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二年佐藤希実 RES
1、『マイ・インターン』監督:ナンシー・マイヤーズ
 華やかなファッション業界で成功し、結婚してプライベートも充実、現代女性の理想の人生を送るジュールズ。彼女の部下にシニア・インターンのベンが雇われる。最初はベンを目ざといと感じるジュールズだが、いつしか彼の的確な助言に頼るようになる。40歳年上の彼が持つ豊かな人生経験が彼女のどんな悩みにもアドバイスをくれ、ジュールズの考え方も次第に変化していく。

本作ではベンを通して、若者の理想の職場の年長者、老人が描かれる。誰に対しても好意的で、気が遣えて、自分の知識をひけらかすこともなく、高圧的でないというベンは、若者の上司にしたい人物ナンバーワンの典型例のように描かれていた。興味深かったのは、その誰からも好かれる年長者は主人公の社長であるジュールズとはうまく行かない場面が序盤には多く描かれていた点にある。これは、経験豊富で好かれる年長者の存在が女性の立場をいとも簡単に揺らがしてしまうこととも直結しているように思える。実際に物語内ではベンとジュールズが出会って以降、ジュールズは新たなCEOを迎えるかの選択に悩み続けるのである。このCEOについては人物像が物語内では語られない。よってジュールズの立場を揺るがすCEOは間接的にベンの存在を写し出す効果があると考えられる。

2、『エスター ファーストキル』監督:ウィリアム・ブレント・ベル
前作『エスター』に続くシリーズ第二弾で、『エスター』の物語の前日譚である。父、母、兄、妹からなるオルブライト家の一人娘のエスターは4年もの間行方不明となっていた。ある日、エスターが見つかったという警察の知らせを受け、家族は4年ぶりに再会を果たす。

 この作品を作るにあたっての難しさはやはり前作の衝撃を下回ってはいけないという点にある。前作では不気味な少女が、実際の年齢が30歳であったという衝撃の事実がこの作品の不気味さを引き立て、ホラー作品としての不可欠な要素の一つとであった。しかしこの続編では、その事実は観客にとっては周知のものであり、この作品をホラーたらしめる要素が一体どこにあるのかが重要視される。結果として、この作品では、行方不明であった本物のエスターはすでに兄の手によって殺されており、母も共犯してエスターの死を隠蔽していたという主人公エスター(本名はリーナ)とは関わらない部分で、すでにこの家族は不気味であったことが明かされる。よってこの作品はエスターの狂気ホラーというよりも善良な人間の奥に潜んでいるかもしれない凶悪性を強調して描いたものだと言える。そして、この作品で注目したいのは何も知らない父親である。家庭に干渉しない、真に迎え入れられない父親像はホラー映画のみならず、現実世界でも存在が認められるものである。

3、『SHE SAID/シーセッド その名を暴け』監督:マリア・シュラーダー
 この作品は、ハリウッドの権力者である有名プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインがおよそ20年にもわたってはたらいてきた女性への性加害や暴力を暴いた二人の女性記者の回顧録をもとにした映画である。

日本でも現在、ジャーニーズの性加害問題がジャニー喜多川元社長の死後明るみになり、社名の変更や被害者への救済が行われているが、このような性加害が日本だけではなくハリウッドにもあったのだと観客に周知させる役割も担う作品だと感じる。
役者が事実を演じることで、新聞やニュースで間接的に事件を知るよりも事件に対して臨場感を得ながら性加害問題について考えることができる。ドキュメンタリー映画や本作がある意義はそこにあると考える。

4、『ときめきメモリアルGirls Side 4th Heart』(ゲーム)発売元:コナミデジタルエンタテインメント

本作はときめきメモリアルシリーズの特徴であったキャラクターのパラメーターによって攻略キャラたちの言動が変化する比較的自由度が高いシュミレーションゲームという形ではなく、ほとんどノベルゲームの仕様であったといえる。そのために、もらっていないプレゼントをもらったことにされていたり、してもいないデートをあたかもしたようになってしまったりといった会話の整合性が合わない場面が何度か出てくることになる。この部分に関しては、制作時のフラグ管理システムが未熟であったとしかいえない。また、メインの攻略キャラ枠である風真玲太に関しては、ストーリー内で最初から主人公に好意があるように描かれるが、システム上では彼の好意は他のキャラと同じに設定されている。このことはストーリーとシステムを乖離させる要素の一つとなっている。このようにストーリーとシステムが乖離した状態に置かれるプレイヤーはこの物語では蚊帳の外であり、決まったストーリー、もしくはイベントをこなし、エンディングを迎えるしかないという乙女ゲームでは必須とも言えるような没入感が極めて薄い作品になっている。しかし、この没入感の薄さは、乙女ゲームの入り口にもなり得る。少女漫画を読むような気持ちで乙女ゲームをプレイするというノベルゲームとシミュレーションゲームの両方を楽しめるものとなっていると捉らえることができる。

