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3年 谷澤佳歩
RES
春休み課題 20作品
1『海がきこえる』(アニメ映画)(1993年)監督:望月智充
【概要・あらすじ】
氷室冴子による小説『海がきこえる』を原作として、1993年にスタジオジブリが制作したアニメーション映画作品である。
高知の中高一貫校を出て東京の大学に進学した主人公・杜崎拓は、吉祥寺駅のホームで高校時代に東京から転入してきた武藤里伽子によく似た女性の後ろ姿を見かける。その後、拓は同窓会のため高知へと帰省する道中、飛行機の中で里伽子と出会った高校時代の想い出を振り返る。
【考察】
物語の構造としては時系列通りではなく、直近の時間軸の間に過去回想が挟まれている構造となっている。クライマックスが最も未来なので、観客は杜崎と武藤の二人の関係がどうなるのか分からないまま、予想しつつ回想を見ることになる。素直になりきれず思っていることを正直に言えないような思春期のキャラクター造形や、噂話が広がるのが非常に早い地方の田舎の描写はとてもリアルで、二次元的なデフォルメの効いた表現などはあまり感じられず、大人になった観客が見てもまるで自分自身の過去のように思えるほど「等身大」という印象だった。未成年の飲酒のシーンがあるなどの理由からか地上波などでほとんど見ることが出来ない作品だが、思春期の青少年を緻密に描写した作品。同窓会で大人になった同級生たちの振る舞いから分かる登場人物の成長や、武藤と杜崎の間にある感情が何なのかが最後にようやく確定する、その演出の仕方も伏線があるなど、非常に巧みだと言える。演者たちの土佐弁も自然で、見ていて独特のリズムが作品のテンポに良い演出となっている。
2『耳をすませば』(アニメ映画)(1995年)監督:近藤喜文
【概要・あらすじ】
柊あおいによる漫画『耳をすませば』を原作とし、1995年にスタジオジブリが制作したアニメーション映画作品である。
読書好きの中学三年生・月島雫は、夏休みも勉強せずに図書館通いの日々を送っていた。雫は自分が借りる本の貸出カード履歴に、決まって「天沢聖司」の名前があることに気づき、素性の知れない彼を気にするようになる。ある日、雫が友達に『カントリーロード』の替え歌『コンクリートロード』の歌詞を見せていたところ、見知らぬ少年から馬鹿にされる。しばらくして、図書館へ向かう道中で出会った野良猫の後を追って見つけたアンティークショップで、『コンクリートロード』を馬鹿にした少年が天沢聖司だと発覚する。
【考察】
話全体の展開の速さが丁度良く、ダレない速さで進んでいく。観客としては天沢聖司の正体が誰なのか物語の序盤で何となく察しがつくが、作中で雫が天沢聖司の正体に確信を得るのは観客が察するよりも遅めになっている。これは雫の空想の中の「天沢聖司像」と「嫌味な少年」が結びつきづらかったためだと考えられる。雫や天沢を中心に、人間関係の他、将来の夢や目標に向かって邁進する若者の姿を中心に描いた作品であり、自分の持つ能力や才能の限界を知ることの恐怖や、それでも立ち向かう若者を周囲にいる大人が見守る構図が印象的である。才能を宝石の原石に例え、洞窟の無数にある石の中から原石を見つけ出そうとする描写が、雫たちの行動と準えられている。天沢が雫を自転車の後ろに乗せて朝焼けを見せに高台へ行くシーンでは、最初雫を乗せたまま急斜面を登ろうとするが、途中で雫が自転車から降りて、天沢の漕ぐ自転車を押しながら「お荷物だけなんていやだ」と二人で坂を乗り越えようとする場面は象徴的である。バイオリン職人になりたいという夢を追う天沢を応援するだけでなく、自分自身も夢を追いながら共に成長したいという雫の思いが表現された演出である。また、本作ではジブリ作品の要素が登場しており、「TOTORO」と書かれた本があったり、「porco Rosso」の文字が時計に刻まれていたり、魔女の宅急便のキキを思わせる魔女の飾りがあったり、土佐の段ボールがあったりなど、ファンサービスの一面を感じさせる。
3『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』(アニメ映画)(2016年)監督:原恵一
【概要・あらすじ】
杉浦日向子による日本の漫画『百日紅』を原作として制作されたアニメーション映画。第12回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門第19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門・審査委員会推薦作品に選ばれた。
浮世絵師・葛飾北斎の娘で、同じく浮世絵師として活躍した女性・お栄が、父・北斎や盲目の妹のお猶、浮世絵の仲間たちとともに生きた姿を、江戸の町の四季を通して描く。
【考察】
葛飾北斎の娘であることは作中でそれとなく観客に提示するのではなく、冒頭の本人のモノローグで発覚するのがインパクトを与える。作品の構造としてはプロローグとエピローグをお栄本人がモノローグ形式で語り、死後のことなどについては文字のみで語られる。作中の描写としては、お猶の最期の演出や、絵の始末、伸びる手や腕の話など、芸術家や表現者に共通するような、言葉ではっきりとは表現しない・出来ない非常に感覚的な演出・表現が多い。父と並ぶ芸術家としてのお栄、一人の娘として恋をするお栄、お猶の前での姉としてのお栄など、多面的な描写からお栄という人物がどんな人物なのか、その半生を表現している。お猶と舟に乗った際に、北斎の富嶽三十六景の有名な構図を用いるなど、数多くの作品が作品内で引用されている。北斎やお栄の人物像に詳しくない人でも「この絵を見たことがある」というフックになりえる演出となっている。お猶は盲目であるため、必然的に絵に関する話題よりも今体験していることを視覚でないもので感じ取る感覚が、絵を生業とするお栄にとって良い刺激であるように思われる。
4『ブラック・ジャック 劇場版』(アニメ映画)(1996年)監督:出崎統
【概要・あらすじ】
手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』を原作とするアニメーション映画作品。OVAシリーズの流れを汲む作品で、原作にはない劇場用オリジナルストーリーとして製作された。
1996年のオリンピックにて、驚異的な新記録が次々に打ち立てられ、世界は「超人類の出現」として囃し立てる。「超人類」の活躍は芸術や科学の分野にもおよび、世界は飛躍的な進歩を遂げようとしていた。しかし同じ時、ブラック・ジャックは老人のように摩耗した内臓を持つ少女の死に立ち会い愕然としていた。超人類たちとこの少女との間に隠されていた陰謀の魔の手が、真相を突き止めようとするブラック・ジャックへ伸びていく。
【考察】
作中で使われた特徴的な演出を挙げると、サーモグラフィーの演出と劇画調のカットである。原作の手塚漫画のデフォルメ調の絵柄とは異なり、キャラクター全般の頭身が高く、影が斜線で描き込まれているなどのリアルさを重視したカットが要所で印象的に差し込まれている。サーモグラフィーの演出では、「超人類」の持つ異常な体温を冒頭から表現しており、ドーピングに似ていつつも、異なる身体現象を演出している。この作品のシナリオは、科学技術による人体のエンハンスメントに対する懐疑の目を向けるものであり、人体や生命を人類の手によって制御しようとすることへの烏滸がましさや、万能感の危うさを顕わにする、原作の手塚漫画の思想を踏襲するものとなっている。『ブラック・ジャック』においては珍しいことではないが、物語の舞台設定がアメリカを中心に海外になっており、生命や自然を制御する万能感は日本よりアメリカなどの欧米の価値観において強い印象があるため、舞台が日本ではないのだろうかとも考えられた。
5『HELLO WORLD』(アニメ映画)(2019年)監督:伊藤智彦
【あらすじ】
2027年の京都市に住む主人公・堅書直実が、10年後の2037年から来たという自分自身から、自分の住む世界がシミュレーター内に再現された過去の世界であると聞かされ、まもなく出会うことになる将来の交際相手・一行瑠璃へと降りかかる悲劇の運命を回避するよう依頼される。
【考察】
映画のほぼ全編をフルCGで描画しており、主人公たちが存在するデータ世界を表現しており、データ世界ならではの演出は、『サマーウォーズ』のOZの世界を連想させる。二人の堅書によって、作品の前半は一行との交流を深めていく様や堅書の成長が描かれるが、一行のキャラクターが観客に魅力的に感じられるようなエピソードが多く描かれており、堅書に感情移入しやすくなっている。舞台が京都なこともあり、デジタル世界のUIデザインが、伏見稲荷大社や狐面、八咫烏などの和風のものをモチーフにしている。また、細田守作品に見られる非現実世界を表現する際に用いられる赤い輪郭線も見られた。未来から来た堅書は、実際は脳死状態であり、結末としては堅書が一行にしようとしていたことは最新の時間軸では立場が丸ごと逆転しており、データ世界という非現実世界での出来事が三重の入れ子構造になっていることがラストの五秒ほどで観客にはっきり分かるようになっている。また、この最後の場面だけはフルCGではなく2Dのアニメ作画になっており、本当の現実世界であることが示されている。主人公の修行のシーンではほとんどダイジェストが使われており、『君の名は。』の新海監督の影響を感じられる。
6『ハウルの動く城』(アニメ映画)(2004年)監督:宮崎駿
【概要・あらすじ】
イギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作として制作されたスタジオジブリのアニメーション映画作品。
魔法が存在する国で、ソフィーは父から受け継いだ古い帽子屋を営んでいた。ある日、ソフィーは街中で兵隊に絡まれ困っているところを魔法使いのハウルに助けられる。その晩、荒地の魔女がソフィーの営む帽子屋に訪れ、ソフィーに90歳の老婆になる呪いをかけてしまう。これまで通りの生活は出来ないと悟ったソフィーが家を出て荒地に向かうとハウルの城に遭遇し、掃除婦としてハウルの城に転がり込むことになる。
【考察】
