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北郷 未結 MAIL RES
2年 北郷
夏休み課題

①『ブラック・ジャック』(漫画) 作者:手塚治虫 1973〜1983年
天才外科医のブラック・ジャックが活躍する医療ドラマ。人里離れた荒野の診療所に訪れる数々の重症患者たちを、助手のピノコと共に奇跡的なオペによって救う。しかし、ブラック・ジャックは医師免許を持たない「もぐりの医者」であるため独自の治療を行ったり、法外の治療費を請求する。
『ブラック・ジャック』は1973年週刊少年チャンピオンに連載され、当時の医療漫画最大ヒット作であり、医療漫画のジャンルを確立させた作品である。
本作では「生きることの意味」が問われていると考える。患者は、傷病を負ってから治療までの過程において自分たちの生きる意味や道に葛藤する。
例えば、寿司職人である若者が交通事故によって両腕を無くしてしまう、将来有望な体操選手の学生が腕の腫瘍によって片腕を無くしてしまうなど、その人のまさに「命」である体の部分が突如奪われてしまう。
ブラック・ジャックの治療によって一命を取り留めた患者たちが、ハンデを抱えながらもどのように生きていくのか。生きる道の多様性と生死の表裏一体さが表れている作品だと考える。
また、漫符や映画的表現などが盛り込まれたことで、人物の細やかな心情の部分をクローズアップされ、より劇的な物語を描くことが可能になったと考える。

②『ひろがるスカイプリキュア』(アニメ) 監督:小川孝治 2023年
天空に浮かぶ世界「スカイランド」。その日は王国の幼いプリンセスエルの誕生日であったが、エルはアンダーグ帝国の怪物・カバトンによって隙を突かれ、連れ去られてしまう。ヒーローを志す勇敢な少女・ソラ・ハレワタールはエルを救うべくワープ空間へ入り、いつしか全く別の世界「ソラシド市」にたどり着く。
文化や風習が異なる全く別の世界に来たことに戸惑うソラだったが、この時出会ったソラシド市の少女、虹ヶ丘ましろの家にエルとともに居候しながらプリキュアとしてエルを守りスカイランドに帰すため、戦うことになる。
プリキュアシリーズの20周年を飾る本作のモチーフは「空」、テーマを「ヒーロー」、キーワードを「知ることで広がる世界」としている。
今までのピンクでドジっ子、または頭が良い、といった主人公像とは対照的な、青で礼儀正しく、勇敢な主人公像が描かれている。
その他にも男の子のプリキュアや新成人プリキュアがメインキャラクターとして登場するなど、20周年の節目に新しい試みが盛り込まれている。
女児アニメのスタンダードとして位置されているプリキュアシリーズは、子どもに対する教育的・道徳的なお手本としての側面が求められている。
しかし、その中でも毎年新たな表現を取り入れ、多様性に満ちた設定を盛り込むことで、流動的な社会を生きる子どもたちに柔軟な思考を養わせる意図があるのではないかと考える。
特にジェンダーの多様性に関する問題が取り上げられることで、性への固定観念や先入観を持たない幼少期の子どもたちに、ジェンダーに対する平等性や寛容性を養わせることができるのではないかと考える。

③『ライ麦畑でつかまえて』(小説) J・D・サリンジャー、訳:野崎孝 1984年(白水uブックス)
アメリカの作家サリンジャーの中編小説。1951年刊。
高校を放校となった17歳の少年ホールデン・コールフィールドがクリスマス前のニューヨークの街をめぐる物語。
本作品は一貫して一人称の口語体で語られており、情景の描写はなく、主人公の心の葛藤が淡々と叙述されているため追体験の感覚がもたらされる。
主人公のホールデンは高校の教師や同級生、ニューヨークの街で出会う人々に対して侮辱的で悲観的な定見を持ち、現実社会へ失望し、社会・他人と乖離していく。
純粋な子どもの心と、欺瞞に満ちた大人の世界の狭間で葛藤する様子は、まさに多感な思春期そのものである。一方で、亡くなった弟アリーを思う場面や、幼い妹のフィービーに兄としての優しさを見せるなど、兄弟愛も描かれている。
また、作品のタイトルである『ライ麦畑でつかまえて』という言葉はホールデンが「ライ麦畑で会うならば」というロバート・バーンズの詩を間違えて言ったものである。そしてホールデンは、広いライ麦畑の中で危険な行動をする子どもたちを捕まえる「ライ麦畑のつかまえ役(P.269)」になりたいと言っている。
そして以下の文はホールデンと大学の先生との対話の場面における、先生の発言を要約したものである。