5、『バチェラー・ジャパン シーズン5』
 アメリカの恋愛リアリティ番組『The Bachelor』の日本版としてAmazon プライムビデオで放送される恋愛リアリティ番組以下;恋リア)である。
高校生が2泊3日で恋を見つける『今日、好きになりました。』や出演者の中に1人だけ恋をしない人物がいる『オオカミくん(オオカミちゃん)には騙されない』、シェアハウスに同居する男女6人の恋模様を映した『テラスハウス』など昨今、恋リアは幅広い年齢から支持される番組となっている。また、『推しの子』でも主人公の1人である星野アクアが恋リアに出演する、恋愛リアリティショー編が描かれた。
恋リアが支持される理由として現実と理想の間の恋愛が描かれていることが挙げられると考える。『バチェラー』シリーズで考えると、海外での豪華なデートやサプライズ、デート略奪など、理想的なシチュエーションと非現実的なハプニングがある一方で、出演する人物たちは役を演じるのではなく自然体に振る舞う現実の人物として演出される。平然と悪口を言ったり、愚痴を吐いたり、途中で帰ったり、感情的になったりする普通の人たちであるのだ。特に今回のシーズン5ではバチェラーが以前のシーズンのバチェラーとは違い、完璧な男性とは言えない方であった。同じ約束を2人の女性とし、片方の女性との約束を破る、顔に出やすく、誰に好意を持っているのかとてもわかりやすいなど、異例のバチェラーであった。しかし、矛盾しているように思えるが、バチェラーが最後に選んだ女性が最も意外であったのである。このような出演者が素人ならではの人間味のある突飛な選択と非現実的な環境、この2つの融合が、観客の求めるハプニングを生み出し、出演者の感情をより引き出してくれる要素になる、これが恋リアである『バチェラー』の魅力であると考える。


6、『マチルダ』(映画)監督:ダニー・デヴィート
インチキを絵に描いたような中古車ディーラー夫婦は、けたはずれの天才少女マチルダを授かる。しかし、マチルダは望まれて生まれた子ではなく、家庭ではぞんざいな扱いを受け、少女は大きくなっても学校に行かせてもらえない。それでも彼女はめげずに自分のことは自分でするなどしっかりと芯の通った子に育つ。しかし、やっと通えるようになった小学校では、不条理きわまる学校生活が待っていた。そんな中、彼女は怒りのパワーが超能力に変換されることに気づき始める。

 この作品では子供にとって理想的な大人であるミス・ハニーや図書館の司書のフェルプス夫人と理想的とは言えない、子供を嫌って虐待するため恐れられるトランチブル校長先生、マチルダに関心を持たないマチルダの両親、というように両極端な大人たちが描かれる。大人が子供にとってどうあるべきかというのがこの映画のテーマであると感じた。ここで描かれているのは『コクリコ坂から』で理想的な大人として宮崎吾朗が描いた徳丸理事長のように、作者のロアルド・ダールが子供たちに望む大人像のように思えた。
そして、主人公のマチルダが持つ天才という特徴の描き方に関しても非常に面白いと感じた。大概の物語では天才という特徴を持つキャラクターは高い自尊心から周囲の人間に対して傲慢に振る舞う姿が描かれる。しかし、マチルダは自分の賢さを周囲には感じさせることなく、いつでも謙虚な姿勢で描かれている。子供であるならなおさら自分の賢さをひけらかしそうであるが、マチルダはそのような典型的な天才の子供としては描かれなかった。ここに原作の『マチルダは小さな大天才』が児童文学としてもつ協調性という教訓がそのまま映画でも描かれているのだと感じた。

7、『マチルダ・ザ・ミュージカル』監督:マシュー・ウォーチャス
 ミュージカルの要素によってマチルダのアイデンティティである天才さが損なわれていると感じた。『マチルダ』ではマチルダが童話や小説以外にも新聞、法律書なども読むシーンや自分で近所の図書館を調べて通ったり、家の前にいる私服警官に気づいたり、両親の気付かないうちに養子縁組の手続きを済ませていたり、マチルダは勉学のみではない人生を生きる上での総合的な賢さを備えていることがわかるが、本作ではマチルダが、少し数学ができる想像力に長けた文学少女になってしまっていた。『マチルダ』では冷静でありながらも子供らしい表情を見せ、わかりやすい反抗はしていなく、マチルダがやったとは思われないように理不尽な大人を成敗していたが、本作ではマチルダが正面から大人たちに反抗をしていて、より感情的な人物という印象を受けた。そして、『マチルダ』と大きく変化したのはミス・ハニーの黒人設定である。ポリコレの影響を受けたものだと感じるが、これにより、トランチブル校長先生とミス・ハニーの親戚関係も説明ができない部分が生じるため、制作陣のキャラクター設定や、物語設定に対する考えがよくわからないと感じた。その他にも『マチルダ』ではトランチブル校長先生が心霊現象や迷信が怖いことを知ったマチルダが校長先生を成敗する時にそれをヒントにするのであるが、本作ではトランチブル校長先生がそのような心霊現象や迷信が怖いことが語られずに、心霊現象をマチルダが超能力で引き起こして成敗するため、物語としての整合性がうまくいっていないように思えた。

