経験から死ぬことは怖くないという感覚を持っていたが、草太を失うかもしれないことへの恐怖から死への恐怖が芽生えたことは、後ろ戸を閉じて回ることで失われた人々の想いに触れ、死ぬとは、生きていくこととはどういうことなのか鈴芽が今一度捉え直した結果として、鈴芽の人間的な成長を意味するのではないかと考察する。

16.『同級生』(アニメ映画)(2016年)監督:中村章子

【概要・あらすじ】
原作は中村明日美子氏による同名の漫画作品。
高校二年生の夏、草壁光は合唱祭前の練習中に、同級生の佐条利人が歌わずに口パクしていることに気づく。二人は同じ男子校の同じクラスだが、制服を着崩しバンド活動に勤しむ草壁と眼鏡の優等生の佐条は、性質が違いろくに話をしたこともなかった。佐条は歌なんかくだらないと思って練習で手を抜いているのか、と草壁は不快になったが、その日の放課後に教室に残って一人で歌の練習をしている佐条を見つける。佐条は音痴を気にして邪魔にならないようにと皆と一緒の時は歌うことを控え、克服しようと人知れず努力していたのだった。そんな彼のひたむきさに感心して草壁は練習に付き合うようになった。二人きりで歌う時間を過ごすうちに草壁と佐条は互いに惹かれあっていき、やがてひっそりと交際を始めるようになる。

【考察】
画面の分割が多めで、原作が漫画ゆえの独特な演出のように思われた。擬音語が文字でそのまま書かれていたり、たまに吹き出しも出て来たりするのがいかにも漫画的。漫画がそのまま動くようになったものと思われる。作画が柔らかく細い線で全体的に流線的、軽やかな印象を受けるキャラクターデザインであり、色は水彩画っぽいタッチの画になっている。ギャグとロマンスのバランスが丁度良く、テンポも良く進むので見ていて退屈しないと考えられる。
セクシャルマイノリティーとして周囲から受け入れられ難いというような描写は特になく、概ね受け入れられている印象だが、高校の教師が職場で堂々と喫煙している様子などから、現代よりも若干時代が昔のようでもある。
周囲の受け入れ度合いは時代設定的に珍しいように思われるが、作品の大半が二人のコミュニケーションがメインで、セクシャルマイノリティーとしてのテーマ性はそこまで比重を占めていない作品だと考察する。それよりかは、純粋に二人の男子高校生同士が恋愛している様を楽しむ作品となっている。

17.『PERSONA3 THE MOVIE #3 Falling Down』(アニメ映画)(2015年)監督:元永慶太郎

【概要・あらすじ】
ATLUS社から2006年に発売されたゲーム『ペルソナ3』を四部作で映画化した作品の第三部。
前作の続きである10月から12月の頭までのゲーム本編のメインイベントを時系列順に並べて構成されている。
前作の終わりに荒垣を喪った結城は、親しい人が出来るほど、いつか訪れる別れに傷つくことを恐れ、再び人と距離を置くようになってしまう。そんな中、結城の通う学校に新たな転校生である望月綾時が転入、結城と仲良くなりたいと積極的に接触してくる。結城は望月と親密になることを拒むが、望月に喪失への恐怖を見抜かれる。
望月と関わる内に結城の内面にも変化が及ぼされ、もう一度周囲の人々との距離や人間関係について見直すことになる。

【考察】
前作の荒垣死亡事件を受けて罪悪感と喪失への恐怖が芽生え、結城は再び人と関わることに消極的になる。望月は結城よりも人間関係の感覚について疎く、結城に質問を投げかけることで結城自身の内面に向き合うきっかけとなり、結城の本心を浮き彫りにしていく立ち位置の存在だと考えられる。この辺りは原作のゲームの内容とあまり大きな差異はない。映画の終盤では、特別課外活動部メンバーの一人である伊織順平と、敵対勢力でありながら親密になっていたチドリと言う少女が命を落とす。彼女は身体的な問題で元々長生きの出来ない命であり、彼女自身は死ぬことへの恐怖を持っていなかった。しかし順平と出会い、また会う時が楽しみになっていくうちに、死ぬことが恐ろしくなっていったという。「死ぬって…、『もう会えない』ってことなのね…」というチドリの台詞は、ゲームにもあるが、シンプルながら真理を突いた言葉でもある。自分一人では生きることに希望や願いを見出せなかった彼女は、大切な人の存在で生きることを願い、死や喪失の恐怖に怯えるようになる。これは結城にとても似た立ち位置の話でもある。
チドリは致命傷を負った順平を助けるため、自身の能力を使って順平を蘇生し、代わりに命を落とすこととなるが、この展開も、後の結城の行動と酷似しているように考えられる。
喪失はいつか誰にでも訪れ、相手に執着すればするほど別れは恐ろしいものとなる。しかし、喪失を恐れて一人になろうとしても、人は一人では生きてはいけないし、心の奥底では誰かを求めるものでもある。今作のテーマは、映画版四部作全ての根底にあるものだと考えられるが、「いつか必ず訪れる喪失への恐怖に立ち向かうこと」が特に強調されたのが今作だと思われる。