ソフィーの姿が作中で何度も大きく変わっているのが印象的ではあるが、他にも作中に登場するハウルの城の住人は、ほとんどの全員が容姿や内面に大きな変化がある。ソフィーは老婆から星の色の髪を持つ女性になったり、ハウルは金髪から黒髪、時に牙と爪と翼を持つ怪物になったり、マルクルは老人の魔法使いの姿になり、荒地の魔女は老婆の姿に変わる。ほとんどのキャラクターが心境や立場、力などの変化に対応して容姿も変化していると考えると、ソフィーやハウルは自尊心や自立心、マルクルは外部の人間とハウルの弟子として振る舞うときには老人の姿に、荒地の魔女は魔法の力とサリマンとの力関係とを分かりやすくしたことや、ハウルと結ばれるヒロインが誰になるのかがはっきり示されているようにも考えられる。また、ハウルの髪色が金から黒に変わるのには、元は地毛が黒であるハウルと、サリマンに使える侍従が幼少の頃の金髪のハウルに似ていることから、金髪はあらゆる意味で美意識や価値観、執着がサリマンに支配されている状態で、黒髪になる頃にはその呪縛が解けた状態だと推測される。ヒンの体重が見た目の割に重かったり、喉を潰された犬のような声で鳴くことだったり、実は耳で軽々飛び上がれるといったことを踏まえると、ヒンの正体は、元はサリマンに仕えていた人間の魔法使いなのではないかと考えられる。字幕がないと分かりづらいが、映画の序盤にソフィーがハウルと出会う路地に入る場面から、国民が国の臨む戦争についての話題に触れている会話があり、作中の至るところで背景に戦争に向けて着実に動き出している描写が施されている。
7『北極百貨店のコンシェルジュさん』(アニメ映画)(2023年)監督:板津匡覧
【概要・あらすじ】
西村ツチカによる漫画作品『北極百貨店のコンシェルジュさん』を原作とするアニメーション映画作品。
新⼈コンシェルジュとして秋乃が働き始めた「北極百貨店」は、来店されるお客様が全て動物という不思議な百貨店。 ⼀⼈前のコンシェルジュとなるべく、フロアマネージャーや先輩コンシェルジュに⾒守られながら日々奮闘する秋乃の前には、あらゆるお悩みを抱えた客が現れる。そんな客たちの要望に応えながら、コンシェルジュとしての成長を描く。
【考察】
原作の漫画の記号的な絵柄を踏襲した、輪郭線が繋がっていないふわふわとした作画が特徴的な作品。輪郭線の色も薄目で、黒ではなく茶色などの別の色を使用しており、画面全体が明るい鮮やかな色使いなのも特徴の一つ。秋乃がコンシェルジュとして働き始めてから、場面のカットにベルの音が使われており、店内で接客をするのに目まぐるしく対応に追われる様子を演出している。世界観が不思議な背景を持っており、北極百貨店が出来た詳しい背景は語られないものの、別々の時代に人間の手によって絶滅した動物がVIPならぬVIAとして、人間のコンシェルジュから好待遇の接客を享受している様子は、これまでの人間の行いに対する皮肉や戒めであるように表現している。なぜ別々の時代に“既に絶滅した”と分かっている動物が百貨店にいるのか、なぜ動物たちが人間と同じ言葉を喋っているのか、北極百貨店とは一体何なのか、そういった謎についての詳細は語られず、観客に解釈を任せる形になっている。VIAの客は、そのほとんどがそれぞれの大切な存在のために百貨店に訪れており、その気持ちに寄り添うコンシェルジュの精神は、欲望とは反対の精神であると示され、新たな絶滅種を生み出さないために重要な精神であると訴えかけている作品と考えられる。キャラクターの担当声優に、芸能人声優や俳優、新人の声優を起用していないのも、近年のアニメ映画の中では特徴と言える。
8『BLUE GIANT』(アニメ映画)(2023年)監督:立川譲
【概要・あらすじ】
石塚真一、NUMBER8による日本の漫画『BLUE GIANT』を原作とするアニメーション映画作品。
ジャズに魅了され、テナーサックスを始めた仙台の高校生・宮本大。雨の日も風の日も、毎日たったひとりで、何年も河原でテナーサックスを吹き続けてきた。卒業を機にジャズのため、上京。高校の同級生・玉田俊二のアパートに転がり込んだ大は、ある日訪れたライブハウスで同世代の凄腕ピアニスト・沢辺雪祈と出会う。大は雪祈をバンドに誘う。はじめは本気で取り合わない雪祈だったが、聴く者を圧倒する大のサックスに胸を打たれ、二人はバンドを組む。そこへ大に感化されドラムを始めた玉田が加わり、三人は“JASS”を結成する。
【考察】
私自身音楽の良し悪しは分からない人間ながらも、見事な演奏だと感じるほどのジャズ演奏は観客の聴覚の期待に応える作品だと言える。ただ、実際に演奏をする場面ではCGのモーションキャプチャーを用いた作画になり、それが演奏シーン以外の作画と大きく異なるためにやや浮いてしまう印象はある。しかしそれでもなるべく画面上で浮かないように画面の角度や色合いが調整されているように感じる。演奏中に過去回想のカットが差し込まれることが何度かあるが、これは昨今の新海作品特有のダイジェストとは少し異なり、「音に感情を乗せる」ことの表現になっていると思われる。演奏中にカメラが奏者や会場を大きくグルグルと回る演出が特徴的である。音楽による演出だけでなく、サックスの口から響く音圧を細かい線で描画したり、会場の静かな熱気を火花のような描写で表現したりなど、視覚的な演出も豊富に込められている。最後の会場での演奏では、「BLUE GIANT」という名前の由来にふさわしく、青色をベースに宇宙や恒星をモチーフにしたジャズの空気感を演出している。会場外の夜の場面では青色をベースに、会場内ではオレンジなどの暖色系の色をベースに背景が描かれており、熱気と冷気がそれぞれの色で対応して対比の構造になっている。背景も含めて画面全体が球体のように大きく回るように動く演出は、同じ立川監督が監督をしている『モブサイコ100』でも見られる表現だと考えられる。ストーリーとしては、バンドメンバー三人で方針についてぶつかり合いながらも、互いの成長を見守り認めつつ夢の舞台を目指す物語となっており、王道な青春スポ根に似た内容になっている。
9『心が叫びたがってるんだ。』(アニメ映画)(2015年)監督:長井龍雪
【概要・あらすじ】
フジテレビ系列『ノイタミナ』で放送された『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のメインスタッフ「超平和バスターズ」が再集結して制作されたアニメーション映画作品。第19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門・審査委員会推薦作品。
夢見がちでお喋りの少女・成瀬順は、山の上に建つ城の舞踏会へ行くことに憧れていた。下校中に城に向かうと、父が車で見知らぬ女性を助手席に乗せて城から出るところを目撃する。ラブホテルだと知らない順は、無邪気に父のことを母に話すと、「それ以上しゃべっちゃだめ」と黙らされ、離婚されて家を出る父は、縋る順を「全部おまえのせいじゃないか」と責める。そんな順は突然現れた“玉子の妖精”に、言葉を発すると腹痛になる呪いをかけられる。以来、口も心も閉ざしたまま高校二年生になった順は、担任から地域ふれあい交流会の実行委員に任命される。
【考察】
作品内において、やはり「言葉」や「伝えること」がかなり重要なキーワードとして設定されている作品だと感じる。言葉は時に人を傷つけ、どんなに後悔しても言ってしまった言葉を取り返すことは出来ない。自身の言葉によって家族がバラバラになってしまったトラウマを持つ主人公にとって、言葉というのは忌避の象徴であり、加えてそれを再び自分の迂闊さによって生み出してしまうかもしれないという恐怖を内包するものとして表現されている。また、自分の内面にある感情も、自分で言葉にしなければ相手に伝えることも叶わない。それは自分の心の内を相手に明かす行為でもあり、時には痛みも伴う行為となる。玉子は近所にある神社の供え物としての側面があるが、自身の殻の内側に存在する言葉にならない感情を黄身とし、自身の殻を割ってしまえば黄身が漏れて死んでしまう(=全てが破滅する)という暗示で、順は言葉を口にすることを自分で封印する状態になっている。主人公は身近な人間にあまり恵まれず、浮気などをする父親が全面的に悪いのにも関わらず父から「全部お前のせい」と責められ、母親からは無口になったことをみっともないと疎まれ、なぜそうなったのかの原因に理解を示されないといったところが描写されており、主人公に感情移入する観客としてはフラストレーションが溜まる場面も多い。しかし、いざ主人公が自分の内に籠った感情を打ち明ける場面の最後に出てきたのはメイン男子への告白の言葉であり、無口の原因になった両親については触れられない。王道な恋愛的な展開にはならず、メインの男子キャラが主人公とくっつくわけではなく、エピローグ的に別の主要男子キャラから告白されるのが少しリアルさを演出しているように見える。サブヒロインがメインヒーローと過去に交際経験がある、ラブホテルを物語の鍵となる場所にするなど、幼い子供向けの作品というよりは、中学・高校辺りの思春期を迎えた青少年向けの少しドロドロした人間描写が独特の作風を持つ。
10『さよならの朝に約束の花をかざろう』(アニメ映画)(2018年)監督:岡田麿里
【概要・あらすじ】
P.A.WORKS制作による日本の長編アニメーション映画。「ぴあ映画初日満足度ランキング」第2位。
人里離れた土地で、ヒビオルという布を織りながら静かに暮らす、長い寿命を持つイオルフの民の少女マキア。ある日、イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる獣にまたがるメザーテ軍が攻め込んできたことから、イオルフの民の平穏な日々は崩壊する。親友や思いを寄せていた少年、そして帰る場所を失ったマキアは森をさまよい、そこで親を亡くしたばかりの、人間の孤児の赤ん坊を見つける。マキアは赤ん坊の母として子供を育てていくが、子供が成長してもマキアの姿は変わらないまま月日が流れていく。
【考察】