8、『ゆびさきと恋々』作者:森下suu
生まれつきの聴覚障害を持つ主人公の雪と海外を飛び回り色々な世界を見てきた逸臣のラブストーリーが描かれた少女漫画である。

日本語対応手話を動きのない漫画で表すことに挑戦した作品で、雪は手話以外にも筆談やスマホのメッセージ、口話で会話をしている。この漫画の特徴は雪が口話で相手の言葉を理解することを表現するために、雪が理解している会話は吹き出しの文字が少し薄く印字され、それ以外の聞こえていない会話に関しては一般的な濃さで印字されている点にある。これにより、雪が理解っている会話の内容だけを読んでいくと、大人数での会話はほとんどわからない、相手がマスクをしているときにはもちろん意思疎通ができない、自分に馴染みのない言葉は口話で理解することは難しいというような聴覚障害者の苦労を読者が間接的に実感することができる。また、雪が子音を間違えて理解したりするシーン(読者には間違えたことは後々分かる)は自然に少女漫画的シチュエーションに持ち込まれ、彼女の「間違い」が少女漫画として効果的に利用されている。

9、『月がきれい』(アニメ)監督:岸誠二
埼玉県川越市を舞台に、中3で初めて同じクラスになり、出会った水野茜と安曇小太郎が織りなす思春期の恋とそれを取り巻く人間ドラマ。

 登場人物たちのキャラクター性が濃くないのがこの物語の面白さである。主人公の小太郎と茜はどちらもおとなしい性格であり、付き合ってからもそのことは周囲に秘密にして、誰も来ない図書室で待ち合わせて喋るという一見、アニメ映えしないこの現実感が視聴者を世界観に没入させると感じた。また、茜のクラスの友達の心咲、節子、美羽の会話は、友だちになりきれないが、一緒にいるしかない女子たちの現実でも繰り広げられる会話で、小太郎が嬉しくなると自室の電気の紐を的にしてボクシングの真似をするシーンなどは口に出せない思春期ならではの行動のように思える。これらのように登場人物たちが学生時代の自分たちと似たような行動をとることが、本作の高い共感力の理由だと考える。

10、『ジョーカー』監督:トッド・フィリップス
 大都会の片隅で、体の弱い母と2人でつつましく暮らしている心優しいアーサー・フレック。彼はコメディアンとしての成功を夢みながらも、母親との生活の為、ピエロのメイクで大道芸人をして日銭を稼ぐ毎日を送っていた。しかし、町は彼には優しくなく、彼は日に日に追い詰められていく。

 主人公のアーサーが現代社会の闇に対抗できずに精神的に追い詰められていき、ジョーカーとなるまでの過程を終始、暗い描写で描ききっている。本作は原作と関連性はなく、完全に独立したジョーカーの物語となっている。アーサーの視点はアーサーが妄想癖のような病気を持っていたことにより不安定で、視聴者も騙されるなど、何が真実であるのかの見分けが難しい作品であるように感じた。アーサーは社会の中で非常に希薄な存在として描かれ、彼が引き起こした物事の詳細が語られないことが多い点からこの物語はすべて虚構なのではと考える。

11、『水曜日が消えた』監督:吉野耕平
幼い頃の交通事故がきっかけで、曜日ごとに人格が入れ替わるようになった青年。彼の中にある性格や個性が異なる7つの人格は、互いを曜日で呼び合っていた。そんな中、突然「水曜日」が姿を消し、一番地味な人格の「火曜日」が代わりに1日を過ごすことになる。その日を境に7人で過ごしてきた一週間に変化が起こり始める。

 1人の人間に人格が7つも存在し、曜日ごとにその人格が現れるという設定がとても興味深いと感じた。主に火曜日視点で描かれる物語である。火曜日は水曜日も生活ができるようになったとき、楽しむ一方で水曜日には大切な人がいたという事実に気づくのだが、最終的に月曜日1人になったときにも火曜日同様、月曜日も他の曜日にも大切な人や思ってくれる人がそれぞれいた事に気づき、結局は7人に状態に戻ることになるという話から、どんな性格でも根本的に感じる部分は変わらないということを感じた。この物語は主人公が小さい頃の事故で解離性同一性障害を持っているということを前提に話が進むが、近代詩の父と称されるボードレールが『悪の華』で近代人の精神的煩悶、孤独感などを表現したように、心のゆらぎや人格の多面性は誰にでもあることで、必ずしも自分が一貫性をもつ必要はないことを教えてくれる作品だと考える