18.『PERSONA3 THE MOVIE #4 Winter of Rebirth』(アニメ映画)(2016年)監督:田口智久

【概要・あらすじ】
ATLUS社から2006年に発売されたゲーム『ペルソナ3』を四部作で映画化した作品の第四部。
前作の12月の頭のイベントからゲーム終了までのメインイベントを中心に構成されている。
結城達は影時間の謎を追う内に、1月の終わりに世界の生命が息絶える運命であることを知る。突然の宣告に戸惑い、生きる希望や戦う理由を見失いかける特別課外活動部の面々だが、各々の持つ絆への想いから、滅びをもたらす存在・デスへと立ち向かう決意を固め、一致団結して決戦へと臨む。

【考察】
逃れられない滅びの運命に、活動部の皆は精神が折れかけ絶望しかけるが、それぞれが持つ大切な絆と、それを抵抗なしに失わせたくないという強い想いに動かされ、恐怖を超えてデスと対峙することを選ぶ。
望月も結城の前から姿を消してしまう大切な友人だが、結城はその喪失に対する恐れはなく、一人の友人として、デスになる最後の日まで彼と向き合うことを選ぶ。
ゲーム原作では特別課外活動部のメンバーに加え、様々な人々と結ばれた絆の力の強さを感じられる展開がある。ゲームではプレイヤーが主人公と一体となってその力を感じられるが、映画では結城という一人の人間として、この一年間で築いてきた絆を振り返る。今作は仲間それぞれが持つ絆にも焦点が当てられ、結城に呼応するように仲間たちが覚悟を決めるシーンは印象的である。
ゲームとの大きな差異である戦闘シーンがかなり大きな動きで描かれており、原作よりも視覚的に戦いの苛烈さを理解することが出来る。
今作で強く示されるのは、やはり絆の持つ強力で不思議な力だと思われる。人と人の間の関係の持つ力は第一部から描かれ続けてきたが、今作はその集大成である。最終的に結城は絆の力でとてつもない奇跡を起こす。
エンディングの場面は、原作だと仲間たちが駆けつける直前に主人公は瞼を閉じてしまうが、映画版では仲間たちが集結した直後に変更されている。こちらの方が物語としての収まりが良いため、この演出は好評である模様。
冬であることと、ゲーム本編でもこの時期は画面の彩度が下がることもあってか、夏の第二部などに比べて彩度が低めなのも特徴。

19.『LUPIN THE ⅢRD 次元大介の墓標 前編』(劇場用スピンオフ作品)(2014年)監督:小池健

【概要・あらすじ】
『ルパン三世』のスピンオフ劇場用作品『LUPIN THE IIIRD』シリーズ第1作。
ルパン三世の劇場用アニメでは初めてPG12のレイティングが適用された。
東西に分断されている西ドロアと東ドロアは、西ドロアで発生した東ドロアの歌姫暗殺事件の影響で一触即発の状態になっていた。そんな中ルパンと次元は、秘宝・リトルコメットを盗むため、東ドロアのマランダ共和国大使館に潜入。無事リトルコメットを盗んだルパンだったが、直後に東ドロア警察が大使館に到着、ルパンと次元は街中に逃げ込むも、次元とルパンは何者かに狙撃されてしまう。アジトに逃げ込んだルパンと次元は、摘出した弾丸が歌姫暗殺に使用された弾丸と同じものだと気付き、郊外の墓地に向かう。そこには次元の墓が用意されており、次元は狙撃手の正体が、ターゲットの墓を事前に用意するヤエル奥崎という殺し屋だと知る。
次元は、自身がボディーガードをしていた歌姫の復讐を決意し、ヤエル奥崎のアジトに向かう。しかし、アジトで次元はヤエル奥崎に早撃ちの勝負を挑むも敗れてしまい、ルパンは次元を連れて埠頭に逃げ込むが、次元はヤエル奥崎に狙撃されてしまう。

【考察】
近年のコミカルなルパン三世とは一線を画す作風で、非常にハードボイルドな作品としてまとまっている。キャラ絵も普段のアニメシリーズとは大きく異なり、また必要以上にルパンや次元が焦るような、キャラクターの「隙」に思われる描写が少なめで、同じような内容の脚本で実写も出来るのではないかと感じた。しかしながらヤエル奥崎と次元の早撃ちやカーチェイスのシーンなど、アニメでしか出来ない動きの表現も多く、観客が観ていて飽きないアニメのアクションの動きの見せ場もあり、更に上映時間が短い作品でもあるため、終始ハードボイルドで大人びた『ルパン』の作品として仕上がっている。ルパンらしいコミカル要素やお色気要素もそちらはそちらで確保してあるため、ルパンらしさが決してない訳ではない。
舞台設定としては、シリーズを通して第二次世界大戦~冷戦に似た舞台が描かれることが多いことが分かってきた。