監督は、前に取り上げた作品『心が叫びたがってるんだ。』の脚本を務めた岡田麿里氏によるもので、ファンタジックな世界観の作風ながらも、主人公がかつて純粋な気持ちで自身を守ると約束してくれた血の繋がらない息子から、体格年齢が釣り合ってきた時、酔って正気ではないとは言え性的関係を持ちかけられる、主人公の幼馴染は想い人とは別の相手と無理やり結婚させられて子供を生まされるなど、性関連のドロドロした少しグロテスクな人間関係描写が似通っていると感じられた。生命の連鎖や、長命種による年齢感の逆転現象など、『葬送のフリーレン』で主題にされるような要素がある。作品全体の背景美術はスケールが大きく、地方によって統一感があって、観客から見ても世界観の想像がしやすくなっている。ただ世界観が作りこまれていると思われる分、途中から説明の少ない専門用語が増えて少し難解に感じられる。マキアは拾った赤子の髪色に合わせて同じ色に髪を染めるが、数年後にイオルフの民の同胞に誘拐され長らく幽閉された際に、染められなかった部分を残して染められた部分だけを切り落とされる場面があるが、染めていた部分が丁度息子と過ごした年月分が染められた長さで、地毛の部分の長さが息子と離れ離れになって一イオルフの民として、「母」の要素が徐々に失われていく描写がされている。息子の子孫までも見守り続けることを決めたマキアが家を訪問する場面では、かつて同じ家で暮らしていたこともあり、同ポの表現を用いて、過去との差異を表現している。同ポの技法をよく使う監督として細田守が挙げられることが多いが、長い年月をモチーフとする本作では効果的であると思われる。
11『金の国 水の国』(アニメ映画)(2023年)監督: 渡邉こと乃
【概要・あらすじ】
岩本ナオによる同名の漫画作品を原作として制作されたアニメーション映画作品。原作漫画は2016年、「このマンガがすごい!オンナ編1位」を受賞した。
王女サーラが住む金の国ことアルハミトと、貧しい建築士ナランバヤルの住む水の国ことバイカリは、些細な原因で戦争をして以来、100年間国交を断絶していた。敵国同士出身のサーラとナランバヤルは、国家間の思惑に巻きこまれて偽りの夫婦を演じることとなる。サーラの国の深刻な水不足と、自国の経済的衰退を案じたナランバヤルは、二国間の国交を回復させようと動き出す。
【考察】
出て来る言葉こそ暗殺などのきな臭いものが多いものの、物語の展開としては終始残酷なものは無く、サーラとナランバヤルの関係値も穏やかで微笑ましいもので、二人の間に何かしらの誤解があったとしても、観客にだけ分かる形で誤解が解けるように演出してあったり、比較的早急に解決していったりしていくので、観客にかかる精神的なストレスが低い作品だと考えられる。小さな問題が発生してストレスに感じたとしても、早急に、観客の予想を超える方法で解決していき、それが立て続けに何度もあるため、観客の満足度は高いと思われる。両者の間に育まれるお互いを思いやる穏やかな愛と、主にナランバヤルの知能と行動力から物語が展開し、サーラはナランバヤルの仕事を見守りつつ、バイカリに行って図らずも国交の手助けになるようなことをしていたり、序盤にある伏線も終盤で回収されたりなど、「こういうのでいい」と思わせるような作品となっている。ナランバヤルの容姿はそこまでイケメンといった派手なものではなく、あくまで一般家庭出身の一学者としてデザインされているのも特徴の一つである。例を挙げるならば『ワンパンマン』のサイタマのような顔立ちをしている。サーラの場合、一応アルハミトの姫ではあるのだが、第93王女であるため、ほとんど姫として強力な権力を持つわけではない。純真ながらやや自己肯定感の低い心を持つ彼女の性格によって、些細なことから国交が回復する伏線を回収した時には、物語が綺麗に収まっており、完成度の高いものとなっている。ただ、文字列が独特で字幕がないと固有名詞をはっきりと把握出来ないことがある。
12『AKIRA』(アニメ映画)(1988年)監督:大友克洋
【概要・あらすじ】
大友克洋による同名の漫画を原作とした1988年7月16日公開の長編アニメーション映画。監督を原作者の大友氏が務める。
新型爆弾の爆発により旧東京が壊滅したことを発端に勃発した第3次世界大戦から38年が経過した2019年、爆心地東京は東京湾を埋め立て、そこに新たな大都市「ネオ東京」として再興し、繁栄を取り戻しつつあった。暴走族として練り歩いていた少年たちの一人である鉄雄はバイクで疾走中、突然飛び出してきた老人のような少年と事故を起こしてしまう。駆けつけた軍は少年と彼に接触した鉄雄を連れ去っていった。その騒動下で金田は軍に対抗するゲリラと知り合い、軍との戦いに巻き込まれていく。
【考察】
作画が、公開された年代に反しているオーパーツ的な作品と言われているが、特に序盤で金田がバイクで横滑りしながら停車する場面は、本作を見たことがないにしても国内外問わず様々な作品でオマージュされており、影響力の強さが窺える。物質の質感を無視した動きではなく、出来る限りその質感や現象のリアルな描画がされており、走り去るバイクのランプの光の尾を引く表現や、ヒビ割れるアスファルトの地面、爆発など、当時のアニメーション作品の中ではリアルに徹底しているのも特徴である。序盤で現れる老人のような顔の子供は、『ブラック・ジャック 劇場版』のように、人間の手によって超常的な力を手に入れさせられ、その引き換えに陥った容姿であろうことは観客にも想像しやすい。周囲に対し劣等意識があった鉄雄が、ひょんなことから超能力を手に入れたことにより、肥大化した自己承認欲求から周囲を衝動的に破壊して見下しながら回る様がリアルで痛々しい。超能力に目覚めたものの中には容姿に変化が現れたり、身体の一部が不自由になったり、悪夢のような幻覚を見るなど、心身に深刻な損傷を与えるものがほとんどで、無理に覚醒させる行為は観客にとって悪印象しかないのだが、現に倫理的な問題から実験に反対する軍の人間と人類の発展の為に推し進めようとする科学者の間でジレンマが起こっており、前者が生き残って後者が死ぬことからも作品の指針が読み取れる。浮遊したり、レーザー照射を歪ませたり念動力を用いて地形を変形させたりといった超能力を用いた異能力バトル描写に関しても、後の作品に残した影響は大きいと思われる。
13『パーフェクトブルー』(アニメ映画)(1998年)監督:今敏
【概要・あらすじ】
竹内義和の小説『パーフェクト・ブルー 完全変態』を原案として制作されたアニメーション映画作品。内容は原作と大きく異なる。
アイドルグループ「チャム」のメンバーで活動していた霧越未麻は、ドラマの出演をきっかけに女優の魅力に気づき、脱退宣言をして女優に転身する。アイドルのイメージから仕事になかなか恵まれない状況が続き、イメージを変えようと事務所の社長である田所は過激なシーンや写真集などの仕事も積極的に出させようとするが、そんな折に事務所に送られてきた手紙が爆発するという事件が起こる。また、同時期に「未麻の部屋」と呼ばれるサイトが立ち上がっていることを知る。しかし、未麻本人しか知り得ないようなことも詳細に書かれた、まるで今もアイドルを続けている自分が書いているかのようなその内容に、誰かに監視されているのではないかという疑心暗鬼に陥り始める。
【考察】
今敏監督作品特有の「現実と虚構が融け合う」特徴を有する作品と言える。女優の仕事の一環で自身が汚れていく侵食の感覚と、あのままアイドルを続けていたらと思う幻想、鏡の反射や『エヴァンゲリオン』でも見られるような目覚めのバンクシステムなどから、今未麻がいる世界が夢なのか現実なのか、区別が観客目線でもつきづらいやや難解な作品となっている。作品の実体はサイコホラー作品であり、未麻にまつわる一連の事件の犯人は、状況から見ると意外と的が絞りやすい作品となっている。女優の未麻がストリップのシーンを撮影しているのに対し、幻想のアイドルのミマは短いスカート姿で跳ね回るもスカートの中が見えることはほぼない。ミマがピザ屋の配達員となって写真家を殺害するシーンの後、未麻が目覚めてクローゼットの中に血がついたピザ屋の制服を発見する場面では、殺害したミマと本物の未麻は別人だが、映像の繋がりで本物の未麻が持つ殺意から本当に衝動的に犯行に至ったのではないかと観客が疑ってしまう構造となっている。本人ではない別人が運営している非公式のホームページだったり、未麻が演じる役の少女も姉に成り代わる妹の役だったりと、「自分ではない誰か、別人に成り代わる」ことがキーワードになっている。
14『岬のマヨイガ』(アニメ映画)(2021年)監督:川面真也
【概要・あらすじ】
柏葉幸子による日本の児童文学『岬のマヨイガ』を原作として制作されたアニメーション映画作品。登場人物設定や舞台などは原作と異なる。
東日本大震災で多くの犠牲者が出た岩手の狐崎。家出少女のユイは、避難所の裏の神社で、幼い少女のひよりと出会う。両親を交通事故で失い、身を寄せた親戚の家で震災に巻き込まれ、二度も家族を失ったひよりはショックから声が出せなくなっており、ユイは彼女のことを気にかけていた。身を寄せる場がないのはユイも同じだったが、避難所で出会った老女キワがユイとひよりを孫と偽って引き取ることを決め、岬に立つ古民家で3人は共同生活を行うことになる。
【考察】
東日本大震災関連の背景がある作品であるが、河童や地蔵といった妖怪のような、人間に協力してくれるふしぎっとや、人をもてなすことに喜びを覚えるマヨイガといった、作品全体に暗すぎない愉快な雰囲気をもたらすキャラクターや存在がいるおかげで、総合的に震災による喪失の悲しみに寄り添う優しい印象の作品となっている。被災後ゆえに地域の人々と協力して生活していく様子や、自分だけ生き残ったことによるサバイバーズ・ギルトの想いが町の中で渦巻いている様が描写されている。ひよりの声は終盤まで出ることはないが、それが物語の中で、登場人物たちの踏む段階の一つの目安として示されている。「アガメ」や「あったずもな」などの東北の方言由来の言葉が温かな雰囲気を醸し出すのにも一役買っていると思われる。なぜキワが二人を引き取ったのかの詳細な理由が分からないのが少し引っかかる。
15『ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜』(アニメ映画)(2009年)監督:佐藤信介
【概要・あらすじ】
フジテレビ開局50周年記念作品として制作されたCGアニメーション映画。第33回日本アカデミー賞:優秀アニメーション作品賞を受賞している。
子供の頃は大切にしていたが、いつしか放置されてしまったおもちゃや絵本などの宝物。そうした“ほったらかし”にされたものを集めて作られた不思議な「ホッタラケの島」にまつわる昔話がある。幼い頃に母からもらった形見の手鏡を、昔話の儀式に沿って見つけ出そうとする女子高生の遥は、誤って家の鍵を不思議なきつね・テオに持ち去られてしまう。その後を追う内に、遥は「ホッタラケの島」に迷い込む。
【考察】