12、『愛がなんだ』監督:今泉力哉
28歳のOLテルコは、一目惚れした男マモルを愛しすぎるあまり、すべてマモル最優先の日常を送っていた。そのせいで仕事にも支障をきたし、会社もクビ寸前に追い込まれる。しかしそれほど尽くしているのに、マモルにとっては彼女の存在は恋人ですらなかった。それでも彼女の思いは変わらず、マモルを最優先にして生き続ける。

 登場人物の殆どが自分の恋愛になると自分を客観視できなくなるというような男女間や同性間で起こる様々な不一致が淡々と描かれていた。本作ではそれぞれの不安定な愛を登場人物たちが追っていくストーリーであった。登場人物たちは一方通行の恋をし、自分の中の愛を自分たちで試すようになっていく。(呼ばれたらすぐに行く、相手の恋を応援するなど)なにが愛なのか、二人で持てなかった一人の愛はどうあるべきなのか、どうすべきなのか、自分にも置き換えて悩み考えたが、やはり愛が何かはわからない。テルコは最終的にマモルも覚えていないような呟いただけの本気ではない夢を自分が叶え、「マモちゃんの家族になりたい、ていうかマモちゃんになりたい」という願いに一歩踏み出すのである。この一般的には恐怖とも捉えられる行動すら、本作ではテルコにとっては確実な愛として描かれる。幸せと愛は必ずしもイコールにはならないのだと思う。

13、『素晴らしきかな、人生!』監督:デヴィッド・フランケル
ニューヨークで広告代理店を経営する男は、最愛の娘を亡くして失意に沈む。心配する同僚たちは彼の心を開くべく、3人の舞台俳優に彼の前で「愛」「死」「時間」という抽象概念を即興で芝居してもらう計画を立てる。年代も性別も異なる奇妙な3人に当惑しながらも、彼は徐々に変化を見せ始める。

 娘を亡くし、仕事も手につかず、何にもやる気が出ない主人公の前に「愛」、「死」、「時間」という抽象的な言葉が人になって現れたという設定が洋画らしいと感じた。本作で驚いたのは特典映像で監督が強調していたこの映画は寓話であり、クリスマス映画であるということだ。本作はクリスマス映画として日本でも有名な『ホーム・アローン』のように楽しくなれる、笑えるような話ではない。クリスマス映画の家族で見る楽しい映画という固定観念が覆された作品であった。この作品では終盤に「幸せのオマケ」というフレーズが繰り返される。私はこの「幸せのオマケ」がこの作品であり、映画であり、寓話であると考える。

14、『リトル・マーメイド』(映画)監督:ロブ・マーシャル
 この作品はポリコレの影響を強く受けた作品としてかなり厳しく評価されている。私はアリエルの人種が変わったことに違和感を覚えなかったわけではないため、アニメ版の人種と同じく、実写版も白人がよかったという世間の声も理解できないわけでは無い。特に日本人は人種としての見方というよりも、アニメと実写の間の変化(キャラクターに限らず、ストーリーも)に対してより敏感なため、批判が多いのだと思う。しかし、この作品はこのような社会問題の犠牲になった作品としてのみ考えるには非常にもったいないと考える。
私はアニメ版の『リトル・マーメイド』の声を失ったアリエルを見て、彼女の大げさすぎる表情からこのような女の子が現実にいたらかなり不自然だという印象をもった。このような表現が彼女を架空の生き物である人魚たらしめているのかもしれないが、やはり、実写版にするときには声を失った現実の人間があれほど顔を動かし、表情豊かであったら違和感しか生まれないように思う。よってハリーベイリーがおとなしい印象をアリエルに付与したことは彼女を現実世界で違和感のないもの、人間世界で淘汰されることのない存在にし、加えて新たな魅力を足したというとても良い表現のように思った。そして、最終的局面でアースラを倒すのがエリックではなく、アリエルとなっていたシーンについてもアニメ版からの改変のため、批判が多かった場面である。しかし、私はアニメ版では逆になぜ自らの恋を叶えるという理由で人魚の世界だけでなく、人間の世界までを巻き込む事件を引き起こした元凶となった不利な取引をして、自分で決着をつけずに、エリックに助けてもらうという形になったのか、この話で子どもたちに、観客に何を伝えたいのかが明確に理解ができなかった。女性が未来を自分で切り開くというメッセージを持たせたいのであれば、自分に責任がついてまわることをしっかりと表現した実写版のほうが伝わりやすいように思う。

15、『歪んだ窓』著者:山川方夫
 精神の病を患った妹の様子を見てもらおうと妹には医者だと隠して姉が連れてきた医者の男性と姉の関係を何も知らない妹が疑っていた。姉を守るためにフレンチナイフを持って待つ妹の元へ向かう医者と姉。