20.『LUPIN THE ⅢRD 次元大介の墓標 後編』(劇場用スピンオフ作品)(2014年)監督:小池健

【概要・あらすじ】
本編は1本で1時間の上映作品だが、レンタルDVDでは前編と後編に分けられている。
クラブ・ロンドのオーナーに捕まっていた不二子はその場で見世物にされるが、そこに現れたルパンに助け出され脱出する。ルパンは不二子が盗み出したカラミティファイルを見ると、そこには歌姫や次元など、東ドロア政府がヤエル奥崎に命令した暗殺対象者のリストが書かれていた。東ドロア政府はヤエル奥崎を雇って、自国に不利益となる他国のスパイや政財界の要人を秘密裏に暗殺しており、カラミティファイルはその暗殺指令書であった。ルパンが不二子を連れて墓地に向かうと、そこには新たにルパンと不二子の墓が用意されていた。
翌朝、海沿いのカフェに姿を現したルパンを遠方の塔から狙撃するヤエル奥崎だったが、銃弾は外れ、彼は背後から何者かに狙撃される。

【考察】
ヤエル奥崎の射撃のトリックに関しては、初見で見破るのは少し厳しいと思われるが、前編の早い段階で伏線のカットが何度か登場する。しかし流れとしてはシンプルで、ヤエル奥崎の射撃のトリックをルパンたちが逆手に取り、出し抜いたことをネタバラシした時点で騙し合いは終了、次元がスピーディーにヤエル奥崎とのリベンジマッチに持っていくのも、観客を待たせずに楽しませる点だと考えられる。早撃ちの条件は相変わらず次元の方が不利だが、そのハンデを次元の驚異的なスキルを駆使した意外な方法で乗り越え、決め台詞にもカタルシスを感じる、男たちのロマンの塊のような、王道の一騎打ちを描いた物語だと考える。
全体的にルパンのジャケットや空などの青の彩度が高く、印象的に描かれている。ヤエル奥崎の白いスーツとの対比か。

21.『LUPIN THE ⅢRD 血煙の石川五ェ門 前編』(劇場用スピンオフ作品)(2017年)監督:小池健

【概要・あらすじ】
『ルパン三世』のスピンオフ劇場用作品『LUPIN THE IIIRD』シリーズ第2作。こちらも前作と同じくPG12指定のレイティングがされている。
剣術の腕を買われた五ェ門は、ヤクザ・鉄竜会の組長の用心棒として雇われていた。不遜な五ェ門に幹部たちは不満を抱くが、五ェ門は鉄竜会の運営する賭博船で他の組の襲撃から組長を守った。同じ頃、ルパンと次元は賭博船の金庫に侵入、先回りしていた不二子と出会い、ルパンと不二子は金を山分けすることにする。直後に船が爆発し、機関部に向かった五ェ門は斧で機関部を破壊する大男に遭遇。大男を追い詰めて目的を尋ねると、ルパン・次元・不二子を殺すことだという。隙を突かれて五ェ門は大男を逃がし、更に組長が爆発に巻き込まれて死んでしまう。
翌日、爆発現場に銭形が現れ、大男の行方を尋ねる。大男について訊かれた銭形は、「バミューダの亡霊だ」と答える。同じ頃、組長の葬儀に現れた五ェ門は、彼の息子に用心棒の務めを果たせなかったことを詰められ、仇を討つと誓う。一方、ルパンたちはアジトで祝杯を挙げていたが、バミューダの亡霊・ホークに襲撃されてしまう。そこに五ェ門が現れ、ホークに戦いを挑む。しかしホークは五ェ門の太刀を見切って受け止め、いとも容易く彼を弾き飛ばす。ホークは五ェ門を無視してルパンたちを殺そうとするが、そこに銭形が駆け付けてルパンたちは逃走。ホークは「眠気には勝てない」と呟いて無抵抗のまま銭形に逮捕される。

【考察】
前作の『次元大介の墓標』と同じくハードボイルド調で、因縁の強敵にリベンジを誓うという構図も似ており、次元にとってのヤエル奥崎と同じく、あの五ェ門が敵わないというシリーズでもトップクラスの強さを誇る敵のホークが登場する。ただ構図は似ているものの雰囲気はやや異なっており、五エ門の人間離れした動きを主体にするとなると、かなりアニメ的、言うなればファンタジー的な空気が入らざるを得ない。前作の「実写も向いてそう」という意見は今作には出ないだろうと考えられる。
また、舞台がそもそも日本であるなど、全体的に彩度が低く和の雰囲気が散りばめられている。それが却ってアメリカ人風の容姿であるホークの異質さを際立たせていると考えられる。
展開も次元と同様、五エ門が得意であるはずの居合いが通用しない相手にどう勝つのかに観客の注目が集まるようになっている。