道徳的、精神的な悩みを記録することで、同じような苦しみを抱える人の支えとなる。これは美しい相互援助であり、教育ではなく歴史であり、詩なのである。(P.295)

これを踏まえると、主人公の精神的な葛藤が綴られている本作は今現在悩む若者たちの支えとなり、作品自体が「ライ麦畑のつかまえ役」として機能していると考える。
また、かつて青春時代を過ごした大人たちの回顧録のようなものとして受け入れられることで、幅広い年代に共感される作品として定着したのではないかと考える。

④『ローマの休日』(映画)監督:ウィリアム・ワイラー 1953年
イタリアのローマを親善訪問した某国の「アン王女」が滞在先から飛び出し、市内で出会った新聞記者、「ジョー」との1日の恋を描いた作品。
『ローマの休日』はオードリー・ヘップバーンの代表作であり、その人気は現代にも強く根付いている。
その理由として挙げられるのは、典型的なラブロマンスであることと、作品が持つ高潔さにあると考える。
本作は、王女と新聞記者という身分違いの恋というロマンスの典型が描かれており、ラストでは階級差故に結ばれない恋が切なく描かれている。
また、本作はヘイズ・コードによる表現規制が導入されていた時期に作られた映画であり、性的描写がないことが特徴である。ベッドは登場するものの、コミカルなシーンの小道具として描かれており、身体的な愛情表現は抱擁とキスのみである。
このように直接的な描写が少ないこと、さらには宮殿の高貴さやローマの町並みの美しさなどによって、作品に高潔さが付与され、人々に愛される作品となったのではないかと考える。

⑤『人間失格』太宰治 1948年(小説)
「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
青森の大金持ちの息子であり、廃人同然のモルヒネ中毒者だった大庭葉蔵の手記を借りて、自己の生涯を極限まで作品に昇華させた太宰文学の代表作品。

主人公は他人の気持ちが分からず、会話が続かないために道化を演じる。懊悩を胸に秘め、楽天性を装うことで集団の中での居場所を作る。このようにして人生を歩んできた主人公には、終始虚無感が漂っている。そして、道化を演じることで本来の自分を偽り、他者を騙しているという罪悪感に主人公は苦悩する。
そんな主人公が唯一生き生きとする場面は、モルヒネを打った後である。薬物の中に、人生を見出すところまで堕ちてしまったのである。
このことから、本作は人間の脆さ、闇の部分を煮詰めたような作品であると考える。

⑥『竜とそばかすの姫』(アニメ映画) 監督:細田守 2021年
歌が好きな女子高生・すずは、幼い頃に母親を亡くして以来、人前では歌うことができなくなっていた。ある日、彼女は全世界から人が集まる仮想世界「U」に足を踏み入れる。やがて、Uの世界で「ベル」という歌姫として人気者になるすずだったが、突然現れた謎の存在「竜」が、彼女とUを撹乱していく。

本作では、現実世界と仮想空間でアニメパートとCGパートが使い分けられている。
現実世界のアニメパートでは凹凸のない平面的な顔で描かれているが、仮想空間であるUの世界ではCGが用いられ、登場人物らの顔は目鼻立ちがくっきりと描かれておりディズニーの作風と近い。このことから、現実世界と仮想空間を異なるアニメーション技術によって描くことで区別していると考える。
また、本作はネット上の闇を描いた作品であると考える。
例えば、Uの世界の正義と秩序を守る自警集団「ジャスティス」が「竜」を悪者として執拗に追いかけ回し、それに触発された他のAs(仮想空間にいる人々の総称)らが「竜」に対する誹謗中傷を投げかける場面は、ネット上の集団極性化や没個性化などの特徴が表現されていると考える。
そして、「ジャスティス」のリーダーである「ジャスティン」が「竜」の住み着く城を燃やす場面は、ネットの炎上の比喩であると考える。
さらに、作品中ではディズニーの『美女と野獣』のオマージュが読み取れる。
主人公の鈴はUにおいて「ベル」と名乗り、「竜」は獣のような見た目をしている。
ベルが竜の城を訪れ、歌いながら踊る場面は『美女と野獣』でベルと野獣が踊る場面と酷似している。
実際、細田守監督は本作が「インターネット上の『美女と野獣』」であると発言している。
(『ネット社会の「美女と野獣」細田守監督「竜そばかすの姫」』https://www.sankei.com/article/20210716-6MAIEER4GVKBBHWJU7VNDDX7LE/2023年8月10日閲覧)
『美女と野獣』のオマージュによって、インターネットの現実的な光と闇が幻想的に表現されていると考える。