 ものの見方が状況、思い込みによって強く変化してしまうことを的確に表現していた。妹の視点、姉たちの視点、どちらか一方のみでは私達は判断が出来ずに、この物語で行われた事実を正確には知ることが出来ない。このことは作者の手によって情報が握られていることを示す。つまり現実社会においてのテレビや新聞のメディアやSNSの位置と関連付けられる。

16、『プラダを着た悪魔』監督:デヴィッド・フランケル
 ジャーナリストを目指してニューヨークにやってきたアンディ。オシャレに興味のない彼女だが、世界中の女性が憧れるファッション誌の編集部の仕事を手にしてしまう。そして、彼女のボス、世界中の女性の憧れである一流雑誌の編集長ミランダは、理不尽な要求と、膨大な仕事を突きつける悪魔のような女性だった。彼女のもとでの仕事をこなすため、オシャレには興味がなかったアンディが変化していく。

主人公のアンドレアと鬼のような上司のミランダを天使と悪魔のように描くが、(アンドレアは天使のような人間ではないが、ミランダの悪魔性が強いためにアンドレアは相対的に天使のようにみえる)この一見、対照的なこの二人は同じ面が多いことが語られる。着々と出世するアンドレアは仕事と恋人や友達(同僚)を天秤にかけなくてはいけない場面が増えてくる、そこでの決断がアンドレアを悪魔に変化させる。仕事とプライベートとの対立がアンドレアとミランダの双方にあることを知ることで、ミランダの悪魔性は本質的なものではなく、女性が仕事でトップに立つために必要な要素だと理解ができる(それでもアンドレアは過度に脚色されたキャラクターだと感じるが)。他者からは悪魔のように感じる非道な決断をしたアンドレアだが、ミランダのように悪魔性を強く持つことは出来ないためにファッション業界を担うようなトップにはなれないと観客は感じる。この感覚は未だに社会で人一倍強くいなくてはいけない女性の立場を表すと感じた。

17、『秘密』著者:平林初之輔
 行方不明になったはずの昔の恋人、浅田雪子から手紙が届き、男は久しぶりに会うことになる。妻、深尾みな子に内緒でホテルに向かう男は道中、妻を電車内で見つける。自分の手紙のことを知っているのだと憎悪を感じたが、彼女の様子がどうもおかしい。しかし、彼女も自分と同じホテルに入ったことから、彼女への疑いは確信に変わる。そしてホテルで再開した恋人には妻と同姓同名、家まで同じの女を紹介される。
 
男の、昔の恋人に会いに行くという行動への罪悪感や焦りの感情が妻を電車内やホテルの入口で見かけた時に一気に妻へ向かう憎悪という感情に変化するのがリアルで面白かった。男の妻は実は深尾みな子ではなく、本物の深尾みな子の家の店で雇われていた従業員の娘で、その従業員は殺人を犯し、刑務所に入れられていたが、地震により一旦解放され、戻ることなく脱獄囚となっていて、地震で深尾家が亡くなったことを聞き、深尾みな子の戸籍をそのまま娘の戸籍として届け出た。そして、本物の深尾みな子が生きていたことを聞き、夫を騙してしまった罪悪感から本物の深尾みな子への申し訳無さから妻は自死を選ぶ。そんな妻を疑ってしまった男も薬品を飲んで自死を試みるという妻や男を誰も責めるような人がいない中での究極のバッドエンドであったが、このような戸籍の問題は、ない話ではないように感じた。秘密を抱える夫婦の片方がその秘密を知ってしまった時、その秘密はお互いを死へ導くものであるのがいたたまれなく感じた。
 
18、『黒猫(THE BLACK CAT)』著者:エドガー・アラン・ポー 訳:佐々木直次郎
 優しい性格で動物を愛し、愛猫家でもあった男が酒によって黒猫のプルートォを虐待するようになり、ついには殺してしまう。その夜に火事が起こり、家は全焼するが、一部の壁には巨大な猫の形の痕が残っていた。そして、猫を殺したことを後悔するようになり、酒場でプルートォによく似た猫を見つけ、家で飼うようになる。記憶がないまま虐待を続け、また手に掛けようとしたときに今度は妻を殺してしまうのだった。
 
 猫に対する憎悪の気持ちが湧いてきた際の文章表現に今その場で行われているかのような臨場感があった。愛猫家であるエドガーが本作を書いたということが信じられないほどに、虐待をするまでの感情の不安定さがリアルに描かれていた。

19、『アリスとテレスのまぼろし工場』監督:岡田麿里
中学生の菊入正宗は、製鉄所の事故で、抜け出すことの出来ない町で日々を送っていた。ある日、同級生の佐上睦実に導かれて訪れた製鉄所で、狼のような少女と出会う。変化を禁じて時が止まったような町で、少年少女の間に芽生えた恋が世界の均衡を崩していく。