22.『LUPIN THE ⅢRD 血煙の石川五ェ門 後編』(劇場用スピンオフ作品)(2017年)監督:小池健

【概要・あらすじ】
本編は1本で1時間の上映作品だが、こちらも『次元大介の墓標』と同じくレンタルDVDでは前編と後編に分けられている。
ホークに敗れて誇りを失った五ェ門は、腕を磨くために修行を始めるが、彼に敗れたことがトラウマとなり刀を抜けなくなってしまう。一方、銭形はホークを釈放するよう圧力をかけられる。そのまま局長室を出た銭形の元にホークが脱獄したという報告が入り、追跡を開始する。ホークは追手のを振り切って逃走するが、出くわした銭形にバイクを撃たれ、崖下に転落。しかし、無傷で立ち上がり、ルパンたちを殺しに向かう。ルパンと次元は五ェ門の修行を途中まで見守っていたが、ルパンは彼の修行が完遂間近なことを悟り、五ェ門の前から姿を消してホークの情報を集めるため銭形に自首する。
五ェ門は修行を終えて満身創痍の状態で鉄竜会の組員たちと出くわし、組長の息子から用済みと判断され、幹部からリンチを受ける。その中で第六感が開眼した五ェ門は、鉄竜会の組員50人を次々と斬り捨て、ホークから手を引くことを認めさせる。一方、ホークの襲撃を受けたルパンと次元は銭形の元から逃げ出し、山奥の古寺に逃げ込む。ホークはルパンと次元を追い詰め止めを刺そうとするが、そこに五ェ門が到着。五ェ門はホークに一騎打ちを挑む。

【考察】
後編序盤の五エ門修行シーンは前作の『次元大介の墓標』と比べると、ハードボイルドで纏めるには難しい程のファンタジーであり、五エ門が苦悶の表情で大真面目に修行しているため笑いこそ起きないものの、作品全体の雰囲気を統一させるのは難しかったのではないかと推測される。銭形とルパンのやり取りや会話劇はシリーズの中でもかなりシリアスな部類になるが、端々にある『ルパン三世』シリーズらしいコミカルさも決して失われてない。
ホークと五エ門の一騎打ちの構図は『墓標』とかなり似ているが、ホークが山寺を斧で倒壊させるなど、戦いの規模感が非常に大きく豪快である。
前作の『墓標』では空などの青が印象的に描かれていたが、今作では全体的に空は曇り、もしくは雨が降っていることが多い。キャラクターの色合いとして五エ門は無彩色中心、ホークは赤いシャツに青いジーンズ、金髪と色が鮮やかであることからか、あるいは五エ門が返り血を浴びることから、無彩色の世界にタイトルにもある血の赤を映えさせるためかと考えられる。

23.『この世界の片隅に』(アニメ映画)(2016年)監督:片淵須直

【概要・あらすじ】
こうの史代氏の同名の漫画を原作とするアニメーション映画。本作品は第90回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、第40回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞、第41回アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門審査員賞、第21回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞など、数多くの賞を受賞している。
昭和19(1944)年2月、18歳のすずは広島から軍港のある呉の北條家に嫁ぐ。戦時下、物資が徐々に不足する不自由さの中、すずは持ち前の性格で明るく日常を乗り切っていたが、翌年の空襲によって大切なものを失う。広島への原子爆弾投下、終戦。それでもすずは自分の居場所を呉と決め、生きていく。

【考察】
描く世界観の規模は家庭の域を出ることはほとんどないものの、その背景に戦争が影響していることをひしひしと感じられる作品となっている。時代が違えば単なるほのぼのとした日常系の作品になるであろう。当時の生活に非常に丁寧に肉薄した描写力が圧巻である。すずは18歳で呉に嫁いだ身であるため、食事を始めとした家庭を守ることを念頭に置いているためか、原作の一部の台詞が食事関係に変更されていたりする。
代表的なのが玉音放送を聞いた後のすずの台詞は、原作では日本は暴力で従えてきたから自分たちも暴力に屈しなければならないのかという内容だが、映画版では海の向こうの国で得た食料で体が作られているから暴力にも屈しなければならないのかという内容に変わっている。
すずは戦争という厳しい状況でも、めげずに明日も明後日もその次も、家庭を守って生きていかねばならないという、柔らかい強さを感じられる作品となっている。

24.『空の青さを知る人よ』(アニメ映画)(2019年)監督:長井龍雪

【概要・あらすじ】
本作はアニメ監督の長井龍雪、脚本家の岡田麿里、キャラクターデザイナーの田中将賀で結成されたアニメ制作チーム「超平和バスターズ」によるオリジナル作品を原作とした『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』とともに三部作として位置付けられており、前2作同様に埼玉県秩父市周辺が舞台として設定されている。
高校2年生の相生あおいは、秩父市の山あいに31歳の姉のあかねと二人で暮らしている。二人の両親は13年前に他界。当時高校3年生だったあかねは同じ高校でバンドのギター担当だった金室慎之介(しんの)と交際していたが、一緒に東京に出るという約束を断念して地元の市役所に就職、あおいを育てる傍ら独身を貫いていた。あおいは高校を卒業したら東京に出て働きながらバンドをすると決めており、放課後は一人でベースの練習に明け暮れる日常だった。そんな姉妹の住む地区で、大物演歌歌手である新渡戸団吉を呼んで音楽祭を開く話が持ち上がる。仕掛け人は、あかねと幼馴染で同じ市役所に務める中村正道。正道は慎之介のバンド仲間でドラム担当でもあった。離婚歴のある正道はあかねに気があり、あおいにもそれをほのめかしていた。
ある日、あおいが近所のお堂でベースの練習をしていると、13年前のしんののような高校生が突然現れる。