フル3DCG作品で、昔話の場面以外は基本的に日本風のディズニー映画のような雰囲気を持つ作品。概ね良作だが、主人公がホッタラケの島に飛ぶ飛空艇を見ていきなり「誰?」と言ったり(ホッタラケの島を支配する男爵が乗っている、一応飛空艇には男爵の顔に似た装飾が施されている)、指名手配される主人公たちのいる場所をどうやって追っ手が突き止めたのかが分からなかったりと、辻褄が説明されず観客が疑問を抱く部分があるように思われる。また、テオに絡む三人組の狐も、そこまでしてテオに執着して追い回す理由については触れられず、よくある“いじめっこ”や、“ピンチの時には協力してくれるタイプの悪ガキ”のようなキャラクターとしての要素が全面に描かれているように見られた。細かいながらも「何故そうなったのか」が分からず、気になる箇所がわずかに見受けられる。『不思議の国のアリス』と似たような話の流れになっており、細かい所やご都合で処理されているのかと思われる点もあり、主人公が人間であることをホッタラケの島の住人の狐に知られぬよう仮面を被るのだが、体格や身体構造が明らかに狐とは異なるものであるにも関わらず、仮面を外した時にやっと人間であることがバレるという、顔でしか人間を判別出来ない視力なのかと思いきや、数十メートル離れた場所にあるものを正確に見て判別することが出来る離れ業をやってのけるなど、合理性が見えず、引っかかる箇所が挙げられる。
16『ホーホケキョとなりの山田くん』(アニメ映画)(1999年)監督:高畑勲
【概要・あらすじ】
いしいひさいち原作の漫画『ののちゃん』を元に制作されたジブリのアニメーション映画作品。作品内容は原作の4コマエピソードを繋ぎ合わせたオリジナルストーリーである。『朝日新聞』朝刊の4コマ漫画作品として『となりのやまだ君』の題で連載が開始された。同作者の『おじゃまんが山田くん』を意識して付けた名前だったが、主人公・のぼるよりも妹・ののちゃんの人気が高かったため、1997年に題と主人公が変更された。
夫・たかし、妻・まつ子、祖母・しげ、長男・のぼる、長女・のの子が暮らす山田家。時にはアクシデントやトラブルを交えながらも、ありふれた普通の毎日を送る5人の日常の姿を描いた作品。
【考察】
『あたしンち』をアニメ化した際と似たような雰囲気の映像化だが、輪郭線が繋がっておらず全体的に丸っこいふわふわした柔らかい雰囲気の絵柄で、背景が描き込まれることも稀で、原作の絵柄を踏襲していると思われる。主に四コマ漫画の内容をいくつか繋げたようなエピソードが一塊になり、それが季節や時期を変えて何個も送られていく形となっている。しかし、冒頭や隙間ではアニメーション作品ならではの、ヌルヌルとした美麗な作画でダイナミックな動きをしたり、少しシリアスな時にはキャラクターの頭身が上がって一気にリアル調になったりするシーンがある。それでも作品全体の空気感を壊すほどのものではなく、冒頭、合間、エピローグではアニメで描画される規模が広くなり、やや長めなエピソードが差し込まれる。空想世界のような演出もあるが、最後にはこれからも日常が続いていくような、出先で外食に何を食べようか決めながら作品の主題歌が流れて終わる終わり方は、視聴後にきれいに締めくくられていると観客が感じるような演出となっている。一つのパートが終わるごとに、有名で日常に根差した俳句が詠まれる演出で、グダグダと続いて垂れ流している印象を与えぬよう引き締めている。
17『雲のむこう、約束の場所』(アニメ映画)(2004年)監督:新海誠
【概要・あらすじ】
『ほしのこえ』に続く、新海監督の2作目の劇場用アニメーション映画である。
米軍統治下の日本、青森に暮らす中学生の藤沢浩紀と白川拓也は、海峡を挟んだ北海道に立つ巨大な塔に憧れ、いつかその塔を目指すため、廃駅跡で密かに飛行機の組み立てに勤しんでいた。ある夏休み、2人はもうひとつの憧れの存在・同級生の沢渡佐由理に、飛行機の秘密について打ち明ける。3人は一緒に塔を目指す夢を共有し、ひと時の幸せな時間を過ごすが、中学3年の夏、佐由理は理由を告げることなく突然転校してしまう。
【考察】
昨今の新海作品の特徴の共通点として、レンズフレアなどのカメラ的な演出、改札やドアなどの境界線がある場所の足元のアップカット、主人公のかなり長めのモノローグなどが見受けられる。いわゆる「セカイ系」作品の代表例として挙げられる作品で、ヒロインの体質が世界の均衡や平和に多大な影響を与える設定は、『天気の子』とも繋がるテーマのように思える。また、ヒロインが見続ける夢の中の世界と現実世界がリンクしてやり取りが出来る場面があるが、このシーンは『君の名は。』にて、三葉と瀧が隕石湖のほとりで再開をするシーンに非常によく似た演出となっている。クライマックスで主人公とヒロインが飛行機に乗って塔に近づいた際には、空の様々な青色が何重にも代わる代わるステンドグラスのようなデジタルチックな演出によって、観客に伝わりづらい多重宇宙構造の実感を得られるものとなっている。
18『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』(アニメ映画)(2017年)監督:神山健治
【あらすじ】
岡山県倉敷市・児島で、車の改造ばかりしている父親モモタローと2人で暮らす女子高生の森川ココネ。 最近は常に眠気に襲われ、家や学校でも居眠りばかり。 さらに、寝ると決まって同じ夢を見ていた。 そんな2020年の東京オリンピックが目前に迫ったある日、父親が突然逮捕され、東京へ連行されてしまう。 ココネは父がなぜ逮捕されたのか、その謎を解くために幼なじみの大学生モリオを連れて東京へ向かう。
【考察】
絵柄としては、細田守作品のようなキャラクター自身に陰影が少ないデザインが特徴的である。主人公のココネはどこでも昼寝をしてしまい、その夢の中と現実世界が何故かリンクして不思議な現象を現実でも巻き起こしてしまうような構造になっているのだが、そのせいか主人公がどんな危機的状況でも眠りに落ちてしまうナルコレプシーのような人物になってしまっていると感じる。虚構と現実が融けあうような作風は今敏作品と似た雰囲気を感じるが、夢の世界は昔父が作った物語の世界で、そこでの出来事や不思議な現象と、それが現実世界にどんな影響を及ぼすのかについての仕組みの説明を、アニメの絵や動きではなくキャラクターに全て台詞で喋らせているのが味気なく感じた。全ての夢と現実世界の出来事を理屈で説明づけようとしている影響か、却って虚構と現実の融合感が薄れて観客が冷静に考察・理解出来るようになっている。実際、現実世界で起きる不思議な出来事はココネの夢によって引き起こされているわけではなく、きちんと現実世界の理にかなっている因果によって起こっている事象であることが後に分かるようになっている。長尺でココネが見ている夢を観客に見せていた意味が薄れてしまうように考えられる。
19『夜明け告げるルーのうた』(アニメ映画)(2017年)監督:湯浅政明
【概要・あらすじ】
湯浅政明氏による、オリジナルの長編アニメ―ション作品。
寂れた漁港・日無町で、父と祖父の3人で暮らす男子中学生カイ。両親の離婚が原因で東京から引っ越してきた彼は、両親に対し複雑な思いを抱えながらも口に出すことができず、鬱屈した日々を送っていた。そんなある日、クラスメイトの国男と遊歩に誘われて人魚島を訪れたカイは、人魚の少女ルーと出会う。カイは天真爛漫なルーと一緒に過ごすうちに、少しずつ自分の気持ちを言えるようになっていく。しかし日無町では、古来より人魚は災いをもたらす存在とされていた。
【考察】
輪郭線が伸びやかで陰影がほとんどなく、二次元のアニメ的表現が目立つ作品で、2D作画なのに3Dのようなヌルヌルさを感じられる。同監督作品の『きみと、波にのれたら』のような水がブロック状になって動いたり浮いたりする描写が酷似している。更に、画面が分割するなど、漫画的な表現も多く見られた。閉塞的だった主人公の性格が、歌や自己開示を通して明るくなっていくが、中盤の部分では周囲の人間に焦点が当てられてほとんど登場せず、終盤まで空気のような存在感になっているように思われた。人魚が忌避される理由の一つに、人魚が動物を噛むと、下半身に尾ひれが生えて人魚のような姿にされてしまうという特性があるが、ルーが大量の保護犬に嚙みついた結果、マスコットキャラクターのような半犬半魚の「わん魚」という生物が生まれる。これによってその設定の悲壮さが薄れ、エンディングのオチに繋がっている。水中にいる時の表現では、もはやキャラクターの輪郭線が消滅し、ぐにゃぐにゃした色彩の塊によってキャラクターを表現している。
20『ねらわれた学園』(アニメ映画)(2012年)監督:中村亮介
【概要・あらすじ】
眉村卓のベストセラー小説『ねらわれた学園』の初のアニメ映画化作品であり、テレビアニメ『魍魎の匣』などを手がけた中村亮介の劇場初監督作品である。
鎌倉の中学校に通う関ケンジは、始業式の朝、密かに思いを寄せる春河カホリと言葉を交わすことができて有頂天になるが、ケンジの幼なじみでカホリの友人でもある涼浦ナツキは、そんな2人を複雑な思いで見つめる。 そしてその日、ケンジたちのクラスに京極リュウイチという謎めいた転校生がやってくる。 カホリは京極にひかれていくが、やがて京極の周囲で不思議な出来事が起こり始める。
【考察】
涼宮ハルヒと似た雰囲気を持つ平成の二次元オタク的作品の代表のような作風で、ラッキースケベ的な演出や主人公の股間回りのいじり(チャックが開いていることを好きな女子に指摘される、なぜかそこまで時間的に切羽詰まっている状況でもないのに、水泳の授業後に水着姿から着替えずにヒロインを救出しに来たのち、水着の中からケータイを取り出すなど)、分かりやすく鈍感かつ重要な場面で難聴になる主人公の演出から、やや時代感を覚える作品となっている。ヒロインが昨今の作品に比べて主人公に対し攻撃的なのも特徴で、主人公がヒロインを怒らせるようなことを言っては主人公を殴る蹴る、という構成が時代を感じさせる。本作のテーマとしては、携帯電話での疑似的な繋がりは人と本当に心を通わせたことになるのか、本当に人の心に寄り添うにはどうしたらいいのかということや、感情をノイズとし不要なものとする未来との対比、心は繋がらないけれど手は繋がる、という、人と人との繋がりについて意識して演出している。未来の世界がどうなったのか、主人公とヒロインの過去に何が具体的にあったのかなどは詳しく語られない。主人公は過去に一度死んだらしいものの、そこについての掘り下げがほぼ無いのが意外だった。画面全体が光のエフェクトを使用しており、特に幻想的なシーンの演出の際にはかなり強くエフェクトが使われているため、観客の目に負担がかかりそうだと予測する。少し話の流れが飛んだり、突拍子もない展開になったりすることもあるが、キャラクター造形や背景描写が魅力的なSF青春学園ものの作品となっている。