 思春期に感じる閉塞感を表現した世界観であると感じた。まぼろしの町で20年以上中学生のままで変化をせずに(心情の変化はもちろん起こる)過ごしているため、主人公の正宗や睦実は、もうすでに思春期ではないのだと思うが、前に進みたくても進めない、出たくても出られないこのまぼろしの町の状況はまさに思春期の心情の特徴と重なる。
そして、この作品の主人公正宗の矛盾に注目したい。正宗は睦実を嫌いだと言いながらも好きという感情を持つ矛盾を持つ。この好きと嫌いという感情の同居が正宗だけではなく、睦実にも五実にもある。この感情こそがキャラクターたちを、現実味を帯びた人間たらしめる要素であった。特に、最後の五実と睦実の別れのシーンでは、正宗に好意を持つ五実に対して、睦実は「正宗の心は私がもらう」と言い放つ。現実では大人になった自分と正宗の子供である五実に対して、嫉妬心のような感情を見せるのである。しかし、その後、現実では五実を待っている人たちがいると彼女を想う言葉をかける。それに対し五実も大嫌いとは言いつつも一緒にいたいという感情をあらわにする。誰かを好きなことさえ変化が怖くて言えない思春期の少年少女の抱える変化への悩み、矛盾した複雑な感情など、若者の心に焦点を当てた作品だと感じた。
 
20、『インサイド・ヘッド』監督:ピート・ドクター
普段は少女の頭の中の司令室で、彼女の幸せのために尽くすヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミという5人の感情たち。ところが引っ越しで環境が変わり、少女の気持ちが不安定になってしまう。司令室から吸い出されてしまったヨロコビとカナシミは、司令室に戻るため、思い出の詰まった彼女の頭の中を冒険する。

 人間の頭の中の感情たちが主人公という設定が斬新だと感じた。「イカリ」と「ムカムカ」は5つの感情の中で最も近しく、「ムカムカ」は「イカリ」の前段階のようにも思える。「ムカムカ」が存在する理由については精神的負担への回避の役割であると考えた。「イカリ」の感情は感情を対象物に向けるいわば感情の行動であるため、心にとても負荷がかかる感情であるが、その状態を極力回避するのが「ムカムカ」であると思った。そして本作の関連記事で興味深かったのは、日本人版を作成したら「恥ずかしい」という感情が5つの中に入るということだった。たしかに私も「恥ずかしい」の感情は日常の中にかなり優先的にあるように思う。しかし、言ってしまえば、主要な感情5つは人によって変わるため、『インサイド・ヘッド』の5つの感情もアメリカ人のステレオタイプの表象と言える。

21、『メタモルフォーゼの縁側』(映画)監督:狩山俊輔
 冴えない高校生活を送る17歳のうららは、アルバイト先の本屋で、BL漫画を堂々と買っていく老婦人・雪と出会う。夫に先立たれ、孤独な毎日を送る雪は、BLの意味も知らぬまま、きれいな表紙に惹かれて思わず手に取っただけだった。ところが、思いがけずBLに魅了された雪は再び本屋へ向かい、BLに詳しいうららと意気投合する。

 若者が読むBLに老婦人が熱中してしまうという展開が今までになく、面白かった。2人はBLを通じて友人となったが、この話は老人と若者が出る物語でよくある、若者が悩みを相談してアドバイスをもらう話ではないということだ。2人が話すのはほとんどBLについてであり、うららが抱える思春期の悩みはほとんど表に出されないし、雪への気遣いすら、雪へ気づかれないように行うのである。この2人の関係性はBLによってのみ繋がっているという一貫性がある作品であった。

22、『岬のマヨイガ』監督:川面真也
父からの精神的虐待に耐えかねて家を出た17歳のユイと、両親を事故で亡くしたショックで声を失った8歳のひより。2人は岩手県の狐崎で東日本大震災で被災し、避難所で不思議なおばあちゃん、キワさんと出会って岬に建つ古民家「マヨイガ」で暮らす。そこは“訪れた人をもてなす”という、岩手県に伝わる伝説の家であり、マヨイガとキワさんの温もりに触れ、2人の傷ついた心は次第に解きほぐされていく。そんなある日、「ふしぎっと」と呼ばれる優しい妖怪たちがキワさんを訪ねてマヨイガにやって来る。