【考察】
お堂に表れる過去の姿をしたキャラクターであるしんのは、あだ名があることも相まって『あの花』のめんまの要素を感じられる。その願いを叶えようと主人公が奮闘するという流れも、類似点と言って良いかもしれない。
画的な動きはそこまで大きくはないが、終盤までの動きの少なさを埋めるためか、終盤でしんのとあおいが共にダイナミックに空を飛んでいくシーンがある。
内容としては一定の年齢以上の人に特に刺さりそうな内容だと思われる。
将来に夢を見てキラキラ輝き、不安にも揺れる思春期のあおいやしんのの世代と、現実を知ってやさぐれ、夢半ばで諦めてしまった慎之介の世代の両方の背中を押すような作品だと考えられる。お堂から出られないしんのは、井の外に出ようとするも外の世界を恐れている蛙のようだと考える。

25.『きみと、波にのれたら』(アニメ映画)(2019年)監督:湯浅政明

【概要・あらすじ】
本作は、2019年度アヌシー国際アニメーション映画祭長編コンペティション部門正式出品作品、第22回上海国際映画祭 金爵賞アニメーション最優秀作品賞、第52回シッチェス・カタロニア国際映画祭長編アニメーション部門最優秀賞を受賞している。
向水ひな子は、幼少期を過ごした海辺の町にある大学に進学し、一人暮らしを始める。サーフィン好きな彼女は、自宅近くの海岸で連日波に乗る生活を送っていた。そんなある日、近くの廃ビルで上げられていた無許可花火の火の粉が原因で、ひな子の住むマンションで火災が発生、逃げ遅れたひな子は屋上からはしご車によって救出された。その消防隊員である雛罌粟港とひな子は後日サーフィンのデートを楽しみ、親密な関係になる。だが、雪の朝、一人でサーフィンに行った港は、水難者を助けようとして命を落としてしまう。港の死を受けて海から離れた場所に転居したひな子の元に、港の妹の洋子と後輩消防士の川村山葵が訪れ、職場にあった港の遺品を渡した。その中に港のスマートフォンがあったもののひな子はパスワードを知らず、画面は開けなかった。そんな矢先、ひな子が以前港と口ずさんだ歌を歌ったところ、近くの水の中に港が幻のような姿で現れる。

【考察】
画面の動きとしては湯浅監督特有の自由な動きはあるものの、内容が王道のラブコメディの部分が強いため、その動きが活かせる場面は少ないのではないかと思われる。港とひな子が交際を始めてから共に過ごす恋愛のシーンがかなり長めに設定されており、二人がいかに親密だったかを観客に伝えるためだと思われる。水の中に表れる港の動きは湯浅監督の動きを感じられるが、そこまで大きく水が動く場面は少ない。
内容としては、死別した港にいつまでも囚われることなくひな子が自分の力で前に進むための物語であり、港とひな子の生前のデートパート、幻と共に過ごすパート、ひな子が前に進むために動き出すパートと大まかに3つに分かれている。
港の幻が水中に表れる条件は、ひな子が港と生前よく共に歌っていた曲を口ずさむことなのだが、この歌はGENERATIONS from EXILE TRIBEが歌う『Brand New Story』という曲である。そして、港役を務めた声優がGENERATIONS from EXILE TRIBEに属する片寄涼太氏である。恐らくタイアップであることが推測される。
港の幻の姿はひな子にしか見えないため、ひな子が港の死のショックのあまり見ている幻覚の可能性もあったが、港の幻が操る水は現実世界にしっかりと干渉しているため、確かに存在はしているようである。
全体的な色使いの彩度は明るく、はっきりとした色使いが印象的な作品である。

26.『つみきのいえ』(アニメ映画)(2008年)監督:加藤久仁生

【概要・あらすじ】
2008年に発表された加藤久仁生監督による日本の短編アニメーション映画で、仏題は『La maison en petits cubes』。
アカデミー短編アニメ賞を受賞した初の日本映画でもある。
海面が上昇したことで水没しつつある街に一人残り、まるで積み木を積んだかのような家に暮らしている老人がいた。彼は海面が上昇するたびに、上へ上へと家を建て増しすることで難を逃れつつ、穏やかに暮らしていた。ある日、彼はお気に入りのパイプを海中へと落としてしまう。パイプを拾うために彼はダイビングスーツを着込んで海の中へと潜っていくが、その内に彼はかつて共に暮らしていた家族との思い出を回想していく。

【考察】
家の床の中央に四角い穴が開いており、そこから釣りが出来るようになっているのだが、老人はここにパイプを落としてしまう。これによって、彼はかつての家の内装を見ながら水底へと潜っていけるという構図になっている。水面が上昇するにつれて、生活に必要な家具は上の階層に運び込まれるが、必要のなくなった家具はそのまま部屋の中に置かれた状態になっており、その時から時が止まったままのようになっている。現在から逆回しに徐々に思い起こされていく過去の流れが非常に自然で、穏やかな過去の遺物が海面の上昇に追われて海の底に沈んでいるという現在に寂寥感を覚える作品である。