1『海がきこえる』(アニメ映画)(1993年)監督:望月智充
【概要・あらすじ】
氷室冴子による小説『海がきこえる』を原作として、1993年にスタジオジブリが制作したアニメーション映画作品である。
高知の中高一貫校を出て東京の大学に進学した主人公・杜崎拓は、吉祥寺駅のホームで高校時代に東京から転入してきた武藤里伽子によく似た女性の後ろ姿を見かける。その後、拓は同窓会のため高知へと帰省する道中、飛行機の中で里伽子と出会った高校時代の想い出を振り返る。
【考察】
物語の構造としては時系列通りではなく、直近の時間軸の間に過去回想が挟まれている構造となっている。クライマックスが最も未来なので、観客は杜崎と武藤の二人の関係がどうなるのか分からないまま、予想しつつ回想を見ることになる。素直になりきれず思っていることを正直に言えないような思春期のキャラクター造形や、噂話が広がるのが非常に早い地方の田舎の描写はとてもリアルで、二次元的なデフォルメの効いた表現などはあまり感じられず、大人になった観客が見てもまるで自分自身の過去のように思えるほど「等身大」という印象だった。未成年の飲酒のシーンがあるなどの理由からか地上波などでほとんど見ることが出来ない作品だが、思春期の青少年を緻密に描写した作品。同窓会で大人になった同級生たちの振る舞いから分かる登場人物の成長や、武藤と杜崎の間にある感情が何なのかが最後にようやく確定する、その演出の仕方も伏線があるなど、非常に巧みだと言える。演者たちの土佐弁も自然で、見ていて独特のリズムが作品のテンポに良い演出となっている。
2『耳をすませば』(アニメ映画)(1995年)監督:近藤喜文
【概要・あらすじ】
柊あおいによる漫画『耳をすませば』を原作とし、1995年にスタジオジブリが制作したアニメーション映画作品である。
読書好きの中学三年生・月島雫は、夏休みも勉強せずに図書館通いの日々を送っていた。雫は自分が借りる本の貸出カード履歴に、決まって「天沢聖司」の名前があることに気づき、素性の知れない彼を気にするようになる。ある日、雫が友達に『カントリーロード』の替え歌『コンクリートロード』の歌詞を見せていたところ、見知らぬ少年から馬鹿にされる。しばらくして、図書館へ向かう道中で出会った野良猫の後を追って見つけたアンティークショップで、『コンクリートロード』を馬鹿にした少年が天沢聖司だと発覚する。
【考察】
話全体の展開の速さが丁度良く、ダレない速さで進んでいく。観客としては天沢聖司の正体が誰なのか物語の序盤で何となく察しがつくが、作中で雫が天沢聖司の正体に確信を得るのは観客が察するよりも遅めになっている。これは雫の空想の中の「天沢聖司像」と「嫌味な少年」が結びつきづらかったためだと考えられる。雫や天沢を中心に、人間関係の他、将来の夢や目標に向かって邁進する若者の姿を中心に描いた作品であり、自分の持つ能力や才能の限界を知ることの恐怖や、それでも立ち向かう若者を周囲にいる大人が見守る構図が印象的である。才能を宝石の原石に例え、洞窟の無数にある石の中から原石を見つけ出そうとする描写が、雫たちの行動と準えられている。天沢が雫を自転車の後ろに乗せて朝焼けを見せに高台へ行くシーンでは、最初雫を乗せたまま急斜面を登ろうとするが、途中で雫が自転車から降りて、天沢の漕ぐ自転車を押しながら「お荷物だけなんていやだ」と二人で坂を乗り越えようとする場面は象徴的である。バイオリン職人になりたいという夢を追う天沢を応援するだけでなく、自分自身も夢を追いながら共に成長したいという雫の思いが表現された演出である。また、本作ではジブリ作品の要素が登場しており、「TOTORO」と書かれた本があったり、「porco Rosso」の文字が時計に刻まれていたり、魔女の宅急便のキキを思わせる魔女の飾りがあったり、土佐の段ボールがあったりなど、ファンサービスの一面を感じさせる。
3『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』(アニメ映画)(2016年)監督:原恵一
【概要・あらすじ】
杉浦日向子による日本の漫画『百日紅』を原作として制作されたアニメーション映画。第12回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門第19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門・審査委員会推薦作品に選ばれた。
浮世絵師・葛飾北斎の娘で、同じく浮世絵師として活躍した女性・お栄が、父・北斎や盲目の妹のお猶、浮世絵の仲間たちとともに生きた姿を、江戸の町の四季を通して描く。
【考察】
葛飾北斎の娘であることは作中でそれとなく観客に提示するのではなく、冒頭の本人のモノローグで発覚するのがインパクトを与える。作品の構造としてはプロローグとエピローグをお栄本人がモノローグ形式で語り、死後のことなどについては文字のみで語られる。作中の描写としては、お猶の最期の演出や、絵の始末、伸びる手や腕の話など、芸術家や表現者に共通するような、言葉ではっきりとは表現しない・出来ない非常に感覚的な演出・表現が多い。父と並ぶ芸術家としてのお栄、一人の娘として恋をするお栄、お猶の前での姉としてのお栄など、多面的な描写からお栄という人物がどんな人物なのか、その半生を表現している。お猶と舟に乗った際に、北斎の富嶽三十六景の有名な構図を用いるなど、数多くの作品が作品内で引用されている。北斎やお栄の人物像に詳しくない人でも「この絵を見たことがある」というフックになりえる演出となっている。お猶は盲目であるため、必然的に絵に関する話題よりも今体験していることを視覚でないもので感じ取る感覚が、絵を生業とするお栄にとって良い刺激であるように思われる。
4『ブラック・ジャック 劇場版』(アニメ映画)(1996年)監督:出崎統
【概要・あらすじ】
手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』を原作とするアニメーション映画作品。OVAシリーズの流れを汲む作品で、原作にはない劇場用オリジナルストーリーとして製作された。
1996年のオリンピックにて、驚異的な新記録が次々に打ち立てられ、世界は「超人類の出現」として囃し立てる。「超人類」の活躍は芸術や科学の分野にもおよび、世界は飛躍的な進歩を遂げようとしていた。しかし同じ時、ブラック・ジャックは老人のように摩耗した内臓を持つ少女の死に立ち会い愕然としていた。超人類たちとこの少女との間に隠されていた陰謀の魔の手が、真相を突き止めようとするブラック・ジャックへ伸びていく。
【考察】
作中で使われた特徴的な演出を挙げると、サーモグラフィーの演出と劇画調のカットである。原作の手塚漫画のデフォルメ調の絵柄とは異なり、キャラクター全般の頭身が高く、影が斜線で描き込まれているなどのリアルさを重視したカットが要所で印象的に差し込まれている。サーモグラフィーの演出では、「超人類」の持つ異常な体温を冒頭から表現しており、ドーピングに似ていつつも、異なる身体現象を演出している。この作品のシナリオは、科学技術による人体のエンハンスメントに対する懐疑の目を向けるものであり、人体や生命を人類の手によって制御しようとすることへの烏滸がましさや、万能感の危うさを顕わにする、原作の手塚漫画の思想を踏襲するものとなっている。『ブラック・ジャック』においては珍しいことではないが、物語の舞台設定がアメリカを中心に海外になっており、生命や自然を制御する万能感は日本よりアメリカなどの欧米の価値観において強い印象があるため、舞台が日本ではないのだろうかとも考えられた。
5『HELLO WORLD』(アニメ映画)(2019年)監督:伊藤智彦
【あらすじ】
2027年の京都市に住む主人公・堅書直実が、10年後の2037年から来たという自分自身から、自分の住む世界がシミュレーター内に再現された過去の世界であると聞かされ、まもなく出会うことになる将来の交際相手・一行瑠璃へと降りかかる悲劇の運命を回避するよう依頼される。
【考察】
映画のほぼ全編をフルCGで描画しており、主人公たちが存在するデータ世界を表現しており、データ世界ならではの演出は、『サマーウォーズ』のOZの世界を連想させる。二人の堅書によって、作品の前半は一行との交流を深めていく様や堅書の成長が描かれるが、一行のキャラクターが観客に魅力的に感じられるようなエピソードが多く描かれており、堅書に感情移入しやすくなっている。舞台が京都なこともあり、デジタル世界のUIデザインが、伏見稲荷大社や狐面、八咫烏などの和風のものをモチーフにしている。また、細田守作品に見られる非現実世界を表現する際に用いられる赤い輪郭線も見られた。未来から来た堅書は、実際は脳死状態であり、結末としては堅書が一行にしようとしていたことは最新の時間軸では立場が丸ごと逆転しており、データ世界という非現実世界での出来事が三重の入れ子構造になっていることがラストの五秒ほどで観客にはっきり分かるようになっている。また、この最後の場面だけはフルCGではなく2Dのアニメ作画になっており、本当の現実世界であることが示されている。主人公の修行のシーンではほとんどダイジェストが使われており、『君の名は。』の新海監督の影響を感じられる。
6『ハウルの動く城』(アニメ映画)(2004年)監督:宮崎駿
【概要・あらすじ】
イギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作として制作されたスタジオジブリのアニメーション映画作品。
魔法が存在する国で、ソフィーは父から受け継いだ古い帽子屋を営んでいた。ある日、ソフィーは街中で兵隊に絡まれ困っているところを魔法使いのハウルに助けられる。その晩、荒地の魔女がソフィーの営む帽子屋に訪れ、ソフィーに90歳の老婆になる呪いをかけてしまう。これまで通りの生活は出来ないと悟ったソフィーが家を出て荒地に向かうとハウルの城に遭遇し、掃除婦としてハウルの城に転がり込むことになる。
【考察】