被災と「ふしぎっと」と呼ばれる妖怪がでてくるというファンタジーの組み合わせにより、地震への気鬱とした気持ちを抱える被災地の人々への心の救いの映画になり得ると感じた。田舎のゆったりとした様子や豊かな自然がもつ包容力が被災地でありながら、明るい構成で描かれる。これらのことから本作はメディアミックスに成功した作品とも感じる。岩手を震災の町ではなく、落ち着ける土地であると描き、アニメの舞台となった聖地とすることで、岩手に訪れたいと思わせる、聖地巡礼の欲求を喚起させる効果が生まれると感じた。
そして、突然町を脅かす怪異「アガメ」との戦闘に展開が移動する。このように今まで現実観をもって、丁寧に描かれていたところから、バトルシーンかのごとく、現実とは大きく離れた強大すぎる「アガメ」との戦いが設定された。この違和感ともいえるシーンがある意味は、ユイとひよりの精神が前に進んだという明確な一歩が描きたかったからであると考える。ここにはユイとひよりが「なんでわたしばっかり」というような気持ちをずっと感じていたように街中の人々も暗澹たる気持ちを心にためていて、それを吸収しきったのが「アガメ」である。同じ気持ちを抱えていたから、街の人はユイとひよりに寄り添うことができたのである。そんな居場所をくれた街の人達全員に恩返しをするという意味合いもあると感じた。

23、『えんとつ町のプペル』監督:廣田裕介 原作:西野亮廣 
厚い煙に覆われ、空を見ることが忘れられた、えんとつ町で星の存在を信じ、実際に見ることを夢見る少年ルビッチとゴミから生まれたゴミ人間のハロウィン・プペルが星を目指し、町を飛び出す。

 絵本では語られなかった、えんとつ町の成り立ちに資本主義が関わっていたのが意外であった。絵本と映画では異なる点が多くあり、二人の関係性や星をルビッチがみるのか、街の人に見せるのかという点が異なっていた。まず、二人の関係性であるが、絵本では友人関係であったルビッチとプペルであるが、映画では二人は仮の友達という印象であった。友だちになった理由もお母さんを心配させないためであり、ルビッチはプペルを呼び捨てで呼び、気さくに話すが、プペルはルビッチをさん付けで呼んだり、敬語であったりして対等な友達には見えない。この変化に関しては、友達という関係性よりも、親子関係性の印象を強める意図であると考える。そして星に関しては、絵本では星をルビッチとプペルだけが見に行くが、映画では星の存在を町の人々に証明するために星を見に行く。この星の存在の証明も父の遺志の表明であると考える。本作は絵本では友情、映画では親子という2通りの絆を描いていた。

24、『フランケンウィニー』 監督:ティム・バートン
 ある日不幸な事故で、最高の相棒だった愛犬スパーキーを失ってしまった少年ヴィクター。その死を受け入れられず、ヴィクターは科学のカエルの実験で着想を得た“禁断の実験”でスパーキーを生き返らせてしまう。ヴィクターの実験を知った同級生たちが、次々にペットを蘇らせるが、失敗し、怪物が生まれてしまい、街は大騒ぎになる。

 死んだ生物を電気ショックのような実験で生き返らせるという点から倫理観がないといえる作品であるが、私は倫理観を理解するヴィクターの成長を描いた教育的作品だと思った。そして、スパーキーのみが怪物とならなかったことはヴィクターの純粋な心が関係していると感じた。スパーキーが生き返るという結末もスパーキーの死を理解し、受け入れることを選んだヴィクターの心から本当の願いを超自然的な力が叶えてくれるという童話的要素を持っていた。

25、『不滅のあなたへ』(アニメ)監督:むらた雅彦 作者:大今良時
フシは最初、地上に投げ込まれた“球”だった。持っていたのは「刺激を受けた物の姿へ変化できる能⼒」と「死んでも再⽣できる能⼒」。球から⽯、オオカミ、そして少年へと姿を変化させていくが、赤子のように何も知らぬままさまよう。やがて出会う人々に⽣きる術を教えられ温かい感情を知り、人間を模して成⻑していくフシ。宿命の敵・ノッカーとの壮絶な闘い、⼤切な人との別れの痛みに耐えながら自分の⽣き方を選びとり、⼒強く⽣きるフシの永遠の旅を描く。
フシは強い刺激(身体的、精神的痛みを含む)を受けるとそのものの形を写しとり、変身することができ、その能力を用いてノッカーという敵と戦う。フシがオオカミの姿で最初に出会った人間である少年(フシはこの少年の姿で主に描かれる)の最期の言葉である「僕のことずっと覚えていて」という言葉は彼の願いであり、この物語の根幹でもある。敵であるノッカーはフシのコピーした姿を奪い、奪われるとフシはその人物に関しての情報を思い出すことができなくなる。コピーした人物たちはフシの精神的刺激によって得たものであり、すでに死んでいる。そのために彼らが生きていた証を残すためにフシは戦う。本作で語られるのは死が生物としての死ではなく、忘れられたときであるということだ。フシと出会った人々が自然とフシの中で永遠に生きることを意識し、それを望み、死を厭わない姿が描かれるのが、生を渇望し医療を発展させてきた人間へのアンチテーゼであると考える。