27.『紅の豚』(アニメ映画)(1992年)監督:宮崎駿

【概要・あらすじ】
宮崎駿監督の長編アニメーション映画第6作。
ファシスト政権が統治する戦間期のイタリア。かつて人間だった頃にはイタリア空軍のエースだった、深紅の飛行艇を操る豚のポルコ・ロッソは、アドリア海の小島に隠棲し、空賊退治を請け負う賞金稼ぎとして暮らしていた。ある晩昔馴染みのジーナが営むホテルを訪れたポルコは、米国製の飛行機を操るアメリカ人カーチスに出会う。カーチスは空賊連合が雇った用心棒だった。彼はポルコを撃墜して名を挙げたいと考える。
しばらく後、ポルコはカーチスと遭遇し撃墜されてしまう。ポルコは大破した艇をミラノの工房ピッコロ社に持ち込むが、おやじの孫でまだ17歳の少女フィオが共同で修理に当たるという。ポルコは不安に思うが、フィオの熱意にほだされて愛機を任せる。
政府に非協力的なポルコはミラノでも秘密警察や空軍に追われる。警告に来たかつての戦友から空軍への復帰を薦められるもポルコは首を縦に振らない。やがてフィオの献身によって飛空艇は復活し、人質の建前でフィオを乗せた飛空艇は秘密警察を振り切って離陸。
ポルコがアドリア海の隠れ家に帰還すると、空賊連合とマンマユート団が待ち受けており飛空艇を叩き壊そうとするが、フィオは毅然とした態度で空賊達を一喝。その場に居合わせ彼女の様子を見て一目惚れしたカーチスは、ポルコとの勝負でカーチスが勝利を収めた暁にはフィオを嫁にもらうという条件で結婚を申し入れ、フィオはポルコが勝利した場合は飛空艇の修理代全額をカーチスが負担するという条件で承諾。困惑するポルコをよそに、フィオの運命をかけた決闘が取り決められる事態となった。

【考察】
男同士の決闘や空賊などが出現するが、ポルコが豚になって以降の現在軸では非常に戦いは、誰かが死傷するような事件や事故もなく、とても平和的なのが特徴的である。人死にが出るのはポルコが空軍に所属して戦争に出ていた頃の話のみである。戦争による被害は嫌いだが、使われる兵器はかっこいいし扱いたいという監督のジレンマが感じられる。実際に武器を使うも死傷者が出ない作風になっているのは、監督なりにひたすら男のロマンのみを追求した形なのだろうと推測する。
ポルコが何故豚になってしまったのかははっきりと明かされないが、空軍時代は人間だったこと、フィオと過ごしたり、頬にキスをされたりした後に人に戻ったような描写を見ると、空軍時代に仲間を喪い一人だけ生き残ってしまった罪悪感と、それを誰にも共有できない孤独感が原因ではないだろうかと考察する。

28.『君たちはどう生きるか』(アニメ映画)(2023年)監督:宮崎駿

【概要・あらすじ】
タイトルは吉野源三郎氏の同名小説に由来しているが、原作ではない。
太平洋戦争中、眞人は実母のヒサコを火災で失う。父親の勝一は妻の妹である夏子と再婚し、眞人は母方の実家へ疎開する。屋敷の近くには青サギが住む塔が建っていた。眞人は夏子から、塔は大伯父によって建てられ、その後大伯父は塔の中で忽然と姿を消したこと、大水が出たときに塔と母屋をつなぐ通路が落ちて迷路のようなトンネルが見つかり、危なかったので入り口が埋め立てられたことを告げられる。
転校初日、眞人は帰り道で地元の少年らから暴行を受け、その後眞人は道端の石で自分の頭を殴って出血を伴う大ケガをし、屋敷で手当を受ける。翌朝、つきまとう青サギを退治しに木刀を持って庭の池の淵に出た眞人は、人の言葉をしゃべる青サギから母親は生きていると告げられ、操られた魚やカエルたちに全身を包み込まれかけたが、眞人を探しに来た夏子とばあやたちに助けられる。
眞人は母親に似た夏子を受け入れられず、見舞いに訪ねるもそっけない態度をとってしまう。ある日眞人は、砕けた木刀の代わりに弓矢を自作していると、ふと屋敷の窓から夏子が森の中へと消えていく姿を見かける。自室に戻るとヒサコが眞人のために残した吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』を見つけ、それを読み進めるうちに涙を流す。その日の夕暮れ、夏子の失踪に屋敷中が大騒ぎになる中、眞人は使用人のばあやキリコとともに、夏子を探しに森へ入ると塔の裏口に辿り着き、青サギの声に促されるまま足を踏み入れることとなる。

【考察】
キーワードは「悪意」ではないかと思われる。
人間と言う生き物は意識的にしろ無意識にしろ悪意を持っており、そんな悪意に満ちる世界で君はどのように生きるかを、作品を通して監督が観客に問いかけて来る作品だと考えた。眞人は自身が父や夏子たちに心配されることを見越して、自身で自分の頭を石で傷つけてしまう。夏子のことを新たな母として認めることが出来ず、どうにもそっけない態度をとってしまうのも眞人の悪意を示している。大叔父が石を積んでおり、その石を積む任を眞人に託そうとする。しかし、眞人は自分自身の悪意を自覚したことでその任を辞退した場面から、上記のように考察した。
眞人は異世界で手に入れた石の1つをポケットに入れて持ち帰ってきてしまう。青サギは眞人が石を持っていることを知ると、本当は異世界での不思議な経験なんてすぐに忘れてしまうこと、石を持っていれば忘れる速度が緩やかになることを告げる。何となく、宮崎監督が自身の作品を石、観客のことを眞人にも比喩しているのだろうかと考えた。