⑦『もののけ姫』(アニメ映画)監督:宮崎駿 1997年
山里に住む若者アシタカは、怒りと憎しみによりタタリ神と化した猪神から呪いをかけられてしまう。呪いを解く術を求めて旅に出るアシタカはやがて、西方の地でタタラの村にたどり着く。エボシ御前が率いるその村では、鉄を造り続けていたが、同時にそれは神々の住む森を破壊することでもあった。そして、そんなタタラ達に戦いを挑むサンの存在をアシタカは知る。人の子でありながら山犬に育てられた彼女はもののけ姫と呼ばれていた。
本作品では自然破壊をする人間と、それに抗う森の神々との抗争が描かれている。
しかし、人間の中でもタタラ場の人々、アサノ、唐笠との対立が描かれ、森では山犬、猩々、猪の対立が描かれており、対立の構造は複雑である。このことから、本作は自然的に発生する抗争を描いていると考える。
次に人間である少年アシタカと、森で山犬に育てられた少女サンについて考察する。
最初、サンは人間であるアシタカに強い敵対心と警戒心を抱いていたが、次第に心を許していき、2人が並んで眠る場面の描写からは、アシタカに対する警戒心が完全に払拭されていることが読み取れ、人間界と自然界の調和が表れているといえる。
しかし、最後アシタカはタタラ場で、サンは森で生きることを決意する。
このことから、「共に生きよう」という言葉は人と自然の共生ではなく、それぞれの場で対立や葛藤に揉まれながらも生き抜くことを表していると考える。

⑧『万引き家族』(映画) 監督:是枝裕和 2018年
高層マンションの谷間に取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である祖母の初枝の年金であり、それで足りないものは万引きでまかなっていた。社会という海の、底を這うように暮らす家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、口は悪いが仲よく暮らしていた。
そんな冬のある日、治と祥太は、近隣の団地の廊下で震えていた幼いゆりを見かねて家に連れ帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。
だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく。

家族たちが過ごす家においてのカメラアングルは、敢えて家具などの物の隙間から覗くような構図が取られており、役者の顔が物と重なるカットが多い。
これは、どこにいても物があるという家の中の物の多さを表現しており、余白を無くすことで貧困を強調していると考える。
本作品では家族の在り方や人間の内面が、道徳の観点から鋭く言及されており、その人にとって本当の幸せとは何かが問われていると考える。
この家族は全員血が繋がっていない、擬似家族である。それは、祥太がスーパーでわざと店員に見つかるように万引きをし、その後の警察の事情聴取で明らかになった。それによって家族は引き離されてしまう。なぜ祥太は家族を引き離すような行動をとったのか。
この時の祥太の行動を、作中で祥太が音読していた『スイミー』を補助線にして考察する。
『スイミー』は、唯一の黒い魚であるスイミーが、大きな魚に怯えて身を隠しながら暮らす赤い魚たちを自由にさせようと、自らが目になって大きな魚を追い出す話である。
以下は祥太が音読した内容である。
「スイミーは教えた。けっして はなればなれにならないこと。みんな もちばを まもること。みんなが、一ぴきの大きな魚みたいにおよげるようになったとき、スイミーは言った。
「ぼくが、目になろう。」
あさのつめたい水の中を、ひるのかがやく光の中をみんなはおよぎ、大きな魚をおい出した。」(光村図書『小学2年国語(上)』「スイミー」)
これを家族らの状況に当てはめると、血の繋がりのない人たちがそれぞれ「家族」の一員としての役割を担うことで、1つの「家族」を形成する。しかしこの「家族」は、万引き、窃盗、未成年の風俗店の勤務など、生活の基盤となる収入源が法に触れている。
そのため、祥太は先陣を切って警察に捕まることで、「家族」が抱える闇の部分を取り払おうとしたのではないかと考える。