ソフィーの姿が作中で何度も大きく変わっているのが印象的ではあるが、他にも作中に登場するハウルの城の住人は、ほとんどの全員が容姿や内面に大きな変化がある。ソフィーは老婆から星の色の髪を持つ女性になったり、ハウルは金髪から黒髪、時に牙と爪と翼を持つ怪物になったり、マルクルは老人の魔法使いの姿になり、荒地の魔女は老婆の姿に変わる。ほとんどのキャラクターが心境や立場、力などの変化に対応して容姿も変化していると考えると、ソフィーやハウルは自尊心や自立心、マルクルは外部の人間とハウルの弟子として振る舞うときには老人の姿に、荒地の魔女は魔法の力とサリマンとの力関係とを分かりやすくしたことや、ハウルと結ばれるヒロインが誰になるのかがはっきり示されているようにも考えられる。また、ハウルの髪色が金から黒に変わるのには、元は地毛が黒であるハウルと、サリマンに使える侍従が幼少の頃の金髪のハウルに似ていることから、金髪はあらゆる意味で美意識や価値観、執着がサリマンに支配されている状態で、黒髪になる頃にはその呪縛が解けた状態だと推測される。ヒンの体重が見た目の割に重かったり、喉を潰された犬のような声で鳴くことだったり、実は耳で軽々飛び上がれるといったことを踏まえると、ヒンの正体は、元はサリマンに仕えていた人間の魔法使いなのではないかと考えられる。字幕がないと分かりづらいが、映画の序盤にソフィーがハウルと出会う路地に入る場面から、国民が国の臨む戦争についての話題に触れている会話があり、作中の至るところで背景に戦争に向けて着実に動き出している描写が施されている。
7『北極百貨店のコンシェルジュさん』(アニメ映画)(2023年)監督:板津匡覧
【概要・あらすじ】
西村ツチカによる漫画作品『北極百貨店のコンシェルジュさん』を原作とするアニメーション映画作品。
新⼈コンシェルジュとして秋乃が働き始めた「北極百貨店」は、来店されるお客様が全て動物という不思議な百貨店。 ⼀⼈前のコンシェルジュとなるべく、フロアマネージャーや先輩コンシェルジュに⾒守られながら日々奮闘する秋乃の前には、あらゆるお悩みを抱えた客が現れる。そんな客たちの要望に応えながら、コンシェルジュとしての成長を描く。
【考察】
原作の漫画の記号的な絵柄を踏襲した、輪郭線が繋がっていないふわふわとした作画が特徴的な作品。輪郭線の色も薄目で、黒ではなく茶色などの別の色を使用しており、画面全体が明るい鮮やかな色使いなのも特徴の一つ。秋乃がコンシェルジュとして働き始めてから、場面のカットにベルの音が使われており、店内で接客をするのに目まぐるしく対応に追われる様子を演出している。世界観が不思議な背景を持っており、北極百貨店が出来た詳しい背景は語られないものの、別々の時代に人間の手によって絶滅した動物がVIPならぬVIAとして、人間のコンシェルジュから好待遇の接客を享受している様子は、これまでの人間の行いに対する皮肉や戒めであるように表現している。なぜ別々の時代に“既に絶滅した”と分かっている動物が百貨店にいるのか、なぜ動物たちが人間と同じ言葉を喋っているのか、北極百貨店とは一体何なのか、そういった謎についての詳細は語られず、観客に解釈を任せる形になっている。VIAの客は、そのほとんどがそれぞれの大切な存在のために百貨店に訪れており、その気持ちに寄り添うコンシェルジュの精神は、欲望とは反対の精神であると示され、新たな絶滅種を生み出さないために重要な精神であると訴えかけている作品と考えられる。キャラクターの担当声優に、芸能人声優や俳優、新人の声優を起用していないのも、近年のアニメ映画の中では特徴と言える。
8『BLUE GIANT』(アニメ映画)(2023年)監督:立川譲
【概要・あらすじ】
石塚真一、NUMBER8による日本の漫画『BLUE GIANT』を原作とするアニメーション映画作品。
ジャズに魅了され、テナーサックスを始めた仙台の高校生・宮本大。雨の日も風の日も、毎日たったひとりで、何年も河原でテナーサックスを吹き続けてきた。卒業を機にジャズのため、上京。高校の同級生・玉田俊二のアパートに転がり込んだ大は、ある日訪れたライブハウスで同世代の凄腕ピアニスト・沢辺雪祈と出会う。大は雪祈をバンドに誘う。はじめは本気で取り合わない雪祈だったが、聴く者を圧倒する大のサックスに胸を打たれ、二人はバンドを組む。そこへ大に感化されドラムを始めた玉田が加わり、三人は“JASS”を結成する。
【考察】
私自身音楽の良し悪しは分からない人間ながらも、見事な演奏だと感じるほどのジャズ演奏は観客の聴覚の期待に応える作品だと言える。ただ、実際に演奏をする場面ではCGのモーションキャプチャーを用いた作画になり、それが演奏シーン以外の作画と大きく異なるためにやや浮いてしまう印象はある。しかしそれでもなるべく画面上で浮かないように画面の角度や色合いが調整されているように感じる。演奏中に過去回想のカットが差し込まれることが何度かあるが、これは昨今の新海作品特有のダイジェストとは少し異なり、「音に感情を乗せる」ことの表現になっていると思われる。演奏中にカメラが奏者や会場を大きくグルグルと回る演出が特徴的である。音楽による演出だけでなく、サックスの口から響く音圧を細かい線で描画したり、会場の静かな熱気を火花のような描写で表現したりなど、視覚的な演出も豊富に込められている。最後の会場での演奏では、「BLUE GIANT」という名前の由来にふさわしく、青色をベースに宇宙や恒星をモチーフにしたジャズの空気感を演出している。会場外の夜の場面では青色をベースに、会場内ではオレンジなどの暖色系の色をベースに背景が描かれており、熱気と冷気がそれぞれの色で対応して対比の構造になっている。背景も含めて画面全体が球体のように大きく回るように動く演出は、同じ立川監督が監督をしている『モブサイコ100』でも見られる表現だと考えられる。ストーリーとしては、バンドメンバー三人で方針についてぶつかり合いながらも、互いの成長を見守り認めつつ夢の舞台を目指す物語となっており、王道な青春スポ根に似た内容になっている。
9『心が叫びたがってるんだ。』(アニメ映画)(2015年)監督:長井龍雪
【概要・あらすじ】
フジテレビ系列『ノイタミナ』で放送された『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のメインスタッフ「超平和バスターズ」が再集結して制作されたアニメーション映画作品。第19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門・審査委員会推薦作品。
夢見がちでお喋りの少女・成瀬順は、山の上に建つ城の舞踏会へ行くことに憧れていた。下校中に城に向かうと、父が車で見知らぬ女性を助手席に乗せて城から出るところを目撃する。ラブホテルだと知らない順は、無邪気に父のことを母に話すと、「それ以上しゃべっちゃだめ」と黙らされ、離婚されて家を出る父は、縋る順を「全部おまえのせいじゃないか」と責める。そんな順は突然現れた“玉子の妖精”に、言葉を発すると腹痛になる呪いをかけられる。以来、口も心も閉ざしたまま高校二年生になった順は、担任から地域ふれあい交流会の実行委員に任命される。
【考察】
作品内において、やはり「言葉」や「伝えること」がかなり重要なキーワードとして設定されている作品だと感じる。言葉は時に人を傷つけ、どんなに後悔しても言ってしまった言葉を取り返すことは出来ない。自身の言葉によって家族がバラバラになってしまったトラウマを持つ主人公にとって、言葉というのは忌避の象徴であり、加えてそれを再び自分の迂闊さによって生み出してしまうかもしれないという恐怖を内包するものとして表現されている。また、自分の内面にある感情も、自分で言葉にしなければ相手に伝えることも叶わない。それは自分の心の内を相手に明かす行為でもあり、時には痛みも伴う行為となる。玉子は近所にある神社の供え物としての側面があるが、自身の殻の内側に存在する言葉にならない感情を黄身とし、自身の殻を割ってしまえば黄身が漏れて死んでしまう(=全てが破滅する)という暗示で、順は言葉を口にすることを自分で封印する状態になっている。主人公は身近な人間にあまり恵まれず、浮気などをする父親が全面的に悪いのにも関わらず父から「全部お前のせい」と責められ、母親からは無口になったことをみっともないと疎まれ、なぜそうなったのかの原因に理解を示されないといったところが描写されており、主人公に感情移入する観客としてはフラストレーションが溜まる場面も多い。しかし、いざ主人公が自分の内に籠った感情を打ち明ける場面の最後に出てきたのはメイン男子への告白の言葉であり、無口の原因になった両親については触れられない。王道な恋愛的な展開にはならず、メインの男子キャラが主人公とくっつくわけではなく、エピローグ的に別の主要男子キャラから告白されるのが少しリアルさを演出しているように見える。サブヒロインがメインヒーローと過去に交際経験がある、ラブホテルを物語の鍵となる場所にするなど、幼い子供向けの作品というよりは、中学・高校辺りの思春期を迎えた青少年向けの少しドロドロした人間描写が独特の作風を持つ。
10『さよならの朝に約束の花をかざろう』(アニメ映画)(2018年)監督:岡田麿里
【概要・あらすじ】
P.A.WORKS制作による日本の長編アニメーション映画。「ぴあ映画初日満足度ランキング」第2位。
人里離れた土地で、ヒビオルという布を織りながら静かに暮らす、長い寿命を持つイオルフの民の少女マキア。ある日、イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる獣にまたがるメザーテ軍が攻め込んできたことから、イオルフの民の平穏な日々は崩壊する。親友や思いを寄せていた少年、そして帰る場所を失ったマキアは森をさまよい、そこで親を亡くしたばかりの、人間の孤児の赤ん坊を見つける。マキアは赤ん坊の母として子供を育てていくが、子供が成長してもマキアの姿は変わらないまま月日が流れていく。
【考察】
監督は、前に取り上げた作品『心が叫びたがってるんだ。』の脚本を務めた岡田麿里氏によるもので、ファンタジックな世界観の作風ながらも、主人公がかつて純粋な気持ちで自身を守ると約束してくれた血の繋がらない息子から、体格年齢が釣り合ってきた時、酔って正気ではないとは言え性的関係を持ちかけられる、主人公の幼馴染は想い人とは別の相手と無理やり結婚させられて子供を生まされるなど、性関連のドロドロした少しグロテスクな人間関係描写が似通っていると感じられた。生命の連鎖や、長命種による年齢感の逆転現象など、『葬送のフリーレン』で主題にされるような要素がある。作品全体の背景美術はスケールが大きく、地方によって統一感があって、観客から見ても世界観の想像がしやすくなっている。ただ世界観が作りこまれていると思われる分、途中から説明の少ない専門用語が増えて少し難解に感じられる。マキアは拾った赤子の髪色に合わせて同じ色に髪を染めるが、数年後にイオルフの民の同胞に誘拐され長らく幽閉された際に、染められなかった部分を残して染められた部分だけを切り落とされる場面があるが、染めていた部分が丁度息子と過ごした年月分が染められた長さで、地毛の部分の長さが息子と離れ離れになって一イオルフの民として、「母」の要素が徐々に失われていく描写がされている。息子の子孫までも見守り続けることを決めたマキアが家を訪問する場面では、かつて同じ家で暮らしていたこともあり、同ポの表現を用いて、過去との差異を表現している。同ポの技法をよく使う監督として細田守が挙げられることが多いが、長い年月をモチーフとする本作では効果的であると思われる。