29.『千年女優』(アニメ映画)(2002年)監督:今敏

【あらすじ】
芸能界を引退して久しい伝説の大女優・藤原千代子は、自分の所属していた映画会社「銀映」の古い撮影所が老朽化によって取り壊されることについてのインタビューの依頼を承諾し、それまで一切受けなかった取材に30年ぶりに応じた。千代子のファンだった立花源也は、カメラマンの井田恭二と共にインタビュアーとして千代子の家を訪れた際、インタビューの前に千代子に小さな箱を渡す。その中に入っていたのは、古めかしい鍵だった。そして鍵を手に取った千代子は、井田に何の鍵なのかを尋ねられると、鍵を見つめながら「一番大切なものを開ける鍵…」と小声で呟いた。

【考察】
今監督特有の、現在の現実と回想の虚構が融合した世界観は同監督作品の『パプリカ』を思わせる。『パプリカ』よりもある程度現実と虚構の区別がつきやすくなっている。
物語の終盤で、千代子が発した台詞「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」というのが印象に残っている。ある種予想通り且つどんでん返しのような台詞である。千代子の恋は、鍵の君に鍵を返そうとするところから始まったが、いつしかその相手が生きていようが死んでいようが、実在するかしないかももはや問題ではなく、追い続けているという今の状況そのものに恋をしているのだろうと考察した。初恋の記憶が美化され、千代子は追う恋に恋をし続け、カメラには追い続ける千代子だけが残され、それが永遠に残ることから千年女優というのではないかと考えた。

30.『リズと青い鳥』(アニメ映画)(2018年)監督:山田尚子

【概要・あらすじ】
武田綾乃氏による小説シリーズ『響け!ユーフォニアム』の中の一編の『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』が原作となっている。
高校3年生のフルート奏者・傘木希美と、同じく高校3年生のオーボエ奏者・鎧塚みぞれにとって最後のコンクールの自由曲は『リズと青い鳥』である。この曲は同名の童話を題材にした作品であり、第3楽章にはオーボエとフルートの掛け合いがある。ある日の朝練にて、二人はそのパートを試しに吹いてみることになる。早く本番を迎えたいと希美が顔を輝かせる一方で、ずっと希美と一緒にいたいと考えているみぞれは「本番なんて、一生来なくていい」と呟く。
みぞれは卒業後の進路に特に何も考えられずにいたが、トレーナーの新山聡美に音楽大学のパンフレットを渡され、音大への進学を勧められる。そのことを知った希美は、自分もその大学を受けたいとみぞれに告げる。
オーディションを終え、正式に二人がソロを担当することとなるが、なかなか演奏が噛み合わず、顧問であり指揮者の滝昇から注意されてしまう。練習後、みぞれはトランペットパートの後輩・高坂麗奈から、希美のことが信用できていないのではないかと問いかけられ、動揺する。ソロのある第3楽章は、リズと青い鳥の別れが描かれるパートである。みぞれは青い鳥を希美に重ねており、リズがなぜ青い鳥を逃がしたのかを理解できずにいた。

【考察】
山田監督らしい足での心情描写が非常に多い。足のみでも微かな動作だけで、日常系作品の情報量の薄さを感じさせないほどの見どころが生まれている。
中盤から終盤に至るまで、希美とみぞれの2人がそれぞれリズと青い鳥、どっちがどっちの担当なのかが隠されており、誘導として希美が青い鳥、みぞれがリズであるかのように思い込まされるようになっている。実際はオーボエのみぞれが青い鳥、フルートの希美がリズの立ち位置になっている。リズが青い鳥を手放したのは、本来空を飛べるはずの青い鳥を自分の元で飼い殺しにするよりも、空で同じ鳥の仲間と過ごすべきなのではないかという、真に青い鳥の幸せを願ったゆえの行為だと分かる。2人はリズと青い鳥と同じようにそれぞれ別の進路を歩むことになったが、互いへの親愛の気持ちは変わらないことを確かめ合い、卒業までの期間を共に過ごすこととなる。
親愛のある相手と共に過ごすのは、例え双方が望んでいたとしても、それが双方にとっても最良の選択なのか? ということを考えさせられる作品だと考えた。

31.『雨を告げる漂流団地』(アニメ映画)(2022年)監督:石田祐康

【概要・あらすじ】
本作は、『ペンギン・ハイウェイ』『泣きたい私は猫をかぶる』に続くスタジオコロリドの長編劇場アニメ第3作目に当たる。
小学6年生の航祐と夏芽は、まるで姉弟のように団地で育った幼馴染。小学6年生になった二人の関係性は、航祐の祖父の安次の他界をきっかけにギクシャクし始めた。夏休みのある日、航祐はクラスメイトとともに取り壊しの決まった「おばけ団地」に忍び込む。その団地は、航祐と夏芽が育った思い出の詰まった家でもあった。航祐はそこで思いがけず夏芽と遭遇し、謎の少年・のっぽの存在について聞かされる。すると彼らは突然、不思議な現象に巻き込まれる。気づくと団地は大海原を漂流していた。過酷なサバイバル生活の中で子どもたちは力を合わせ、元の世界に戻るための旅に出る。