⑨『ヴィヨンの妻』(小説) 太宰治 1947年
大谷は男爵の次男であり、有名な詩人である。ある日、大谷が常連の小料理屋・椿屋から金を奪って逃げた。妻のさっちゃんは、金がととのうまでは店を手伝うと、椿屋で働き始める。そこへ、見知らぬ女を連れた大谷が現れる。

献身的な妻と、どうしようも無い夫の対比に着目する。
夫は1度家を出たら3日4日は帰らず、帰ってくるときはいつも泥酔しており、呻いたり、泣いたり、弱音を吐いたりする。
これは、窃盗や浮気など、後暗い罪への意識、後ろめたさが書かれていると考える。
一方、妻は椿屋で「さっちゃん」として、美しい容姿で店の人気者になる。現代家族における妻の役割の変遷が表現されていると考える。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ。」
これは様々な客と接していく内に人が誰しも後暗いところを持っていると悟った故の発言であると考える。
これらのことから本作品は女の人の強さが描かれていると考える。

⑩『文豪ストレイドッグス』シーズン1 (アニメ) 監督:五十嵐卓哉 原作者:朝霧カフカ 2016年
異能力者たちが揃う探偵集団武装探偵社に入社した中島敦が、犯罪組織ポートマフィアや海外の異能力者集団たちとの抗争に巻き込まれながら成長していく異能力バトルアクション漫画。
登場人物は、中島敦、太宰治、江戸川乱歩など、実在の文豪をモデルにしており、各々が持つ特殊能力も、その文豪の代表作をモチーフとしている。
例えば、太宰治は作中で何度も自殺行為を繰り返し、自殺嗜好の男としての性格がコミカルに描かれている。しかしそれらは全て未遂で終わり、死を望むが死を恐れる性格は、太宰治の弱い自我が表現されていると考える。
また、本作は異能力バトルが中心であるが、所々に関連のある文学作品の要素が組み込まれている。
例えば、シーズン1のエピソード6「蒼の使徒」は、ヨコハマを訪れた旅行客連続失踪事件を解決する話であるが、旅行客たちが監禁されている廃病院では旅行客たちが裸にされていたり、水槽の中に放り込まれた少女が描かれていた。
ここの場面は、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』のオマージュであると考える。
『黒蜥蜴』で女賊の「黒蜥蜴」は誘拐した人々を自らのアジトに監禁する。そこで黒蜥蜴は人々を展示物のように扱い、剥製化された全裸の人々や、大水槽に放り込まれた少女が描かかれる。
このことから『文豪ストレイドッグス』では、小説の1部を話に取り込むことで、異能力者が存在する異質な世界間と、小説の架空の世界間が効果的にマッチングしていると考える。
また、実際の文豪をモデルにしているため、元となる作品を辿るという聖地巡礼ならぬ「聖本巡礼」という消費方法が可能であり、若い世代による文学作品の消費に繋がっていると考える。

⑪『この世界の片隅に』(アニメ映画) 監督:片渕須直 原作者:こうの史代 2019年

すずは、広島市江波で生まれた絵が得意な少女。昭和19年、20キロ離れた町・呉に嫁ぎ18歳で一家の主婦となったすずは、あらゆるものが欠乏していくなかで、日々の食卓を作り出すために工夫を凝らす。だが、戦争は進み、日本海軍の根拠地だった呉は、幾度もの空襲に襲われる。すずが大事に思っていた身近なものが奪われてゆく。それでもなお、毎日を築くすずの営みは終わらない。そして、昭和20年の夏がやってきた。