11『金の国 水の国』(アニメ映画)(2023年)監督: 渡邉こと乃
【概要・あらすじ】
岩本ナオによる同名の漫画作品を原作として制作されたアニメーション映画作品。原作漫画は2016年、「このマンガがすごい!オンナ編1位」を受賞した。
王女サーラが住む金の国ことアルハミトと、貧しい建築士ナランバヤルの住む水の国ことバイカリは、些細な原因で戦争をして以来、100年間国交を断絶していた。敵国同士出身のサーラとナランバヤルは、国家間の思惑に巻きこまれて偽りの夫婦を演じることとなる。サーラの国の深刻な水不足と、自国の経済的衰退を案じたナランバヤルは、二国間の国交を回復させようと動き出す。
【考察】
出て来る言葉こそ暗殺などのきな臭いものが多いものの、物語の展開としては終始残酷なものは無く、サーラとナランバヤルの関係値も穏やかで微笑ましいもので、二人の間に何かしらの誤解があったとしても、観客にだけ分かる形で誤解が解けるように演出してあったり、比較的早急に解決していったりしていくので、観客にかかる精神的なストレスが低い作品だと考えられる。小さな問題が発生してストレスに感じたとしても、早急に、観客の予想を超える方法で解決していき、それが立て続けに何度もあるため、観客の満足度は高いと思われる。両者の間に育まれるお互いを思いやる穏やかな愛と、主にナランバヤルの知能と行動力から物語が展開し、サーラはナランバヤルの仕事を見守りつつ、バイカリに行って図らずも国交の手助けになるようなことをしていたり、序盤にある伏線も終盤で回収されたりなど、「こういうのでいい」と思わせるような作品となっている。ナランバヤルの容姿はそこまでイケメンといった派手なものではなく、あくまで一般家庭出身の一学者としてデザインされているのも特徴の一つである。例を挙げるならば『ワンパンマン』のサイタマのような顔立ちをしている。サーラの場合、一応アルハミトの姫ではあるのだが、第93王女であるため、ほとんど姫として強力な権力を持つわけではない。純真ながらやや自己肯定感の低い心を持つ彼女の性格によって、些細なことから国交が回復する伏線を回収した時には、物語が綺麗に収まっており、完成度の高いものとなっている。ただ、文字列が独特で字幕がないと固有名詞をはっきりと把握出来ないことがある。
12『AKIRA』(アニメ映画)(1988年)監督:大友克洋
【概要・あらすじ】
大友克洋による同名の漫画を原作とした1988年7月16日公開の長編アニメーション映画。監督を原作者の大友氏が務める。
新型爆弾の爆発により旧東京が壊滅したことを発端に勃発した第3次世界大戦から38年が経過した2019年、爆心地東京は東京湾を埋め立て、そこに新たな大都市「ネオ東京」として再興し、繁栄を取り戻しつつあった。暴走族として練り歩いていた少年たちの一人である鉄雄はバイクで疾走中、突然飛び出してきた老人のような少年と事故を起こしてしまう。駆けつけた軍は少年と彼に接触した鉄雄を連れ去っていった。その騒動下で金田は軍に対抗するゲリラと知り合い、軍との戦いに巻き込まれていく。
【考察】
作画が、公開された年代に反しているオーパーツ的な作品と言われているが、特に序盤で金田がバイクで横滑りしながら停車する場面は、本作を見たことがないにしても国内外問わず様々な作品でオマージュされており、影響力の強さが窺える。物質の質感を無視した動きではなく、出来る限りその質感や現象のリアルな描画がされており、走り去るバイクのランプの光の尾を引く表現や、ヒビ割れるアスファルトの地面、爆発など、当時のアニメーション作品の中ではリアルに徹底しているのも特徴である。序盤で現れる老人のような顔の子供は、『ブラック・ジャック 劇場版』のように、人間の手によって超常的な力を手に入れさせられ、その引き換えに陥った容姿であろうことは観客にも想像しやすい。周囲に対し劣等意識があった鉄雄が、ひょんなことから超能力を手に入れたことにより、肥大化した自己承認欲求から周囲を衝動的に破壊して見下しながら回る様がリアルで痛々しい。超能力に目覚めたものの中には容姿に変化が現れたり、身体の一部が不自由になったり、悪夢のような幻覚を見るなど、心身に深刻な損傷を与えるものがほとんどで、無理に覚醒させる行為は観客にとって悪印象しかないのだが、現に倫理的な問題から実験に反対する軍の人間と人類の発展の為に推し進めようとする科学者の間でジレンマが起こっており、前者が生き残って後者が死ぬことからも作品の指針が読み取れる。浮遊したり、レーザー照射を歪ませたり念動力を用いて地形を変形させたりといった超能力を用いた異能力バトル描写に関しても、後の作品に残した影響は大きいと思われる。
13『パーフェクトブルー』(アニメ映画)(1998年)監督:今敏
【概要・あらすじ】
竹内義和の小説『パーフェクト・ブルー 完全変態』を原案として制作されたアニメーション映画作品。内容は原作と大きく異なる。
アイドルグループ「チャム」のメンバーで活動していた霧越未麻は、ドラマの出演をきっかけに女優の魅力に気づき、脱退宣言をして女優に転身する。アイドルのイメージから仕事になかなか恵まれない状況が続き、イメージを変えようと事務所の社長である田所は過激なシーンや写真集などの仕事も積極的に出させようとするが、そんな折に事務所に送られてきた手紙が爆発するという事件が起こる。また、同時期に「未麻の部屋」と呼ばれるサイトが立ち上がっていることを知る。しかし、未麻本人しか知り得ないようなことも詳細に書かれた、まるで今もアイドルを続けている自分が書いているかのようなその内容に、誰かに監視されているのではないかという疑心暗鬼に陥り始める。
【考察】
今敏監督作品特有の「現実と虚構が融け合う」特徴を有する作品と言える。女優の仕事の一環で自身が汚れていく侵食の感覚と、あのままアイドルを続けていたらと思う幻想、鏡の反射や『エヴァンゲリオン』でも見られるような目覚めのバンクシステムなどから、今未麻がいる世界が夢なのか現実なのか、区別が観客目線でもつきづらいやや難解な作品となっている。作品の実体はサイコホラー作品であり、未麻にまつわる一連の事件の犯人は、状況から見ると意外と的が絞りやすい作品となっている。女優の未麻がストリップのシーンを撮影しているのに対し、幻想のアイドルのミマは短いスカート姿で跳ね回るもスカートの中が見えることはほぼない。ミマがピザ屋の配達員となって写真家を殺害するシーンの後、未麻が目覚めてクローゼットの中に血がついたピザ屋の制服を発見する場面では、殺害したミマと本物の未麻は別人だが、映像の繋がりで本物の未麻が持つ殺意から本当に衝動的に犯行に至ったのではないかと観客が疑ってしまう構造となっている。本人ではない別人が運営している非公式のホームページだったり、未麻が演じる役の少女も姉に成り代わる妹の役だったりと、「自分ではない誰か、別人に成り代わる」ことがキーワードになっている。
14『岬のマヨイガ』(アニメ映画)(2021年)監督:川面真也
【概要・あらすじ】
柏葉幸子による日本の児童文学『岬のマヨイガ』を原作として制作されたアニメーション映画作品。登場人物設定や舞台などは原作と異なる。
東日本大震災で多くの犠牲者が出た岩手の狐崎。家出少女のユイは、避難所の裏の神社で、幼い少女のひよりと出会う。両親を交通事故で失い、身を寄せた親戚の家で震災に巻き込まれ、二度も家族を失ったひよりはショックから声が出せなくなっており、ユイは彼女のことを気にかけていた。身を寄せる場がないのはユイも同じだったが、避難所で出会った老女キワがユイとひよりを孫と偽って引き取ることを決め、岬に立つ古民家で3人は共同生活を行うことになる。
【考察】
東日本大震災関連の背景がある作品であるが、河童や地蔵といった妖怪のような、人間に協力してくれるふしぎっとや、人をもてなすことに喜びを覚えるマヨイガといった、作品全体に暗すぎない愉快な雰囲気をもたらすキャラクターや存在がいるおかげで、総合的に震災による喪失の悲しみに寄り添う優しい印象の作品となっている。被災後ゆえに地域の人々と協力して生活していく様子や、自分だけ生き残ったことによるサバイバーズ・ギルトの想いが町の中で渦巻いている様が描写されている。ひよりの声は終盤まで出ることはないが、それが物語の中で、登場人物たちの踏む段階の一つの目安として示されている。「アガメ」や「あったずもな」などの東北の方言由来の言葉が温かな雰囲気を醸し出すのにも一役買っていると思われる。なぜキワが二人を引き取ったのかの詳細な理由が分からないのが少し引っかかる。
15『ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜』(アニメ映画)(2009年)監督:佐藤信介
【概要・あらすじ】
フジテレビ開局50周年記念作品として制作されたCGアニメーション映画。第33回日本アカデミー賞:優秀アニメーション作品賞を受賞している。
子供の頃は大切にしていたが、いつしか放置されてしまったおもちゃや絵本などの宝物。そうした“ほったらかし”にされたものを集めて作られた不思議な「ホッタラケの島」にまつわる昔話がある。幼い頃に母からもらった形見の手鏡を、昔話の儀式に沿って見つけ出そうとする女子高生の遥は、誤って家の鍵を不思議なきつね・テオに持ち去られてしまう。その後を追う内に、遥は「ホッタラケの島」に迷い込む。
【考察】