【考察】
のっぽ君はいわゆる取り壊された団地の付喪神のような存在で、団地が失われて悲しむ夏芽を笑顔にしようと、いつか流れ着く建物の付喪神たちの冥府に着くまで共に過ごそうとしていたのだろうかと推測する。
夏芽は団地を失うことをやや過剰に恐れており、漂流する団地が嵐で沈みかけている時にも、夏芽だけはのっぽ君を見捨てられず、一緒に沈んでも構わないというような言動まで行う。生まれ育って親しんだ場所を失うことは夏芽にとってそれだけ耐え難いことなのかと考えた。自ら滅びに向かう者を引き留めることは難しいことであるとも考えられた。別れというものはいつか必ず訪れる。手放すべき時がきたら、手放すべき時のタイミングで手放せないと危険なのがあぶない

32.『サイダーのように言葉が湧きあがる』(
アニメ画)(2021年)監督:イシグロキョウヘイ

【概要・あらすじ】
アニメ音楽レーベル「フライングドッグ」の設立10周年記念作品。監督は本作がアニメ映画初監督となるイシグロキョウヘイ氏が務めている。
地方都市、小田市に暮らしている少年と少女の物語。人との会話が苦手で、他人から話しかけられないようにとヘッドフォンをいつも身に付けている男子高校生のチェリー。彼は言葉に表わせない感情や想いを、趣味で親しんでいる俳句にしてSNSに投稿していた。一方で、歯科矯正中の大きな前歯を隠すため、いつもマスクをしている女子高校生のスマイル。彼女はライブ配信を手がける人気動画配信者で、日頃から目に留まった「カワイイ」を見つけて配信しながら過ごしていた。
夏休みに、趣味の俳句以外では思い浮かんだ心情を表現できないチェリーと、見た目の劣等感を受け入れられないスマイルは、地元の大型ショッピングモールで偶然出会う。互いに劣等感を抱えたふたりは、スマイルの配信を通じて少しずつお互いを知るようになり、距離を縮めていく。
夏休み中、チェリーはショッピングモールにある福祉施設のデイサービス陽だまりで腰を痛めた母親に代わってパートに出ていた。やがてスマイルも一緒にアルバイトをするようになり、施設の利用者のフジヤマが昔失くしてしまったという想い出のピクチャーレコード『YAMAZAKURA』を探すのを手伝うことになる。

【考察】
彩度が高くはっきりとした線で描かれた、CDジャケットのイラストのような独特な背景が特徴的。背景だけでなくキャラクターを含めて画面全体の彩度が高く、現代的な作品であることを感じさせる。話の展開としては非常に王道な恋愛もので、一般人にもウケが良さそうな作品である。
出合いの場はショッピングモール、離れた場所でのやり取りはSNSを使うなど、現代社会の地方都市のリアルなあるあるを恋愛模様に取り入れて描写している。
2人の仲に物語中に大きな動きがあるかと言われると終盤以外はそこまででもなく、緩やかに仲が進展していっているような感覚がある。

33.『言の葉の庭』(アニメ映画)(2013年)監督:新海誠

【概要・あらすじ】
新海誠氏の第5作目の劇場用アニメーション映画。
靴職人を目指す高校生の秋月孝雄(タカオ)は、雨の日の午前には決まって授業をサボり、庭園のベンチで靴のデザインを考えていた。梅雨入り前のある雨の日、タカオはいつものベンチへ向かうと、チョコレートをつまみにビールを飲む女性、雪野百香里(ユキノ)に出会う。タカオはユキノにどこかで会ったことはないかと尋ねるも彼女は否定し、『万葉集』の短歌 「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか きみを留めむ」を言い残して去っていった。
その後、2人の住む関東は本格的に梅雨入りし、雨の日の午前だけのささやかな交流がはじまる。

【考察】
画として特徴的なのは、周囲の環境の色を反射光に入れて照り返しに色を付けている箇所である。新海監督作品は、背景を写真で撮ったもののように見せかけて、全て写真よりきれいな背景画像に仕上げている、映像表現にカメラのレンズの反射光のような光や、新宿御苑の周囲の緑を照り返してキャラクターに反映させる技法を使用した技法は新海監督特有の光の使い方である。
話の流れとしては前の『サイダーのように言葉が湧きあがる』よりも更に関係値の起伏は緩やかで、教師と生徒という関係なのもあり、この二人の間で劇的な何かはほとんど起こらない。穏やかで落ち着いた空気がしっとりとした空気が流れる。物語的な起伏はあまりなく、終盤にユキノがタカオの通う高校の先生だったことを知ってから、タカオがユキノのためにやや大きく動き出すが、それでもユキノいじめが何か解決するわけでもないのが実にリアルだと感じた。
ラストのシーンでは手ブレカメラと定点カメラの使い分けと、カメラレンズによって反射したような光を入れて実写化のようなリアルな表現を追求しているように見えた。
2024/09/24(火) 23:07 No.1 EDIT DEL
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