本作では戦争を題材としているが、絵のタッチは柔らかく、人物もデフォルメ化されており、彩色も水彩画のような淡い色を基調としているため、穏やかな雰囲気を纏っている。一方で背景の描写は写実的であり、作品に現実性をもたらしている。
物語の前半部分では、呉に嫁いだすずの充実した日常が描かれているが、後半部分ではアメリカ軍からの空襲が激化し、焼け野原となった町並みや生々しい怪我の描写が多くなる。
前半と後半で雰囲気が変わるものの、基本的な絵のタッチは変わらない点から、戦争を特別視せず、飽くまでも日常の中にある戦争という当時の人々の感覚が反映されていると考える。
また、本作では戦時中の生活の様子が丁寧に描写されていることが印象的であった。
作中で、呉に嫁いだすずが食料の配給が少なったために、限られた食材の中で工夫を凝らし、様々なかさ増し料理を家族に振る舞う場面がある。
ここでは当時の食生活を読み取ることができ、戦時中に生きた人々の視点から、日常が描かれていると考える。

⑫『鬼滅の刃』(漫画) 吾峠呼世晴 2016〜2020年
墨を売る心優しき少年・竈門炭治郎はある日鬼に家族を皆殺しにされてしまう。さらに唯一生き残った妹の禰豆子は鬼に豹変してしまった。
絶望的な現実に打ちのめされる炭治郎だったが、妹を人間に戻し、家族を殺した鬼を討つため、“鬼狩り”の道へ進む決意をする。人と鬼とが織りなす哀しき兄妹の物語。

家族を敬愛し、仲間を大切にし、得体の知れない鬼に立ち向かう、健気な主人公像が読者の共感を強く呼び込ませるのではないかと考える。
また、「鬼滅の刃」の人気に火がついた時期は新型コロナウイルスの流行と重なっていたため、得体の知れない物と闘う姿が当時の人々の状況と重なったのではないかと考える。
「鬼滅の刃」の1番の特徴は、敵である「鬼」の悲しい過去が描かれることであると考える。
例えば、病弱であり永遠の命を手に入れるために鬼になった者、作家として評価されず、渾身の原稿を踏みつけられるなどされ憎しみが募った結果鬼になった者、大切な人が殺されたとき、何もできなかった自分の無力さに打ちひしがれ、強さを手に入れるために鬼になった者など、人間の身体的、精神的弱さが描かれる。
誰もが持つ弱さが描かれることで、読者に共感を呼び、勧善懲悪でありつつも、敵が討伐される場面では哀愁が漂う、日本らしい作品であると考える。

⑬『ベイビー・ブローカー』(映画) 監督:是枝裕和 2022年
古びれたクリーニング店を営みながらも借金に追われるサンヒョンと、〈赤ちゃんポスト〉がある施設で働く児童養護施設出身のドンス。ある土砂降りの雨の晩、彼らは若い女ソヨンが〈赤ちゃんポスト〉に預けた赤ん坊をこっそりと連れ去る。彼らの裏稼業は、ベイビー・ブローカーである。
しかし、思い直して戻ってきたソヨンが、赤ん坊がいないことに気づき警察に通報しようとしたため、2人は仕方なく白状する。
「赤ちゃんを大切に育ててくれる家族を見つけようとした」という言い訳にあきれるソヨンだが、成り行きから彼らと共に養父母探しに出ることになる。

「ここにいる子のほとんどが捨てられたときに存在を否定されている」
望まない妊娠によって産まれた子どもたち。様々な事情によって親が養育を放棄し、捨てられ、施設で育つ。
本作は、自分は生まれるべき存在であったのか、という生への根源的な疑問を抱える子どもたちに対する、是枝監督のメッセージとなっている。
若い女・ソヨンは売春婦として働いており、その相手との間に身ごもった赤ん坊が「ウソン」であった。ソヨンはウソンが「人殺しの子」となるのを懸念し、ウソンを捨てることで親子関係を断とうとした。ウソンに対する母としての愛情の裏返しである。
捨てられた事情に焦点を置くことで、捨てられたのはあなたを想ってのことなのかもしれない、という前向きなメッセージを込めていると考える。
1度ウソンを捨てたが、養父母探しの間でウソンに対する愛情を示すソヨン、ベイビー・ブローカーであるが施設の子どもたちに対する優しさを見せるサンヒョンとドンス。
複雑な事情を抱えながらも、子どもに対する愛情や優しさを持つ彼らの人物像には、人間の多面性が強調して描かれていると考える。
さらに、「万引き家族」で犯罪に対するストッパーの役割を果たしていた警察が、本作では現行犯逮捕をするため、警察側は根を回して赤ん坊を売買させようとする。
このように、典型にはまらない人物像が描かれることで人間社会の複雑性と心の多重性が表現されていると考える。