フル3DCG作品で、昔話の場面以外は基本的に日本風のディズニー映画のような雰囲気を持つ作品。概ね良作だが、主人公がホッタラケの島に飛ぶ飛空艇を見ていきなり「誰?」と言ったり(ホッタラケの島を支配する男爵が乗っている、一応飛空艇には男爵の顔に似た装飾が施されている)、指名手配される主人公たちのいる場所をどうやって追っ手が突き止めたのかが分からなかったりと、辻褄が説明されず観客が疑問を抱く部分があるように思われる。また、テオに絡む三人組の狐も、そこまでしてテオに執着して追い回す理由については触れられず、よくある“いじめっこ”や、“ピンチの時には協力してくれるタイプの悪ガキ”のようなキャラクターとしての要素が全面に描かれているように見られた。細かいながらも「何故そうなったのか」が分からず、気になる箇所がわずかに見受けられる。『不思議の国のアリス』と似たような話の流れになっており、細かい所やご都合で処理されているのかと思われる点もあり、主人公が人間であることをホッタラケの島の住人の狐に知られぬよう仮面を被るのだが、体格や身体構造が明らかに狐とは異なるものであるにも関わらず、仮面を外した時にやっと人間であることがバレるという、顔でしか人間を判別出来ない視力なのかと思いきや、数十メートル離れた場所にあるものを正確に見て判別することが出来る離れ業をやってのけるなど、合理性が見えず、引っかかる箇所が挙げられる。
16『ホーホケキョとなりの山田くん』(アニメ映画)(1999年)監督:高畑勲
【概要・あらすじ】
いしいひさいち原作の漫画『ののちゃん』を元に制作されたジブリのアニメーション映画作品。作品内容は原作の4コマエピソードを繋ぎ合わせたオリジナルストーリーである。『朝日新聞』朝刊の4コマ漫画作品として『となりのやまだ君』の題で連載が開始された。同作者の『おじゃまんが山田くん』を意識して付けた名前だったが、主人公・のぼるよりも妹・ののちゃんの人気が高かったため、1997年に題と主人公が変更された。
夫・たかし、妻・まつ子、祖母・しげ、長男・のぼる、長女・のの子が暮らす山田家。時にはアクシデントやトラブルを交えながらも、ありふれた普通の毎日を送る5人の日常の姿を描いた作品。
【考察】
『あたしンち』をアニメ化した際と似たような雰囲気の映像化だが、輪郭線が繋がっておらず全体的に丸っこいふわふわした柔らかい雰囲気の絵柄で、背景が描き込まれることも稀で、原作の絵柄を踏襲していると思われる。主に四コマ漫画の内容をいくつか繋げたようなエピソードが一塊になり、それが季節や時期を変えて何個も送られていく形となっている。しかし、冒頭や隙間ではアニメーション作品ならではの、ヌルヌルとした美麗な作画でダイナミックな動きをしたり、少しシリアスな時にはキャラクターの頭身が上がって一気にリアル調になったりするシーンがある。それでも作品全体の空気感を壊すほどのものではなく、冒頭、合間、エピローグではアニメで描画される規模が広くなり、やや長めなエピソードが差し込まれる。空想世界のような演出もあるが、最後にはこれからも日常が続いていくような、出先で外食に何を食べようか決めながら作品の主題歌が流れて終わる終わり方は、視聴後にきれいに締めくくられていると観客が感じるような演出となっている。一つのパートが終わるごとに、有名で日常に根差した俳句が詠まれる演出で、グダグダと続いて垂れ流している印象を与えぬよう引き締めている。
17『雲のむこう、約束の場所』(アニメ映画)(2004年)監督:新海誠
【概要・あらすじ】
『ほしのこえ』に続く、新海監督の2作目の劇場用アニメーション映画である。
米軍統治下の日本、青森に暮らす中学生の藤沢浩紀と白川拓也は、海峡を挟んだ北海道に立つ巨大な塔に憧れ、いつかその塔を目指すため、廃駅跡で密かに飛行機の組み立てに勤しんでいた。ある夏休み、2人はもうひとつの憧れの存在・同級生の沢渡佐由理に、飛行機の秘密について打ち明ける。3人は一緒に塔を目指す夢を共有し、ひと時の幸せな時間を過ごすが、中学3年の夏、佐由理は理由を告げることなく突然転校してしまう。
【考察】
昨今の新海作品の特徴の共通点として、レンズフレアなどのカメラ的な演出、改札やドアなどの境界線がある場所の足元のアップカット、主人公のかなり長めのモノローグなどが見受けられる。いわゆる「セカイ系」作品の代表例として挙げられる作品で、ヒロインの体質が世界の均衡や平和に多大な影響を与える設定は、『天気の子』とも繋がるテーマのように思える。また、ヒロインが見続ける夢の中の世界と現実世界がリンクしてやり取りが出来る場面があるが、このシーンは『君の名は。』にて、三葉と瀧が隕石湖のほとりで再開をするシーンに非常によく似た演出となっている。クライマックスで主人公とヒロインが飛行機に乗って塔に近づいた際には、空の様々な青色が何重にも代わる代わるステンドグラスのようなデジタルチックな演出によって、観客に伝わりづらい多重宇宙構造の実感を得られるものとなっている。
18『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』(アニメ映画)(2017年)監督:神山健治
【あらすじ】
岡山県倉敷市・児島で、車の改造ばかりしている父親モモタローと2人で暮らす女子高生の森川ココネ。 最近は常に眠気に襲われ、家や学校でも居眠りばかり。 さらに、寝ると決まって同じ夢を見ていた。 そんな2020年の東京オリンピックが目前に迫ったある日、父親が突然逮捕され、東京へ連行されてしまう。 ココネは父がなぜ逮捕されたのか、その謎を解くために幼なじみの大学生モリオを連れて東京へ向かう。
【考察】
絵柄としては、細田守作品のようなキャラクター自身に陰影が少ないデザインが特徴的である。主人公のココネはどこでも昼寝をしてしまい、その夢の中と現実世界が何故かリンクして不思議な現象を現実でも巻き起こしてしまうような構造になっているのだが、そのせいか主人公がどんな危機的状況でも眠りに落ちてしまうナルコレプシーのような人物になってしまっていると感じる。虚構と現実が融けあうような作風は今敏作品と似た雰囲気を感じるが、夢の世界は昔父が作った物語の世界で、そこでの出来事や不思議な現象と、それが現実世界にどんな影響を及ぼすのかについての仕組みの説明を、アニメの絵や動きではなくキャラクターに全て台詞で喋らせているのが味気なく感じた。全ての夢と現実世界の出来事を理屈で説明づけようとしている影響か、却って虚構と現実の融合感が薄れて観客が冷静に考察・理解出来るようになっている。実際、現実世界で起きる不思議な出来事はココネの夢によって引き起こされているわけではなく、きちんと現実世界の理にかなっている因果によって起こっている事象であることが後に分かるようになっている。長尺でココネが見ている夢を観客に見せていた意味が薄れてしまうように考えられる。
19『夜明け告げるルーのうた』(アニメ映画)(2017年)監督:湯浅政明
【概要・あらすじ】
湯浅政明氏による、オリジナルの長編アニメ―ション作品。
寂れた漁港・日無町で、父と祖父の3人で暮らす男子中学生カイ。両親の離婚が原因で東京から引っ越してきた彼は、両親に対し複雑な思いを抱えながらも口に出すことができず、鬱屈した日々を送っていた。そんなある日、クラスメイトの国男と遊歩に誘われて人魚島を訪れたカイは、人魚の少女ルーと出会う。カイは天真爛漫なルーと一緒に過ごすうちに、少しずつ自分の気持ちを言えるようになっていく。しかし日無町では、古来より人魚は災いをもたらす存在とされていた。
【考察】
輪郭線が伸びやかで陰影がほとんどなく、二次元のアニメ的表現が目立つ作品で、2D作画なのに3Dのようなヌルヌルさを感じられる。同監督作品の『きみと、波にのれたら』のような水がブロック状になって動いたり浮いたりする描写が酷似している。更に、画面が分割するなど、漫画的な表現も多く見られた。閉塞的だった主人公の性格が、歌や自己開示を通して明るくなっていくが、中盤の部分では周囲の人間に焦点が当てられてほとんど登場せず、終盤まで空気のような存在感になっているように思われた。人魚が忌避される理由の一つに、人魚が動物を噛むと、下半身に尾ひれが生えて人魚のような姿にされてしまうという特性があるが、ルーが大量の保護犬に嚙みついた結果、マスコットキャラクターのような半犬半魚の「わん魚」という生物が生まれる。これによってその設定の悲壮さが薄れ、エンディングのオチに繋がっている。水中にいる時の表現では、もはやキャラクターの輪郭線が消滅し、ぐにゃぐにゃした色彩の塊によってキャラクターを表現している。
20『ねらわれた学園』(アニメ映画)(2012年)監督:中村亮介
【概要・あらすじ】
眉村卓のベストセラー小説『ねらわれた学園』の初のアニメ映画化作品であり、テレビアニメ『魍魎の匣』などを手がけた中村亮介の劇場初監督作品である。
鎌倉の中学校に通う関ケンジは、始業式の朝、密かに思いを寄せる春河カホリと言葉を交わすことができて有頂天になるが、ケンジの幼なじみでカホリの友人でもある涼浦ナツキは、そんな2人を複雑な思いで見つめる。 そしてその日、ケンジたちのクラスに京極リュウイチという謎めいた転校生がやってくる。 カホリは京極にひかれていくが、やがて京極の周囲で不思議な出来事が起こり始める。
【考察】
涼宮ハルヒと似た雰囲気を持つ平成の二次元オタク的作品の代表のような作風で、ラッキースケベ的な演出や主人公の股間回りのいじり(チャックが開いていることを好きな女子に指摘される、なぜかそこまで時間的に切羽詰まっている状況でもないのに、水泳の授業後に水着姿から着替えずにヒロインを救出しに来たのち、水着の中からケータイを取り出すなど)、分かりやすく鈍感かつ重要な場面で難聴になる主人公の演出から、やや時代感を覚える作品となっている。ヒロインが昨今の作品に比べて主人公に対し攻撃的なのも特徴で、主人公がヒロインを怒らせるようなことを言っては主人公を殴る蹴る、という構成が時代を感じさせる。本作のテーマとしては、携帯電話での疑似的な繋がりは人と本当に心を通わせたことになるのか、本当に人の心に寄り添うにはどうしたらいいのかということや、感情をノイズとし不要なものとする未来との対比、心は繋がらないけれど手は繋がる、という、人と人との繋がりについて意識して演出している。未来の世界がどうなったのか、主人公とヒロインの過去に何が具体的にあったのかなどは詳しく語られない。主人公は過去に一度死んだらしいものの、そこについての掘り下げがほぼ無いのが意外だった。画面全体が光のエフェクトを使用しており、特に幻想的なシーンの演出の際にはかなり強くエフェクトが使われているため、観客の目に負担がかかりそうだと予測する。少し話の流れが飛んだり、突拍子もない展開になったりすることもあるが、キャラクター造形や背景描写が魅力的なSF青春学園ものの作品となっている。
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