26、『きりぎりす』著者:太宰治
 画家の妻の一人称で綴られる夫の変化への思い。妻は売れない画家の世話をしたり、切り詰めた生活の中でやりくりすることへやりがいを感じていた。しかし夫は妻のために売れよう努力をする。その結果絵は売れて、お金持ちになったのだが、それに伴い妻には不満が溜まっていた。

 始まりから、主人公の「私」が下手にでて意見を述べているように見えて、実は真っ向から夫が悪いという「私」の譲れない意思を感じる文章であった。この短い建前と長い本音で主人公が持つ人間臭い自己愛をリアリティをもって書いていた。

27、『夜の奇蹟』著者:牧野信一
 池部が冗談っぽく滝尾をモノマニアだと言うシーンが伏線となり、滝尾の顔色が悪いのも蔵に籠りっぱなしなのも勉強に対してモノマニアなのではなく、蔵にある亡くなった姉の人形に執着していたというのが意外な展開で驚いた。その滝尾の姿に雪江は心を奪われ、姉の人形にすり替わり、滝尾を待つという場面は、生気のない滝尾しか知らなかった雪江が、滝尾の生の部分を見たことで、滝尾に男性として興味を持ったということだと感じた。滝尾に人形のように扱われても構わないと言わんばかりに亡くなった姉の人形をバラバラにする最後は雪江が姉の人形やそれを作らせた母という家族を捨てることで新たな愛を獲得しようとするエゴイスティックなものであると考えた。

28、『デキる猫は今日も憂鬱』(アニメ)監督:工藤進、横峯克昌
仕事はできるが生活能力が壊滅的な会社員・福澤幸来は、ある日凍死寸前の仔猫を拾う。
諭吉と名付けたその猫はいつの間にか猫にあるまじき大きさに成長し、ダメなご主人様に代わって料理、洗濯、掃除、買い出し、ご近所付き合いなどあらゆることを完璧にこなす“デキる猫”になっていた。

 日常アニメでもあり、料理アニメでもあり、動物アニメ的でもある、癒やし要素を集めた作品であった。作画が特徴的で、人物は2Dで描かれ、人物以外のビルや車などは3DCGで描かれているが、全く違和感を感じせない。3Dを用いたアニメは批判が伴うことがあるが、日常系のアニメとは相性が良いことを感じた。

29、『愛してるって言っておくね』 原作:If Anything Happens I Love You 監督:ウィル・マコーマック、マイケル・ゴヴィア
いつものように学校へ送り出した娘が銃乱射事件の犠牲になり、受け入れがたい喪失感と深い悲しみに沈む夫婦。ひょんなことから娘の部屋のレコードが動き出し、それまですれ違っていた夫婦の心の旅が始まる。アカデミー賞を獲得した短編映画。

人影がその人の後悔や喪失感など内なる様々な心情を、形状を変化させながら表す役割をもっていた。最後はルビンの壺のように、亡くなってしまった娘が両親の影の間の真ん中部分に光となって現れ、両親を繋ぎとめることが出来たことを示していた。物語の根本とは関係がないが、挿入歌でking princessの「1950」が流れた。この曲は差別が酷かった1950年代の同性愛者の人たちの恋を歌っている。娘が亡くなった後の部屋においてあるレコードプレイヤーが、サッカーボールがあたった拍子に動きだし、この曲が流れる。この娘の部屋が夫婦に対して残したものは娘の心(娘は意図してはいないが、遺言のようなもの)であると思うため、この曲は娘が同性愛者であったことを示唆するものだと思ったが、娘の10歳の誕生日パーティーで男の子と思われる子と娘が恋をしているのがわかるシーンがある。それを踏まえると、なぜ両親を繋ぎ止めるきっかけの部屋でこの挿入歌が流れたのかが疑問になる。この疑問点に関しては考察しきれなかった。

30、『魔法少女育成計画』(アニメ)監督:橋本祐之
大人気ソーシャルゲーム『魔法少女育成計画』は、数万人に一人の割合で本物の魔法少女を作り出す奇跡のゲームだった。幸運にも魔法の力を得て、充実した日々を送る少女たち。しかしある日、運営から「増えすぎた魔法少女を半分に減らす」という一方的な通告が届き、十六人の魔法少女による命をかけた戦いが幕を開けた。

魔法少女が世界を脅かす悪とは戦わず(本作では主人公が立ち向かう悪は明確には描かれない)、魔法少女同士で戦うというこのアニメは魔法少女が単なる要素の一つとして見られたアニメであると感じた。何歳からでも、どんな人でも魔法少女になれるという特有の要素と常時魔法少女ではなく、なるためには変身する必要性がある要素により、現実では学生の少年少女、妊婦、子供といった社会的な立場が弱い存在が魔法少女として戦闘、人助けをする場合が多い。本作もそのような魔法少女設定、キャラクター設定が成されている。それらの典型の設定と戦いの融合により、命をかけた戦いの無慈悲さが強調されていた。


2023/10/10(火) 01:43 No.2007 EDIT DEL
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