⑭「博士の愛した数式」 (小説) 小川洋子 新潮文庫 2003年

[ぼくの記憶は80分しかもたない]博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた。記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい”家政婦。博士は“初対面”の私に、靴のサイズや誕生日を尋ねた。数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は驚きと歓びに満ちたものに変わった。あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。

本作では3人のお互いに対する思いやりや愛情が描かれている。
しかし、記憶が80分しか持たない博士は3人で過ごした温かな日々を忘れていってしまう。その度に「私」とルートが親身になって寄り添う姿勢に、心が温かくなる。
作中では、様々な数式が登場し博士の人柄を表現している。
その中で特に着目したいのが、博士の記憶できる時間が少なくなっていく場面で登場した、オイラーの等式「eiπ+1=0」である。
オイラーの等式は、別々の経緯で定義されたe、i、πの3つの数が、1と0というシンプルな数と共に1つの数式にまとめられている点で、数学史上最も美しい数式とされている。
e、i、πの3つの数をそれぞれ博士、「私」、ルートに当てはめるとすれば、3人で築いた楽しい思い出が、博士の記憶障害によって0になってしまうことを表現していると考える。
しかし、博士は「0」に関して「0が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。(P.197)」と発言している。
このことから、本作におけるオイラーの等式は、博士の中で3人の思い出が無くなってしまっても、それによって強固になるお互いへの思いやりが、関係の秩序を保つことを表現しており、3人の関係性を肯定する数式であると考察する。

⑮「罪と罰」(小説) ドストエフスキイ 著、中村白葉, 伊藤佐喜雄 訳 、金の星社 1971年

若気のいたりとはいいながら、あやまった思想的観念におどらされて殺人という大罪を犯したけれど根は誠実で、やさしい心を持っていたラスコーリニコフ。彼はなぜ人を殺し、いかに悔い、悩み、そして、心から救われるに至ったか。雪のシベリアに展開されるニヒルな少年と、可憐なソーニャとの恋が描かれる。

本作品は、人間の陥りやすい悪への誘惑、そして、その当然の報いとして、受けなければならない罪意識の苦しみ、という文学作品では普遍的なテーマで描かれている。
主人公のラスコーリニコフは、業つくばりの金貸しの老婆・アリョーナと、その妹リザベータ2人を殺害した。
ラスコーリニコフは自身の論文で、世の中には犯罪を行う権利のある人間と、そうでない人間が存在すると主張し、ソーニャに罪を告白する場面では、「ナポレオンになりたかった(P.212)」と発言している。
ラスコーリニコフは価値のある人間が正当な理由で罪を犯すことは、その人の権利であり義務であると主張し、社会に害を及ぼす、虫けらに劣るような人間、アリョーナを殺したことに正当性を見出している。
これらのことから、正義と罪が表裏一体化することで、ラスコーリニコフを通して、人間が持つ二面性、矛盾、心理的葛藤が浮き彫りになり、ラスコーリニコフの人間としての未熟さや弱さ、偏った思想を持つことの危険性を示唆していると考える。
さらに、罪の捉え方について考察する。
ラスコーリニコフがソーニャに罪を告白するシーンで、ソーニャはラスコーリニコフに向かって「いいえ、いいえ。この広い世界じゅうで、今、あなたよりも不幸な人はありませんわ!(P.203)」と、発言している。
一方で、判事のポルフィーリーは「…(中略)大体その人間が罪を犯したのなら、必ずそこになんらかの形で、具体的なものが伴わなければならぬ、と私は考えるからです…(P.222)」と発言している。
これらのことから、ラスコーリニコフの罪に対する罰の捉え方が多角的に描かれており、罪とそれに対する罰の根源的な意味が問われていると考える。
2023/09/24(日) 20:24 No.1980 EDIT DEL
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